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第六章 死神を斬る
54 百日目【1】
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黒々と広がる海に、低く、長く、船の汽笛が響いていく。
明慈三十六年、三月十八日。
貴明の百日の余命が尽きる最後の日。
瀬禅貴明は蒸気貨客船上にいた。
本州の最北端と北方を繋ぐ連絡船の、覆甲板だ。
(最後の最後で、戻ってきてしまった)
視界に広がるのは寒々しく陰鬱な景色であった。
三月と言えど北の海はまだまだ冬を引きずっている。
重たい雪雲から舞い落ちる雪が寒風に乗り、横殴りに吹き付けてくる感覚。
懐かしいな、と、貴明は思う。
北方で戦っていたのはたったの一年なのに、この落ち着く感覚はなんだろう。
帝都に、みゆきの側にいた時間は甘やかなものだったが、常にどこか借り物のような思いがあった。
今はきちんと、自分の両足で立っている。
(俺は、北方に魂を置いてきたのかもしれない。魂を失ったまま、百日間の夢をみたのだ)
そう思いはすれど、帝都で過ごした日々に後悔はない。
夢は夢でも、間違いなく美しい夢であった。
貴明は剣帯を見下ろす。
組長から借り受けた刀には、みゆきの作ったお守りが揺れている。
そこだけがほんのりと温かい気がして、自然と貴明の頬が緩む。
(ありがとう、みゆき)
心の中で礼を言い、貴明は手袋をした指でゆっくりとお守りの紐をほどいた。
みゆきは己のことを不器用だと言うけれど、彼女の細工物はどれも不思議と温かい。
戦場で殺意と悪意だけの存在になりかけたときも、これを見れば不思議なくらい戻ってこられた。
貴明はお守りをぎゅっと握ってから、遠く海面へと投げた。
明るい赤のお守りが海面に消えると、一瞬自分も冷水に浸かったような気分になる。
(……みゆき。絶対についてくるなよ)
貴明は強く念じた。
――直後、背後から声がかかる。
「春の雪ですなあ」
貴明は、ちらり、と視線だけで相手の気配を探った。
この甲板は後方部分に一等船室が設けられており、そちら側の通路には屋根もついている。
吹きっさらしの艦首方面に立っている物好きは、貴明だけのはずだった。
背後の人影は、一体いつの間に現れたのか。
上等な外套を着た洋装の紳士が、ステッキを突いて貴明を見ているようだ。
「……この時期の雪など、北方では珍しくないでしょう。俺に、何か?」
貴明はそっけなく答え、振り返ることもしなかった。
紳士は帽子のつばに手をやり、整った口ひげの下でほほえむ。
「失礼。少佐殿のようですが、どこの所属かと思いまして。そら、士官殿が今時単身で函盾へ向かわれるのは、珍しいでしょう? 旅行ではあり得ないし……北方でどこかの隊長さんが亡くなって、交代されるのかな?」
「機密事項です。民間人は引っこんだほうがいい」
「おやおや。お若いのに、ずいぶん恐ろしい声を出す」
くくっ、と喉の奥で紳士が笑う。
男とも、女ともつかない、奇妙な声で。
「…………」
貴明はしばし黙りこむ。
寒風が悲鳴のような音を立てて吹きすさび、軍用マントをばたばたと煽る。
「あら、怒りました? こわいこわい。うふ、ふ、あはははははは!」
何が面白いのか、背後の紳士は笑い続ける。
貴明は何気ない様子で、軍服の襟に触れた。
襟の裏には、硬い針のようなものが縫い込んである。
北の地で拾い上げてきた、化け物のまき散らす針の欠片だ。
貴明は、振り返る。
同時に、襟から取り出した針を紳士に向かって投擲した。
とんっ、と気持ちのよい手応えがあり、針は笑う紳士の口中に刺さる。
「あが?」
紳士はびっくりしたように目を瞠り、刺さった針を見ようと目をぎょろつかせる。
貴明は軍刀の柄に手をかけ、相手をねめつけた。
「――下手くそな人間のふりはよせ」
「っ、ふへ、はは」
紳士は笑い、口の中に無造作に指を突っこむ。
つうっと抜いた針を甲板に放り投げると、にこにこと首をかしげた。
「酷い挨拶だなあ。わたし、ちゃんとあなたとの約束を守っているじゃないですか。あなたに寿命をあげた。帝都に帰してもあげた。結婚もできたんですって? おめでとう!」
わざとらしく拍手をして見せる紳士の顔は、いつの間にやら真っ白だ。
顔色も、髪も、まつげも、何もかもが白い。
口ひげは消え、顔は一気に年齢不詳となり、男とも女ともつかない、奇妙な容貌に成り果てている。
明慈三十六年、三月十八日。
貴明の百日の余命が尽きる最後の日。
瀬禅貴明は蒸気貨客船上にいた。
本州の最北端と北方を繋ぐ連絡船の、覆甲板だ。
(最後の最後で、戻ってきてしまった)
視界に広がるのは寒々しく陰鬱な景色であった。
三月と言えど北の海はまだまだ冬を引きずっている。
重たい雪雲から舞い落ちる雪が寒風に乗り、横殴りに吹き付けてくる感覚。
懐かしいな、と、貴明は思う。
北方で戦っていたのはたったの一年なのに、この落ち着く感覚はなんだろう。
帝都に、みゆきの側にいた時間は甘やかなものだったが、常にどこか借り物のような思いがあった。
今はきちんと、自分の両足で立っている。
(俺は、北方に魂を置いてきたのかもしれない。魂を失ったまま、百日間の夢をみたのだ)
そう思いはすれど、帝都で過ごした日々に後悔はない。
夢は夢でも、間違いなく美しい夢であった。
貴明は剣帯を見下ろす。
組長から借り受けた刀には、みゆきの作ったお守りが揺れている。
そこだけがほんのりと温かい気がして、自然と貴明の頬が緩む。
(ありがとう、みゆき)
心の中で礼を言い、貴明は手袋をした指でゆっくりとお守りの紐をほどいた。
みゆきは己のことを不器用だと言うけれど、彼女の細工物はどれも不思議と温かい。
戦場で殺意と悪意だけの存在になりかけたときも、これを見れば不思議なくらい戻ってこられた。
貴明はお守りをぎゅっと握ってから、遠く海面へと投げた。
明るい赤のお守りが海面に消えると、一瞬自分も冷水に浸かったような気分になる。
(……みゆき。絶対についてくるなよ)
貴明は強く念じた。
――直後、背後から声がかかる。
「春の雪ですなあ」
貴明は、ちらり、と視線だけで相手の気配を探った。
この甲板は後方部分に一等船室が設けられており、そちら側の通路には屋根もついている。
吹きっさらしの艦首方面に立っている物好きは、貴明だけのはずだった。
背後の人影は、一体いつの間に現れたのか。
上等な外套を着た洋装の紳士が、ステッキを突いて貴明を見ているようだ。
「……この時期の雪など、北方では珍しくないでしょう。俺に、何か?」
貴明はそっけなく答え、振り返ることもしなかった。
紳士は帽子のつばに手をやり、整った口ひげの下でほほえむ。
「失礼。少佐殿のようですが、どこの所属かと思いまして。そら、士官殿が今時単身で函盾へ向かわれるのは、珍しいでしょう? 旅行ではあり得ないし……北方でどこかの隊長さんが亡くなって、交代されるのかな?」
「機密事項です。民間人は引っこんだほうがいい」
「おやおや。お若いのに、ずいぶん恐ろしい声を出す」
くくっ、と喉の奥で紳士が笑う。
男とも、女ともつかない、奇妙な声で。
「…………」
貴明はしばし黙りこむ。
寒風が悲鳴のような音を立てて吹きすさび、軍用マントをばたばたと煽る。
「あら、怒りました? こわいこわい。うふ、ふ、あはははははは!」
何が面白いのか、背後の紳士は笑い続ける。
貴明は何気ない様子で、軍服の襟に触れた。
襟の裏には、硬い針のようなものが縫い込んである。
北の地で拾い上げてきた、化け物のまき散らす針の欠片だ。
貴明は、振り返る。
同時に、襟から取り出した針を紳士に向かって投擲した。
とんっ、と気持ちのよい手応えがあり、針は笑う紳士の口中に刺さる。
「あが?」
紳士はびっくりしたように目を瞠り、刺さった針を見ようと目をぎょろつかせる。
貴明は軍刀の柄に手をかけ、相手をねめつけた。
「――下手くそな人間のふりはよせ」
「っ、ふへ、はは」
紳士は笑い、口の中に無造作に指を突っこむ。
つうっと抜いた針を甲板に放り投げると、にこにこと首をかしげた。
「酷い挨拶だなあ。わたし、ちゃんとあなたとの約束を守っているじゃないですか。あなたに寿命をあげた。帝都に帰してもあげた。結婚もできたんですって? おめでとう!」
わざとらしく拍手をして見せる紳士の顔は、いつの間にやら真っ白だ。
顔色も、髪も、まつげも、何もかもが白い。
口ひげは消え、顔は一気に年齢不詳となり、男とも女ともつかない、奇妙な容貌に成り果てている。
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