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疾雷1
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稲妻が光り、視界が白く爆ぜた。
どしゃあああ、と天井から雨の塊が落ち、リリアーナの前方で滝のように床面を打ちつけた。
「屋根がないから、雨が凄いわ」
ほんの僅かでも位置がずれていたら、滝の雨に打たれて身動きが取れなかった。
が、リリアーナらのいる位置も危うい。
屋根と屋根の隙間から、ボタボタと重い雫が降ってきて、頭のてっぺんや肩で大きく跳ねた。
「来い」
ザカリスはもう弱々しい顔つきではない。険しく目を尖らせると、リリアーナの手首を掴んだ。
彼の視線は、小屋の奥にある破れた木製のドアに向いている。ドアノブは壊れて半開きになっている、その奥は部屋ではなく下方へ続く階段だ。
「ザ、ザカリス様? 何を? 」
戸惑うリリアーナには一切答えず、ザカリスはリリアーナをお姫様抱っこすると、ドアを蹴破る。腐った木製ドアはあっさりと粉々になった。
急にひんやりと空気の流れが変わった。
螺旋になった石の階段は、コツコツと反響する。
灯りのない階段は真っ暗で足元が何も見えない。
しかしザカリスは躓くことなく慎重に階段を降りきった。
そこは、七平米ほどの狭い部屋だった。
御影石で作られた、明かり取りの窓もない薄暗い部屋。
ガランとして、家具も何もない。床にはいつのものかわからない中身の入った瓶詰めが一つ転がっているのみ。
「おそらく休憩場所を兼ねた貯蔵庫だな」
瓶詰めを爪先で蹴飛ばしてから、ザカリスはリリアーナをそっと降ろした。
「風雨を凌げるだけ、まだマシだ」
すぐさまザカリスはリリアーナに背を向けると、壁を窪ませた燭台を覗き込む。使われた形跡のない蝋燭が入っていた。おそらく蝋燭を取り替えて程なく、この場所を廃したのだろう。
ザカリスは胸ポケットからマッチを取り出すと、蝋燭を灯した。
ぼんやりと室内がオレンジ色に包まれる。
一連の動作を眺めていたリリアーナは、ポツリと背中に尋ねた。
「煙草をお吸いになるの? 」
ザカリスが怪訝な顔つきで振り返る。
「だって。マッチを」
「ああ。紳士クラブに出入りするときなどにな」
彼も紳士の端くれ。
高い会費を払って社交場に顔を出して、食事や会話を楽しんでいる。会員にはブライス伯爵や、ジョナサン男爵、アークライト子爵など、ザカリスと同じ投資家が名を連ねていた。
「私の前では吸ったことなんてないのに」
ザカリスがパイプを燻らせている場面など、リリアーナは知らない。
「お前が幼い頃、煙で咽せてしかたなかったからな。以来、リリアーナの前ではやめている」
「知らなかったわ」
「煙草の匂いは香水で消していたしな」
ザカリスは徹底していた。
「私、ザカリス様のことは何でも知っているつもりだったけど……何も知らないんだわ」
始終彼にくっついて知ったつもりになっていただけ。
ザカリスは複雑そうな一瞥を向けただけで、四方にある壁の窪みの蝋燭全てに火を点けていく。
真っ暗だった室内が明るくなった。
「しばらく雨は止まないだろう。諦めてここにいるしかないな」
地下なのに、頭上の雨の音を確認出来るとは、かなりの土砂降りだということだ。
「雨が止めば、使用人らが助けに来るはずだ」
ザカリスはリリアーナを慰めた。
不意に、リリアーナがギョッと目を剥いた。
「な、何をなさるの? 」
彼が、高価なコートを脱ぎ、泥の跳ねた表側を下向きにして、床に敷いたからだ。埃と黴臭さが生地につけば、いよいよ服が台無しになってしまう。
「立ったままでは疲れるだろ。床に寝転んでいろ」
「ザカリス様の服をお尻に敷くなんて」
「構わん。そのままではドレスが汚れてしまうぞ」
ザカリスは譲らない。
リリアーナは仕方なしに彼の上等のコートを尻に敷く。
ザカリスはリリアーナから一定の距離を取って、床に直に胡座をかいた。
「ザカリス様もそばに来て」
両手を広げたリリアーナは、切なげに顔を歪めた。
「い、いや。それは」
拭ったはずなのに、またしてもザカリスの額に汗が浮き出す。
「寒いわ。寒くて仕方ないの」
リリアーナは訴える。
「あ、ああ。五月の初めといえど、まだ冷えるからな」
「ザカリス様。抱きしめて」
リリアーナは両手を広げたまま、彼を見つめた。
その目には、チリチリと微かな炎が見え隠れしている。
「リリアーナ。俺の話を聞いただろ。駄目だ」
「わかった上でお願いしているの」
「駄目だ。お前に手を出すわけには」
「私はもう立派な成人よ」
「わかってる。お前のことは、子供とは思っていない」
「だったら、何故? 」
追求は、彼が視線を逸らせたことで途絶える。さらに問い詰めたところで、答えは返ってこないと判断したリリアーナは、小さく息を吸い、彼を見据えた。
「ザカリス様。ドレスを脱がせて」
微かに声が震える。
リリアーナはこの瞬間に賭けた。
「な、何を」
戸惑い、体を退くザカリス。
リリアーナは前のめりになって、彼との距離を詰めた。
「だって。このままではドレスが汚れてしまうわ」
「お前、狡いぞ。こんなときに色気を全開にして」
「あなたの弱みにつけ込んでいるの」
リリアーナは計算高く微笑んだ。
いつまでも無邪気な乙女ではいられない。
ここ一カ月余りで、彼を攻め続けるリリアーナが学んだことだ。
どしゃあああ、と天井から雨の塊が落ち、リリアーナの前方で滝のように床面を打ちつけた。
「屋根がないから、雨が凄いわ」
ほんの僅かでも位置がずれていたら、滝の雨に打たれて身動きが取れなかった。
が、リリアーナらのいる位置も危うい。
屋根と屋根の隙間から、ボタボタと重い雫が降ってきて、頭のてっぺんや肩で大きく跳ねた。
「来い」
ザカリスはもう弱々しい顔つきではない。険しく目を尖らせると、リリアーナの手首を掴んだ。
彼の視線は、小屋の奥にある破れた木製のドアに向いている。ドアノブは壊れて半開きになっている、その奥は部屋ではなく下方へ続く階段だ。
「ザ、ザカリス様? 何を? 」
戸惑うリリアーナには一切答えず、ザカリスはリリアーナをお姫様抱っこすると、ドアを蹴破る。腐った木製ドアはあっさりと粉々になった。
急にひんやりと空気の流れが変わった。
螺旋になった石の階段は、コツコツと反響する。
灯りのない階段は真っ暗で足元が何も見えない。
しかしザカリスは躓くことなく慎重に階段を降りきった。
そこは、七平米ほどの狭い部屋だった。
御影石で作られた、明かり取りの窓もない薄暗い部屋。
ガランとして、家具も何もない。床にはいつのものかわからない中身の入った瓶詰めが一つ転がっているのみ。
「おそらく休憩場所を兼ねた貯蔵庫だな」
瓶詰めを爪先で蹴飛ばしてから、ザカリスはリリアーナをそっと降ろした。
「風雨を凌げるだけ、まだマシだ」
すぐさまザカリスはリリアーナに背を向けると、壁を窪ませた燭台を覗き込む。使われた形跡のない蝋燭が入っていた。おそらく蝋燭を取り替えて程なく、この場所を廃したのだろう。
ザカリスは胸ポケットからマッチを取り出すと、蝋燭を灯した。
ぼんやりと室内がオレンジ色に包まれる。
一連の動作を眺めていたリリアーナは、ポツリと背中に尋ねた。
「煙草をお吸いになるの? 」
ザカリスが怪訝な顔つきで振り返る。
「だって。マッチを」
「ああ。紳士クラブに出入りするときなどにな」
彼も紳士の端くれ。
高い会費を払って社交場に顔を出して、食事や会話を楽しんでいる。会員にはブライス伯爵や、ジョナサン男爵、アークライト子爵など、ザカリスと同じ投資家が名を連ねていた。
「私の前では吸ったことなんてないのに」
ザカリスがパイプを燻らせている場面など、リリアーナは知らない。
「お前が幼い頃、煙で咽せてしかたなかったからな。以来、リリアーナの前ではやめている」
「知らなかったわ」
「煙草の匂いは香水で消していたしな」
ザカリスは徹底していた。
「私、ザカリス様のことは何でも知っているつもりだったけど……何も知らないんだわ」
始終彼にくっついて知ったつもりになっていただけ。
ザカリスは複雑そうな一瞥を向けただけで、四方にある壁の窪みの蝋燭全てに火を点けていく。
真っ暗だった室内が明るくなった。
「しばらく雨は止まないだろう。諦めてここにいるしかないな」
地下なのに、頭上の雨の音を確認出来るとは、かなりの土砂降りだということだ。
「雨が止めば、使用人らが助けに来るはずだ」
ザカリスはリリアーナを慰めた。
不意に、リリアーナがギョッと目を剥いた。
「な、何をなさるの? 」
彼が、高価なコートを脱ぎ、泥の跳ねた表側を下向きにして、床に敷いたからだ。埃と黴臭さが生地につけば、いよいよ服が台無しになってしまう。
「立ったままでは疲れるだろ。床に寝転んでいろ」
「ザカリス様の服をお尻に敷くなんて」
「構わん。そのままではドレスが汚れてしまうぞ」
ザカリスは譲らない。
リリアーナは仕方なしに彼の上等のコートを尻に敷く。
ザカリスはリリアーナから一定の距離を取って、床に直に胡座をかいた。
「ザカリス様もそばに来て」
両手を広げたリリアーナは、切なげに顔を歪めた。
「い、いや。それは」
拭ったはずなのに、またしてもザカリスの額に汗が浮き出す。
「寒いわ。寒くて仕方ないの」
リリアーナは訴える。
「あ、ああ。五月の初めといえど、まだ冷えるからな」
「ザカリス様。抱きしめて」
リリアーナは両手を広げたまま、彼を見つめた。
その目には、チリチリと微かな炎が見え隠れしている。
「リリアーナ。俺の話を聞いただろ。駄目だ」
「わかった上でお願いしているの」
「駄目だ。お前に手を出すわけには」
「私はもう立派な成人よ」
「わかってる。お前のことは、子供とは思っていない」
「だったら、何故? 」
追求は、彼が視線を逸らせたことで途絶える。さらに問い詰めたところで、答えは返ってこないと判断したリリアーナは、小さく息を吸い、彼を見据えた。
「ザカリス様。ドレスを脱がせて」
微かに声が震える。
リリアーナはこの瞬間に賭けた。
「な、何を」
戸惑い、体を退くザカリス。
リリアーナは前のめりになって、彼との距離を詰めた。
「だって。このままではドレスが汚れてしまうわ」
「お前、狡いぞ。こんなときに色気を全開にして」
「あなたの弱みにつけ込んでいるの」
リリアーナは計算高く微笑んだ。
いつまでも無邪気な乙女ではいられない。
ここ一カ月余りで、彼を攻め続けるリリアーナが学んだことだ。
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