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「…………」
「あのっ、そこの方~?」
思い悩んでいると、背後からふわっとした声がかかった。
ぎょっとして振り返る。
そこには、場末の居酒屋にはまったく似合わない女がいた。
変装用であろう、大きすぎる男物のフードつき外套をまとっても、まろやかな体のラインとふわふわの髪、薬草の草色に染まった指先はかくせない。
「お前は……」
「やっぱり! あなたでしたわねぇ」
目深にかぶったフードの下で、聖女リリアがにっこりと笑う。
わたしはぎゅっと眉根を寄せた。彼女は宮廷付きの聖女。宮殿の癒やし処を空にすることはめったにないはずだ。周囲を見渡してみても、供らしい者の姿もない。
「なぜこんなところにいるのだ、聖……」
「しーっ! せっかく変装してるんですから、役職名は控えてくださいますぅ?」
「控えるのは構わんが……ここはあなたにふさわしい店とは思えない。何をしにきた」
「あなたを追って来たにきまってるじゃないですかぁ」
即答するリリア。
一体どういう意味だ、と、わたしは彼女を見下ろした。
いつものんびりした風を装う彼女だが、瞳の奥には情熱の炎を秘めたひとだ。今は情熱の他に、焦りとも怒りともつかないものが燃えている気がする。
ぶわり、と、嫌な予感が湧き上がってきた。
「あちら……上で、何かあったのか」
湧き出る焦りを呑みこもうとしながら、わたしはリリアを問いただす。
上、は、宮殿の隠語だ。下町の人々は宮殿のことを「上」、宮殿に仕える我々のことを「上の人」などと呼ぶ。
リリアもそれを知っていたのか、こくりとうなずいた。
「あなた、従者さんを部屋に閉じこめて、抜け出してきたでしょう?」
どきりと胸が痛む。
エレナのことだ。
従者というのは、宮殿に残してきた、エレナのことに違いない。
廊下での一件があって以来、わたしとエレナはぎくしゃくしていた。というか、わたしが一方的にエレナと視線を合わせられない日々が続いていたのだ。そんな日々に息詰まってしまい、私は宮殿を抜け出した。エレナにはくれぐれも部屋を出るなと言いつけてあったはずだが――。
わたしは思わず、リリアの腕を掴んだ。
「何か、あったのか」
リリアはわたしを見つめたまま、微動だにせずに言う。
「早く戻って下さい。大家さんが、言いがかりをつけて彼女を連れて行きました」
「……!!」
一瞬頭が真っ白になった。
灰色の衣の占い師が、横から首をつっこんでくる。
「え、『上』の大家さんって、あれ? 皇帝陛下ってこ……むぐ」
わたしは大急ぎで占い師の口を塞ぎ、エレナに押さえた声を投げた。
「どのような言いかがりだったのだ。彼女は無事か。あなたはなぜそれを知った? もしかして彼女は……喜んで皇帝のもとに向かったのか……? もしも合意であったなら、私ごときが口を出すことでは……」
「はあ? ちょっと、何をおっしゃってるかわからないですねぇ」
リリアはきゅーっと目を細めて笑う。
その姿からすさまじい暗いオーラが発せられた気がして、私は唾を呑みこんだ。
リリアは笑みを消さないまま背伸びをし、わたしの耳元に囁く。
「エレナは毅然として皇帝陛下を拒んでいたそうですよぉ? でも、お前が逆らえばヴィンセントを殺す、と言ったら、すんなり皇帝陛下についていかれました」
「ッ……!」
頭をガツンと殴られたような気分だった。
重く、熱い怒りにぶちのめされかけ、わたしは両足を踏ん張る。
エレナ。エレナ。エレナ。彼女の名前で頭の中が一杯になり、たゆたっていた思考の霧がすーっと晴れていく。
そうだったのだ。
最初から答えは出ていた。認めたくなくて躊躇っていた。
エレナはわたしのことを慕っていて、わたしは、わたしも、エレナを愛している。
猛烈に。強烈に。とてつもなく、愛している。そんな自分の愛が、恐ろしかった。
初めての感情に呑みこまれるのが、怖かった。
恐怖に負けて、わたしは全てを捨ててきた――。
立ち尽くすわたしの腕を、リリアがぽんと叩いてくる。
「ご存じかどうかわかりませんけどぉ、わたくし、最近皇帝陛下と仲がよいのです。エレナと皇帝陛下がデキてしまったら、二人とも刺してしまうかもしれません」
執着の刃をぎらりと光らせるような、リリアの声。だが、今はそれをみっともないとも恐ろしいとも思わない。彼女は自分の愛を知り、自分の愛に殉じる覚悟がある。
わたしより、百倍、一千倍、ましだ。
「恩に着る、聖女殿!」
わたしは彼女の手を取って深々と一礼し、テーブルに小銭を放って居酒屋を駆けだした。
「待って下さい、僕も……」
背後から占い師の声が追ってきたが、もはや誰かを待つような余裕はなかった。
居酒屋の喧噪の外に出ると、ひやりとした風が吹き付けてくる。
空を振り仰ぐ。下町の上、崖の上にそびえ立つ巨大な宮殿は見るからにまがまがしい。本当なら二度と帰りたくない場所だ。だが、わたしは帰る。
お前がいるかぎり、絶対に、帰る。
お前を――もう一度、この手に抱く。
「あのっ、そこの方~?」
思い悩んでいると、背後からふわっとした声がかかった。
ぎょっとして振り返る。
そこには、場末の居酒屋にはまったく似合わない女がいた。
変装用であろう、大きすぎる男物のフードつき外套をまとっても、まろやかな体のラインとふわふわの髪、薬草の草色に染まった指先はかくせない。
「お前は……」
「やっぱり! あなたでしたわねぇ」
目深にかぶったフードの下で、聖女リリアがにっこりと笑う。
わたしはぎゅっと眉根を寄せた。彼女は宮廷付きの聖女。宮殿の癒やし処を空にすることはめったにないはずだ。周囲を見渡してみても、供らしい者の姿もない。
「なぜこんなところにいるのだ、聖……」
「しーっ! せっかく変装してるんですから、役職名は控えてくださいますぅ?」
「控えるのは構わんが……ここはあなたにふさわしい店とは思えない。何をしにきた」
「あなたを追って来たにきまってるじゃないですかぁ」
即答するリリア。
一体どういう意味だ、と、わたしは彼女を見下ろした。
いつものんびりした風を装う彼女だが、瞳の奥には情熱の炎を秘めたひとだ。今は情熱の他に、焦りとも怒りともつかないものが燃えている気がする。
ぶわり、と、嫌な予感が湧き上がってきた。
「あちら……上で、何かあったのか」
湧き出る焦りを呑みこもうとしながら、わたしはリリアを問いただす。
上、は、宮殿の隠語だ。下町の人々は宮殿のことを「上」、宮殿に仕える我々のことを「上の人」などと呼ぶ。
リリアもそれを知っていたのか、こくりとうなずいた。
「あなた、従者さんを部屋に閉じこめて、抜け出してきたでしょう?」
どきりと胸が痛む。
エレナのことだ。
従者というのは、宮殿に残してきた、エレナのことに違いない。
廊下での一件があって以来、わたしとエレナはぎくしゃくしていた。というか、わたしが一方的にエレナと視線を合わせられない日々が続いていたのだ。そんな日々に息詰まってしまい、私は宮殿を抜け出した。エレナにはくれぐれも部屋を出るなと言いつけてあったはずだが――。
わたしは思わず、リリアの腕を掴んだ。
「何か、あったのか」
リリアはわたしを見つめたまま、微動だにせずに言う。
「早く戻って下さい。大家さんが、言いがかりをつけて彼女を連れて行きました」
「……!!」
一瞬頭が真っ白になった。
灰色の衣の占い師が、横から首をつっこんでくる。
「え、『上』の大家さんって、あれ? 皇帝陛下ってこ……むぐ」
わたしは大急ぎで占い師の口を塞ぎ、エレナに押さえた声を投げた。
「どのような言いかがりだったのだ。彼女は無事か。あなたはなぜそれを知った? もしかして彼女は……喜んで皇帝のもとに向かったのか……? もしも合意であったなら、私ごときが口を出すことでは……」
「はあ? ちょっと、何をおっしゃってるかわからないですねぇ」
リリアはきゅーっと目を細めて笑う。
その姿からすさまじい暗いオーラが発せられた気がして、私は唾を呑みこんだ。
リリアは笑みを消さないまま背伸びをし、わたしの耳元に囁く。
「エレナは毅然として皇帝陛下を拒んでいたそうですよぉ? でも、お前が逆らえばヴィンセントを殺す、と言ったら、すんなり皇帝陛下についていかれました」
「ッ……!」
頭をガツンと殴られたような気分だった。
重く、熱い怒りにぶちのめされかけ、わたしは両足を踏ん張る。
エレナ。エレナ。エレナ。彼女の名前で頭の中が一杯になり、たゆたっていた思考の霧がすーっと晴れていく。
そうだったのだ。
最初から答えは出ていた。認めたくなくて躊躇っていた。
エレナはわたしのことを慕っていて、わたしは、わたしも、エレナを愛している。
猛烈に。強烈に。とてつもなく、愛している。そんな自分の愛が、恐ろしかった。
初めての感情に呑みこまれるのが、怖かった。
恐怖に負けて、わたしは全てを捨ててきた――。
立ち尽くすわたしの腕を、リリアがぽんと叩いてくる。
「ご存じかどうかわかりませんけどぉ、わたくし、最近皇帝陛下と仲がよいのです。エレナと皇帝陛下がデキてしまったら、二人とも刺してしまうかもしれません」
執着の刃をぎらりと光らせるような、リリアの声。だが、今はそれをみっともないとも恐ろしいとも思わない。彼女は自分の愛を知り、自分の愛に殉じる覚悟がある。
わたしより、百倍、一千倍、ましだ。
「恩に着る、聖女殿!」
わたしは彼女の手を取って深々と一礼し、テーブルに小銭を放って居酒屋を駆けだした。
「待って下さい、僕も……」
背後から占い師の声が追ってきたが、もはや誰かを待つような余裕はなかった。
居酒屋の喧噪の外に出ると、ひやりとした風が吹き付けてくる。
空を振り仰ぐ。下町の上、崖の上にそびえ立つ巨大な宮殿は見るからにまがまがしい。本当なら二度と帰りたくない場所だ。だが、わたしは帰る。
お前がいるかぎり、絶対に、帰る。
お前を――もう一度、この手に抱く。
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