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第二章
青髭からの求婚
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「サンシェット氏から求婚の窺いだ」
エデュアルトに仕掛けられた最悪な朝からちょうど三日後のことだった。
朝食の場で、スクランブルエッグをスプーンで掬いながら、上座の兄が前触れもなく口を開いた。
「どなたに? 」
きょとん、とアメリアは兄を見やる。
「お前に決まっているだろうが! 」
兄のこめかみに筋が浮いた。
アメリアは思わず真向かいの義姉に視線をずらせば、エイスティンは気まずそうに長い睫毛を伏せた。義姉も承知している話だ。
アメリアは盛大に溜め息をつくと、カトラリーを一旦置く。
「お断りしてください」
アメリアはきっぱり返す。
「駄目だ」
兄は真っ向から否定した。
「お兄様! 」
アメリアの可愛らしい顔が怒りでくしゃくしゃに歪んだ。
「サンシェット氏の噂話は聞き及んでいるでしょう!? 」
「ああ。噂が単なる噂ではないということもな」
サンシェット氏といえば、六十手前の悪徳高利貸しとして世間に名が通っている。ヒキガエルを彷彿とさせるでっぷりしたお腹、たるんだ顎、皺に埋もれてはいるが、常に抜け目なくギラギラ光る一重の目。声は酒に焼けてガサガサし、出てくる言葉は品のない卑猥なものばかり。
だが、彼の悪名はその見た目ではない。
サンシェット氏といえば大変な財産家であり、王都の銀行の金庫の三分の一が彼の有り金だと実しやかに語られている。
その金に目が眩んだ馬鹿な令嬢が彼に近づき、激しく後悔することになると言うことが、噂話に必ず付け加えられている。
サンシェット氏には加虐趣味があって、妻となった者は否が応でもターゲットにされてしまう。暴力を振るわれ、命からがら逃げて来た妻は、もう三人目だ。妻の実家も彼に莫大な借金を負っているので、強く抗議出来ない。結局のところ、再起不能となった妻は実家に返され、離縁だ。それを三度、繰り返している。
アメリアはその四度目の妻として見初められた。
「何故、そのような方の求婚をお断りしてはいけないの? 」
まさか兄がそのような胡散臭い縁談を持ってこようとは。
「スキャンダルに晒されたお前を娶ろうとする男など、最早、一人しかおらん」
「それが『青髭』だけだと言いたいの? 」
まさに、現代の青髭。
妻の命を弄ぶ男。
「お前は選ぶ立場を自ら放棄したのだぞ」
卑猥な行いを人前で晒してしまった醜聞まみれの娘を娶ろうなどという変わり者など、いるはずがない。
これが文句なしの美女なら、何とか挽回は出来ただろうが。
壁の花令嬢には、不利だ。
「嫌よ! 私はまだ死にたくはないわ! 」
アメリアは傷一つついていない腕を擦った。
「単なる書類上のことだ」
出来るだけ安心させようとしているのか、兄の声は酷く穏やかだ。
「サンシェット氏は、貴族との血縁を欲している」
「だからって。彼の資産を当てにしなくても、うちは充分やっていけるわ」
「私が欲しいのはあの男の金ではない。お前の婿だ」
ハリーは何がなんでもアメリアの婚姻を望んでいる。
「彼はお前のような子供に手を出すほど、飢えてはおらん。あくまで書類の上の妻。結婚すれば別邸に住まわせ、夫婦の営みなど必要ないと言っている」
「お飾りの妻というわけね」
アメリアは鼻に皺を寄せた。
「確かに歴代の奥様のように暴力を振る舞われないだけマシだわ」
兄も妹の身は案じている。兄がサンシェット氏に持てる力を駆使して交渉をしたのはよくわかった。
「だけどあの方の別邸といえば、北の僻地。年中雪に覆われて、外出もままならない。これじゃあ、監禁されたも同然だわ」
「では、あの男の屋敷で共に暮らすか? 」
「絶対に嫌よ! 」
アメリアがテーブルを叩きつける。弾みでカトラリーがガチャガチャ音を立てた。
「これはお前が招いた結果だ」
「そうよ。酔っ払った相手に対して、軽率だったわ」
アメリアは呻いた。
「でも、サンシェット氏が僻地に来ないとも限らないじゃない。もし彼が訪ねて来たら、何ヶ月も外には出られないのよ。そうしたら、私は……」
サンシェット氏との取り決めは、あくまで口約束。彼が誠実に対応する保証はない。
兄の顔つきがサッと変わった。
「だ、大丈夫だ。すぐに私が駆けつける」
「吹雪の中、どうやって? 」
「そ、それは」
アメリアの婚姻を進めることばかりに気を取られ、そこまで考えが及んでいなかったらしい。兄は苦々しく顔を歪めた。
「し、しかしな。もう婚約の日取りもあらかた進めていてな。今更……」
貴族に生まれた以上、己の意思に関係なく嫁ぐのは当然のこと。本人が嫌がろうとも、纏った話を覆すことは容易ではない。
「こちらが慰謝料を支払えばよろしいのよ。そうした方が良いわ、ハリー」
それまで黙って状況を見守っていたエイスティンが口を挟んだ。
「そんなことをしたら、アメリアはたちまちオールドミス確定だ」
ハリーは項垂れる。好物の玉子料理はすっかり冷えてしまっていた。
「両親の遺言なのだ。アメリアにウェディングドレスを着せてやって欲しいと」
「ご両親は娘に不幸な結婚を強いてはいないわ」
エイスティンがきっぱりと言い切る。
「ああ。だがな、もう手遅れだ」
ますますハリーは頭を垂れた。
「誰かがアメリアを掻っ攫って、駆け落ちでもしてくれたら」
近頃は「駆け落ち婚」などというものが若者の間で流行っている。
普通ならややこしい段取りで何日もかけて婚姻の手続きを踏むところだが、辺境の村にある教会で式を挙げれば、そこで即日結婚証明書が発行される。その効力は絶大だ。無効にするなど容易くはない。
そんなわけで、貴族、平民問わず、訳ありのカップルはこぞって辺境地を目指していた。
「そんな物好きはおらんしな」
訳ありのアメリアを掻っ攫っていくほど情熱的な男がいれば、とっくに嫁に出している。
ハリーは腹の底から溜め息を吐いた。
エデュアルトに仕掛けられた最悪な朝からちょうど三日後のことだった。
朝食の場で、スクランブルエッグをスプーンで掬いながら、上座の兄が前触れもなく口を開いた。
「どなたに? 」
きょとん、とアメリアは兄を見やる。
「お前に決まっているだろうが! 」
兄のこめかみに筋が浮いた。
アメリアは思わず真向かいの義姉に視線をずらせば、エイスティンは気まずそうに長い睫毛を伏せた。義姉も承知している話だ。
アメリアは盛大に溜め息をつくと、カトラリーを一旦置く。
「お断りしてください」
アメリアはきっぱり返す。
「駄目だ」
兄は真っ向から否定した。
「お兄様! 」
アメリアの可愛らしい顔が怒りでくしゃくしゃに歪んだ。
「サンシェット氏の噂話は聞き及んでいるでしょう!? 」
「ああ。噂が単なる噂ではないということもな」
サンシェット氏といえば、六十手前の悪徳高利貸しとして世間に名が通っている。ヒキガエルを彷彿とさせるでっぷりしたお腹、たるんだ顎、皺に埋もれてはいるが、常に抜け目なくギラギラ光る一重の目。声は酒に焼けてガサガサし、出てくる言葉は品のない卑猥なものばかり。
だが、彼の悪名はその見た目ではない。
サンシェット氏といえば大変な財産家であり、王都の銀行の金庫の三分の一が彼の有り金だと実しやかに語られている。
その金に目が眩んだ馬鹿な令嬢が彼に近づき、激しく後悔することになると言うことが、噂話に必ず付け加えられている。
サンシェット氏には加虐趣味があって、妻となった者は否が応でもターゲットにされてしまう。暴力を振るわれ、命からがら逃げて来た妻は、もう三人目だ。妻の実家も彼に莫大な借金を負っているので、強く抗議出来ない。結局のところ、再起不能となった妻は実家に返され、離縁だ。それを三度、繰り返している。
アメリアはその四度目の妻として見初められた。
「何故、そのような方の求婚をお断りしてはいけないの? 」
まさか兄がそのような胡散臭い縁談を持ってこようとは。
「スキャンダルに晒されたお前を娶ろうとする男など、最早、一人しかおらん」
「それが『青髭』だけだと言いたいの? 」
まさに、現代の青髭。
妻の命を弄ぶ男。
「お前は選ぶ立場を自ら放棄したのだぞ」
卑猥な行いを人前で晒してしまった醜聞まみれの娘を娶ろうなどという変わり者など、いるはずがない。
これが文句なしの美女なら、何とか挽回は出来ただろうが。
壁の花令嬢には、不利だ。
「嫌よ! 私はまだ死にたくはないわ! 」
アメリアは傷一つついていない腕を擦った。
「単なる書類上のことだ」
出来るだけ安心させようとしているのか、兄の声は酷く穏やかだ。
「サンシェット氏は、貴族との血縁を欲している」
「だからって。彼の資産を当てにしなくても、うちは充分やっていけるわ」
「私が欲しいのはあの男の金ではない。お前の婿だ」
ハリーは何がなんでもアメリアの婚姻を望んでいる。
「彼はお前のような子供に手を出すほど、飢えてはおらん。あくまで書類の上の妻。結婚すれば別邸に住まわせ、夫婦の営みなど必要ないと言っている」
「お飾りの妻というわけね」
アメリアは鼻に皺を寄せた。
「確かに歴代の奥様のように暴力を振る舞われないだけマシだわ」
兄も妹の身は案じている。兄がサンシェット氏に持てる力を駆使して交渉をしたのはよくわかった。
「だけどあの方の別邸といえば、北の僻地。年中雪に覆われて、外出もままならない。これじゃあ、監禁されたも同然だわ」
「では、あの男の屋敷で共に暮らすか? 」
「絶対に嫌よ! 」
アメリアがテーブルを叩きつける。弾みでカトラリーがガチャガチャ音を立てた。
「これはお前が招いた結果だ」
「そうよ。酔っ払った相手に対して、軽率だったわ」
アメリアは呻いた。
「でも、サンシェット氏が僻地に来ないとも限らないじゃない。もし彼が訪ねて来たら、何ヶ月も外には出られないのよ。そうしたら、私は……」
サンシェット氏との取り決めは、あくまで口約束。彼が誠実に対応する保証はない。
兄の顔つきがサッと変わった。
「だ、大丈夫だ。すぐに私が駆けつける」
「吹雪の中、どうやって? 」
「そ、それは」
アメリアの婚姻を進めることばかりに気を取られ、そこまで考えが及んでいなかったらしい。兄は苦々しく顔を歪めた。
「し、しかしな。もう婚約の日取りもあらかた進めていてな。今更……」
貴族に生まれた以上、己の意思に関係なく嫁ぐのは当然のこと。本人が嫌がろうとも、纏った話を覆すことは容易ではない。
「こちらが慰謝料を支払えばよろしいのよ。そうした方が良いわ、ハリー」
それまで黙って状況を見守っていたエイスティンが口を挟んだ。
「そんなことをしたら、アメリアはたちまちオールドミス確定だ」
ハリーは項垂れる。好物の玉子料理はすっかり冷えてしまっていた。
「両親の遺言なのだ。アメリアにウェディングドレスを着せてやって欲しいと」
「ご両親は娘に不幸な結婚を強いてはいないわ」
エイスティンがきっぱりと言い切る。
「ああ。だがな、もう手遅れだ」
ますますハリーは頭を垂れた。
「誰かがアメリアを掻っ攫って、駆け落ちでもしてくれたら」
近頃は「駆け落ち婚」などというものが若者の間で流行っている。
普通ならややこしい段取りで何日もかけて婚姻の手続きを踏むところだが、辺境の村にある教会で式を挙げれば、そこで即日結婚証明書が発行される。その効力は絶大だ。無効にするなど容易くはない。
そんなわけで、貴族、平民問わず、訳ありのカップルはこぞって辺境地を目指していた。
「そんな物好きはおらんしな」
訳ありのアメリアを掻っ攫っていくほど情熱的な男がいれば、とっくに嫁に出している。
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