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元婚約者の引き渡し

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 サーフェスは燕尾服のジャケットの袖を抜くなり、勢いよく地面に放り投げた。
 糊のきいたシャツは、筋肉がくっきりと隆起している。
 貧弱なバルモアとはかけ離れたその肉体美に、マーレイは不謹慎にも頬を染めてしまった。
「そのような物を持ち出して、私に勝とうというのか? 」
「う、うるさい! 僕はこれで、酒場のやつらをのしたんだ! 」
「酒場のやつらは安酒で常に酩酊しているからな。まともに戦えるわけがない」
「う、うるさい! マグレだというのか! 」
「使いこなせない凶器など、却って自分を痛めつけることになるぞ」
「ふ、ふん! 命乞いするなら今のうち、だぞ! 」
 バルモアはナイフの刃先をサーフェスに向けた。
 それは明らかな殺意だ。
 子供の延長線上にある歯向かいではない。
 公爵への乱心だ。
「やれやれ。警告はしたからな」
 サーフェスは大根役者のごとくわざとらしく肩を竦めてみせた。
 が、その双眸からは、それまでのふざけたような、バルモアを揶揄っていた楽しげなものが消えている。
 決闘を受けて立つ覚悟を持った目だ。
「サーフェス様! 」
 マーレイは彼のそんな変化を敏感に感じ取り、植え込みの影から顔だけ覗かせ、悲壮に叫んだ。
「案ずるな、マーレイ。このような軟弱者、金貸しの客にも劣る」
 高利貸しとして荒くれ者らを相手していただけあり、今更、サーフェスに激しい感情の動きはない。
「畜生! 」
 歯軋りしたバルモアは、サーフェス目掛け、ナイフを滅茶苦茶に振り回した。
「どうした? 目は見えているのか? 」
 言うなり、ひらりとかわす。サーフェスは皮肉げに頬を吊った。
「くそ! 」
 バルモアが勢い良く突進する。
 サーフェスは身をよじる。
 空振りしたバルモアは、前につんのめった。
「闇雲に振り回していては、私に掠りもしないぞ」
「ち、畜生! 」
 バルモアは体を捻ると、真後ろにいるサーフェスにナイフを振りかざす。
「畜生! 畜生! チョロチョロと! 」
「ナイフは玩具ではないのだぞ」
 険しい顔つきになったサーフェスは、バルモアの手首を掴むなり、ナイフを取り上げ、彼方へとそれを放り投げた。
 同時に、骨を砕いたかと思うくらいの鈍い音が響く。
「い、痛い! 」
 直後、悲鳴に近い叫びが上がる。
 バルモアは左頬を押さえて、地面に首横たわっていた。
「痛い痛い痛い! 初めて殴られた! 」
 貴族の甘ったれ坊ちゃんとして過ごしてきたバルモアは、殴られたことなどない。
 公爵といえど五年前までは平民だったサーフェスとは、根本的に肝の据わりが違う。
 駄々を捏ねる子供のように、ジタバタと足をばたつかせた。
「全く。どこまでも甘ったれたガキだな」
 まるでひっくり返った亀のような動きに、サーフェスは仁王立ちで呆れた溜め息を吐く。怒りすら湧かない。
「小うるさいガキだ」
 自分とは六つばかりしか違わないはずなのに、丸切り五歳児を相手にしているような気分なのだろう。サーフェスは虚しそうに肩を落とした。
「くそ! こうなったら、マーレイを人質に! 」
 頬を腫らしたバルモアは歯を食い縛り、のろのろ起き上がる。
「心の声が漏れているぞ。仕方のないやつだ」
 たちまちサーフェスの顔が不機嫌に曇った。
「マーレイに手出しは許さない」
 今度は容赦ない音が響き渡った。
 すでにバルモアの体は大きく宙を舞っていた。
 同じ場所を殴りつけられたバルモアは、勢いよく跳ね上がり、ゆっくりした動きで弧を描いてから、どすんと尻を地面に叩きつけられる。
 白目を剥いて倒れ伏した。
「そのまま伸びておけ」
 サーフェスは吐き捨てた。
 果てしなく愚かな青年に対して灸を据えるつもりだったが、マーレイに悪意が向けられたとなると別だ。容赦はしない。
「だ、旦那様! こ、これは! 」
 中庭の異様な物音に気づいた家令が、顔面から血を引きながら駆けつけてきた。
 そんな家令に、サーフェスは感情をチラリとすら見せず淡々と述べる。
「不法侵入者だ。目を覚まして暴れられたら厄介だ。手足を縛って、警察に引き渡せ。裏口からだぞ。招待客には気づかれるな」
 警備には万全を期していた。
 だが、不法な侵入を許してしまった。
 仮面舞踏会の開催を指揮していた家令の責任だ。
 失態に、ますます家令は血の気がなくなる。
「か、畏まりました」
「今後は、業者の荷台にもよく注視しておけ」
 サーフェスは冷たく言い放った。


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