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悪意の秘め事
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渡り廊下を挟んでいるので、大広間の惨状は伝わってこない。
荒れ狂う伯爵にザカリスが怪我を負わされていないか、祈るばかりだ。
リリアーナはローブを羽織ると、カーテンをほんの少し開いた。
ブライス邸に到着した頃は星の瞬きが素晴らしく晴れ渡っていたというのに、今は月も星もなく、ぽってりと湿気を含んで重くなった雲が空から垂れ下がっている。
ぬるい風が頬を撫でた。
じきに雨がくる。
「ハッサム男爵家ご令嬢リリアーナ・ラーナ様」
控えめなノックの後、名指しされた。
「ロナルド男爵様からのご伝言です」
「ザカリス様から? 」
リリアーナは怪訝に眉を寄せる。
ザカリスは伯爵の狂乱を止めに行ったきり、もう一時間は経つが未だに戻ってくる素振りがない。
余程、拗れているのかと、不安に思ったときだ。
「ザカリス様がどうかしましたか? 」
彼に何かあったのだろうか。テーブルや椅子、その他諸々が滅茶苦茶に破壊されていると聞いた。
まさか、放り投げられた椅子で頭を打ちつけでもしたのだろうか。
悪く傾くばかりの想像に、リリアーナは唇を戦慄かせる。
「男爵から命じられました。どうぞ、こちらへ」
「ザカリス様が? 何を? 」
「あなた様の身を確保するようにと」
やはり、彼の身に何かあったのだ。
そのときのリリアーナは、ザカリスの身を案じるあまり、己に迫る悪意など微塵も感じなかった。
警戒心も何も持たず、とにかくドアの外にいる何某かに話を聞かなくては。
彼女の脳裏には、頭を負傷して血を垂れ流すしかめ面のザカリスが浮かんでいた。
逸る気を抑えることなど出来ず、覚束ない指で内鍵を解く。
ドアが開いた。
目の前にいたのは、給仕を担うメイドだ。
年齢は不詳。
リリアーナと同い年にでも、はたまた、年配にも見える。
その一因は、肌艶だ。ガサガサに荒れた肌に、全く化粧気のなさ。
目は落ち窪んで、隈が目立つ。ただ、鈍く光る青い目は抜け目なくギョロリとして、思わず身が竦んでしまう。
傷んだ髪は赤茶色で、ところどころ白髪が混じっていた。
ブライス家のメイドは、上流らしく誰しもが身なりに気を使っている。白髪混じりはともかく、纏めた髪がほつれるなど以ての外、服の皺一つにさえ目を光らせているはず。
だが、今、リリアーナの前にいるメイドときたら、どことなくだらしなく感じる。
リリアーナの中で、危険を報せる合図が点滅した。
「あなた、この屋敷のメイドではないわね? 」
すると、そのメイドは否定もせず、皮の剥けた唇をニタリと斜めに吊った。
「成程。警戒心のないバカな小娘かと思ってたけど」
ガラガラに掠れた声からは、女性特有の高さはない。
「ハッサム男爵家の令嬢リリアーナ・ラーナ」
ハスキーな声で呼ばれたかと思えば、口元にハンカチーフを押し付けられる。
「ん! んん! 」
かろうじて鼻からは息が吸えるが声を封じ込められた。
鳩尾を物凄い力が入る。
「……! 」
衝撃を感じる間もなく、目の前が暗転した。
荒れ狂う伯爵にザカリスが怪我を負わされていないか、祈るばかりだ。
リリアーナはローブを羽織ると、カーテンをほんの少し開いた。
ブライス邸に到着した頃は星の瞬きが素晴らしく晴れ渡っていたというのに、今は月も星もなく、ぽってりと湿気を含んで重くなった雲が空から垂れ下がっている。
ぬるい風が頬を撫でた。
じきに雨がくる。
「ハッサム男爵家ご令嬢リリアーナ・ラーナ様」
控えめなノックの後、名指しされた。
「ロナルド男爵様からのご伝言です」
「ザカリス様から? 」
リリアーナは怪訝に眉を寄せる。
ザカリスは伯爵の狂乱を止めに行ったきり、もう一時間は経つが未だに戻ってくる素振りがない。
余程、拗れているのかと、不安に思ったときだ。
「ザカリス様がどうかしましたか? 」
彼に何かあったのだろうか。テーブルや椅子、その他諸々が滅茶苦茶に破壊されていると聞いた。
まさか、放り投げられた椅子で頭を打ちつけでもしたのだろうか。
悪く傾くばかりの想像に、リリアーナは唇を戦慄かせる。
「男爵から命じられました。どうぞ、こちらへ」
「ザカリス様が? 何を? 」
「あなた様の身を確保するようにと」
やはり、彼の身に何かあったのだ。
そのときのリリアーナは、ザカリスの身を案じるあまり、己に迫る悪意など微塵も感じなかった。
警戒心も何も持たず、とにかくドアの外にいる何某かに話を聞かなくては。
彼女の脳裏には、頭を負傷して血を垂れ流すしかめ面のザカリスが浮かんでいた。
逸る気を抑えることなど出来ず、覚束ない指で内鍵を解く。
ドアが開いた。
目の前にいたのは、給仕を担うメイドだ。
年齢は不詳。
リリアーナと同い年にでも、はたまた、年配にも見える。
その一因は、肌艶だ。ガサガサに荒れた肌に、全く化粧気のなさ。
目は落ち窪んで、隈が目立つ。ただ、鈍く光る青い目は抜け目なくギョロリとして、思わず身が竦んでしまう。
傷んだ髪は赤茶色で、ところどころ白髪が混じっていた。
ブライス家のメイドは、上流らしく誰しもが身なりに気を使っている。白髪混じりはともかく、纏めた髪がほつれるなど以ての外、服の皺一つにさえ目を光らせているはず。
だが、今、リリアーナの前にいるメイドときたら、どことなくだらしなく感じる。
リリアーナの中で、危険を報せる合図が点滅した。
「あなた、この屋敷のメイドではないわね? 」
すると、そのメイドは否定もせず、皮の剥けた唇をニタリと斜めに吊った。
「成程。警戒心のないバカな小娘かと思ってたけど」
ガラガラに掠れた声からは、女性特有の高さはない。
「ハッサム男爵家の令嬢リリアーナ・ラーナ」
ハスキーな声で呼ばれたかと思えば、口元にハンカチーフを押し付けられる。
「ん! んん! 」
かろうじて鼻からは息が吸えるが声を封じ込められた。
鳩尾を物凄い力が入る。
「……! 」
衝撃を感じる間もなく、目の前が暗転した。
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