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第五章

小馬鹿

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 のろのろと着物に袖を通す吉森を手伝いながら、森雪は背後から囁いた。
「きちんと水分を取って下さいね。尿意を我慢してはいけませんよ。たとえ痛みを感じてもね。それから」
「もういい。わかったから。それ以上言うな」
 いかがわしい行為の事後についてもやたらと詳しい弟に、吉森は嫌そうに顔をしかめて遮った。
 虫も殺せないようなひ弱な男が、聞いて呆れる。
 世間を、何より義理の兄である吉森をも騙すその演技は、最早、舞台役者にでもなった方が活かせるのではあるまいか。
「高柳とかいうやつのことを調べてみる。是蔵に音助、うちの店の者二人も殺されたんだ。それに俺の愛人も。その男が関わっているかどうか、はっきりさせないと」
「それは警察の仕事でしょう」
「その警察が充てにならないから、俺が動くんだ。このままじゃ、商売もままならないだろ」
 半分以上が嗜好ではあるものの、森雪がサディスティックな行為にまで及んで引き止めた事件の深入り。これからも続ける。こんな脅しで引くつもりは毛頭ない。
 それでも、生意気な弟に勝った、などと手離しには喜べない。
 誰にもされたことのない仕打ちは、確実に吉森の体力を消耗させた。
「若旦那、ちょいとよろしいですか?」
「お話を」
「事件のことで」
 路地に出た辺りで、追いかけて来た新聞記者に囲まれ、圧倒され、よろめく。
 ふらふらと熱っぽい体を持て余し、ぼんやりする吉森には状況はよく見えていなかったが、どうやら脇にいる森雪が一睨みで蹴散らしたのは確かだった。
 頭二つ分も顔が上にあるので、吉森には確かめようがなかったが、余程、物凄い目をしていたのだろう。
 辰川お抱えの運転手だった是蔵が亡くなり、彼を慕っていた吉森は、さあ次だと新しい者を雇い入れる気はなく、移動は専ら市電だ。
 滅多に外に出ない森雪は、当然、公共機関を利用したこともないはずだ。切符の買い方すら知りはすまいと小馬鹿にしていたが、予想以上に手馴れている。むしろ、是蔵に頼りっきりの吉森の方が何かともたついて、いらぬ恥ばかりをかいてしまった。他人任せに脇で眺めているのと、実際に自分でするのとでは大きな違いがあった。
「お金を切符に交換するんですよ。そのまま乗れば、無銭乗車で警察にしょっぴかれます」
「いちいち、ほじくり返すな」
 カーッと赤らむ頬は隠しようがなく、くどくどと説く弟に言い返せば、くすくすと状況を知る周囲の客の忍び笑いが漏れる。
「何だって、お前はそう慣れてるんだよ。気に食わないな」
「むしろ僕は、兄さんのその非常識っぷりに呆れますよ」
「ああ、もう。いちいち、やかましいな」
 酒も女も賭け事もそこそこ嗜む、世慣れた男だと今の今まで思い込んでいたが、悔しいことに森雪の足元にも及ばないことが発覚した。悔し紛れに、着いたばかりの市電にさっさと乗り込もうと列をはみ出した。
「駄目ですよ。ちゃんと並んでるんですから」
 森雪に腕を掴まれ引き戻され、またもや苦言を呈された。
「わかってる!」
「本当に、目の離せない人だな」
 上から目線のその言葉が、さらに吉森をいらつかせたが、すぐにその思いは吹き飛んだ。
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