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続編 愛くらい語らせろ
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「おい。何だよ、これは」
洗面所で就寝前の歯磨きをしていると、リビングから一オクターブ上がった声が響いた。
当番明けは俺か日浦、どちらかの家で過ごすことが定番化している。今回は俺の家だ。
「おい、あっちゃん!」
ずかずかとフローリングを踏み鳴らしながら、足音が近づいてくる。
俺はある品を中途半端に引き出しに仕舞い込んでいたことを思い出した。閉まりきらなくて、半分中身が出てしまっていたんだった。
口を濯ぐのもそこそこに、洗面所を出たところで、日浦にぶつかる。相変わらず鍛え方が半端ねえ筋肉だな。硬い胸板に弾かれて、尻餅をついた。
「何だよ、これは!答えろ!」
目の前には、仁王立ちの日浦。
その手には、金色の箔押しの冊子が握られている。
「人んちのもん、勝手に見るなよな」
「じゃあ、ちゃんと隠しとけ!」
ごもっとも。
「見合い写真だろ、これ!」
日浦のこめかみには青筋が立ち、いつもは穏やかそのものの琥珀の瞳が、今や血走り逆三角形に尖ってしまっている。
「うっぷ」
冊子で顔面をはたくな。
「どういうつもりだよ、篤司!」
いつもは甘ったるい声出して「あっちゃん」なのに。こいつが名前を呼び捨てにするときは、いかがわしい展開へ導くときか、怒りで我を忘れたとき。どちらも鬱陶しいが、後者はさらに厄介だ。
「しょうがねえだろ。署長の紹介なんだよ」
性格の不一致により離婚し、元妻は再婚。娘は新しいパパに馴染んでいる。絵に描いたような幸せな家庭を築く元妻の環境。
片や俺は侘しい独り者。しかも、鉄仮面などと渾名され、女は寄り付いて来ない。
お節介な署長が世話を焼きたがるにはもってこいだ。
「お、俺というものがありながら!」
だから、見合い写真を鼻先に押し付けてくるな。
「お前のことは秘密だろうがよ」
幾らマイノリティだの何だのと世間が騒ごうと、まだまだ偏見は残っている。俺達だけの問題で済むならバレたところで一向に構わないが、別れたとはいえ俺には春花という一人娘がいるんだ。娘が理解するまではそっとしておきたい。お前も納得してくれただろうが。
言えないから、俺は寂しいバツイチ認定されてんだよ。わかれよ。
「だからって!断れよ!」
「偉いさん相手に出来るか」
「俺は断ってるぞ!」
「……そうなの?」
初耳だぞ、それは。
こいつ、億尾にも出さなかったじゃねえか。
「俺のことはいいだろ」
話が自分に向きそうになり、日浦は軌道修正のためか、背を向けた。
「待てよ。お前、見合い話来てたのかよ」
日浦から写真を取り上げ、そのままの勢いで腕を掴んでこちらに向き直させる。
ぞっとするほど冷ややかな眼差しと対峙する。
「だから何だ」
「何で言わねえんだよ」
「言う必要ないだろ」
そうだけど。お前が断ってるって知ってたら、俺だってそうしてた。
大黒谷消防署のトップ、署長様の命令は絶対だって思い込んでたから。まさかお断りする選択肢があるとは。
廊下のど真ん中で立ち尽くす俺に、日浦は掴まれた手を振り解くと、がしがしと赤茶けた髪をかき、わざとらしく鼻から息をゆっくりと吐き出した。
「で。断んるんだよな」
断るのか?じゃない。断って当然の言い方だ。
「無理だ。もうするって返事したから」
「はあああ?」
たちまち日浦の顔が沸騰する。踏み出した一歩は重く響いて、弾みで洗面所のコップが床に落ちた。
「ふざけるなよ、篤司!」
「ふざけてねえよ!」
思わず怒鳴り返してしまった。同じように床板を足の裏で鳴らす。
「大人の付き合いっつーもんがあるだろ!」
右目すれすれを鋭い風が過ぎった。
一瞬、何が起こったのか理解出来なかった。
脳が状況を把握することに追い付いたときには、日浦の拳は壁から離れ、ズボンのポケットに隠された後だった。
どんなに怒ろうと、日浦は決して殴りかかるような男じゃなかった。どちらかと言うと八つ当たり気味に口撃するやつだ。
くそっ。と舌打ちし、日浦は背を向けた。
「付き合ってるって言うのに、お前は全然恋人らしいことしないし」
そのまま、リビングにも寝室にも見向きもせず、玄関へと早足で歩き出す。
「お、おい。日浦」
「帰る」
「帰るって。もう終電ないだろ」
「歩いて帰る」
「無茶言うなよ」
「うるさい」
最後に一言むかつく台詞を吐き、日浦は玄関の外へと消えた。
洗面所で就寝前の歯磨きをしていると、リビングから一オクターブ上がった声が響いた。
当番明けは俺か日浦、どちらかの家で過ごすことが定番化している。今回は俺の家だ。
「おい、あっちゃん!」
ずかずかとフローリングを踏み鳴らしながら、足音が近づいてくる。
俺はある品を中途半端に引き出しに仕舞い込んでいたことを思い出した。閉まりきらなくて、半分中身が出てしまっていたんだった。
口を濯ぐのもそこそこに、洗面所を出たところで、日浦にぶつかる。相変わらず鍛え方が半端ねえ筋肉だな。硬い胸板に弾かれて、尻餅をついた。
「何だよ、これは!答えろ!」
目の前には、仁王立ちの日浦。
その手には、金色の箔押しの冊子が握られている。
「人んちのもん、勝手に見るなよな」
「じゃあ、ちゃんと隠しとけ!」
ごもっとも。
「見合い写真だろ、これ!」
日浦のこめかみには青筋が立ち、いつもは穏やかそのものの琥珀の瞳が、今や血走り逆三角形に尖ってしまっている。
「うっぷ」
冊子で顔面をはたくな。
「どういうつもりだよ、篤司!」
いつもは甘ったるい声出して「あっちゃん」なのに。こいつが名前を呼び捨てにするときは、いかがわしい展開へ導くときか、怒りで我を忘れたとき。どちらも鬱陶しいが、後者はさらに厄介だ。
「しょうがねえだろ。署長の紹介なんだよ」
性格の不一致により離婚し、元妻は再婚。娘は新しいパパに馴染んでいる。絵に描いたような幸せな家庭を築く元妻の環境。
片や俺は侘しい独り者。しかも、鉄仮面などと渾名され、女は寄り付いて来ない。
お節介な署長が世話を焼きたがるにはもってこいだ。
「お、俺というものがありながら!」
だから、見合い写真を鼻先に押し付けてくるな。
「お前のことは秘密だろうがよ」
幾らマイノリティだの何だのと世間が騒ごうと、まだまだ偏見は残っている。俺達だけの問題で済むならバレたところで一向に構わないが、別れたとはいえ俺には春花という一人娘がいるんだ。娘が理解するまではそっとしておきたい。お前も納得してくれただろうが。
言えないから、俺は寂しいバツイチ認定されてんだよ。わかれよ。
「だからって!断れよ!」
「偉いさん相手に出来るか」
「俺は断ってるぞ!」
「……そうなの?」
初耳だぞ、それは。
こいつ、億尾にも出さなかったじゃねえか。
「俺のことはいいだろ」
話が自分に向きそうになり、日浦は軌道修正のためか、背を向けた。
「待てよ。お前、見合い話来てたのかよ」
日浦から写真を取り上げ、そのままの勢いで腕を掴んでこちらに向き直させる。
ぞっとするほど冷ややかな眼差しと対峙する。
「だから何だ」
「何で言わねえんだよ」
「言う必要ないだろ」
そうだけど。お前が断ってるって知ってたら、俺だってそうしてた。
大黒谷消防署のトップ、署長様の命令は絶対だって思い込んでたから。まさかお断りする選択肢があるとは。
廊下のど真ん中で立ち尽くす俺に、日浦は掴まれた手を振り解くと、がしがしと赤茶けた髪をかき、わざとらしく鼻から息をゆっくりと吐き出した。
「で。断んるんだよな」
断るのか?じゃない。断って当然の言い方だ。
「無理だ。もうするって返事したから」
「はあああ?」
たちまち日浦の顔が沸騰する。踏み出した一歩は重く響いて、弾みで洗面所のコップが床に落ちた。
「ふざけるなよ、篤司!」
「ふざけてねえよ!」
思わず怒鳴り返してしまった。同じように床板を足の裏で鳴らす。
「大人の付き合いっつーもんがあるだろ!」
右目すれすれを鋭い風が過ぎった。
一瞬、何が起こったのか理解出来なかった。
脳が状況を把握することに追い付いたときには、日浦の拳は壁から離れ、ズボンのポケットに隠された後だった。
どんなに怒ろうと、日浦は決して殴りかかるような男じゃなかった。どちらかと言うと八つ当たり気味に口撃するやつだ。
くそっ。と舌打ちし、日浦は背を向けた。
「付き合ってるって言うのに、お前は全然恋人らしいことしないし」
そのまま、リビングにも寝室にも見向きもせず、玄関へと早足で歩き出す。
「お、おい。日浦」
「帰る」
「帰るって。もう終電ないだろ」
「歩いて帰る」
「無茶言うなよ」
「うるさい」
最後に一言むかつく台詞を吐き、日浦は玄関の外へと消えた。
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