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第六章

暴漢

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 辰川家の勝手口の前で、車から降りた吉森は、きょろきょろと辺りを見渡した。通信社や野次馬の姿はない。おそらく進展のないことに、ついに見張りを諦め、一旦引き揚げたようだ。
 森雪は車庫に戻るため、吉森を降ろすなり、再び排気ガスを吹かせる。
 塀を曲がって車が見えなくなったことを見届け、吉森は勝手口の取っ手を捻った。
 そのとき、真後ろからガツンと何か固いもので後頭部を殴られた。
「うおっ!」
 いきなりのことに受け身がとれず、吉森は前のめりに倒れるや、その勢いのまま引っ繰り返った。
 目線の先にあるのは、地下足袋だ。道理で足音がせず、気配さえ感じなかった。
 完全に油断していた。
 吉森は衝撃で朦朧とする頭の中、何とか起き上って、逃げることを試みる。
 わんわんと耳鳴りがするほどの受けた衝撃は、吉森の声さえ奪った。水でも掛けられたのか、殴られた部分がぬるつく。恐る恐る触った掌についたのは、真っ赤は血だ。
「ひっ……」
 鮮やかな赤に、くらっと眩暈がした。
 目先の地下足袋が吉森との間合いを詰める。
「ひいいいい」
 地面に這いつくばってヒイヒイと喉を鳴らす情けない姿を、相手はじっくりと見ている。命乞いを今か今かと待っているのだ。手を下すのはすぐにでも出来る。相手がそれまでの時間を楽しんでいるのは確実だ。
 きつく握った手の甲を土に押し付け、ふらつく足を踏ん張らせて、何とか立ち上がろうとすれども、耳のぎりぎりの縁に刃先が突き刺さり、屑折れた。毛先がぱらりと落ちる。
 視線の先の刃は、業物であることに間違いがない。刀身にある大黒天の彫り物から、名刀虎徹、脇差しだと判明する。
 吉森の頭を殴ったのは、その柄だ。
 打ちどころが悪く、ぱっくりと皮膚が切れた。
 男は、刀を前に両手で持って垂らしている。微動だにしない。
 吉森の滑稽さを鑑賞している。
 しかし、そう長く続くものでもない。いつ、一思いにその刃先が肉を切り裂くかわからない。絶体絶命の状況で、吉森の全身の毛穴から汗が吹き出し、じっとりと腋の下を湿らせた。
「兄さん!」
 ハッと目を上げると、彼方から物凄い速さで黒い影が駆け寄ってきた。その手にあるのは、辰川が所蔵する長物の正宗だ。
 一定の立ち位置まで来ると、森雪は構え、相手の出方をじっと待った。
「森雪、危ない。挑むんじゃない」
「僕はね、兄さん。あなたを守るために、欠かさず稽古をつけていたのです。こんなやつに、負けたりはしませんよ」
 穏やかな口調ながらも、その眼差しは真剣そのもので、息さえ張っている。
 じゃり、と革靴の裏が踏む砂利の音が大きい。
 鳥さえ囀らない、緊迫した空気。
 飲み下す生唾さえ響くほどだ。
 互いに間合いを測り、どう攻めるか考えている。
 吉森は恐る恐る、相手の地下足袋からゆっくりと視線を上に、その顔を確かめた。
 灰色の襟巻きで目元以外の部分全てをぐるぐる巻きにしており、人相はわからない。ただ、布地から唯一覗くその目は、異様なほどぎらぎらと煌めいている。人殺しを企む目だ。
 この男は、本気で命を奪おうとしている。
 吉森は恐怖で腰を抜かし、残されていた力全てを失った。
「新陰流だな」
 森雪は言う。
 一瞬、相手の吐く息が大きくなった。
 図星を突かれ、それは相手にとって拙いことだったらしい。
 刀が振り上がった。
「森雪!」
 吉森の悲鳴に、ばさばさと木にとまっていた烏が羽ばたいた。
 抜け落ちた一枚の羽がひらひらと降りて来る。
 森雪は相手に真半身となる。
 敵に先に打ち出させておいて、遅れて打ち出しで勝つ、合撃の技。
 相手は角度から、森雪の肩しか狙えない。
 そこで、体を捻って相手より遅れて刀を振れば、相手の刀が己の刀に乗り、同時に相手の肩を斬れる技。
 相手と森雪はじっくりと間合いを詰めていく。やがて、ぴたりと止まった。
 と、森雪は右足を前に出し、空気を切り裂くように踏み込んだ。互いの気迫に焦れ、若さゆえ、先打での切り込みに切り替えた。
「馬鹿が」
 くぐもった声が襟巻き越しに上がる。
 男は森雪の動きに合わせ、刀を振り下ろした。
「なっ」
 そのとき、びくっと男の手が痙攣する。
 森雪の刀は上段を取ったままだった。気合いのみだったのだ。まんまと男は森雪の罠に嵌まった。
 男は森雪の左側で刀で空を切ることとなった。
 森雪は男に刃先を振り下ろす間際、ぴたりと停止し、その喉元に刃先を突きつけた。
 びくっと男の体が揺れ、足が半歩下がる。
「まさか」
 仰け反った顎元に目を凝らし、森雪は息を呑む。
 吉森の命を奪おうとした男に、覚えがある。森雪の顔は明らかだった。
 その一瞬をつき、男は足裏を森雪の鳩尾にめり込ませた。
「ぐうっ」
 完全に気を抜いていたため、森雪は真後ろに吹っ飛び、重苦しい呻きを漏らしその場に崩れた。
 男は身を翻し、その場から駆け去った。
「待て!」
 腹を押さえ衝撃を堪えながら、森雪は立ち上がり、後を追おうと足を踏み出す。
「森雪!」
 吉森はその足に縋りついていた。
 目を見開いた森雪は、足首で必死に涙を堪える兄の姿に、たちまち目元の険しさを緩くさせ、しゃがみ込んだ。
「大丈夫。あなたを置いてはいきませんよ」
 その胸に吉森の頭を抱き込む。
「お、お前が。何だか別人みたいに」
 森雪が剣術の稽古をしていると言っていたのは、伊達ではなかった。相当の手練だ。
 戦いに挑む森雪の顔は、かつてないほどの畏怖を吉森に植え付けた。よく知る弟とは、全くの別人とさえ思わずにはいられない。
「僕は僕ですよ。大丈夫だから」
 耳に直に響く心音は、どくどくと脈打ちが速い。平静を装ってはいても、やはり先程の戦いは森雪にとって切羽詰まった状況だったのだ。未だに鎮まらないその速さに、吉森は逆に安堵する。森雪はやはり血の通った人間だ。決して殺人を好む鬼などではない。
「あなたが狙われていたことに、もっと早く気付くべきでした」
 いつから、付け狙っていたのだろう。森雪の助けが遅れていたかと思うと、自分はどうなっていたか。改めて考え、ぞくり、と背筋に冷たいものが流れ落ちる。
「悪い。せっかく犯人が出て来たのに。みすみす見逃す羽目に」
「今はあなたの方が大切だ。早く怪我の治療を」
「こんなもの、何ともない」
 などと強がってはみたものの、出血量は思ったよりも多かったとみえ、目の前が眩んだかと思えば、たちまちぷっつりと意識が途切れた。
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