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混沌の夢
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イザベラがよく眠れた日なんて、二十一年間、一度たりともなかった。
混沌とした闇が渦巻き、道のないトンネルが続いている。出口なんて見つからない。光さえなく、覚束ない足取りで、手探りで道なき道をひたすら進んでいた。立ち止まれば、たちまち闇に飲み込まれてしまう。ドス黒いその塊に、気を抜いたら最後、取り込まれてしまう。
悪夢の半分は幻覚で、半分は現実だった。
イザベラは鼻が利く。
微かに匂う甘酸っぱさ。
日常的に流れるその匂いは、子供ながらに危険であると直感し、イザベラは必要以外には外には出ず、暗くジメジメした地下に引き篭もり、ひたすら与えられた仕事をこなしていた。
不意に自分の手が幼く、赤切れで血だらけの見窄らしいものに変化した。
子爵邸の贅沢な石鹸による艶々のお団子髪ではない。耳の下で不揃いに切り、ろくに洗わないからすす汚れて縺れて、荒れ放題。木綿ドレスではなく、素肌の透ける薄いシュミーズ一枚。しかも、ところどころ引っ掛けて破れ、汚れがひどく、変色してしまっている。冬でも裸足で、足の指は霜焼けで赤黒く腫れ上がっていた。
「まだ縫い物が終わらないのかい! 」
どすんどすんと足を踏み鳴らし、ぼろぼろに腐った木の扉を蹴飛ばして、女主人はいらいらと怒鳴り散らした。
イザベラはいつの間にか、光の入らない地下室の物置小屋で、必死になって布地に針を通していた。
「ああ! 本当にお前は愚図だねえ! 」
ぶくぶくに酒太りした女主人は、丸太のような二の腕を組み、足を踏み鳴らす。
「でも、お腹が空いて。頭がぼんやりして」
「台所の残り物をやっただろ! 」
「お茶碗半分のスープだけなんて、あんまりだわ」
「贅沢言ってるんじゃないよ! 」
女主人は拳を振り上げるや、容赦なくイザベラの頬に打ち込んだ。
骨が軋むほどの音を立てて、イザベラは真後ろに吹っ飛ぶ。床に横倒しになった。
「自分の置かれた状況がわかっちゃいないんだね! この馬鹿娘が! 」
口から吐き出された臭気が、部屋中に充満する。安物のワインと、阿片、脂まみれの肉。それらがない混ぜ、加えて殴られた衝撃で、イザベラの頭はぐらぐらと回転する。
ふと、女主人の眉が「おや」と吊り上がった。
「『ネズミ』、あんた、幾つだい? 」
女主人はイザベラを見たまんま『ネズミ』と呼ぶ。ここでは誰も名前でなんて呼んでくれない。
「十歳よ。たぶん」
気が狂わないように、五歳にここに放り込まれてから丸五年、毎晩毎晩、地下室から外に出るたびに、螺旋階段の窓から見える月を数えていた。
「そうか、もうそんな年かい」
栄養失調でがりがりに痩せて、同い年と比べると随分貧弱。だが、シュミーズから覗く白過ぎる太腿は一丁前に色気がある。
ニタリ、と女主人は薄ら笑いを浮かべた。
「あんた、明日から客を取りな」
売春宿を兼ねた店の、そちらの方にイザベラを回すというのだ。
イザベラの血が冷えていく。恐怖で体が震えた。
嫌だ、と言えば、たちまち首に縄をかけられて、ぎゅうぎゅうに締められてしまう。
みすぼらしい孤児一人が居なくなったところで、世の中の誰一人気付かない。
朝になって首に縄の締め跡のついた自分が川に浮いている姿が脳裏を過り、イザベラはさらにガタガタ震えた。
「わかったら、とっとと用事を済ませちまいな! 明日の朝、一番に来るからね! 」
吐き捨てて、女主人は勢いよく扉を閉める。遠ざかっていく靴音。
もう、愚図愚図していられない。
イザベラはそっと扉を開けて、慎重に辺りを伺うと、今だ! と一気に駆け上がった。
女主人に買い物を頼まれたと適当に言って、台所の裏口から外へ出る。
カッと太陽が目を眩ませる。
かびだらけの湿って薄く暗い地下から這い出した先の空気。めいいっぱい吸い込む。都会の空気は埃まみれだ。だけど、イザベラには新鮮そのもの。
走って大通りを横切る。途中、酔っ払いにぶつかり、小石につまづき、娼婦に寄りかかられて鼻の下を伸ばす貴族と擦れ違った。状況が違えば自分だって、もしかしたら「向こう」にいたかも知れない。紳士を横目に、イザベラはひたすら走った。
幌を被った荷馬車が停まっていた。
「これから『貴族の監獄』行きでさぁ」
御者は笑いながら誰かと談笑している。
イザベラはその隙に幌の中に潜り込んだ。
たちまち馬がいなないた。
がくん、と荷台が斜めに傾く。
馬車はくねくねと曲がりながら、イザベラを乗せてひたすら駆けた。
荷台は右へ左へ容赦なく傾く。そのたびに、イザベラの体は鞠のように跳ねた。
一際大きく跳ねたとき、頬に何か硬いものがぶつかった。
ふと顔を上げれば、ルミナスが間近に。
何故、ここに? 問いかけようにも、喉奥に言葉が詰まって出て来ない。
「君は相変わらず無茶をするんだな」
ルミナスは微笑する。
「さあ、行こうか」
彼の逞しい腕がイザベラの腰に回ると、何が何でも離さないと言わんばかりに巻き付く。
どこへ? どこへ連れて行ってくれるの?
離さないで。
イザベラはそう伝えたいのに、声が出ない。
そんなにしめつけたら、痛いわ。
巻きついた腕はぎりぎりと締まり、まるで、縄のよう。雁字搦めで、身動き一つ出来ない。皮膚に食い込んで、微かに動けばますます締め上げる。
彼の柑橘系の香りじゃない。
甘酸っぱくて吐き気がする、憎々しい匂い。
これは……。
イザベラはカッと目を開けた。
混沌とした闇が渦巻き、道のないトンネルが続いている。出口なんて見つからない。光さえなく、覚束ない足取りで、手探りで道なき道をひたすら進んでいた。立ち止まれば、たちまち闇に飲み込まれてしまう。ドス黒いその塊に、気を抜いたら最後、取り込まれてしまう。
悪夢の半分は幻覚で、半分は現実だった。
イザベラは鼻が利く。
微かに匂う甘酸っぱさ。
日常的に流れるその匂いは、子供ながらに危険であると直感し、イザベラは必要以外には外には出ず、暗くジメジメした地下に引き篭もり、ひたすら与えられた仕事をこなしていた。
不意に自分の手が幼く、赤切れで血だらけの見窄らしいものに変化した。
子爵邸の贅沢な石鹸による艶々のお団子髪ではない。耳の下で不揃いに切り、ろくに洗わないからすす汚れて縺れて、荒れ放題。木綿ドレスではなく、素肌の透ける薄いシュミーズ一枚。しかも、ところどころ引っ掛けて破れ、汚れがひどく、変色してしまっている。冬でも裸足で、足の指は霜焼けで赤黒く腫れ上がっていた。
「まだ縫い物が終わらないのかい! 」
どすんどすんと足を踏み鳴らし、ぼろぼろに腐った木の扉を蹴飛ばして、女主人はいらいらと怒鳴り散らした。
イザベラはいつの間にか、光の入らない地下室の物置小屋で、必死になって布地に針を通していた。
「ああ! 本当にお前は愚図だねえ! 」
ぶくぶくに酒太りした女主人は、丸太のような二の腕を組み、足を踏み鳴らす。
「でも、お腹が空いて。頭がぼんやりして」
「台所の残り物をやっただろ! 」
「お茶碗半分のスープだけなんて、あんまりだわ」
「贅沢言ってるんじゃないよ! 」
女主人は拳を振り上げるや、容赦なくイザベラの頬に打ち込んだ。
骨が軋むほどの音を立てて、イザベラは真後ろに吹っ飛ぶ。床に横倒しになった。
「自分の置かれた状況がわかっちゃいないんだね! この馬鹿娘が! 」
口から吐き出された臭気が、部屋中に充満する。安物のワインと、阿片、脂まみれの肉。それらがない混ぜ、加えて殴られた衝撃で、イザベラの頭はぐらぐらと回転する。
ふと、女主人の眉が「おや」と吊り上がった。
「『ネズミ』、あんた、幾つだい? 」
女主人はイザベラを見たまんま『ネズミ』と呼ぶ。ここでは誰も名前でなんて呼んでくれない。
「十歳よ。たぶん」
気が狂わないように、五歳にここに放り込まれてから丸五年、毎晩毎晩、地下室から外に出るたびに、螺旋階段の窓から見える月を数えていた。
「そうか、もうそんな年かい」
栄養失調でがりがりに痩せて、同い年と比べると随分貧弱。だが、シュミーズから覗く白過ぎる太腿は一丁前に色気がある。
ニタリ、と女主人は薄ら笑いを浮かべた。
「あんた、明日から客を取りな」
売春宿を兼ねた店の、そちらの方にイザベラを回すというのだ。
イザベラの血が冷えていく。恐怖で体が震えた。
嫌だ、と言えば、たちまち首に縄をかけられて、ぎゅうぎゅうに締められてしまう。
みすぼらしい孤児一人が居なくなったところで、世の中の誰一人気付かない。
朝になって首に縄の締め跡のついた自分が川に浮いている姿が脳裏を過り、イザベラはさらにガタガタ震えた。
「わかったら、とっとと用事を済ませちまいな! 明日の朝、一番に来るからね! 」
吐き捨てて、女主人は勢いよく扉を閉める。遠ざかっていく靴音。
もう、愚図愚図していられない。
イザベラはそっと扉を開けて、慎重に辺りを伺うと、今だ! と一気に駆け上がった。
女主人に買い物を頼まれたと適当に言って、台所の裏口から外へ出る。
カッと太陽が目を眩ませる。
かびだらけの湿って薄く暗い地下から這い出した先の空気。めいいっぱい吸い込む。都会の空気は埃まみれだ。だけど、イザベラには新鮮そのもの。
走って大通りを横切る。途中、酔っ払いにぶつかり、小石につまづき、娼婦に寄りかかられて鼻の下を伸ばす貴族と擦れ違った。状況が違えば自分だって、もしかしたら「向こう」にいたかも知れない。紳士を横目に、イザベラはひたすら走った。
幌を被った荷馬車が停まっていた。
「これから『貴族の監獄』行きでさぁ」
御者は笑いながら誰かと談笑している。
イザベラはその隙に幌の中に潜り込んだ。
たちまち馬がいなないた。
がくん、と荷台が斜めに傾く。
馬車はくねくねと曲がりながら、イザベラを乗せてひたすら駆けた。
荷台は右へ左へ容赦なく傾く。そのたびに、イザベラの体は鞠のように跳ねた。
一際大きく跳ねたとき、頬に何か硬いものがぶつかった。
ふと顔を上げれば、ルミナスが間近に。
何故、ここに? 問いかけようにも、喉奥に言葉が詰まって出て来ない。
「君は相変わらず無茶をするんだな」
ルミナスは微笑する。
「さあ、行こうか」
彼の逞しい腕がイザベラの腰に回ると、何が何でも離さないと言わんばかりに巻き付く。
どこへ? どこへ連れて行ってくれるの?
離さないで。
イザベラはそう伝えたいのに、声が出ない。
そんなにしめつけたら、痛いわ。
巻きついた腕はぎりぎりと締まり、まるで、縄のよう。雁字搦めで、身動き一つ出来ない。皮膚に食い込んで、微かに動けばますます締め上げる。
彼の柑橘系の香りじゃない。
甘酸っぱくて吐き気がする、憎々しい匂い。
これは……。
イザベラはカッと目を開けた。
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