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4章 心惑わす魔女の妙薬
42話 閑
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こち、こち、こち。
規則的な時計の音が響く。
窓の外には燃えるような夕焼け空が広がっていた。紅に染まる薄雲と、その切れ目からのぞく紫の空。1羽2羽と飛び立つカラス。もう夜の色を映し始めるたくさんの木々。
赤らかと照らされる部屋の中にグレンがいた。椅子に腰かけ、右手にはお気に入りの万年筆。万年筆は机の上をするすると滑り、真っ白な紙に次々と文字を連ねていく。くせのない綺麗な字だ。
紙の半分程度が文字で埋まったとき、グレンは不意に手を止めた。万年筆を机の端に置き、書き上げたばかりの書類につらつらと目を通す。
その紙はミルヴァ・コリンズの素性調査報告だ。
グレンは先週、ティルミナ王国の僻地に屋敷を構えるコリンズ家の領地を訪れた。目的はアーサーの結婚候補者の1人であるミルヴァとの接触。
王都からの観光客を装ったグレンは、コリンズ領の内部で地道な諜報活動を働き、そして滞在が丸4日を数えた日に調査対象であるミルヴァとの接触を果たした。
小さな町で姫君のように育てられたミルヴァは、横暴で礼儀知らずの子どもであった。
だからグレンは、調査報告書の最後をこう締めくくった。
――以上の調査結果より、ミルヴァ・コリンズはアーサー・グランドの妻となる資格を有していないことをここに報告する――
グレンは机の引き出しを開け、木製の決裁板に書きあげたばかりの書類を挟み込んだ。決裁板にはすでに4枚の書類が挟み込まれている。それら全てがミルヴァ・コリンズの調査報告書で、今しがた挟み込んだ物が末部となる5枚目の書類だ。
素性調査報告書と一声にいっても、その内容は家族構成から学歴、性格や趣味嗜好に至るまで多岐に渡る。全てを文字に書き連ねるとすれば、決裁紙にして5枚から10枚程度の枚数が必要となるのだ。
それだけの枚数の調査報告書をおよそ20人分。楽な仕事ではない。
「あー終わった。しんど……」
椅子に腰かけたまま、グレンは大きく伸びをした。使い古した椅子がぎしりと音を立てた。
ふと机に積み重ねたままの3枚の決裁板が目に入った。それらの決裁板には、ゆくゆくは3人の令嬢の調査報告書が挟み込まれる予定でいる。
ドリー・メイソン
シャルロット・ハート
アン・ドレスフィード
まだタイトルすら記されていない真っ白な決裁板だ。
――グレンの力で、あたしが絶対に結婚相手に選ばれないようにして。それが、あたしが素性調査に協力する条件
グレンはアンの頼みを聞き入れ、2人は相棒関係を結んだ。もう数か月前のできごとだ。
しかしグレンには、まだアンには伝えていないことがあった。それはアンの調査報告書をまだ書き上げていないということだ。
いつでも書けるから、という思いはもちろんある。だがそれ以上に、少しでもアンの協力に恩を返したいという思いが強かった。
もしもドリー・メイソンもしくはシャルロット・ハートのどちらかがアーサーの妻としてふさわしい人物であれば、アンの調査報告書に必要以上の虚偽を交える必要はない。『可もなく不可もなくこれとった特徴のない令嬢』として報告書を提出すれば、国王フィルマンの目に留まることもない。
だからアンの調査報告書は、いまだ白紙のまま。
ぼんやりと決裁板を眺めるグレンの耳に、「えい、やぁ!」と景気のいい声が届いた。庭先にいるレオナルドの声だ。
もう10年も前に騎士団を除隊になったレオナルドは、いまだに毎日の訓練を欠かさない。毎朝のランニングにストレッチ、仕事の合間に筋トレをこなし、仕事が終わった夕方には1人剣を振るう。グレンやリナが打ち合いに誘われることもある。
元々剣の素人であったリナは、この10年の間にずいぶんと腕をあげた。面白い誤算だ。
「せい、や、やぁ!」軽快な声に耳を澄ませながら、グレンは1枚の書類をつまみ上げた。小さな文字がびっしりと書き連ねられたその書類は、グレンが書いた物ではない。ティルミナ王国の宮殿で働く、名前も知らない官吏が作り上げた物だ。
週に1度、アーサー邸には宮殿から大量の書類が運び込まれる。その書類に目を通し、必要であれば修正を加え、署名を済ませた上で宮殿へと送り返すことがグレンの仕事だ。
アーサー邸で働くグレンの、大切な仕事の1つ。
書類の隅々にまで目を通したグレンは、お気に入りの万年筆を手に取り、書類の末尾にこう署名した。
――アーサー・グランド
今日に至るまで何千回、何万回と書いたその文字列。
己が書き入れたくせのない文字列を、グレンは食い入るように見つめた。
「アーサー・グランド。お前はいつ帰る?」
グレンの問いかけに返す者はいない。
窓から差し込む夕日が、グレンの顔を赤々と照らすだけ。
アーサー邸で働き始めてからというもの、グレンはアーサーの影であった。アーサーの代わりに宮殿の仕事をこなし、書類の末尾にはアーサーの名を書き入れてきた。宮殿に送り返した書類の中に、グレンの名を書き入れた物は1枚として存在しない。
グレンは影だ。この世界には存在しない。
いつかアーサーが心を取り戻したとき、グレンがなした仕事は全てアーサーの功績となる。空白の10年を超え、王位継承権者として返り咲くことができる。
そうなることを誰もが望んでいる。リナもバーバラもジェフもレオナルドも、この邸宅に住まう者は皆。
だからレオナルドはいつか宮殿に戻る日に備え、日々の鍛錬を欠かさない。
グレンは宮殿から送られる書類に、アーサーの名を刻み続ける。
いつか来るともわからない未来に備えて。
規則的な時計の音が響く。
窓の外には燃えるような夕焼け空が広がっていた。紅に染まる薄雲と、その切れ目からのぞく紫の空。1羽2羽と飛び立つカラス。もう夜の色を映し始めるたくさんの木々。
赤らかと照らされる部屋の中にグレンがいた。椅子に腰かけ、右手にはお気に入りの万年筆。万年筆は机の上をするすると滑り、真っ白な紙に次々と文字を連ねていく。くせのない綺麗な字だ。
紙の半分程度が文字で埋まったとき、グレンは不意に手を止めた。万年筆を机の端に置き、書き上げたばかりの書類につらつらと目を通す。
その紙はミルヴァ・コリンズの素性調査報告だ。
グレンは先週、ティルミナ王国の僻地に屋敷を構えるコリンズ家の領地を訪れた。目的はアーサーの結婚候補者の1人であるミルヴァとの接触。
王都からの観光客を装ったグレンは、コリンズ領の内部で地道な諜報活動を働き、そして滞在が丸4日を数えた日に調査対象であるミルヴァとの接触を果たした。
小さな町で姫君のように育てられたミルヴァは、横暴で礼儀知らずの子どもであった。
だからグレンは、調査報告書の最後をこう締めくくった。
――以上の調査結果より、ミルヴァ・コリンズはアーサー・グランドの妻となる資格を有していないことをここに報告する――
グレンは机の引き出しを開け、木製の決裁板に書きあげたばかりの書類を挟み込んだ。決裁板にはすでに4枚の書類が挟み込まれている。それら全てがミルヴァ・コリンズの調査報告書で、今しがた挟み込んだ物が末部となる5枚目の書類だ。
素性調査報告書と一声にいっても、その内容は家族構成から学歴、性格や趣味嗜好に至るまで多岐に渡る。全てを文字に書き連ねるとすれば、決裁紙にして5枚から10枚程度の枚数が必要となるのだ。
それだけの枚数の調査報告書をおよそ20人分。楽な仕事ではない。
「あー終わった。しんど……」
椅子に腰かけたまま、グレンは大きく伸びをした。使い古した椅子がぎしりと音を立てた。
ふと机に積み重ねたままの3枚の決裁板が目に入った。それらの決裁板には、ゆくゆくは3人の令嬢の調査報告書が挟み込まれる予定でいる。
ドリー・メイソン
シャルロット・ハート
アン・ドレスフィード
まだタイトルすら記されていない真っ白な決裁板だ。
――グレンの力で、あたしが絶対に結婚相手に選ばれないようにして。それが、あたしが素性調査に協力する条件
グレンはアンの頼みを聞き入れ、2人は相棒関係を結んだ。もう数か月前のできごとだ。
しかしグレンには、まだアンには伝えていないことがあった。それはアンの調査報告書をまだ書き上げていないということだ。
いつでも書けるから、という思いはもちろんある。だがそれ以上に、少しでもアンの協力に恩を返したいという思いが強かった。
もしもドリー・メイソンもしくはシャルロット・ハートのどちらかがアーサーの妻としてふさわしい人物であれば、アンの調査報告書に必要以上の虚偽を交える必要はない。『可もなく不可もなくこれとった特徴のない令嬢』として報告書を提出すれば、国王フィルマンの目に留まることもない。
だからアンの調査報告書は、いまだ白紙のまま。
ぼんやりと決裁板を眺めるグレンの耳に、「えい、やぁ!」と景気のいい声が届いた。庭先にいるレオナルドの声だ。
もう10年も前に騎士団を除隊になったレオナルドは、いまだに毎日の訓練を欠かさない。毎朝のランニングにストレッチ、仕事の合間に筋トレをこなし、仕事が終わった夕方には1人剣を振るう。グレンやリナが打ち合いに誘われることもある。
元々剣の素人であったリナは、この10年の間にずいぶんと腕をあげた。面白い誤算だ。
「せい、や、やぁ!」軽快な声に耳を澄ませながら、グレンは1枚の書類をつまみ上げた。小さな文字がびっしりと書き連ねられたその書類は、グレンが書いた物ではない。ティルミナ王国の宮殿で働く、名前も知らない官吏が作り上げた物だ。
週に1度、アーサー邸には宮殿から大量の書類が運び込まれる。その書類に目を通し、必要であれば修正を加え、署名を済ませた上で宮殿へと送り返すことがグレンの仕事だ。
アーサー邸で働くグレンの、大切な仕事の1つ。
書類の隅々にまで目を通したグレンは、お気に入りの万年筆を手に取り、書類の末尾にこう署名した。
――アーサー・グランド
今日に至るまで何千回、何万回と書いたその文字列。
己が書き入れたくせのない文字列を、グレンは食い入るように見つめた。
「アーサー・グランド。お前はいつ帰る?」
グレンの問いかけに返す者はいない。
窓から差し込む夕日が、グレンの顔を赤々と照らすだけ。
アーサー邸で働き始めてからというもの、グレンはアーサーの影であった。アーサーの代わりに宮殿の仕事をこなし、書類の末尾にはアーサーの名を書き入れてきた。宮殿に送り返した書類の中に、グレンの名を書き入れた物は1枚として存在しない。
グレンは影だ。この世界には存在しない。
いつかアーサーが心を取り戻したとき、グレンがなした仕事は全てアーサーの功績となる。空白の10年を超え、王位継承権者として返り咲くことができる。
そうなることを誰もが望んでいる。リナもバーバラもジェフもレオナルドも、この邸宅に住まう者は皆。
だからレオナルドはいつか宮殿に戻る日に備え、日々の鍛錬を欠かさない。
グレンは宮殿から送られる書類に、アーサーの名を刻み続ける。
いつか来るともわからない未来に備えて。
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