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第一章
弟
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音助の枕元に立ってから、車を用意させるまでに、大して時間を要しなかった。
狸寝入りを決め込んでいるのは承知していたから、起きなければバケツを引っ繰り返して冷水を浴びせてやろうと企んでいた。前回、前々回とも実行済みだ。
さすがに三度目ともなると音助も察して、吉森が入ってくる頃には身支度を整えてあった。
辰屋お抱えの運転手・是蔵にたっぷりと金を弾んで、音助はうるさいのを早々に追い出す。
夜も明けないうちから、迷惑な話だと思っているだろうが、吉森の知ったことではない。
「兄さん。ちょっとやり過ぎではありませんか?
さあ車に乗り込むぞ、といったときに、不意に背後から声を掛けられ、吉森の細い眉が中央に寄る。
滅多なことでは外に出て来ない森雪が、玄関先に佇んでいた。
薄っぺらい寝巻に半纏を引っ掛け、素足に下駄履きで、寝床からそのまま出て来たと言わんばかりの恰好だ。
「森雪。お前、また体壊すぞ。この間も」
「心配してくれるなら、外出を取りやめて下さい」
「断る」
「兄さん」
困ったように名前を呼ばれた。
はっきり言って吉森は、森雪と顔を合わすたびに虫唾の走る思いがする。
何もかもが違うのだ。
吹けば飛ぶような繊細な森雪とは違い、吉森は背こそ低いものの、父親譲りの骨太の体格で、ちょっとやそっとでは折れない図太さがある。
三白眼で唇は薄いが、芝居でいうところの二番手くらいには入るのではあるまいか。
しかし、世間では森雪のような優男が何故だかもてる。
それがまず気に食わない。
「常磐津節の師匠のところですか」
あっさりと森雪は言い当てた。
最近のお気に入りの四十女で、辰屋に王宜丸を買いに来たときにこちらから声を掛けたのが始まりだ。
だが、常磐津小十菊の腫れぼったい二重の瞳と、やけにぬらぬらと赤い半開きの唇、そしてしなだれかかるような所作が、誘えといった雰囲気を醸し出していたのだ。
まんまと魂胆に嵌まってしまった形だが、悪い気はしない。
「朝特有の男の生理現象だ。このままでは店には出られない。仕方ないだろう」
「兄さんは、朝も夜も関係なく盛っているじゃありませんか」
「やかましい」
図星だが、森雪の口から出るとむかっとくる。
「時間がない。もう構うな」
体を折り曲げ、後部座席に乗り込もうと足を踏み出す。
「待って!」
駆け寄ってきた森雪に、外套の裾を捕まえられた。
しつこい、と吉森は舌打ちする。
「じゃあ、お前が相手するか?」
意地悪な気持ちが芽生えた。
「このままでは、店に出られたもんじゃない。だが、お前は行くなと引き止める。解決策は一つしかないだろう」
思わせぶりにチラリと森雪に視線を流す。勿論、本気じゃない。
森雪など性の対象として見られたものではない。
世の中には様々な嗜好の持ち主はいるが、吉森はあくまで女しか相手にしない。
からかいの延長でしかない。
森雪は整った顔に影を落とした。
おかしくて堪らない。吉森は馬鹿笑いしたいのを必死に堪え、ぷるぷると肩を震わせた。
「僕相手でよろしいんですね」
「森雪?」
「承知しました。僕の部屋へどうぞ」
恭しくお辞儀するや、腕を屋敷の方へと伸ばす。
「おいおい。本気か?」
目の前にいる半分だけ血の繋がった弟が、反吐が出るほど生真面目な性格だということを、改めて悟った。
こんなところで足止めを食らっているうちに、どんどん時間は過ぎていく。
先程に比べて幾分空が白み始めていた。
吉森は眉を垂れ下げ、困ったなと頭を掻いた。
「怖気づきましたか? もしや辰川吉森は、口先だけの男ですか?」
「何だと」
カッと頭に血が昇った。
森雪を生真面目と呼ぶなら、吉森は単純だ。
狸寝入りを決め込んでいるのは承知していたから、起きなければバケツを引っ繰り返して冷水を浴びせてやろうと企んでいた。前回、前々回とも実行済みだ。
さすがに三度目ともなると音助も察して、吉森が入ってくる頃には身支度を整えてあった。
辰屋お抱えの運転手・是蔵にたっぷりと金を弾んで、音助はうるさいのを早々に追い出す。
夜も明けないうちから、迷惑な話だと思っているだろうが、吉森の知ったことではない。
「兄さん。ちょっとやり過ぎではありませんか?
さあ車に乗り込むぞ、といったときに、不意に背後から声を掛けられ、吉森の細い眉が中央に寄る。
滅多なことでは外に出て来ない森雪が、玄関先に佇んでいた。
薄っぺらい寝巻に半纏を引っ掛け、素足に下駄履きで、寝床からそのまま出て来たと言わんばかりの恰好だ。
「森雪。お前、また体壊すぞ。この間も」
「心配してくれるなら、外出を取りやめて下さい」
「断る」
「兄さん」
困ったように名前を呼ばれた。
はっきり言って吉森は、森雪と顔を合わすたびに虫唾の走る思いがする。
何もかもが違うのだ。
吹けば飛ぶような繊細な森雪とは違い、吉森は背こそ低いものの、父親譲りの骨太の体格で、ちょっとやそっとでは折れない図太さがある。
三白眼で唇は薄いが、芝居でいうところの二番手くらいには入るのではあるまいか。
しかし、世間では森雪のような優男が何故だかもてる。
それがまず気に食わない。
「常磐津節の師匠のところですか」
あっさりと森雪は言い当てた。
最近のお気に入りの四十女で、辰屋に王宜丸を買いに来たときにこちらから声を掛けたのが始まりだ。
だが、常磐津小十菊の腫れぼったい二重の瞳と、やけにぬらぬらと赤い半開きの唇、そしてしなだれかかるような所作が、誘えといった雰囲気を醸し出していたのだ。
まんまと魂胆に嵌まってしまった形だが、悪い気はしない。
「朝特有の男の生理現象だ。このままでは店には出られない。仕方ないだろう」
「兄さんは、朝も夜も関係なく盛っているじゃありませんか」
「やかましい」
図星だが、森雪の口から出るとむかっとくる。
「時間がない。もう構うな」
体を折り曲げ、後部座席に乗り込もうと足を踏み出す。
「待って!」
駆け寄ってきた森雪に、外套の裾を捕まえられた。
しつこい、と吉森は舌打ちする。
「じゃあ、お前が相手するか?」
意地悪な気持ちが芽生えた。
「このままでは、店に出られたもんじゃない。だが、お前は行くなと引き止める。解決策は一つしかないだろう」
思わせぶりにチラリと森雪に視線を流す。勿論、本気じゃない。
森雪など性の対象として見られたものではない。
世の中には様々な嗜好の持ち主はいるが、吉森はあくまで女しか相手にしない。
からかいの延長でしかない。
森雪は整った顔に影を落とした。
おかしくて堪らない。吉森は馬鹿笑いしたいのを必死に堪え、ぷるぷると肩を震わせた。
「僕相手でよろしいんですね」
「森雪?」
「承知しました。僕の部屋へどうぞ」
恭しくお辞儀するや、腕を屋敷の方へと伸ばす。
「おいおい。本気か?」
目の前にいる半分だけ血の繋がった弟が、反吐が出るほど生真面目な性格だということを、改めて悟った。
こんなところで足止めを食らっているうちに、どんどん時間は過ぎていく。
先程に比べて幾分空が白み始めていた。
吉森は眉を垂れ下げ、困ったなと頭を掻いた。
「怖気づきましたか? もしや辰川吉森は、口先だけの男ですか?」
「何だと」
カッと頭に血が昇った。
森雪を生真面目と呼ぶなら、吉森は単純だ。
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