【完結】百日限りの旦那様~将校は溺愛花嫁を艶夜に囲う~

愛染乃唯

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番外編

その後の話【囃田ナオ】

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 私が忍宮みゆきさんを知ったのは、入学間もない朝でした。

 私は模範的な新入生ではなかったと思います。

(学校と名前がついていても、女に許されるのはしょせん、花嫁修行でしょ?)

 政府高官である父と、その交友関係に慣れ親しんで育った私です。
 幼いころは、周囲の地位ある殿方の『ナオさんが男だったら、きっと出世街道まっしぐらだったろうになあ』という、軽いもてはやしを心のどこかで信じていました。

 ですが年頃になってくると、現実が見えてきたのです。
 私にはとうに親の都合で許嫁がいて、許されているのは『賢い妻』になることだけ。
 まるで鉄道の線路のように、行くべき道は一本でした。

(牢獄へ続く道だわ)

 私は鬱々と女学校へ向けて歩いていました。
 道の先には、小柄な女学生の姿がありました。
 足取りも軽く先へと進む彼女は、ずいぶんと能天気に見えます。

(悩みのなさそうな子だこと。石でも当たればいいのに)

 苦々しくそんなことを思ったとき、すうっと鴉が滑空してきました。
 鴉は前を行く女学生に近づくと、石らしきものを落とします。

「あいたっ!」

 こつん、と気持ちのいい音がして、女学生は頭を抱えます。

「嘘……だ、大丈夫ですか!?」

 私は慌てて駆け寄りました。果たして、こんなことがあっていいのでしょうか?
 私には呪いの才能があったのでしょうか?

 女学生の足下には、確かに石が転がっています。
 私は女学生の細い肩を抱えて、必死に声をかけました。

「痛かったでしょう? お怪我は?」

「あなた……」

 女学生は不思議そうに顔を上げ、私をまじまじと見ます。
 見れば目が丸っこく大きくて、美人系ではないけれど大層愛らしいお嬢さんです。

「は、はい」

 柄にもなく緊張した私に、お嬢さんは屈託なく笑いかけました。

「気にかけてくださって、ありがとう」

 お嬢さんは優しく言います。
 私は、私は、すっかりと戸惑ってしまいました。
 目の前にあるのは、まあるいシャクヤクの蕾が一気に開いたような笑いでした。
 とても無垢で、美しいものでした。

(それに引き換え、私は……)

 急に自分が恥ずかしく思えて、私は顔を真っ赤にしました。

「ありがとうだなんて……。災難でしたね」

「私は運が悪いので、石が当たったり水をかけられたり穴に落ちたり鶏や馬に突っこまれることくらいは年中ですよ?」

「ほ、本当に!? 本当にそんなことがありますか!?」

 思わず聞き返すと、お嬢さんは苦笑します。

「信じられませんよね。でも、本当なの」

「そんな……」

 そんなことがあるはずがない、と言い切るには、さっきの出来事は衝撃でした。
 訓練された鷹みたいに、鴉がひとに石を落とすだなんて。
 見るのも聞くのも初めてです。

 私が呆然としていると、お嬢さんは私の手をそっと握ってくれました。

「運が悪くても、十八のこの歳まで生きてこられた。それは、あなたのような親切な方がいるおかげです。ご恩は一生忘れません。……お名前をお聞きしても?」

 そう言って真摯に見上げられると、私は、何か、胸の奥からこみ上げてくるものを感じたのです。
 羞恥と、愛しさと、何もかも壊してしまいたいようなわがままと、とんでもなく美しい朝焼けをあおぐような信心深さと、それらすべてがぐちゃぐちゃになって湧き上がりました。

 ついさっきまで、私は自分が世界一不幸だと思っていました。
 でも、それは間違いだったのです。

 目の前の人は私よりもよほどわかりやすく不幸でした。
 そして、私よりもとんでもなく美しく生きているようでした。

「囃田ナオです……。あなたのお名前を、お聞きしても?」

 私は震える声で囁き、そうっとお嬢さんの手を握り返しました。


 そのときから、私は忍宮みゆきさんの友人になりました。
 付き合ううちに、みゆきさんの不運が本物なのはよくわかりました。
 不運にもかかわらず、みゆきさんが明るく美しく生きているのも、よくよくわかりました。
 だから私が、みゆきさんの下僕になろうと決めるのに、大した時間は要りませんでした。

 私は彼女ほど美しくは生きられません。
 だからこそ、忍宮さんの影となって理不尽な不幸から彼女を守り、代わりに隣で彼女の美しい笑顔を見守る者になろうとしたのです。

† † †

 そうして、女学校での日々は過ぎていきました。
 日々の生活が揺らいだのは、みゆきさんの婚約者を見たときです。

 ……衝撃でした。

『貴明さんは立派な軍人さんで、でも、元々はとても繊細な優しい方なの』

 常々みゆきさんからはそう聞いていました。
 ですが、本人はどこからどう見ても魔性の男。

 女学校の門柱でもって周囲を見つめる彼は、まるで誘蛾灯です。
 彼を視界に入れた途端に、男も女も我を忘れた顔になって、ふらふらっと寄っていってしまうのです。
 禁欲的な軍服をまとっていてさえ、彼からはぐつぐつに煮詰まった闇と色気の気配がしました。

 ろくに隠されてもいない蜜の匂いに、人々は寄っていきます。
 ご本人はそれを重々承知でしょうに、仮面のように澄ました顔で立っていました。
 あげく、みゆきさん以外の誰かが近づきすぎると、唐突に切り捨てるような一瞥で追い払うのです。

(こんな男に、みゆきさんをやっていいのだろうか)

 絶望的な気分で、そんなことを考えたものでした。

 でも――。

 ぱらり、と薄い和紙の便せんを開いて、私は行儀よく並んだみゆきさんの文字を眺めます。
 何度も、何度も眺めた文章です。

 そこに書いてあるのは、みゆきさんが女学校に来なくなってからの顛末でした。


 貴明さんが、軍務で再度北に向かったこと。
 自分もそれを追っていき、今は無事に軍務を終えて帝都に帰ってきたこと。
 貴明さんはもうひとつ昇進し、いずれ都内にお屋敷を構えること。
 その前に、温泉旅行に行ってくること。

 
 帰ってきたら必ず会いましょう、と記された一文を眺め、私はため息を吐きます。

「……幸せそう」

 自宅の書斎で大切な手紙をなぞりながら、私は在りし日のみゆきさんと夫を思い出します。
 あれほど恐ろしい男が、みゆきさんを前にした瞬間に清廉な横顔を取り戻した瞬間を思い出します。
 まるで赤い椿が白くなったかのような、驚愕の変化でした。

 あんなものを見てしまっては、私も二人の仲を引き裂こうとは思いません。
 あの男はみゆきさんでなければ抑えられないのだろうし、生まれつき不運に取り憑かれたみゆきさんだからこそ、あの男の不幸の気配も笑って見過ごせるのでしょう。

 私は深い深いため息を吐いて、返事を書くために万年筆を手に取ります。
 あなたの横にいる権利は奪われてしまいましたが、私はずっと、あなたのものです。

 そのことを控えめに匂わせるために、せいぜいペンを走らせましょう。
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