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第一章
悪魔の訪問
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「悪かった。俺が迂闊なばかりに」
アルコールが抜けて冷静さを取り戻したエデュアルトがヴィンセント邸まで飛んで来たのは、翌日の早朝のことだった。
さすがに燕尾服ではないものの、朝の支度もそこそこだったのか、口周りにうっすら髭があるし、目の下は隈で落ち窪んでいるし、髪は櫛が入っておらずボサボサだし。
それでも見映えする容貌だから憎たらしい。
アメリアは玄関で九十度に腰を折る彼を、柱の陰からこっそりと睨みつけた。
「今頃は物凄い勢いで、アメリアが軽薄だと広がっているだろうよ」
「だから申し訳ない」
心底、後悔しているようだ。いつもの自信満々に張りのある声が、今朝は壊れた弦楽器のようにくぐもって弱々しい。
「どう責任取るつもりだ」
仁王立ちのハリーは、そんなことでは怒りが収まらない。付き合いの狩猟で日焼けした浅黒い肌が、真っ赤になっている。
「お前はアメリアに対して、六つかそこらの子供同然に接しているがな。妹はもう適齢期の娘なんだ」
「くどくど言うな。わかってるさ」
「それなら何故、軽々しくキスなど」
「いや。つい」
「つい!? つい、でアメリアの評判を落としたのか!? 」
本当はキスどころではないことを仕出かしてしまったのだが、敢えてエデュアルトは胸に仕舞っておいた。
「あれはアメリアが昂って」
「何だと! アメリアに責任転嫁するつもりか! 」
「い、いや。そういうわけでは」
エデュアルトより頭一つ分低いハリーは、背伸びをしてエデュアルトの胸倉を掴んだ。体勢が不安定なせいで、よろよろしている。
そんなハリーを振り払うのは簡単だったが、エデュアルトは微動だにしない。
「ハリー。乱暴はよして」
状況を見守っていたエイスティンが血相を変えて駆け寄った。
そのうち夫が決闘だと言い出しかねないと悟って。
「いや、奥さん。殴られて当然だ。覚悟は出来ている。そのために私はここを訪ねたのですよ」
エデュアルトは恭しくエイスティンを諭した。
アメリアは柱の陰で、ぎりぎりと歯を擦る。
いつもは「俺」と自称するくせに。親友の妻に対しては「私」などと。しかも、言葉遣いにまで気を配って。
アメリアの心の内にあるのは、嫉妬だ。
「ヴィンセント。俺を殴れ」
エデュアルトは両手を広げると、何ら抵抗はしないと示してみせた。息を吸い込んでから、ゆっくりと瞼を閉じる。覚悟が出来ている。
「本気か? 」
逆にハリーが激しく動揺して後ずさった。
「ああ。早くしろ」
エデュアルトの意思は硬い。
ハリーは躊躇し、胸倉を掴んだまま目を泳がせた。
「あなた、よして」
エイスティンは不安そうに見守る。
ハリーは苦悶で顔をくしゃくしゃに歪めた。
「しかしな。腹の虫が治まらんのだ」
「ブランシェット卿が頬を腫らしたところで、状況は好転しませんよ」
「う、うむ」
ハリーはエデュアルトから距離を取る。元から親友の顔に拳を入れるつもりがないのは明らかだ。彼は引き止めてくれる台詞を待っていたし、妻はちゃんと察していた。
「それに胎教に悪いわ」
エイスティンは微笑む。
ふと、エデュアルトの顔色が変わった。
「胎教? まさか? 」
まだ膨らみのわからないエイスティンの下腹部に視線を向ける。
エイスティンは壊れ物を扱うように、両手で臍の位置を丸く撫でた。
「ああ。予定日は冬だ」
ハリーは照れ臭そうに指先で頬をかいた。
「まあ! 早く教えてくだされば! 」
いてもたってもいられず、アメリアは柱の陰から飛び出した。
「だから最近、体調がおもわしくなかったのね! 」
社交界の薔薇であるエイスティンが、昨夜の夜会を欠席した理由を知り、アメリアは興奮で真っ赤になる。
「わかったのは、昨夜なの」
いきなり現れたアメリアだが、エイスティンは彼女の気配には最初から気づいていたようで、驚きもせず微笑む。
「素晴らしいわ! 私、叔母さんになるんだわ! 」
アメリアは義姉の両手を握りしめた。
「ああ! 楽しみだわ! 」
ヴィンセント家に跡取りが出来るのだ。奥手な兄夫妻にはまだ何年も先のことだと思っていたのに。結婚してまだ半年も経たないうちに、望みが叶えられたのだ。
「お兄様、パパになるのね! ヴィンセントに跡取りが出来るのだわ! 」
当の本人らよりも舞い上がるアメリアに、ハリーは渋い顔となった。
「アメリア! 部屋にいろと言ったはずだ」
「そんなことより! これは素敵なニュースだわ! ああ、早速、プレゼントの玩具を選ばなくちゃ! 」
「まだ早い。冬だと言っているだろうが」
めでたい話題に、ハリーはアメリアを叱りつけるのを一旦仕舞い込み、照れ臭そうに破顔する。
「……赤ん坊が……エイスティンに……」
ただ一人、唖然とその様子を眺めていたエデュアルト。
ふと、アメリアはその場違いな表情に眉をひそめた。
「そ、そうか。それはめでたいな」
アメリアの視線に気づいたエデュアルトは、半ば強引なくらいに笑みを張りつかせる。
「お前が父親とはな。何だかムズムズする」
偉そうに軽口を叩く姿はいつもと変わりはないが、エデュアルトの訪問のたびに物陰から彼を観察しているアメリアは、彼が普段とはまるで違う雰囲気であるのを見抜いた。
「父親になるのは冬だがな」
「それまで、父としての心得を叩き込んでおけ。奥さんも労われよ」
「勿論だ」
呑気な兄は、そんなエデュアルトのことには気づいていない。
義姉も、伴侶以外の男性には元から関心がない。
この場で気づいたのは、アメリアだけだ。
「悪いが手洗いを借りる」
エデュアルトは陽気な調子で、勝手知ったる手洗いへと足早に向かった。
「あ、あの。部屋に忘れ物をしたわ」
アメリアはモゴモゴと口中で呟くと、すぐさま彼の方向へ足を進めた。
「待て。お前の説教はこれからだぞ」
「ちょっと待っていて」
「おい、アメリア! 」
咎める兄を無視し、アメリアはエデュアルトを追いかけた。
アルコールが抜けて冷静さを取り戻したエデュアルトがヴィンセント邸まで飛んで来たのは、翌日の早朝のことだった。
さすがに燕尾服ではないものの、朝の支度もそこそこだったのか、口周りにうっすら髭があるし、目の下は隈で落ち窪んでいるし、髪は櫛が入っておらずボサボサだし。
それでも見映えする容貌だから憎たらしい。
アメリアは玄関で九十度に腰を折る彼を、柱の陰からこっそりと睨みつけた。
「今頃は物凄い勢いで、アメリアが軽薄だと広がっているだろうよ」
「だから申し訳ない」
心底、後悔しているようだ。いつもの自信満々に張りのある声が、今朝は壊れた弦楽器のようにくぐもって弱々しい。
「どう責任取るつもりだ」
仁王立ちのハリーは、そんなことでは怒りが収まらない。付き合いの狩猟で日焼けした浅黒い肌が、真っ赤になっている。
「お前はアメリアに対して、六つかそこらの子供同然に接しているがな。妹はもう適齢期の娘なんだ」
「くどくど言うな。わかってるさ」
「それなら何故、軽々しくキスなど」
「いや。つい」
「つい!? つい、でアメリアの評判を落としたのか!? 」
本当はキスどころではないことを仕出かしてしまったのだが、敢えてエデュアルトは胸に仕舞っておいた。
「あれはアメリアが昂って」
「何だと! アメリアに責任転嫁するつもりか! 」
「い、いや。そういうわけでは」
エデュアルトより頭一つ分低いハリーは、背伸びをしてエデュアルトの胸倉を掴んだ。体勢が不安定なせいで、よろよろしている。
そんなハリーを振り払うのは簡単だったが、エデュアルトは微動だにしない。
「ハリー。乱暴はよして」
状況を見守っていたエイスティンが血相を変えて駆け寄った。
そのうち夫が決闘だと言い出しかねないと悟って。
「いや、奥さん。殴られて当然だ。覚悟は出来ている。そのために私はここを訪ねたのですよ」
エデュアルトは恭しくエイスティンを諭した。
アメリアは柱の陰で、ぎりぎりと歯を擦る。
いつもは「俺」と自称するくせに。親友の妻に対しては「私」などと。しかも、言葉遣いにまで気を配って。
アメリアの心の内にあるのは、嫉妬だ。
「ヴィンセント。俺を殴れ」
エデュアルトは両手を広げると、何ら抵抗はしないと示してみせた。息を吸い込んでから、ゆっくりと瞼を閉じる。覚悟が出来ている。
「本気か? 」
逆にハリーが激しく動揺して後ずさった。
「ああ。早くしろ」
エデュアルトの意思は硬い。
ハリーは躊躇し、胸倉を掴んだまま目を泳がせた。
「あなた、よして」
エイスティンは不安そうに見守る。
ハリーは苦悶で顔をくしゃくしゃに歪めた。
「しかしな。腹の虫が治まらんのだ」
「ブランシェット卿が頬を腫らしたところで、状況は好転しませんよ」
「う、うむ」
ハリーはエデュアルトから距離を取る。元から親友の顔に拳を入れるつもりがないのは明らかだ。彼は引き止めてくれる台詞を待っていたし、妻はちゃんと察していた。
「それに胎教に悪いわ」
エイスティンは微笑む。
ふと、エデュアルトの顔色が変わった。
「胎教? まさか? 」
まだ膨らみのわからないエイスティンの下腹部に視線を向ける。
エイスティンは壊れ物を扱うように、両手で臍の位置を丸く撫でた。
「ああ。予定日は冬だ」
ハリーは照れ臭そうに指先で頬をかいた。
「まあ! 早く教えてくだされば! 」
いてもたってもいられず、アメリアは柱の陰から飛び出した。
「だから最近、体調がおもわしくなかったのね! 」
社交界の薔薇であるエイスティンが、昨夜の夜会を欠席した理由を知り、アメリアは興奮で真っ赤になる。
「わかったのは、昨夜なの」
いきなり現れたアメリアだが、エイスティンは彼女の気配には最初から気づいていたようで、驚きもせず微笑む。
「素晴らしいわ! 私、叔母さんになるんだわ! 」
アメリアは義姉の両手を握りしめた。
「ああ! 楽しみだわ! 」
ヴィンセント家に跡取りが出来るのだ。奥手な兄夫妻にはまだ何年も先のことだと思っていたのに。結婚してまだ半年も経たないうちに、望みが叶えられたのだ。
「お兄様、パパになるのね! ヴィンセントに跡取りが出来るのだわ! 」
当の本人らよりも舞い上がるアメリアに、ハリーは渋い顔となった。
「アメリア! 部屋にいろと言ったはずだ」
「そんなことより! これは素敵なニュースだわ! ああ、早速、プレゼントの玩具を選ばなくちゃ! 」
「まだ早い。冬だと言っているだろうが」
めでたい話題に、ハリーはアメリアを叱りつけるのを一旦仕舞い込み、照れ臭そうに破顔する。
「……赤ん坊が……エイスティンに……」
ただ一人、唖然とその様子を眺めていたエデュアルト。
ふと、アメリアはその場違いな表情に眉をひそめた。
「そ、そうか。それはめでたいな」
アメリアの視線に気づいたエデュアルトは、半ば強引なくらいに笑みを張りつかせる。
「お前が父親とはな。何だかムズムズする」
偉そうに軽口を叩く姿はいつもと変わりはないが、エデュアルトの訪問のたびに物陰から彼を観察しているアメリアは、彼が普段とはまるで違う雰囲気であるのを見抜いた。
「父親になるのは冬だがな」
「それまで、父としての心得を叩き込んでおけ。奥さんも労われよ」
「勿論だ」
呑気な兄は、そんなエデュアルトのことには気づいていない。
義姉も、伴侶以外の男性には元から関心がない。
この場で気づいたのは、アメリアだけだ。
「悪いが手洗いを借りる」
エデュアルトは陽気な調子で、勝手知ったる手洗いへと足早に向かった。
「あ、あの。部屋に忘れ物をしたわ」
アメリアはモゴモゴと口中で呟くと、すぐさま彼の方向へ足を進めた。
「待て。お前の説教はこれからだぞ」
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