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第一章
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常磐津節の小十菊は膝枕している男の額をそっと撫で、媚びるように唇を窄めた。
こういうときは、接吻をねだっている。
吉森は心得ていて、望み通りに小十菊の後頭部を引き寄せると、柔らかい唇を舌先で堪能する。
店を音助と妹の香都子に任せ、自分は贔屓回りをすると嘯くや、足は真っすぐ愛人の元へと向かった。
日の高い時分、小十菊は稽古も入れず、暇そうにラジオを掛けていた。先日、吉森が贈ったアメリカ製だ。
三軒長屋の一角にある愛人の住まいは、俗に言うところの鰻の寝床で、玄関を入って廊下を突き当たった先に稽古場兼客間の畳敷きがある。
近所の連中は吉森の訪れをとうに気付いてはいるようだが、覗き見できる家の造りではない。
たとえ小十菊のいやらしい嬌声を真昼間から漏れ聞いたとしても、悶々とするだけだ。
吉森はそのたびに優越感を覚える。
小十菊はねえ、と甘く囁いた。
「何やらおもしろいことを始めたんですって? 」
「何だ、もう聞いていたのか。音助あたりか? それとも客か? 」
「松子様よ」
「何だ、白髪の松婆さんか」
松子は小十菊に稽古をつけてもらっている。手広く何にでも手を出したがるがゆえ、一向に芸事が身につかない。
吉森はいつもそうやって皮肉っていた。
「それ、絶対に松子様の前で言っちゃ駄目よ」
まだ四十を越えたばかりというのに、見た目は七十の老婆と大差ない松子。夫を亡くした衝撃で、かつて界隈の何とか小町だとかまで謳われた美貌を、一夜にして喪失してしまったのだ。彼女は必要以上に己の見た目に気を揉んでいる。
「ねえ、何を探偵に依頼したの? 」
「何でもない」
「嘘、仰い。調合室に人を近付けなかったらしいじゃないの」
「あの婆さんは、余計なことまでよく喋るな」
「打ち解ける相手が、私しかいないということよ」
その信頼した師匠の口が驚くほど軽く、義理の息子に筒抜けだと知れば、松子はどのような顔をするだろうか。想像するだけで、ニタニタと笑いが止まらない。
「ねえ。ねえったら。吉さん」
「何だよ」
「もう、つれないんだから。どうしたの、今日に限って。珍しい」
小十菊の住まいを訪れる目的は一つしかない。最初はそのつもりだったが、いざ『こと』を始めるとなると何故だか今日は気が乗らない。
「何でもない。疲れてるんだ」
ごろんと膝枕で寝返りを打つと、面倒臭そうに欠伸をする。頭上から拗ねたように小十菊がもう、と膨れているが、聞き流しておいた。
世間一般の男性陣に比べて性欲が強く、女を満足させることを自慢にしていたが、それほどの吉森を萎えさせる原因が何であるのか。
思い当る節は一つあるが、敢えて考えないようにして、吉森は瞼を閉じた。
門の前に黒塗りの国産車が停まっており、詰襟の運転手、是蔵が車体の埃を手箒で払っている。
「何だ、また診療所行きか」
小十菊のところから戻ってくるなり、吉森は嫌そうに顔をしかめ、未だ主の乗り込んでいない車を睨みつけた。
週に三度、森雪は数々の診療所を渡り歩いている。
今朝の不埒な行為が過り、吉森はむっと目を眇めた。
目線の先には、紺地に銀の縦縞の背広と、対になったズボンという洋服を見事に着こなした森雪がいる。翡翠の飾りのついたステッキを片手に、空いた方の手で服と揃いの中折れ帽を脱ぐと、恭しく頭を下げてきた。
それを無視し、吉森は素通りする。
物言いたげな森雪の眼差しを背中に感じたが、振り向くつもりはなかった。
「ああ、吉森さん。帰ってきてくれて良かった」
帳場に入るなり、音助が手揉みで近づいてきた。
「どうした」
横柄に吉森が問いかける。
「たった今、王宜丸の注文が入りまして。明後日までに五十袋」
「一度に五十だと」
「左様で」
「目的は何だ」
「へえ。今度、たか乃の次男坊が暖簾分けなさるそうで。贔屓衆に挨拶がてら配るのだと」
「たか乃。新町だな」
「へえ」
たか乃とは江戸の半ばから代々続いた料亭で、今では老舗として界隈では有名だ。一度に五十袋ともなると、利益は大きい。当然、二つ返事で引き受ける。しかも、たか乃と懇意になれば、そこから広がる繋がりが商売人としてはありがたい話で、誰もが望んでいる。
しかし吉森は返事もせず、むしろ迷惑そうに顎に手を当て、何やら考えに耽った。
「吉森さん?」
怪訝に音助が眉を寄せたことで、吉森はぎくり、と頬を引き攣らせた。
「たか乃の女将に、明後日に必ず届けると伝えておけ」
最早、返事は一つしか許されない。
「それより、朝の探偵は戻ってきているか」
「探偵さん、ですか? 」
音助はすぐには思い至らなかったらしく、首を傾げ、ややあってぽんと手を打った。
「ああ、渡邊とかいう。いいえ」
「くそっ! あの役立たずめ」
忌々しく舌打ちをすると、吉森は足を踏み鳴らした。
こういうときは、接吻をねだっている。
吉森は心得ていて、望み通りに小十菊の後頭部を引き寄せると、柔らかい唇を舌先で堪能する。
店を音助と妹の香都子に任せ、自分は贔屓回りをすると嘯くや、足は真っすぐ愛人の元へと向かった。
日の高い時分、小十菊は稽古も入れず、暇そうにラジオを掛けていた。先日、吉森が贈ったアメリカ製だ。
三軒長屋の一角にある愛人の住まいは、俗に言うところの鰻の寝床で、玄関を入って廊下を突き当たった先に稽古場兼客間の畳敷きがある。
近所の連中は吉森の訪れをとうに気付いてはいるようだが、覗き見できる家の造りではない。
たとえ小十菊のいやらしい嬌声を真昼間から漏れ聞いたとしても、悶々とするだけだ。
吉森はそのたびに優越感を覚える。
小十菊はねえ、と甘く囁いた。
「何やらおもしろいことを始めたんですって? 」
「何だ、もう聞いていたのか。音助あたりか? それとも客か? 」
「松子様よ」
「何だ、白髪の松婆さんか」
松子は小十菊に稽古をつけてもらっている。手広く何にでも手を出したがるがゆえ、一向に芸事が身につかない。
吉森はいつもそうやって皮肉っていた。
「それ、絶対に松子様の前で言っちゃ駄目よ」
まだ四十を越えたばかりというのに、見た目は七十の老婆と大差ない松子。夫を亡くした衝撃で、かつて界隈の何とか小町だとかまで謳われた美貌を、一夜にして喪失してしまったのだ。彼女は必要以上に己の見た目に気を揉んでいる。
「ねえ、何を探偵に依頼したの? 」
「何でもない」
「嘘、仰い。調合室に人を近付けなかったらしいじゃないの」
「あの婆さんは、余計なことまでよく喋るな」
「打ち解ける相手が、私しかいないということよ」
その信頼した師匠の口が驚くほど軽く、義理の息子に筒抜けだと知れば、松子はどのような顔をするだろうか。想像するだけで、ニタニタと笑いが止まらない。
「ねえ。ねえったら。吉さん」
「何だよ」
「もう、つれないんだから。どうしたの、今日に限って。珍しい」
小十菊の住まいを訪れる目的は一つしかない。最初はそのつもりだったが、いざ『こと』を始めるとなると何故だか今日は気が乗らない。
「何でもない。疲れてるんだ」
ごろんと膝枕で寝返りを打つと、面倒臭そうに欠伸をする。頭上から拗ねたように小十菊がもう、と膨れているが、聞き流しておいた。
世間一般の男性陣に比べて性欲が強く、女を満足させることを自慢にしていたが、それほどの吉森を萎えさせる原因が何であるのか。
思い当る節は一つあるが、敢えて考えないようにして、吉森は瞼を閉じた。
門の前に黒塗りの国産車が停まっており、詰襟の運転手、是蔵が車体の埃を手箒で払っている。
「何だ、また診療所行きか」
小十菊のところから戻ってくるなり、吉森は嫌そうに顔をしかめ、未だ主の乗り込んでいない車を睨みつけた。
週に三度、森雪は数々の診療所を渡り歩いている。
今朝の不埒な行為が過り、吉森はむっと目を眇めた。
目線の先には、紺地に銀の縦縞の背広と、対になったズボンという洋服を見事に着こなした森雪がいる。翡翠の飾りのついたステッキを片手に、空いた方の手で服と揃いの中折れ帽を脱ぐと、恭しく頭を下げてきた。
それを無視し、吉森は素通りする。
物言いたげな森雪の眼差しを背中に感じたが、振り向くつもりはなかった。
「ああ、吉森さん。帰ってきてくれて良かった」
帳場に入るなり、音助が手揉みで近づいてきた。
「どうした」
横柄に吉森が問いかける。
「たった今、王宜丸の注文が入りまして。明後日までに五十袋」
「一度に五十だと」
「左様で」
「目的は何だ」
「へえ。今度、たか乃の次男坊が暖簾分けなさるそうで。贔屓衆に挨拶がてら配るのだと」
「たか乃。新町だな」
「へえ」
たか乃とは江戸の半ばから代々続いた料亭で、今では老舗として界隈では有名だ。一度に五十袋ともなると、利益は大きい。当然、二つ返事で引き受ける。しかも、たか乃と懇意になれば、そこから広がる繋がりが商売人としてはありがたい話で、誰もが望んでいる。
しかし吉森は返事もせず、むしろ迷惑そうに顎に手を当て、何やら考えに耽った。
「吉森さん?」
怪訝に音助が眉を寄せたことで、吉森はぎくり、と頬を引き攣らせた。
「たか乃の女将に、明後日に必ず届けると伝えておけ」
最早、返事は一つしか許されない。
「それより、朝の探偵は戻ってきているか」
「探偵さん、ですか? 」
音助はすぐには思い至らなかったらしく、首を傾げ、ややあってぽんと手を打った。
「ああ、渡邊とかいう。いいえ」
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忌々しく舌打ちをすると、吉森は足を踏み鳴らした。
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