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4章 心惑わす魔女の妙薬
46話 一緒におふろ
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ホーロー製の浴槽に、温かな湯がどぼどぼと音を立てて溜まっていく。まだ湯を張り始めたばかりだから、水面の高さはアンのくるぶしに届く程度だ。
アンは温かさを求めるように、浴槽の中で小さく身体を丸めた。
「あー……どうすればいいのかなぁ……」
大きな溜息が浴室にこだました。
アンが「風呂に入ってくる」と言ったのは、グレンと話をする前に考える時間が欲しかったからだ。ハート商会の悪事、魔女の妙薬の存在、ドリーの変貌、どれだけの情報をどれだけ正確に伝えるべきかがわからなかったから。
真実を全て伝えるべきだ、ということは理解している。グレンはアンのことを相棒として認めてくれているのだから、真実を隠すことは積み上げた信用を崩しうる行為だ。
しかしドリーが魔女の妙薬に溺れていることを正直に話したら、一体ドリーはどうなってしまうのだろう。得体の知れない薬を服用し、不特定多数の男性と性行為に及んでいるなどという事実が調査報告書に書かれたら、きっとドリーの人生はめちゃめちゃだ。
そうなれば魔女の妙薬を手渡した張本人であるアンは、どうやって罪を償えばいいのだろう?
考えた末の結論は、やはりドリーの件は秘密裏に解決するしかないということ。幸いにも魔女の妙薬の現物は手に入れることができたのだから、薬の成分が明らかになれば依存から抜け出す方法は見つかるはずだ。
2週間という期限が痛いところではあるけれど。
あれこれと考えるうちに時は経ち、湯面はアンのみぞおちに届こうとしていた。
そのときだ。
「よ。背中、流しに来たぜ」
「み、みぎゃああああっ!」
耳元で聞こえた声に、アンは猫のような悲鳴をあげた。
勢いよく振り返ってみれば、浴槽の外にグレンがしゃがみ込んでいた。しかもなぜか全裸。思考に没頭するアンは、グレンが浴室に入り込んだことに今の今まで気がつかなかったのだ。
お湯の中で両胸を抱きしめ、アンは大慌てだ。
「な、流さなくていい! 背中くらい自分で流すから、すぐに出て行ってよ!」
「人様の好意を無駄にすんじゃねぇよ。おら詰めろ、入れねぇだろ」
「何で入るのぉ⁉」
アンの悲痛の叫びがグレンに届くことはなく、グレンは強引に湯船の中へと入り込んできた。狭い湯船に大の大人が2人。いくらアンが小柄であるとはいえ窮屈きわまりない。
グレンの両太ももに尻を挟み込まれたアンは「潰れる! お尻が潰れる!」と必死に叫ぶことになるのである。
そうしてどうにかこうにかいい形に収まって、アンを抱き込んだグレンはご機嫌だ。
「リナに聞いたんだけどさぁ。ティルミナ王国の西方に、温泉で栄える町があるらしいぜ。町の名前は……何だったかな。エメラルドグリーンの温泉が見渡す限りに広がっているんだとさ。今度一緒に行こうぜ」
アンはこくりと首をかしげ、尋ね返した。
「一緒にって……2人でってこと?」
「そうそう、2人でさ。素性調査の打ち上げ旅行。アンドレ様には世話になってるし、接待交際費の名目で往復の馬車賃くらい出してやるぜ」
「うーん……まぁ考えておくよ」
もしも旅行の提案をされたのが1週間前だったなら、アンは「いいねぇ、行こうか」と2つ返事を返したところ。しかし今、それができずにいるのはドリーのことが気にかかるからだ。
アンが魔女の妙薬などという怪しい薬を渡したせいで、人生を狂わされてしまった可哀そうなドリー。アンがドリーを救い出せなかったら、彼女の未来は一体どうなってしまうのだろう。そしてアーサーの妻の座には誰が座ることになるのだろう。
黙り込んだアンの身体に、グレンの両腕が回された。思わず胸が高鳴るような優しい抱擁だ。
しかし次の瞬間、アンの耳に流れこむ声は、怒りと疑惑に満ちていた。
「打ち上げの話はさて置きさぁ。お前、俺に何を隠している?」
一瞬、ときが止まった。
アンは途端に逸りだした鼓動を抑え、素知らぬ顔で問い返した。
「隠しているって……な、何のことかな?」
「とぼけるんじゃねぇよ。突然『風呂に入る』なんて言いやがって。何の時間稼ぎだ? この蜜柑色の頭の中では、どんなあくどいことを考えてんだ。なぁおい」
グレンの右手はアンの頭をわしづかみにし、ぐりぐりと力強く撫で回す。アンは必死で抵抗するけれど、成人男性の腕力からそう簡単に逃げられるはずもない。
「放してよグレン! 情報を整理したいだけだって言ったじゃん!」
「ほーぉ、じゃあ今ここで話してみろよ。お前が手に入れた情報とやらをさ」
グレンの腕の中で、アンはたらたらと冷や汗を流した。
「いや、ちょっとまだ整理が終わっていなくて……」
「別に取り留めなく話せばいいだろ。気になることがあったらそのつど質問するし。おらどうした。俺に隠すことがないのなら、これ以上の情報整理は時間の無駄だぜ?」
これ以上の時間稼ぎはできない、そう悟ったアンは慎重に語り始めた。
「……実はあたし、今日はハート商会の事務所に行っていたんだ。繁華街で買い物をしているときに、たまたまハート商会の名前を耳にしてさ。グレンはハート商会の存在を知ってた?」
「名前くらいは聞いたことがあるな。でもあれって事業者限定の商業組織体じゃねぇの?」
「それが個人会員も募集しているんだよ。ハート商会の会員になれば、商会で取り扱う商品を割引価格で購入することができるんだ」
アンの説明に、グレンは「ふぅん」と相槌を打った。
「そりゃ知らなかったな。そんでお前はその個人会員というやつになってきたわけ?」
「そうそう。お高い入会金を取られたけど、それだけの価値はあると思ったんだ。というのもハート商会の会員になれば『新商品展示会』に参加することができるんだよ。開催日は1週間後の土曜日。その展示会にはハート商会の統率者であるロジャー候も参加する。運がよければシャルロット嬢にも会えるかもしれないよ?」
この言葉には、さすがのグレンも素直に関心したようであった。
「ほぉ、ドリー嬢の件といいやるじゃねぇの。いやいや有能な相棒に感謝だな。話というのはそれだけか?」
「うん、これだけだよ」
「俺に言うべきことで、隠していることは何もない?」
「……た、多分ないと思うんだけどな……」
アンは不自然に視線をさまよわせた。
いくらか間をおいて、グレンは声の調子を変えずに言った。
「じゃあ質問。あの薄桃色の小瓶は何だ?」
確信を突く質問に、アンは心の中で「うっぎゃあ」と悲鳴をあげた。
魔女の妙薬が入った紙袋は、グレンの目に留まらないようクローゼットの中に入れたはず。まさかグレンが、わざわざその紙袋を引っ張り出してこようとは、夢にも想像しなかった。
しかしドリーのことは秘密裏に解決すると決めた以上、アンとて簡単に魔女の妙薬のことを話すわけにはいかなかった。何とかごまかさなければならないと脳味噌はフル回転だ。
「小瓶……小瓶て、その……濃い桃色の玉がたくさん入ったやつかな?」
「そうそれ。一緒に入っていた銀色の胸章が、ハート商会の会員章だろ? ってことは、あの小瓶は入会の記念品か何かか?」
アンはもごもごと小さな声で肯定した。
「……そうだよ、ハート商会限定の新商品。見た目がお洒落だから、若い女の子たちに人気なんだって……」
「そ。じゃあ俺が食べても問題はないわけだ。実は風呂場に来る前、1粒食っちまったんだけど」
アンは勢いよく振り返った。うっすらと汗をかいたグレンの顔が、思いのほか近くにあった。
「た、食べたの……? あのくす……飴を?」
「食ったよ」
次の瞬間、浴室内にはアンの悲鳴が響き渡った。「いや、いやああああっ!」トビウオのように湯船から飛び出したアンは、濡れた蜜柑色の髪を振り乱し、足をもつれさせながらリビングへと向かうのであった。
アンは温かさを求めるように、浴槽の中で小さく身体を丸めた。
「あー……どうすればいいのかなぁ……」
大きな溜息が浴室にこだました。
アンが「風呂に入ってくる」と言ったのは、グレンと話をする前に考える時間が欲しかったからだ。ハート商会の悪事、魔女の妙薬の存在、ドリーの変貌、どれだけの情報をどれだけ正確に伝えるべきかがわからなかったから。
真実を全て伝えるべきだ、ということは理解している。グレンはアンのことを相棒として認めてくれているのだから、真実を隠すことは積み上げた信用を崩しうる行為だ。
しかしドリーが魔女の妙薬に溺れていることを正直に話したら、一体ドリーはどうなってしまうのだろう。得体の知れない薬を服用し、不特定多数の男性と性行為に及んでいるなどという事実が調査報告書に書かれたら、きっとドリーの人生はめちゃめちゃだ。
そうなれば魔女の妙薬を手渡した張本人であるアンは、どうやって罪を償えばいいのだろう?
考えた末の結論は、やはりドリーの件は秘密裏に解決するしかないということ。幸いにも魔女の妙薬の現物は手に入れることができたのだから、薬の成分が明らかになれば依存から抜け出す方法は見つかるはずだ。
2週間という期限が痛いところではあるけれど。
あれこれと考えるうちに時は経ち、湯面はアンのみぞおちに届こうとしていた。
そのときだ。
「よ。背中、流しに来たぜ」
「み、みぎゃああああっ!」
耳元で聞こえた声に、アンは猫のような悲鳴をあげた。
勢いよく振り返ってみれば、浴槽の外にグレンがしゃがみ込んでいた。しかもなぜか全裸。思考に没頭するアンは、グレンが浴室に入り込んだことに今の今まで気がつかなかったのだ。
お湯の中で両胸を抱きしめ、アンは大慌てだ。
「な、流さなくていい! 背中くらい自分で流すから、すぐに出て行ってよ!」
「人様の好意を無駄にすんじゃねぇよ。おら詰めろ、入れねぇだろ」
「何で入るのぉ⁉」
アンの悲痛の叫びがグレンに届くことはなく、グレンは強引に湯船の中へと入り込んできた。狭い湯船に大の大人が2人。いくらアンが小柄であるとはいえ窮屈きわまりない。
グレンの両太ももに尻を挟み込まれたアンは「潰れる! お尻が潰れる!」と必死に叫ぶことになるのである。
そうしてどうにかこうにかいい形に収まって、アンを抱き込んだグレンはご機嫌だ。
「リナに聞いたんだけどさぁ。ティルミナ王国の西方に、温泉で栄える町があるらしいぜ。町の名前は……何だったかな。エメラルドグリーンの温泉が見渡す限りに広がっているんだとさ。今度一緒に行こうぜ」
アンはこくりと首をかしげ、尋ね返した。
「一緒にって……2人でってこと?」
「そうそう、2人でさ。素性調査の打ち上げ旅行。アンドレ様には世話になってるし、接待交際費の名目で往復の馬車賃くらい出してやるぜ」
「うーん……まぁ考えておくよ」
もしも旅行の提案をされたのが1週間前だったなら、アンは「いいねぇ、行こうか」と2つ返事を返したところ。しかし今、それができずにいるのはドリーのことが気にかかるからだ。
アンが魔女の妙薬などという怪しい薬を渡したせいで、人生を狂わされてしまった可哀そうなドリー。アンがドリーを救い出せなかったら、彼女の未来は一体どうなってしまうのだろう。そしてアーサーの妻の座には誰が座ることになるのだろう。
黙り込んだアンの身体に、グレンの両腕が回された。思わず胸が高鳴るような優しい抱擁だ。
しかし次の瞬間、アンの耳に流れこむ声は、怒りと疑惑に満ちていた。
「打ち上げの話はさて置きさぁ。お前、俺に何を隠している?」
一瞬、ときが止まった。
アンは途端に逸りだした鼓動を抑え、素知らぬ顔で問い返した。
「隠しているって……な、何のことかな?」
「とぼけるんじゃねぇよ。突然『風呂に入る』なんて言いやがって。何の時間稼ぎだ? この蜜柑色の頭の中では、どんなあくどいことを考えてんだ。なぁおい」
グレンの右手はアンの頭をわしづかみにし、ぐりぐりと力強く撫で回す。アンは必死で抵抗するけれど、成人男性の腕力からそう簡単に逃げられるはずもない。
「放してよグレン! 情報を整理したいだけだって言ったじゃん!」
「ほーぉ、じゃあ今ここで話してみろよ。お前が手に入れた情報とやらをさ」
グレンの腕の中で、アンはたらたらと冷や汗を流した。
「いや、ちょっとまだ整理が終わっていなくて……」
「別に取り留めなく話せばいいだろ。気になることがあったらそのつど質問するし。おらどうした。俺に隠すことがないのなら、これ以上の情報整理は時間の無駄だぜ?」
これ以上の時間稼ぎはできない、そう悟ったアンは慎重に語り始めた。
「……実はあたし、今日はハート商会の事務所に行っていたんだ。繁華街で買い物をしているときに、たまたまハート商会の名前を耳にしてさ。グレンはハート商会の存在を知ってた?」
「名前くらいは聞いたことがあるな。でもあれって事業者限定の商業組織体じゃねぇの?」
「それが個人会員も募集しているんだよ。ハート商会の会員になれば、商会で取り扱う商品を割引価格で購入することができるんだ」
アンの説明に、グレンは「ふぅん」と相槌を打った。
「そりゃ知らなかったな。そんでお前はその個人会員というやつになってきたわけ?」
「そうそう。お高い入会金を取られたけど、それだけの価値はあると思ったんだ。というのもハート商会の会員になれば『新商品展示会』に参加することができるんだよ。開催日は1週間後の土曜日。その展示会にはハート商会の統率者であるロジャー候も参加する。運がよければシャルロット嬢にも会えるかもしれないよ?」
この言葉には、さすがのグレンも素直に関心したようであった。
「ほぉ、ドリー嬢の件といいやるじゃねぇの。いやいや有能な相棒に感謝だな。話というのはそれだけか?」
「うん、これだけだよ」
「俺に言うべきことで、隠していることは何もない?」
「……た、多分ないと思うんだけどな……」
アンは不自然に視線をさまよわせた。
いくらか間をおいて、グレンは声の調子を変えずに言った。
「じゃあ質問。あの薄桃色の小瓶は何だ?」
確信を突く質問に、アンは心の中で「うっぎゃあ」と悲鳴をあげた。
魔女の妙薬が入った紙袋は、グレンの目に留まらないようクローゼットの中に入れたはず。まさかグレンが、わざわざその紙袋を引っ張り出してこようとは、夢にも想像しなかった。
しかしドリーのことは秘密裏に解決すると決めた以上、アンとて簡単に魔女の妙薬のことを話すわけにはいかなかった。何とかごまかさなければならないと脳味噌はフル回転だ。
「小瓶……小瓶て、その……濃い桃色の玉がたくさん入ったやつかな?」
「そうそれ。一緒に入っていた銀色の胸章が、ハート商会の会員章だろ? ってことは、あの小瓶は入会の記念品か何かか?」
アンはもごもごと小さな声で肯定した。
「……そうだよ、ハート商会限定の新商品。見た目がお洒落だから、若い女の子たちに人気なんだって……」
「そ。じゃあ俺が食べても問題はないわけだ。実は風呂場に来る前、1粒食っちまったんだけど」
アンは勢いよく振り返った。うっすらと汗をかいたグレンの顔が、思いのほか近くにあった。
「た、食べたの……? あのくす……飴を?」
「食ったよ」
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