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6章 時はめぐり想いはめぐり
63話 ドリーとシンシア
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酒場を出たアンドレは、繁華街のメイン通りをのんびりと歩いた。
今日やるべき仕事はこれで終わり。あとは自宅でアンの姿へと戻り、馬車に乗ってドレスフィード邸へと帰るだけだ。
繁華街の風景も今日で見納め。哀愁にひたるアンドレの目に、見知った2人組が飛び込んできた。
「……シンシア様、と……ドリー?」
まだ人通りの少ない通りを連れだって歩く者は、アンドレの友人であるシンシアとドリーだ。アンドレが声をかけるよりも先に、2人はアンドレの存在に気がついたようだ。
「あら、アンドレ様。お久しぶり」
そう驚いた表情を見せる者はシンシア。
「本当、久しぶり。こんな時間に繁華街を歩いているなんて、何があったの?」
「パフェを食べに行くのよ。以前ご一緒した締めパフェのお店、覚えていらっしゃる?」
「アツアツとろとろコーヒーパフェのお店でしょ。覚えているよ。でもあのお店、パフェの提供時間は深夜だけじゃなかった?」
アンドレは懐かしい記憶をたどった。
締めパフェを提供する酒場『マッドアップル』は、アンドレとドリーの出会いの場だ。その酒場でコーヒーパフェをつつきながら、ドリーは自らが叶わない恋をしていることを語った。アンドレが『魔女の妙薬』の名を聞いたのもそのときだ。
友人関係であるシンシアとドリーが、2人きりでパフェを食べに行くのはおかしなことではない。
しかし先に言ったとおり、マッドアップルでパフェが提供される時間は深夜帯であったはずだ。今はまだ夕方だから、パフェを食べに行くには早すぎる。
アンドレの疑問には、シンシアが丁寧な解説をしてくれた。
「あのお店、カフェ営業を始めたんですって。平日の15時から16時まで、1日20食限定で紅茶とパフェを提供しているの。深夜のパフェも魅力的だけれど、あまり健康にはよくないでしょう。だから健全な時間にお茶をしようという話になったのよ」
なるほどね、とアンドレはうなずいた。
「2人はよく一緒にお茶する仲なの?」
「いえ……こうして顔を合わせたのはとても久し振りよ。というのもドリー様が――」
シンシアはそこで言葉を区切り、遠慮がちにドリーを見た。それまでずっと無言であったドリーが、このとき初めて口を開いた。
「美容剤の服用方法を誤ってしまって、自宅で療養していたんです。体調が回復してきたときに、シンシア様から『パフェを食べに行きましょう』とのお誘いをいただいて、リハビリを兼ねて久しぶりに繁華街へとやってきました」
アンドレはドリーの顔を見つめた。
「そうなんだ……もう身体は元通りなのかな」
「はい、もうすっかり。どんなに魅力的な宣伝文句を見ても、もう得体の知れない薬に頼るような真似はしません。自分が自分じゃなくなってしまうから」
はにかむドリーの顔は、初めて会ったときのドリーと同じ。魔女の妙薬に溺れていたときの、男に媚びたような表情は面影もない。
『魔女の妙薬事件』の顛末を、アンドレ――アンは詳しく知らない。グレンとの繋がりが途絶えてしまったため、事件に関する情報を得ることができなくなってしまったのだ。
目を皿のようにして連日手書新聞をめくり、かろうじて『魔女の妙薬事件』に関する記事を見つけたのは、事件からおよそ1週間後のことであった。紙面の隅っこに100文字程度で書かれた小さな記事。
要約するにも及ばないその記事の内容はこうだ。
――ハート商会が生産・販売を行う美容剤に強い依存性があることが判明。購入者は直ちに服用を中止し、該当商品を廃棄されたし。ハート商会の会員名簿より、当該商品を購入した可能性がある会員については、後日担当部署より別途通知のこと――
この記事を読んでアンが感じたことは、しょせんこの程度の小さな事件だったのだということ。手書新聞の一面を飾ることはなく、新聞を読んだローマンとエマが気にかけることもない。
アンとグレンが決死の思いで解決した事件は、膨大な情報の中に砂粒のように埋もれていく。
やるせなさを覚える反面、それでよかったのだとも思った。魔女の妙薬の服用者は、いわばこの事件の被害者たちは、世間の注目を集めることを望んではいない。
グレンは魔女の妙薬の製造方法についても詳細な報告を行っているはずだから、製造者であるシャルロットの身柄が抑えられれば、もう2度と魔女の妙薬が世に出回ることはない。
被害者たちはドリーのようにいくらかの療養期間を経て、元の生活へと戻っていくのだ。
そしていつか世間は事件のことを忘れてしまう。
人々がアンドレのことを忘れてしまうように。
アンドレの思考を、シンシアの嘆きがさえぎった。
「ドリー様は今のままが魅力的よ。変わってしまっては勿体ないわ。私もドリー様のように大人びた印象の女性になりたい。酒場へ行くといつも子どもに間違われるんだもの……」
何とも愛らしい嘆きである。精一杯背伸びをしてドリーの横に並ぶシンシアは、自らを大きく見せようとする小動物のようだ。
確かに長身のドリーと並べば、小柄なシンシアは子どものようにも見える。しかしアンドレの目には、シンシアの雰囲気が以前会ったときとは異なるように思えてならないのだ。
「シンシア様……何か雰囲気が変わったね。少し大人っぽくなったというか、色気が増したというか。ひょっとして片思いの彼と進展があった?」
アンドレの問いかけに、シンシアの頬は一瞬にして赤く染まった。
シンシアはルークという名の幼馴染に長いこと片思いをしている。しかし幼少期からの付き合いが災いし、シンシアは溢れんばかりの想いを伝えられずにいる――その悩みに対し、アンドレはシンシアに数々の助言を行ってきたものだ。
ひょっとして2人の仲に進展があったのだろうかと、アンドレはそわそわしながらシンシアの答えを待った。
しかし次の瞬間、シンシアの口から語られる言葉は、アンドレの想像を遥かに凌駕していた。
「実はその……こ、このたびルークと婚約することになって……」
アンドレは一瞬、ぽかんと口を開けた。
「こんやく……? 婚約? 婚約ぅ⁉ 嘘ぉ、何でそんなことが起こったの? だってこの間話したときは、全然相手にされていないと悲しい顔を……。はっ……もしかしてシンシア様、僕の伝授した技を使ったの? ルーク様の太ももにそっと手のひらをのせて、身体をすり寄せて、とどめにチラッと胸の谷間なんか見せちゃったんでしょ。そんでその場で既成事実を……いってぇ!」
アンドレが右足を押さえて飛び上がったのは、シンシアにすねを蹴り上げられたからだ。顔を真っ赤にしたシンシアは、小動物を思わせる愛らしさで吠える。
「卑猥な妄想をなさらないで! ルークをお部屋に呼んで、真摯に想いを伝えただけよ。た、確かにちょっと肩を寄せてみたり、手を握ったりはしたけれど……」
――何だよぅ、ちょっとは僕の言ったことを参考にしてるじゃん
ズキズキと痛む右すねを抱えながら、アンドレは頬を膨らませた。
そしてすぐに、今日一番優しい微笑みを作った。
「シンシア様、おめでとう。幸せになってね」
「ありがとう……アンドレ様が勇気をくれたお陰だわ」
それからまた少し雑談を交わし、アンドレはシンシアとドリーに手を振った。
ホスト業を廃業するということは伝えなかった。理由は色々とある。幸せの絶頂にいるシンシアを悲しませたくはなかった。ようやく日常生活を取り戻したドリーに余計な心配をかけたくはなかった。
そして何よりも、「別に言わなくても構わないだろう」という思いがあった。
アンドレが何も言わず姿を消したとしても、2人はすぐにはそのことに気が付かないだろう。
数年後か何十年後かもわからないけれど、あるときふと思い出す。「そういえばたまに繁華街でお話をしていた蜜柑色の髪の男性、名前も忘れてしまったけれど彼はどこにいってしまったのかしら」
おぼろな記憶にしばし想いはせ、また日常へと戻っていく。幸せに満ち溢れた日常に。
「アンドレ様!」
繁華街を歩み出したアンドレの背に、弾んだ声があたった。振り返って見れば、少し前に別れたばかりのドリーがアンドレの方へと駆けてくるところであった。
アンドレは驚きに足を止めた。
「ドリー、どうしたの?」
アンドレの真正面に立ったドリーは、軽く息を弾ませながら言った。
「私、もう1度頑張ってみようと思うんです。大きく道を誤ってはしまったけれど、たくさんの方々のお陰でぎりぎり踏みとどまることができたから。叶わない恋などとは決めつけずに全力でぶつかってみたい。大好きなあの人に、ありのままの私で『愛しています』と伝えたいの」
いつかのドリーの言葉が、アンドレの脳裏に思い出された。
――決して結ばれることのないあの人に、一番綺麗な姿で、『愛しています』と伝えたいの
「……その言葉、すごく素敵だと思う。差し支えなけれな教えてほしいんだけど、ドリーの好きな人ってどんな人? 一目惚れしたんだと言っていたよね」
「とてもたくましいお方です。そのお方は、とある貴族の邸宅に使用人として勤めているんです。昔は騎士団に所属しておられた方で、鬼人のごとき強さを誇っていたのだとか……」
「……ん?」
アンドレは首をかしげた。
たくましい、貴人の邸宅の使用人、騎士団に所属、鬼人。何だかとても馴染みのある単語の羅列だ。
とある人物の顔が頭に浮かび、アンドレは素っ頓狂な声をあげた。
「ま、待って待って。まさかドリーの好きな人って鬼人レオナルド? レオナルド・バトラー?」
ドリーは不思議そうにアンドレを見つめた。
「ご存じなのですか? バトラー様のこと……」
「いや……直接の知り合いというわけではないんだけど。有名人だし、肩書きと名前くらいは知っているよ……」
なるほど確かにそれは困難な恋だ、とアンドレは納得した。
ドリーはアーサーの結婚候補者だった。ゆくは王族の妻となる女性が、その家臣に恋心を抱くなど許されることではない。結婚が決まるよりも先に、恋心に区切りをつける必要もあるだろう。
「それだけお伝えしたかったんです。目前にしていた縁談はふいにしてしまいましたけれど、私の人生は決して不幸ではないから。だって少し道を誤ったおかげで、バトラー様と結婚するチャンスが生まれたんだもの。このチャンスを無駄にはしません」
ドリーは笑う。太陽のようにまぶしい笑みだ。思わず涙が零れそうになった。
「……きっと上手くいくよ。僕が保証する。だってドリーよりも魅力的な女性なんて滅多にいないいもの。バトラー氏は、きっとドリーの想いを受け止めてくれる」
「ありがとうございます。本当に不思議。アンドレ様にそう言っていただけると、全てが上手くいくような気がしてしまう。まるで魔法にかけられたみたい……」
そうしてドリーは去っていく。
アンドレの目から、涙が一粒零れて落ちた。
今日やるべき仕事はこれで終わり。あとは自宅でアンの姿へと戻り、馬車に乗ってドレスフィード邸へと帰るだけだ。
繁華街の風景も今日で見納め。哀愁にひたるアンドレの目に、見知った2人組が飛び込んできた。
「……シンシア様、と……ドリー?」
まだ人通りの少ない通りを連れだって歩く者は、アンドレの友人であるシンシアとドリーだ。アンドレが声をかけるよりも先に、2人はアンドレの存在に気がついたようだ。
「あら、アンドレ様。お久しぶり」
そう驚いた表情を見せる者はシンシア。
「本当、久しぶり。こんな時間に繁華街を歩いているなんて、何があったの?」
「パフェを食べに行くのよ。以前ご一緒した締めパフェのお店、覚えていらっしゃる?」
「アツアツとろとろコーヒーパフェのお店でしょ。覚えているよ。でもあのお店、パフェの提供時間は深夜だけじゃなかった?」
アンドレは懐かしい記憶をたどった。
締めパフェを提供する酒場『マッドアップル』は、アンドレとドリーの出会いの場だ。その酒場でコーヒーパフェをつつきながら、ドリーは自らが叶わない恋をしていることを語った。アンドレが『魔女の妙薬』の名を聞いたのもそのときだ。
友人関係であるシンシアとドリーが、2人きりでパフェを食べに行くのはおかしなことではない。
しかし先に言ったとおり、マッドアップルでパフェが提供される時間は深夜帯であったはずだ。今はまだ夕方だから、パフェを食べに行くには早すぎる。
アンドレの疑問には、シンシアが丁寧な解説をしてくれた。
「あのお店、カフェ営業を始めたんですって。平日の15時から16時まで、1日20食限定で紅茶とパフェを提供しているの。深夜のパフェも魅力的だけれど、あまり健康にはよくないでしょう。だから健全な時間にお茶をしようという話になったのよ」
なるほどね、とアンドレはうなずいた。
「2人はよく一緒にお茶する仲なの?」
「いえ……こうして顔を合わせたのはとても久し振りよ。というのもドリー様が――」
シンシアはそこで言葉を区切り、遠慮がちにドリーを見た。それまでずっと無言であったドリーが、このとき初めて口を開いた。
「美容剤の服用方法を誤ってしまって、自宅で療養していたんです。体調が回復してきたときに、シンシア様から『パフェを食べに行きましょう』とのお誘いをいただいて、リハビリを兼ねて久しぶりに繁華街へとやってきました」
アンドレはドリーの顔を見つめた。
「そうなんだ……もう身体は元通りなのかな」
「はい、もうすっかり。どんなに魅力的な宣伝文句を見ても、もう得体の知れない薬に頼るような真似はしません。自分が自分じゃなくなってしまうから」
はにかむドリーの顔は、初めて会ったときのドリーと同じ。魔女の妙薬に溺れていたときの、男に媚びたような表情は面影もない。
『魔女の妙薬事件』の顛末を、アンドレ――アンは詳しく知らない。グレンとの繋がりが途絶えてしまったため、事件に関する情報を得ることができなくなってしまったのだ。
目を皿のようにして連日手書新聞をめくり、かろうじて『魔女の妙薬事件』に関する記事を見つけたのは、事件からおよそ1週間後のことであった。紙面の隅っこに100文字程度で書かれた小さな記事。
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この記事を読んでアンが感じたことは、しょせんこの程度の小さな事件だったのだということ。手書新聞の一面を飾ることはなく、新聞を読んだローマンとエマが気にかけることもない。
アンとグレンが決死の思いで解決した事件は、膨大な情報の中に砂粒のように埋もれていく。
やるせなさを覚える反面、それでよかったのだとも思った。魔女の妙薬の服用者は、いわばこの事件の被害者たちは、世間の注目を集めることを望んではいない。
グレンは魔女の妙薬の製造方法についても詳細な報告を行っているはずだから、製造者であるシャルロットの身柄が抑えられれば、もう2度と魔女の妙薬が世に出回ることはない。
被害者たちはドリーのようにいくらかの療養期間を経て、元の生活へと戻っていくのだ。
そしていつか世間は事件のことを忘れてしまう。
人々がアンドレのことを忘れてしまうように。
アンドレの思考を、シンシアの嘆きがさえぎった。
「ドリー様は今のままが魅力的よ。変わってしまっては勿体ないわ。私もドリー様のように大人びた印象の女性になりたい。酒場へ行くといつも子どもに間違われるんだもの……」
何とも愛らしい嘆きである。精一杯背伸びをしてドリーの横に並ぶシンシアは、自らを大きく見せようとする小動物のようだ。
確かに長身のドリーと並べば、小柄なシンシアは子どものようにも見える。しかしアンドレの目には、シンシアの雰囲気が以前会ったときとは異なるように思えてならないのだ。
「シンシア様……何か雰囲気が変わったね。少し大人っぽくなったというか、色気が増したというか。ひょっとして片思いの彼と進展があった?」
アンドレの問いかけに、シンシアの頬は一瞬にして赤く染まった。
シンシアはルークという名の幼馴染に長いこと片思いをしている。しかし幼少期からの付き合いが災いし、シンシアは溢れんばかりの想いを伝えられずにいる――その悩みに対し、アンドレはシンシアに数々の助言を行ってきたものだ。
ひょっとして2人の仲に進展があったのだろうかと、アンドレはそわそわしながらシンシアの答えを待った。
しかし次の瞬間、シンシアの口から語られる言葉は、アンドレの想像を遥かに凌駕していた。
「実はその……こ、このたびルークと婚約することになって……」
アンドレは一瞬、ぽかんと口を開けた。
「こんやく……? 婚約? 婚約ぅ⁉ 嘘ぉ、何でそんなことが起こったの? だってこの間話したときは、全然相手にされていないと悲しい顔を……。はっ……もしかしてシンシア様、僕の伝授した技を使ったの? ルーク様の太ももにそっと手のひらをのせて、身体をすり寄せて、とどめにチラッと胸の谷間なんか見せちゃったんでしょ。そんでその場で既成事実を……いってぇ!」
アンドレが右足を押さえて飛び上がったのは、シンシアにすねを蹴り上げられたからだ。顔を真っ赤にしたシンシアは、小動物を思わせる愛らしさで吠える。
「卑猥な妄想をなさらないで! ルークをお部屋に呼んで、真摯に想いを伝えただけよ。た、確かにちょっと肩を寄せてみたり、手を握ったりはしたけれど……」
――何だよぅ、ちょっとは僕の言ったことを参考にしてるじゃん
ズキズキと痛む右すねを抱えながら、アンドレは頬を膨らませた。
そしてすぐに、今日一番優しい微笑みを作った。
「シンシア様、おめでとう。幸せになってね」
「ありがとう……アンドレ様が勇気をくれたお陰だわ」
それからまた少し雑談を交わし、アンドレはシンシアとドリーに手を振った。
ホスト業を廃業するということは伝えなかった。理由は色々とある。幸せの絶頂にいるシンシアを悲しませたくはなかった。ようやく日常生活を取り戻したドリーに余計な心配をかけたくはなかった。
そして何よりも、「別に言わなくても構わないだろう」という思いがあった。
アンドレが何も言わず姿を消したとしても、2人はすぐにはそのことに気が付かないだろう。
数年後か何十年後かもわからないけれど、あるときふと思い出す。「そういえばたまに繁華街でお話をしていた蜜柑色の髪の男性、名前も忘れてしまったけれど彼はどこにいってしまったのかしら」
おぼろな記憶にしばし想いはせ、また日常へと戻っていく。幸せに満ち溢れた日常に。
「アンドレ様!」
繁華街を歩み出したアンドレの背に、弾んだ声があたった。振り返って見れば、少し前に別れたばかりのドリーがアンドレの方へと駆けてくるところであった。
アンドレは驚きに足を止めた。
「ドリー、どうしたの?」
アンドレの真正面に立ったドリーは、軽く息を弾ませながら言った。
「私、もう1度頑張ってみようと思うんです。大きく道を誤ってはしまったけれど、たくさんの方々のお陰でぎりぎり踏みとどまることができたから。叶わない恋などとは決めつけずに全力でぶつかってみたい。大好きなあの人に、ありのままの私で『愛しています』と伝えたいの」
いつかのドリーの言葉が、アンドレの脳裏に思い出された。
――決して結ばれることのないあの人に、一番綺麗な姿で、『愛しています』と伝えたいの
「……その言葉、すごく素敵だと思う。差し支えなけれな教えてほしいんだけど、ドリーの好きな人ってどんな人? 一目惚れしたんだと言っていたよね」
「とてもたくましいお方です。そのお方は、とある貴族の邸宅に使用人として勤めているんです。昔は騎士団に所属しておられた方で、鬼人のごとき強さを誇っていたのだとか……」
「……ん?」
アンドレは首をかしげた。
たくましい、貴人の邸宅の使用人、騎士団に所属、鬼人。何だかとても馴染みのある単語の羅列だ。
とある人物の顔が頭に浮かび、アンドレは素っ頓狂な声をあげた。
「ま、待って待って。まさかドリーの好きな人って鬼人レオナルド? レオナルド・バトラー?」
ドリーは不思議そうにアンドレを見つめた。
「ご存じなのですか? バトラー様のこと……」
「いや……直接の知り合いというわけではないんだけど。有名人だし、肩書きと名前くらいは知っているよ……」
なるほど確かにそれは困難な恋だ、とアンドレは納得した。
ドリーはアーサーの結婚候補者だった。ゆくは王族の妻となる女性が、その家臣に恋心を抱くなど許されることではない。結婚が決まるよりも先に、恋心に区切りをつける必要もあるだろう。
「それだけお伝えしたかったんです。目前にしていた縁談はふいにしてしまいましたけれど、私の人生は決して不幸ではないから。だって少し道を誤ったおかげで、バトラー様と結婚するチャンスが生まれたんだもの。このチャンスを無駄にはしません」
ドリーは笑う。太陽のようにまぶしい笑みだ。思わず涙が零れそうになった。
「……きっと上手くいくよ。僕が保証する。だってドリーよりも魅力的な女性なんて滅多にいないいもの。バトラー氏は、きっとドリーの想いを受け止めてくれる」
「ありがとうございます。本当に不思議。アンドレ様にそう言っていただけると、全てが上手くいくような気がしてしまう。まるで魔法にかけられたみたい……」
そうしてドリーは去っていく。
アンドレの目から、涙が一粒零れて落ちた。
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