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第五章 幸せの刻限

35 悋気 ♡

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 見れば、ナオはみゆきと貴明の様子に当てられたのだろう。
 照れたように顔をそらしていた。

 ナオは、あわあわして言い訳の言葉を探す。

「あっ、ご、ごめんなさい、その、ひ、人前で、はしたなくて……!」

「い、いえいえいえいえ、その、はしたないで言えば、ここまでついてきた私のほうが自分の欲望を制御できていないと申しましょうか!」

「よ、欲望? ナオさんの欲望って、一体……?」

「言えません言えません言えません、言うくらいなら切腹いたします!」

「ダメよ! 冗談でもそんなことを言ってはダメ! ダメですよね、貴明さん!」

 慌てふためいたみゆきは、うっかり貴明に話をふってしまう。
 貴明はみゆきとナオを微笑んで見下ろしていたが、ふと改めてナオに向き直った。

「囃田さん」

「は、はいっ! 申し訳ございませんでした!」

 なぜか、直角にお辞儀をするナオ。
 貴明はすっと片膝をつき、お辞儀をしたナオの顔を見上げて言う。

「いつも、不運からみゆきを守ってくれて、ありがとう」

「へっ!?」

 ナオは素っ頓狂な声を出して固まった。
 みゆきは目の前の光景にびっくりしてしまって、これまた固まっている。

 周囲の女学生たちはざわついていた。
 それはそうだろう。傍目には、貴明がナオに求愛しているようにも見える図だ。

(……もやもや、する)

 もやもやが一瞬ひどく強まり、みゆきはナオの手を離して両手を握り合わせた。
 ナオのことは家でも話したことがある。いつも不運から守ってくれるのだ、という話もした。
 だから、貴明の態度はけしておかしくはないのだけれど……。

(おかしいのは、私のほうだわ)

 貴明はそんなみゆきを視界の端に入れたまま、ナオに言う。

「ここからは、俺に任せてもらえるね?」

「は、はい……」

 ナオはぎくしゃくと頷き、ふ、と息を吐いた。
 諦めがついたような顔で、ナオは一歩、二歩、後ろへ下がる。

「お気をつけて」

 そう言って小さく手を振ってもらうと、みゆきの胸のつかえは、すとんと落ちた。
 代わりに、大人げなかったかな、という淡い後悔が湧いてきて、せっせとナオに手を振る。

「ナオさん、また明日ね。明日も、お話しましょうね」

「もちろんです、お姉様!」

 貴明は軽く膝を払って立ち上がり、みゆきに声をかけた。

「では、帰ろうか」

「はい!」

 みゆきは大きくうなずき、貴明の半歩後ろからついていく。
 貴明の歩幅はみゆきの倍もありそうだったが、ついていくのは苦ではなかった。

(加減してくださっているのだわ)

 そう思うと、胸の辺りがほんのりと温まる。
 さっきまでそこがもやもやしていたなどと、嘘のようだ。
 この気持ちを伝えたい、とみゆきは思う。
 何を言っていいのか、具体的にわかっているわけではないのだが、伝えたいのだ。

 人力車や自転車が行き来する道の端を歩きながら、みゆきは貴明の背中に声をかける。

「貴明さん……」

「妬いたかい?」

「えっ! あ、あの」

 予想外の科白が返ってきて、みゆきは目を白黒させてしまった。
 貴明はどこかいたずらめいた視線を肩越しに投げて、微笑んでいる。

「違うのかな。俺は年中妬いているが」

「た、貴明さんが、やきもちですか!? 私、このとおり子どもっぽい見た目ですし、貴明さん以外の殿方とは話す機会もめったにありません。あ、もちろん、組の者たちは別ですけれど」

「…………」

「貴明さん……わぷ!」

 返事がこないので、なんだろう、と思っていると、貴明が不意に立ち止まった。
 勢い余って貴明の背中にぶつかったみゆきは、慌てて後ろへ下がろうとする。
 その手を、貴明がつかむ。

「あ」

 気付けば引き寄せられて、耳元で囁かれた。

「みゆき。これは言わないでおこうと思ったけれど……家に帰るまで、なるべくうつむいていなさい」

「うつむいて……? 私、どこかおかしいです、か?」

 問いを投げながら、みゆきは心臓が抑えようもなく高鳴るのを感じている。
 貴明の顔がすぐ側にある。その息が耳朶にかかる。
 それだけで、みゆきの体は毎夜の責めを思い出してしまう。
 ほう、と熱い息を吐いたのとほとんど同時に、貴明が告げる。

「あらゆる男どころか、雄犬でも『ここに突っこみたい』と思うような表情をしているよ」

「……!」

 みゆきは息を呑んで棒立ちになった。
 貴明の手が、軍用マントの陰でするりと腹を撫でていく。

(あ……)

 睦言のように囁かれた、酷い科白。なのに、けして、嫌ではなくて。
 腹の奥がずくん……と重く、熱くなる。
 頭がくらくらっとして、まるで呪術にでもかけられたかのようだ。

 下腹部に宿った熱は、すぐには去らない。それどころかあっというまに温度を上げて、じわじわとみゆきの全身を熱くする。さらに足の間にわずかな潤いがもたらされ始めたのを感じ、みゆきは唇を震わせた。

 今のみゆきなら、これが何を意味しているのかはよくわかる。
 体が、貴明を招き入れたがっているのだ。

(嘘……こんな、外で、私)

 羞恥心で顔が火を噴いたようになり、みゆきは必死に下を向いた。
 貴明はマントの中にみゆきをかばうようにして周囲の視線を遮断しながら、ひどく優しい声を出す。

「かわいいみゆき。家まで、もう少しの我慢だからね」

 みゆきはもはや声を出すこともできず、どうにかうなずくだけだった。
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