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終章 名前を呼んで、魔法を解いて
70話 名前を呼んで、魔法を解いて(終)
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「うへぇ……疲れたよぉぉ……」
時計の針が午後10時を回った頃、アンはよろよろと客室に戻ってきた。
早朝から結婚式の準備をし、慣れないウェディングドレスを着て式に臨み、そして数時間に及ぶ宴への参加。体力にはそれなりに自身のあるアンであるが、今日ばかりはへろへろだ。
勢いよくベッドに飛び込めば、まっさらなシーツからはお日様の香りがする。バーバラがアンのために整えてくれたベッドだ。借り物のネグリジェワンピースもさらさらとしていて気持ちいい。
幸せぇ、アンは枕に顔を埋めてうっとりとつぶやいた。
本日めでたく結婚式を終えたアンであるが、まだ正式にアーサー邸の住人となったわけではない。というのもこれからアンが暮らしていくはずの部屋の準備が、まったくと言っていいほど進んでいないからだ。ドレスフィード邸からの荷物の運び込みすら済んでいない。
遅延の理由は多忙。皆が結婚式の準備に忙しく、アンの引っ越しにまで手が回らなかったということ。
アンがこうして客室で寝泊まりをしているのはそういう事情だ。
けれども今となってしまえば、引っ越しが遅れたことは幸いとも言うべきかもしれない。なぜならアンがこのアーサー邸で過ごす期間は、あまり長くはないと予想されるからだ。
鬼才復活の噂が国王フィルマンの耳に入れば、アーサーを宮殿に呼び戻されるだろう。次期国王候補の一人として、王位継承争いに復帰しなければならないからだ。
そうすればアーサーの妻となったアンも、必然的に宮殿に住まいを移さざるをえない。
「宮殿……どんな所なのかな。あたし、上手くやっていけるのかなぁ」
ふわふわの枕に顔を埋めたまま、アンはぽつりとつぶやいた。
アーサーの復活は皆が望んだ未来、けれども先行きは不安でいっぱいだ。10年間王位継承争いから離れていたアーサーが、今後どのような扱いを受けるのか、という心配はもちろんある。
そして何よりアンを不安にするものは、アン自身の能力不足だ。ダンスはできない、楽器は弾けない、乗馬や社交技術は最低限。何の取柄もないアンが、王族の一員として上手くやっていけるのだろうか。
考えれば考えるほど不安は募る。
「おいアン、何ぶつぶつ言ってんだ」
「み、みぎゃあああっ!」
突然耳元で聞こえた声に、アンは猫のような悲鳴をあげた。
首がもげんばかりの勢いで振り返って見れば、ベッドの脇にはグレンが立っていた。髪が濡れているから、どうやら湯上がりに客室へと立ち寄ったようだ。
アンは声を上ずらせた。
「グ、グレン。部屋に入るならノックしてよ。びっくりしたよ」
「ノックならしたっつぅの。返事がなかったら勝手に入るしかないだろ」
――返事がなかったら、普通は部屋に入らないんじゃないの?
真っ当な意見を口にはしないアンである。
「もう宴会は終わったの?」
「まだ。先に抜けてきたんだ。お前に用事があったから」
「用事?」
「明日宮殿に行く。王位継承争いに復帰することを伝えなきゃならねぇから。お前、まだ国王への挨拶が済んでいないだろ。一緒に行こうぜ」
しれっと伝えられたとんでもない予定に、アンはさらに声を上ずらせた。
「あ、あたしも一緒に行くの……? 国王様のところに……?」
「そりゃあ、結婚相手の両親には挨拶を済ませることが普通じゃねぇ? ちょっと順番は前後しちまったけどさ」
「それは……確かにそうだね。でもフィルマン殿下はすぐに信じてくれるかな。グレンが本物のアーサーだって」
「それは多分大丈夫だと思うぜ。俺、割と父親似だからさ。目の色は母親譲りだし、見る人が見ればすぐにわかる」
グレンが自身の目元を指さすので、アンはその瞳を覗き込んだ。グレンの瞳は澄んだ泉を思わせる碧色。今まで気にもかけなかったけれど、言われてみれば珍しい色だ。
「わかった。朝一番で準備すればいいかな?」
アンが緊張気味で質問すれば、グレンはのんびりと返事をした。
「ゆっくりでいーよ。どうせ明日は早起きできないぜ。皆たらふく飲んでるからさ。午後一番で出発できれば御の字かな」
「オッケー。でも一応、今夜は早めに寝ることにするよ。用事はそれだけかな?」
「いんや、もう一つ」
ベッドに腰を下ろしたグレンは、さも自然な動作でアンの腰を抱き寄せた。
寝間着越しに感じる人の温かさ。
アンはきょとんとグレンの顔を見上げた。
「……何?」
「何って何? 新婚夫婦が結婚式の夜にすることって、他に何かあんの?」
あっけらかんと言い放たれて、アンは言葉に詰まった。
アンとグレンにとって今日は初めての夜ではない。朽ち果てた聖堂で初体験はしっかりと済ませてしまったからだ。
けれども今日は結婚初日、これから訪れる夜は2人にとって特別な夜だ。人はその夜を『新婚初夜』などと呼ぶ。
「まぁ、疲れてるんなら明日でもいいけどさー。どうせこれから一緒に暮らすんだし。バーバラに頼んで寝室も一緒にしてもらうつもりだし」
などとは言いながらも、グレンの手のひらは仕切りにアンの腰回りを撫でる。寝間着越しに伝わる手のひらの温もりに、アンの背中にはぞくぞくとした快感が走る。
グレンに対する溢れんばかりの愛情を自覚してしまった今、その快感に抗うことなどできはしない。
「さぁ、どうする?」
グレンの問いかけに、アンはぷくりと頬を膨らませた。
「……する」
***
灯りを落とした部屋の中に、2人分の吐息がこだまする。毛布の中へと潜り込んだアンとグレンは、舌を絡ませ唾液を絡ませ、息つく間もなくキスをする。
激しいキスの最中に、グレンはアンにささやきかけた。
「下手くそ。繁華街の貴公子の名は伊達か?」
思いもよらぬ酷評に、アンは顔を真っ赤にしてグレンの肩先を押し返した。
「し、仕方ないじゃん! あたし、こういうキスは初めてだもん! 女の子相手にはお上品なキスしかしなかったんだもん!」
「俺のキスは上品じゃない、みたいな言い方すんじゃねーよ」
そしてまた触れるだけのキスをして、顔を見合わせて笑った。
濃厚なキスを終えた後は、思うままに互いの身体に触れた。アンはグレンの背中を愛おしむように撫で、グレンはアンの胸元をやわやわと揉みしだく。
疼くような快楽の中、アンはふとあることに気が付いてグレンの黒髪に触れた。
「もしかしてだけどさ……。グレン、今も変貌魔法を使ってる?」
グレンは愛撫の手を止めることなく、曖昧に答えた。
「んー……何でそう思う?」
「だってティルミナ王国の王族は金の髪を持つはずだよね。ユリウスの髪も亜麻色から金色に変えていたし……グレンの髪も、本当は金色なの?」
己の肉体を自由自在に変化させる変貌魔法は、訓練次第では肌や髪の色を変えることも可能だと言われている。
アンは会得していない領域であるが、グレンが人々の目をごまかすために髪の色を変えていたとしても不自然ではないのだ。
グレンは少し考えた後、ふっと表情を緩ませた。
「大当たり。あと顔も少し変えている。さっきも言ったけど俺は父親似だからさ。いくらユリウスを代理にしているとはいえ、見る者が見れば俺が本物のアーサーだとわかっちまう。本物なのはこの碧い目だけさ。どんな高度な魔法を使っても、目の色だけは変えられないから」
第2王子であるオリヴァーがアーサー邸を訪れたとき、接待役のグレンは色付きサングラスをかけていた。当時のアンはかすかな疑問を感じたけれど、あのサングラスは目の色をごまかすための物だったのだ。
ヘレナから譲り受けた碧い眼を見られては、グレンが本物のアーサーだと気付かれる可能性があったから。
髪の色を変えても顔立ちを変えても、美しい碧眼は人の記憶に強く焼きつくだろうから。
アンはグレンの頬を撫でた。
魔法に隠された素顔を見てみたいと思った。
「グレン、魔法を解いてよ。本当の姿を見せて?」
アンのささやきには、すぐに答えが返ってきた。
「お前が解けよ、俺にかかった魔法をさ」
「どうやって?」
「名前を呼べばいいのさ。俺の本当の名前を」
「本当の名前って……アーサー? あれ、でも結婚式の最中に名前を呼ばれていなかった?」
本当の名前を呼ばれれば魔法が解ける。それは完全無欠とも言える変貌魔法の、唯一にして最大の弱点だ。
かつてクロエの協力要請を断ったアンドレは、本当の名前を呼ばれて変貌魔法を解かれた。今となっては懐かしい記憶だ。
グレンの本当の名前を呼べば、確かに変貌魔法を解くことができるだろう。しかし思い返してみれば、グレンは結婚式の最中に本名を呼ばれているはずだ。
そのときだけではない。アーサーの名は今までに何人もの人が口にしている。グレンの本名がアーサー・グランドならば、名前を呼ばれたそのときに魔法が解けているはずなのだ。
不思議顔のアンに、グレンはゆっくりと語る。
「そもそも変貌魔法自体が希少な魔法だからさぁ、一般的には知られていないことなんだけど。変貌魔法を解く鍵である『本当の名前』は『生まれたときの名前』を指すんだ。俺は元々庶子だから、生まれたときは母親の姓を名乗っていた」
「……グレンのお母さんは……ヘレナさんだっけ? 元々の姓は何というの?」
グレンはさらりと答えた。
「オルグレン」
アンはぱちぱちと数度まばたきをした。
「オル……グレン?」
「そ。ヘレナ・オルグレン。俺の母親の名前」
「……グレンじゃん」
「グレンだよ。文句あっか」
グレンはつんと唇を尖らせた。その表情が拗ねた子どものようで、アンは思わず吹き出してしまう。
アンは自身の分身にアンドレと名付けた。アン・ドレスフィードだからアンドレ。姿かたちを別人のように変えても自分の名前は捨てられなかった。
グレンも同じだったのだ。別人になりたいと願っても、別人として生きる決意をしても、己の全てを捨て去ることはできなかった。
だから名前を呼ばれるたびにアーサーであった日々を思い出すように、大好きな母を忘れないように、新しい自分にグレンと名付けた。
アン、と優しい声がした。
吐息のかかる場所にグレンの顔があった。
「名前を呼んで、魔法を解いて」
アンは迷うことなく、その名前を口にした。
「アーサー・オルグレン」
次の瞬間、グレンの身体はばらばらと崩れ落ちた。まるで浜辺に作った砂の城が崩れ行くように。グレンを形作っていた小さなたくさんの小さな粒は、生き物のようにさらさらと宙を舞って、そしてまた徐々に人の形となる。
アンは瞬き一つすることなく、グレンの姿かたちが変わる様を眺めていた。
宙を舞う砂粒の最後の1粒があるべき場所に収まったとき、そこにいたのはグレンと変わらない身体つきの青年だ。
しかしその顔は、元のグレンの顔とは大分違う。絹糸のように滑らかな金の髪、長いまつ毛に覆われた碧色の瞳。薄く開かれた唇は、少女のように柔らかな薄桃色だ。
王子様だ、とアンは思った。
おとぎ話に登場する王子様。変身後のグレンの顔立ちを彗星に例えれば、今のグレンは柔らかな光を放つ満月だ。闇夜を照らす金色の満月、思わずうっとりと見惚れてしまうほどに美しい。
「……どう? 俺の素顔」
不安そうな表情のグレンが尋ねられ、アンははっと我に返った。
「格好いいっちゃ格好いいけど……あたしは変身後のグレンの顔が好きだなぁ。目元がきりっとしていて彗星みたいでさ。今のグレンは王子様みたいだね。王子様顔のグレンって何か変な感じ。だって性格は王子様というよりもチンピラ……い、痛いいひゃい。ほっへはほぇる」
「口の減らねぇ野郎だなぁ、おい。そこは『素顔の方が100倍素敵ね』、だろ?」
アンはひりひりと痛む頬を押さえ、叫んだ。
「あ、あたしがそんなこと言ったら明日は嵐がくるよ! 向き不向きをよく考えてよ!」
こうしてグレンにほっぺたをもがれそうになるのは、もう数度目のこと。しかし慣れたところで痛いものは痛い。
「どうせ俺は王子様顔のチンピラさ、好きに言え。だがもしも俺が次期国王の座に就けば、お前は王妃様だぜ。アンが王妃、超似合わねぇ」
グレンがけらけらと声を立てて笑うものだから、アンはきょとんと目を丸くした。
色々なことが一気に起こりすぎて、そんなことは考えもしなかった。しかし鬼才アーサーが王位継承争いに復帰するということは、アーサーがフィルマンに次ぐ次期国王となる可能性はあるというわけで。
もしもそうなったとすれば、アーサーの妻であるアンは自動的に次期王妃となるわけで。
「グレンは……王様になりたいの?」
「さぁ、どうだろう。……なるかもよ?」
アンの鼻先でグレンはにんまりと笑った。
その悪戯げな笑みは、顔の作りは違えどアンのよく知るグレンのもの。姿かたちは変わっても心はグレンのままだと安心した。
抱き合ってキスをする。汗も唾液も混じり合って、心も身体も絡まり合って、蕩けるような幸福に溺れていく。
王国の片隅にある小さな邸宅の一室で、新たな物語が紡がれていく。まだ表紙すらないその物語は、やがては夜空を照らす流星群のように、王国中に希望の雨を降らせるだろう。
物語は紡がれる
彗星のように魔法のように
まばゆいばかりの耀きを放ちながら
Happy end.
時計の針が午後10時を回った頃、アンはよろよろと客室に戻ってきた。
早朝から結婚式の準備をし、慣れないウェディングドレスを着て式に臨み、そして数時間に及ぶ宴への参加。体力にはそれなりに自身のあるアンであるが、今日ばかりはへろへろだ。
勢いよくベッドに飛び込めば、まっさらなシーツからはお日様の香りがする。バーバラがアンのために整えてくれたベッドだ。借り物のネグリジェワンピースもさらさらとしていて気持ちいい。
幸せぇ、アンは枕に顔を埋めてうっとりとつぶやいた。
本日めでたく結婚式を終えたアンであるが、まだ正式にアーサー邸の住人となったわけではない。というのもこれからアンが暮らしていくはずの部屋の準備が、まったくと言っていいほど進んでいないからだ。ドレスフィード邸からの荷物の運び込みすら済んでいない。
遅延の理由は多忙。皆が結婚式の準備に忙しく、アンの引っ越しにまで手が回らなかったということ。
アンがこうして客室で寝泊まりをしているのはそういう事情だ。
けれども今となってしまえば、引っ越しが遅れたことは幸いとも言うべきかもしれない。なぜならアンがこのアーサー邸で過ごす期間は、あまり長くはないと予想されるからだ。
鬼才復活の噂が国王フィルマンの耳に入れば、アーサーを宮殿に呼び戻されるだろう。次期国王候補の一人として、王位継承争いに復帰しなければならないからだ。
そうすればアーサーの妻となったアンも、必然的に宮殿に住まいを移さざるをえない。
「宮殿……どんな所なのかな。あたし、上手くやっていけるのかなぁ」
ふわふわの枕に顔を埋めたまま、アンはぽつりとつぶやいた。
アーサーの復活は皆が望んだ未来、けれども先行きは不安でいっぱいだ。10年間王位継承争いから離れていたアーサーが、今後どのような扱いを受けるのか、という心配はもちろんある。
そして何よりアンを不安にするものは、アン自身の能力不足だ。ダンスはできない、楽器は弾けない、乗馬や社交技術は最低限。何の取柄もないアンが、王族の一員として上手くやっていけるのだろうか。
考えれば考えるほど不安は募る。
「おいアン、何ぶつぶつ言ってんだ」
「み、みぎゃあああっ!」
突然耳元で聞こえた声に、アンは猫のような悲鳴をあげた。
首がもげんばかりの勢いで振り返って見れば、ベッドの脇にはグレンが立っていた。髪が濡れているから、どうやら湯上がりに客室へと立ち寄ったようだ。
アンは声を上ずらせた。
「グ、グレン。部屋に入るならノックしてよ。びっくりしたよ」
「ノックならしたっつぅの。返事がなかったら勝手に入るしかないだろ」
――返事がなかったら、普通は部屋に入らないんじゃないの?
真っ当な意見を口にはしないアンである。
「もう宴会は終わったの?」
「まだ。先に抜けてきたんだ。お前に用事があったから」
「用事?」
「明日宮殿に行く。王位継承争いに復帰することを伝えなきゃならねぇから。お前、まだ国王への挨拶が済んでいないだろ。一緒に行こうぜ」
しれっと伝えられたとんでもない予定に、アンはさらに声を上ずらせた。
「あ、あたしも一緒に行くの……? 国王様のところに……?」
「そりゃあ、結婚相手の両親には挨拶を済ませることが普通じゃねぇ? ちょっと順番は前後しちまったけどさ」
「それは……確かにそうだね。でもフィルマン殿下はすぐに信じてくれるかな。グレンが本物のアーサーだって」
「それは多分大丈夫だと思うぜ。俺、割と父親似だからさ。目の色は母親譲りだし、見る人が見ればすぐにわかる」
グレンが自身の目元を指さすので、アンはその瞳を覗き込んだ。グレンの瞳は澄んだ泉を思わせる碧色。今まで気にもかけなかったけれど、言われてみれば珍しい色だ。
「わかった。朝一番で準備すればいいかな?」
アンが緊張気味で質問すれば、グレンはのんびりと返事をした。
「ゆっくりでいーよ。どうせ明日は早起きできないぜ。皆たらふく飲んでるからさ。午後一番で出発できれば御の字かな」
「オッケー。でも一応、今夜は早めに寝ることにするよ。用事はそれだけかな?」
「いんや、もう一つ」
ベッドに腰を下ろしたグレンは、さも自然な動作でアンの腰を抱き寄せた。
寝間着越しに感じる人の温かさ。
アンはきょとんとグレンの顔を見上げた。
「……何?」
「何って何? 新婚夫婦が結婚式の夜にすることって、他に何かあんの?」
あっけらかんと言い放たれて、アンは言葉に詰まった。
アンとグレンにとって今日は初めての夜ではない。朽ち果てた聖堂で初体験はしっかりと済ませてしまったからだ。
けれども今日は結婚初日、これから訪れる夜は2人にとって特別な夜だ。人はその夜を『新婚初夜』などと呼ぶ。
「まぁ、疲れてるんなら明日でもいいけどさー。どうせこれから一緒に暮らすんだし。バーバラに頼んで寝室も一緒にしてもらうつもりだし」
などとは言いながらも、グレンの手のひらは仕切りにアンの腰回りを撫でる。寝間着越しに伝わる手のひらの温もりに、アンの背中にはぞくぞくとした快感が走る。
グレンに対する溢れんばかりの愛情を自覚してしまった今、その快感に抗うことなどできはしない。
「さぁ、どうする?」
グレンの問いかけに、アンはぷくりと頬を膨らませた。
「……する」
***
灯りを落とした部屋の中に、2人分の吐息がこだまする。毛布の中へと潜り込んだアンとグレンは、舌を絡ませ唾液を絡ませ、息つく間もなくキスをする。
激しいキスの最中に、グレンはアンにささやきかけた。
「下手くそ。繁華街の貴公子の名は伊達か?」
思いもよらぬ酷評に、アンは顔を真っ赤にしてグレンの肩先を押し返した。
「し、仕方ないじゃん! あたし、こういうキスは初めてだもん! 女の子相手にはお上品なキスしかしなかったんだもん!」
「俺のキスは上品じゃない、みたいな言い方すんじゃねーよ」
そしてまた触れるだけのキスをして、顔を見合わせて笑った。
濃厚なキスを終えた後は、思うままに互いの身体に触れた。アンはグレンの背中を愛おしむように撫で、グレンはアンの胸元をやわやわと揉みしだく。
疼くような快楽の中、アンはふとあることに気が付いてグレンの黒髪に触れた。
「もしかしてだけどさ……。グレン、今も変貌魔法を使ってる?」
グレンは愛撫の手を止めることなく、曖昧に答えた。
「んー……何でそう思う?」
「だってティルミナ王国の王族は金の髪を持つはずだよね。ユリウスの髪も亜麻色から金色に変えていたし……グレンの髪も、本当は金色なの?」
己の肉体を自由自在に変化させる変貌魔法は、訓練次第では肌や髪の色を変えることも可能だと言われている。
アンは会得していない領域であるが、グレンが人々の目をごまかすために髪の色を変えていたとしても不自然ではないのだ。
グレンは少し考えた後、ふっと表情を緩ませた。
「大当たり。あと顔も少し変えている。さっきも言ったけど俺は父親似だからさ。いくらユリウスを代理にしているとはいえ、見る者が見れば俺が本物のアーサーだとわかっちまう。本物なのはこの碧い目だけさ。どんな高度な魔法を使っても、目の色だけは変えられないから」
第2王子であるオリヴァーがアーサー邸を訪れたとき、接待役のグレンは色付きサングラスをかけていた。当時のアンはかすかな疑問を感じたけれど、あのサングラスは目の色をごまかすための物だったのだ。
ヘレナから譲り受けた碧い眼を見られては、グレンが本物のアーサーだと気付かれる可能性があったから。
髪の色を変えても顔立ちを変えても、美しい碧眼は人の記憶に強く焼きつくだろうから。
アンはグレンの頬を撫でた。
魔法に隠された素顔を見てみたいと思った。
「グレン、魔法を解いてよ。本当の姿を見せて?」
アンのささやきには、すぐに答えが返ってきた。
「お前が解けよ、俺にかかった魔法をさ」
「どうやって?」
「名前を呼べばいいのさ。俺の本当の名前を」
「本当の名前って……アーサー? あれ、でも結婚式の最中に名前を呼ばれていなかった?」
本当の名前を呼ばれれば魔法が解ける。それは完全無欠とも言える変貌魔法の、唯一にして最大の弱点だ。
かつてクロエの協力要請を断ったアンドレは、本当の名前を呼ばれて変貌魔法を解かれた。今となっては懐かしい記憶だ。
グレンの本当の名前を呼べば、確かに変貌魔法を解くことができるだろう。しかし思い返してみれば、グレンは結婚式の最中に本名を呼ばれているはずだ。
そのときだけではない。アーサーの名は今までに何人もの人が口にしている。グレンの本名がアーサー・グランドならば、名前を呼ばれたそのときに魔法が解けているはずなのだ。
不思議顔のアンに、グレンはゆっくりと語る。
「そもそも変貌魔法自体が希少な魔法だからさぁ、一般的には知られていないことなんだけど。変貌魔法を解く鍵である『本当の名前』は『生まれたときの名前』を指すんだ。俺は元々庶子だから、生まれたときは母親の姓を名乗っていた」
「……グレンのお母さんは……ヘレナさんだっけ? 元々の姓は何というの?」
グレンはさらりと答えた。
「オルグレン」
アンはぱちぱちと数度まばたきをした。
「オル……グレン?」
「そ。ヘレナ・オルグレン。俺の母親の名前」
「……グレンじゃん」
「グレンだよ。文句あっか」
グレンはつんと唇を尖らせた。その表情が拗ねた子どものようで、アンは思わず吹き出してしまう。
アンは自身の分身にアンドレと名付けた。アン・ドレスフィードだからアンドレ。姿かたちを別人のように変えても自分の名前は捨てられなかった。
グレンも同じだったのだ。別人になりたいと願っても、別人として生きる決意をしても、己の全てを捨て去ることはできなかった。
だから名前を呼ばれるたびにアーサーであった日々を思い出すように、大好きな母を忘れないように、新しい自分にグレンと名付けた。
アン、と優しい声がした。
吐息のかかる場所にグレンの顔があった。
「名前を呼んで、魔法を解いて」
アンは迷うことなく、その名前を口にした。
「アーサー・オルグレン」
次の瞬間、グレンの身体はばらばらと崩れ落ちた。まるで浜辺に作った砂の城が崩れ行くように。グレンを形作っていた小さなたくさんの小さな粒は、生き物のようにさらさらと宙を舞って、そしてまた徐々に人の形となる。
アンは瞬き一つすることなく、グレンの姿かたちが変わる様を眺めていた。
宙を舞う砂粒の最後の1粒があるべき場所に収まったとき、そこにいたのはグレンと変わらない身体つきの青年だ。
しかしその顔は、元のグレンの顔とは大分違う。絹糸のように滑らかな金の髪、長いまつ毛に覆われた碧色の瞳。薄く開かれた唇は、少女のように柔らかな薄桃色だ。
王子様だ、とアンは思った。
おとぎ話に登場する王子様。変身後のグレンの顔立ちを彗星に例えれば、今のグレンは柔らかな光を放つ満月だ。闇夜を照らす金色の満月、思わずうっとりと見惚れてしまうほどに美しい。
「……どう? 俺の素顔」
不安そうな表情のグレンが尋ねられ、アンははっと我に返った。
「格好いいっちゃ格好いいけど……あたしは変身後のグレンの顔が好きだなぁ。目元がきりっとしていて彗星みたいでさ。今のグレンは王子様みたいだね。王子様顔のグレンって何か変な感じ。だって性格は王子様というよりもチンピラ……い、痛いいひゃい。ほっへはほぇる」
「口の減らねぇ野郎だなぁ、おい。そこは『素顔の方が100倍素敵ね』、だろ?」
アンはひりひりと痛む頬を押さえ、叫んだ。
「あ、あたしがそんなこと言ったら明日は嵐がくるよ! 向き不向きをよく考えてよ!」
こうしてグレンにほっぺたをもがれそうになるのは、もう数度目のこと。しかし慣れたところで痛いものは痛い。
「どうせ俺は王子様顔のチンピラさ、好きに言え。だがもしも俺が次期国王の座に就けば、お前は王妃様だぜ。アンが王妃、超似合わねぇ」
グレンがけらけらと声を立てて笑うものだから、アンはきょとんと目を丸くした。
色々なことが一気に起こりすぎて、そんなことは考えもしなかった。しかし鬼才アーサーが王位継承争いに復帰するということは、アーサーがフィルマンに次ぐ次期国王となる可能性はあるというわけで。
もしもそうなったとすれば、アーサーの妻であるアンは自動的に次期王妃となるわけで。
「グレンは……王様になりたいの?」
「さぁ、どうだろう。……なるかもよ?」
アンの鼻先でグレンはにんまりと笑った。
その悪戯げな笑みは、顔の作りは違えどアンのよく知るグレンのもの。姿かたちは変わっても心はグレンのままだと安心した。
抱き合ってキスをする。汗も唾液も混じり合って、心も身体も絡まり合って、蕩けるような幸福に溺れていく。
王国の片隅にある小さな邸宅の一室で、新たな物語が紡がれていく。まだ表紙すらないその物語は、やがては夜空を照らす流星群のように、王国中に希望の雨を降らせるだろう。
物語は紡がれる
彗星のように魔法のように
まばゆいばかりの耀きを放ちながら
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