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序章 家出令嬢は清くたくましく生存中

8話 魅惑の美女の正体は

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 クロエの変身を目の当たりにしたアンは、ぽっかりと口を開けて放心状態だ。
 酒場で偶然出会った美女が、まさか自分と同じ変貌魔法の使い手であるなどと、一体誰が想像しようというのか。

 呆然とシーツの海に沈むアンの胸元に、青年――グレンの手のひらが触れた。男物のシャツに包まれた胸元をすりすりと撫で回されて、アンは「ひぇぇっ⁉」と情けない悲鳴をあげた。

「ちょ、ちょっと待って。何で触るの⁉」
「何でも何もねぇよ。男と女が同じベッドの上にいて、他にすることあんの?」

 あたり前のように言い放たれた言葉に、アンの全身からは血の気が引いた。
 
 大慌てで抵抗をここころみるも、そもそもアンとグレンでは体格が違いすぎる。女性の中でも小柄な部類のアンが、大柄なグレンに組み敷かれてしまえば、例え手に棍棒こんぼうを持っていたとしても逃げ出すことはできない。

 グレンは片手でアンの両腕を押さえ込み、もう一方の手でアンのシャツのボタンを外していく。
 3つ目のボタンを外されたとき、アンは必死に懇願した。

「やだ……ちょっと待って……お願いだから」
「無理」

 懇願はすげなく却下。
 開け放たれたシャツの前身頃から、グレンの右手がすべりこんできた。その指先が肌に触れたとき、アンのまなじりにはついに涙の粒が浮かんだ。

「いやぁ……グレン。もうこれ以上は止めて、怖い」
「怖い? 初めてじゃあるめぇし、可愛い子ぶってんじゃねぇよ」

 グレンはふんと鼻を鳴らし、そのまま行為を続けようとするものだから、アンは消え入りそうな声で言った。

「……初めてだもん」

 グレンの動きがぴたりと止まった。疑いに満ちた眼差しがアンに向けられた。

「嘘だろ?」
「嘘じゃない」
「……アン。お前……処女?」

 グレンの表情は、まるで得体の知らない化物を見たかのよう。アンはカっと目を見開き、理性も恥辱もかなぐり捨てて叫んだ。

「あたしは正真正銘の処女だ! 文句あるか!」

 決死の告白は、静まり返った客室に大きく響くのであった。

 ***

 アンとグレンは黙り込んだまま、ずいぶんと長いこと見つめ合っていた。

 嘘だろ?
 嘘じゃないよ。

 無言のやり取りを飽きるほど繰り返した後、グレンは唐突に笑い出した。

「あはははははっ。処女、アンドレ様が処女……ふひっ、ひっひっひ」

 アンの腹に顔をうずめて、グレンは1人大爆笑だ。爆笑の途中に呼吸がままならなくなったようで、「グボォ」「ゴボェ」という奇妙な音が聞こえだす始末。まるで詰まりかけの排水口のようである。

 抱腹絶倒のグレンとは対照的に、アンは風船のようなふくれっ面。「そんなに笑わなくてもいいじゃん」まん丸にふくらんだ頬からは、アンの心の声が聞こえてくるようだ。

 グレンが人間とは思えない笑い声を治めたのは、アンの告白からたっぷりと3分が経過した頃のことだった。
 その頃にはアンはグレンの拘束から抜け出していて、肌かけ布団ですっぽりと全身をおおっていた。
 
 巨大なてるてる坊主のような姿となったアンを見て、グレンはまた「ひっひっひ」と魔女のような笑い声を立てた。

「繁華街で働いて生計を立ててるキワモノ令嬢が、まさか律儀に処女を守ってるとはね。お天道様だって想像しねぇや。まさかとは思うが『お客さんと身体の関係は持たない』って言葉はほんと? お前、童貞で処女?」
「あたしは童貞で処女のキワモノ令嬢だよ……文句あるかい……」

 グレンはくつくつと含み笑いを零しながら、ベッドを下り窓の方へと歩いて行った。がしゃん、と鍵を開ける音がして、大きな窓が開け放たれれば、部屋には賑やかな人の声が流れ込んでくる。
 
 行き交う人波を見ろしながら、グレンは溜息まじりに言った。

「あーあ、笑いすぎて萎えちまった。つまんねぇの」
「楽しそうだったじゃん。あたし、あんな排水口みたいな笑い方する人、初めて見たよ」
「俺だって、息ができなくなるほど笑ったのは初めての経験だわ」

 グレンはまた「くふふ」と低い声で笑い、ベッドの方へと戻ってきた。そして途端に真面目な口調で言った。

「萎えちまったもんは仕方ねぇし、大人しく仕事の話でもするか」

 アンは驚いて、きっぱりと拒絶した。
 
「あたし、もうこれ以上の協力はしないって言ったじゃん!」
「なぜ?」
「なぜって……クロエがあたしに嘘を吐いていたから……」

 訴える言葉は尻すぼみに消えた。

 グレンはアンに嘘を吐いていた。クロエという架空の人物をつくりだし、友人関係を捏造することで、イザベラに関する情報を引き出そうとした。それは紛れもない事実だ。
 
 しかしグレンの行いを『姿かたちを変えて穏便に仕事をこなそうとした』という言葉にまとめてしまうとすれば、それはアンだって同じこと。アンドレという架空の人物をつくりだし、酒場の客引きをして日銭をもらっている。どうしてグレンの行いを責めることなどできようか。

 うつむきもごもごと口を動かすアンに、グレンは冷めた眼差しを向けた。

「どうしても無理だってなら断ってもいいけど。無理強いはしない」

 アンはぱっと顔をあげた。

「え、ほんと?」
「ただし協力関係を結ばないと言うのなら、俺にお前の秘密を守る義理はない。アンドレ様の正体をうっかり酒場の連中に零しちまっても、恨むんじゃねぇぞ」

 まるで悪魔の宣告である。アンは憤然としてと声を荒げた。

「あたしを脅すの⁉ 調査に協力しないと秘密をバラすって⁉」
「物騒な言い方をするんじゃねぇよ。互いに嘘を吐いていたことは綺麗さっぱり忘れて、一からいい関係を築こうぜ、という良心的な提案だ。別にむずかしく考える必要はないだろ? 報酬は払うと言ってんだからさー」

 グレンは口元に指先をあて、声を低くして笑った。
 アンは何かを言い返そうと口を開くが、結局何も言うことはできず、間もなくがっくりとうなだれた。

 クロエの正体はとことん失礼で横暴な男だった。しかし最大の秘密を握られてしまった以上、末永い付き合いになることは避けられなさそうだ。
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