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終章
名探偵シルフィー-1
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ポトスの街の大通り、なだらかな坂道の一画にとある菓子店がある。淡い色合いの店内に色とりどりの菓子を並べたその菓子店は、立地の良さと値段の手頃さから日々多くの客で賑わいを見せている。
この建物の2階には、1階の菓子店で購入した菓子をその場で食べることができる小さなカフェが併設されている。窓際に設置されたカウンター席からは、窓の外に大通りを見下ろすことができ、見晴らしの良さから何度も足を運びたくなる場所だ。
その見晴らしの良いカウンター席に、2人の男女が腰かけている。額をくっつけるほどの距離で談笑に興じるその2人は、逢瀬を重ねる恋人同士ではない。
「最近ね。カミラの指示で、保育に知のある侍女が数人雇われたんだよ。知ってた?」
まん丸な頬の横で、赤茶色の髪を揺らすその少女は、妖精族長のシルフィーだ。手元には真っ白な更に盛られた2つのケーキ。ケーキのおともはミルクのたっぷり入った紅茶。
「知らないです。何で?子どもが生まれる官吏でもいるんですか?」
そう返す人物はゼータだ。手元に置かれている物は、ガラスの器に入れられたプリン。プリンのおともは冷たいコーヒーで、こちらは砂糖もミルクも入っていない。茶飲み友達の2人は、月に1度こうしてポトスの街中のカフェを訪れ雑談に興じる。訪れるカフェは毎回違うのだが、このカフェは3か月に1度は訪れる場所だ。
「何でって、王妃様の懐妊に備えてのことに決まっているじゃない。みんな心待ちにしているんだから」
「ええ…荷が重い…」
「ゼータは子ども、欲しくないの?」
「欲しくないという訳じゃないですけど…。積極的に作るつもりも、作らないつもりもないですねぇ」
「そうなんだ」
「そもそもレイは半分ドラゴンですからね。子どもを望んだところで、懐妊に至るかどうかも分からないですし」
「確かにね。普通の魔族同士よりは確率は低そうだねぇ」
魔族には多種多様な種族が存在する。異種間の交配については明らかになっていない部分も多いのだが、一般的に身体の形態が似通った者同士は繁殖が可能だとされている。種族は違えど人型同士であれば繁殖は可能だし、同じ種族内でも身体の形態があまりにも異なると繁殖率は低くなる。獣人族や幻獣族には多様な形態の者が存在するため、一言で同じ種族間であれば繁殖が可能であるとは言い難いのだ。
そしてレイバックの半身であるドラゴンは、ドラキス王国内に生息するどの種族にも属さない。神獣と呼ばれる、通常の魔族とはまた違った存在なのである。ドラゴン同士の繁殖については書物に記載されているが、他種族との繁殖については一切不明。前例と言えるものがレイバック自身しかいないのだ。交配の可能性は未知数だ。
「だからあまり期待されても困るんですよね。子どもの顔を見たいというカミラの気持ちはわかりますけど…」
「大丈夫だよ。魔族の人生は長いんだから。やる事をやっていればそのうち1人くらいできるよ」
そう言ったシルフィーは、1つ目のケーキの切れ端をさらう。
幼げな少女の唇から「やる事をやっていれば」という生々しい言葉。中々の破壊力だ。齢800を超えるシルフィーであるが、その外見は人間でいうと12,3歳ほどでしかないのだ。今着ている衣服もふわふわとした薄水色のワンピース、国家の重鎮とはとても思えないいで立ちだ。
「シルフィーには、子どもはいないんですか?」
「いないよ。私は子どもを作れないの」
「え?」
まずい事を聞いてしまったかと、ゼータの表情は曇る。しかしシルフィーは、そんなゼータの表情を見て朗らかな笑い声を立てた。
「違う違う。悲しい理由じゃないよ。私の種族は子どもを作らないんだよ」
「ああ、そういう事ですか」
ゼータは安堵の息を吐く。妖精族や精霊族の一部には、性行為による繁殖活動を行わない種族がいる。希少種などとも呼ばれ、ドラキス王国内の辺境の地で独自の文化を築きあげているのだ。部外者の立ち入りを禁じている場合も多く、集落内部の様子は謎に包まれている。シルフィーは、その謎に包まれた希少な種族の1人ということだ。シルフィーとは長い付き合いになるゼータであるが、今初めて明らかになる事実である。
「シルフィーの種族は、どうやって子孫を残すんですか?」
「分裂するの」
「…分裂?」
「そう。お年頃になると分裂するの」
「…分裂」
ゼータの頭の上には疑問符が浮かぶ。2個目のケーキをつつくシルフィーの足は、床につくことなくぷらぷらと揺れている。
「私もよく知らないんだけどね。故郷の集落の端っこにはお社があるの。お年頃にそのお社に行って祈りを捧げるとね、分裂するんだって」
「…へぇ」
「私の身体が子どものままなのは、まだ分裂したことがないからなんだよ。普通は何度が分裂を重ねて、成人の身体になるものなの」
研究職員としての血が騒ぎ、ゼータはシルフィーに身体を寄せる。
「分裂した個体は、本体と同じ形態をしているのですか?」
「違うよ。分裂した個体は赤子なの。だから『子どもを作る』という言い方も間違いではないんだけど、集落内では子どもとは言わなかったな。何て呼んでいたかは忘れちゃった。成長しても同じ見た目にはならないよ。言われてみれば似ているかな、くらい」
「分裂するのは女性だけですか?」
「男性もするよ。女性からは女性の個体、男性からは男性の個体が分裂するの。でも集落にいるときは、性別という概念はあまり感じなかったかな。なんとなく二種類の見た目の人がいるな、とは思っていたけど」
「シルフィーの集落には、外に出てはいけないという決まりはなかったんですか?」
「あったよー。外から人は入れないし、中から出ることもできない。私が集落から逃げ出したのは10歳くらいの頃だったんだけどね。うまく逃げられたから良かったけど、捕まっていたらまずかっただろうな。折檻くらいじゃ済まなかったかも」
「…逃げ出したんですか?」
「高い山の上の集落なんだけどね。夜、皆が寝静まったときに着の身着のままで集落を出たの。集落を出ること自体は難しくはなかったんだけど、人の出入りがないから山にも道がないんだもの。1週間くらい彷徨ったかなぁ。運よく麓の小人族の集落に出て、そこで保護してもらったの」
「えっと、差支えなければで良いんですけれど。なぜ逃げ出したんですか?」
見るに堪えぬ風習があった、小さな集落内で諍いがあった、厳しい規律を守ることに疲れた。様々な回答を頭の中で巡らせるゼータであったが、シルフィーの答えは予想外のものであった。
「ごはんが美味しくなかったの」
「…ん?」
「粗食なの。山でとれた山菜とか木の実とか。あとたまに動物の肉。味付けも薄いし、料理の種類も少ないし、食事の時間が全然楽しくなかったの」
「そ、そうですか」
シルフィーは過去を思い出すように窓の外を見やり、それから皿にのせられたケーキを口いっぱいに頬張った。生クリームをつけた口元が、幸せそうに緩む。
「外部から人の出入りはないんだけどね、集落の外にも人がいることはみんな知っていた。高い山の上にある集落だから、天気がいい日にじゃ小さくだけど麓の集落が見えるんだよ。あそこに住む人達はどんなごはんを食べているんだろうな、って毎日考えていたの」
わずか10歳の少女が美食を求めて、辺境の集落からの脱出を試みた。幼いシルフィーが毎日思い悩むほどの粗食とはどれほどのものなのだろうと不思議に思うと同時に、少女の食に対する執着に恐ろしささえも感じる。下手をすれば山の中で野垂れ死んでいたのだ。
カフェで席についた当初、シルフィーに向かって「ケーキ、2個も食べるんですか?」と聞いてしまったことが悔やまれる。命を懸けて求めたものなのだから、好きなだけ食べればよいのだ。
皿に残るクリームを綺麗にさらい、シルフィーは言う。
「粗食を除けばいい集落だったよ。みんな優しかったし、仲も良かった。山の中で遊ぶこともできたし、読み書きくらいは教えてもらえたしね。書き物が得意な人が物語を作ったりもしていて、退屈と感じたことはなかったな。外から人を受け入れたら、住みたい人はいるんじゃないかな」
「へぇ…どんなところか見てみたいです」
「私も詳しい場所なんて覚えていないから、帰ろうと思っても帰れないや。魔法管理部で集落情報は登録されていたから、まだ存在はするはずだけど」
シルフィーがミルクたっぷりの紅茶を飲みほしたので、ゼータもつられてグラスを口に運ぶ。氷がほとんど溶けてしまったアイスコーヒーは、大分薄くなってしまっている。何か追加の飲み物を頼もうかと、ゼータがメニュー表の手を伸ばした時である。あ、と声を上げ、シルフィーは窓の外を指さした。
「どうしました?」
「あれ、クリスだ」
シルフィーの指さす先は、眼下にあるポトスの街の大通り。大勢の人並みの片端で、確かに見慣れた金色の頭が動いている。
「…本当、クリスですね。買い物でしょうか」
「んー…」
クリスが向かう先には大きな書店がある。大方魔法書でも買いに行くだろうと予想したゼータは、窓ガラスから視線を外す。それよりも今は追加の飲み物だ。いつもコーヒーと紅茶ばかりだから、たまには物珍しい飲料を頼もうか。
「ゼータゼータ、メリオンもいるよ!」
「え?」
シルフィーの叫び声を聞き、ゼータは再度大通りを見下ろした。確かにクリスの傍にはメリオンの姿がある。目立たない黒髪であるがゆえに、すぐには気が付かなかった。
「一緒に買い物かなぁ。クリスとメリオンって、そんなに仲が良いの?」
「う、うーん。たまたまじゃないですか。たまたま同じ書店で買いたい本があったとか…」
とりあえず無難な答えで場を凌ぐゼータである。
多分、恐らく、十中八九、いやほぼ100%と言い換えても良い。メリオンとクリスはデート中だ。恋人関係の2人が肩を並べて歩いていることを、デート以外の言葉で表すことなどできやしない。一緒に食事をした後なのかもしれないし、これから3時のおやつを食べに行くのかもしれない。書店でお揃いの手帳を買う予定なのかも。この際2人のデートの内容はどうでも良い。仲がよろしくて結構だ。
しかしここで問題となるのは、王宮内でメリオンとクリスの関係を正しく知る者が、ゼータとザト、そしてレイバックしかいないということ。その他の者はと言えば、メリオンとクリスはただの飲み友達だと思っている。メリオンが突然女性になった経緯についても、「運の悪い事故に行き会った」だけだと。そう認識されているのだ。メリオンもクリスも、意図的に周囲に関係を隠しているわけではないのだと思う。ただ単に言う必要がないから言っていないというだけ。
けれどもただ一つ確かなことがある。それは今ゼータがシルフィーに「あの2人、実は付き合っているんですよ。恋人同士なんです」と暴露することは絶対に不味い。なぜなら魔法研究所の一件があるからだ。ゼータが拡声器ミーアの前で口を滑らせ、魔法研究所の面々がメリオンとの謁見を望んだのはほんの数週間前のこと。特大級の爆弾処理をさせられたのは苦い思い出だ。その思い出があるからこそ、ゼータはもう2人の関係には首を突っ込みたくないのだ。ここでシルフィーに余計なことを言えば、またメリオンの怒りを買うことは目に見えている。女の姿になっても淫猥物は淫猥物。ゼータとて貞操は惜しい。
余計な事を言わないが吉。ゼータがそう肝に銘じる横で、シルフィーは空になった皿の上にフォークを置いた。
「ゼータ、行くよ」
「え?もう出るんですか?私、もう1杯飲みたいんですけれど」
メニュー表を指さすゼータ。シルフィーはそんなゼータを見つめながら、にんまりと悪戯げに笑う。
「尾行開始だよ」
この建物の2階には、1階の菓子店で購入した菓子をその場で食べることができる小さなカフェが併設されている。窓際に設置されたカウンター席からは、窓の外に大通りを見下ろすことができ、見晴らしの良さから何度も足を運びたくなる場所だ。
その見晴らしの良いカウンター席に、2人の男女が腰かけている。額をくっつけるほどの距離で談笑に興じるその2人は、逢瀬を重ねる恋人同士ではない。
「最近ね。カミラの指示で、保育に知のある侍女が数人雇われたんだよ。知ってた?」
まん丸な頬の横で、赤茶色の髪を揺らすその少女は、妖精族長のシルフィーだ。手元には真っ白な更に盛られた2つのケーキ。ケーキのおともはミルクのたっぷり入った紅茶。
「知らないです。何で?子どもが生まれる官吏でもいるんですか?」
そう返す人物はゼータだ。手元に置かれている物は、ガラスの器に入れられたプリン。プリンのおともは冷たいコーヒーで、こちらは砂糖もミルクも入っていない。茶飲み友達の2人は、月に1度こうしてポトスの街中のカフェを訪れ雑談に興じる。訪れるカフェは毎回違うのだが、このカフェは3か月に1度は訪れる場所だ。
「何でって、王妃様の懐妊に備えてのことに決まっているじゃない。みんな心待ちにしているんだから」
「ええ…荷が重い…」
「ゼータは子ども、欲しくないの?」
「欲しくないという訳じゃないですけど…。積極的に作るつもりも、作らないつもりもないですねぇ」
「そうなんだ」
「そもそもレイは半分ドラゴンですからね。子どもを望んだところで、懐妊に至るかどうかも分からないですし」
「確かにね。普通の魔族同士よりは確率は低そうだねぇ」
魔族には多種多様な種族が存在する。異種間の交配については明らかになっていない部分も多いのだが、一般的に身体の形態が似通った者同士は繁殖が可能だとされている。種族は違えど人型同士であれば繁殖は可能だし、同じ種族内でも身体の形態があまりにも異なると繁殖率は低くなる。獣人族や幻獣族には多様な形態の者が存在するため、一言で同じ種族間であれば繁殖が可能であるとは言い難いのだ。
そしてレイバックの半身であるドラゴンは、ドラキス王国内に生息するどの種族にも属さない。神獣と呼ばれる、通常の魔族とはまた違った存在なのである。ドラゴン同士の繁殖については書物に記載されているが、他種族との繁殖については一切不明。前例と言えるものがレイバック自身しかいないのだ。交配の可能性は未知数だ。
「だからあまり期待されても困るんですよね。子どもの顔を見たいというカミラの気持ちはわかりますけど…」
「大丈夫だよ。魔族の人生は長いんだから。やる事をやっていればそのうち1人くらいできるよ」
そう言ったシルフィーは、1つ目のケーキの切れ端をさらう。
幼げな少女の唇から「やる事をやっていれば」という生々しい言葉。中々の破壊力だ。齢800を超えるシルフィーであるが、その外見は人間でいうと12,3歳ほどでしかないのだ。今着ている衣服もふわふわとした薄水色のワンピース、国家の重鎮とはとても思えないいで立ちだ。
「シルフィーには、子どもはいないんですか?」
「いないよ。私は子どもを作れないの」
「え?」
まずい事を聞いてしまったかと、ゼータの表情は曇る。しかしシルフィーは、そんなゼータの表情を見て朗らかな笑い声を立てた。
「違う違う。悲しい理由じゃないよ。私の種族は子どもを作らないんだよ」
「ああ、そういう事ですか」
ゼータは安堵の息を吐く。妖精族や精霊族の一部には、性行為による繁殖活動を行わない種族がいる。希少種などとも呼ばれ、ドラキス王国内の辺境の地で独自の文化を築きあげているのだ。部外者の立ち入りを禁じている場合も多く、集落内部の様子は謎に包まれている。シルフィーは、その謎に包まれた希少な種族の1人ということだ。シルフィーとは長い付き合いになるゼータであるが、今初めて明らかになる事実である。
「シルフィーの種族は、どうやって子孫を残すんですか?」
「分裂するの」
「…分裂?」
「そう。お年頃になると分裂するの」
「…分裂」
ゼータの頭の上には疑問符が浮かぶ。2個目のケーキをつつくシルフィーの足は、床につくことなくぷらぷらと揺れている。
「私もよく知らないんだけどね。故郷の集落の端っこにはお社があるの。お年頃にそのお社に行って祈りを捧げるとね、分裂するんだって」
「…へぇ」
「私の身体が子どものままなのは、まだ分裂したことがないからなんだよ。普通は何度が分裂を重ねて、成人の身体になるものなの」
研究職員としての血が騒ぎ、ゼータはシルフィーに身体を寄せる。
「分裂した個体は、本体と同じ形態をしているのですか?」
「違うよ。分裂した個体は赤子なの。だから『子どもを作る』という言い方も間違いではないんだけど、集落内では子どもとは言わなかったな。何て呼んでいたかは忘れちゃった。成長しても同じ見た目にはならないよ。言われてみれば似ているかな、くらい」
「分裂するのは女性だけですか?」
「男性もするよ。女性からは女性の個体、男性からは男性の個体が分裂するの。でも集落にいるときは、性別という概念はあまり感じなかったかな。なんとなく二種類の見た目の人がいるな、とは思っていたけど」
「シルフィーの集落には、外に出てはいけないという決まりはなかったんですか?」
「あったよー。外から人は入れないし、中から出ることもできない。私が集落から逃げ出したのは10歳くらいの頃だったんだけどね。うまく逃げられたから良かったけど、捕まっていたらまずかっただろうな。折檻くらいじゃ済まなかったかも」
「…逃げ出したんですか?」
「高い山の上の集落なんだけどね。夜、皆が寝静まったときに着の身着のままで集落を出たの。集落を出ること自体は難しくはなかったんだけど、人の出入りがないから山にも道がないんだもの。1週間くらい彷徨ったかなぁ。運よく麓の小人族の集落に出て、そこで保護してもらったの」
「えっと、差支えなければで良いんですけれど。なぜ逃げ出したんですか?」
見るに堪えぬ風習があった、小さな集落内で諍いがあった、厳しい規律を守ることに疲れた。様々な回答を頭の中で巡らせるゼータであったが、シルフィーの答えは予想外のものであった。
「ごはんが美味しくなかったの」
「…ん?」
「粗食なの。山でとれた山菜とか木の実とか。あとたまに動物の肉。味付けも薄いし、料理の種類も少ないし、食事の時間が全然楽しくなかったの」
「そ、そうですか」
シルフィーは過去を思い出すように窓の外を見やり、それから皿にのせられたケーキを口いっぱいに頬張った。生クリームをつけた口元が、幸せそうに緩む。
「外部から人の出入りはないんだけどね、集落の外にも人がいることはみんな知っていた。高い山の上にある集落だから、天気がいい日にじゃ小さくだけど麓の集落が見えるんだよ。あそこに住む人達はどんなごはんを食べているんだろうな、って毎日考えていたの」
わずか10歳の少女が美食を求めて、辺境の集落からの脱出を試みた。幼いシルフィーが毎日思い悩むほどの粗食とはどれほどのものなのだろうと不思議に思うと同時に、少女の食に対する執着に恐ろしささえも感じる。下手をすれば山の中で野垂れ死んでいたのだ。
カフェで席についた当初、シルフィーに向かって「ケーキ、2個も食べるんですか?」と聞いてしまったことが悔やまれる。命を懸けて求めたものなのだから、好きなだけ食べればよいのだ。
皿に残るクリームを綺麗にさらい、シルフィーは言う。
「粗食を除けばいい集落だったよ。みんな優しかったし、仲も良かった。山の中で遊ぶこともできたし、読み書きくらいは教えてもらえたしね。書き物が得意な人が物語を作ったりもしていて、退屈と感じたことはなかったな。外から人を受け入れたら、住みたい人はいるんじゃないかな」
「へぇ…どんなところか見てみたいです」
「私も詳しい場所なんて覚えていないから、帰ろうと思っても帰れないや。魔法管理部で集落情報は登録されていたから、まだ存在はするはずだけど」
シルフィーがミルクたっぷりの紅茶を飲みほしたので、ゼータもつられてグラスを口に運ぶ。氷がほとんど溶けてしまったアイスコーヒーは、大分薄くなってしまっている。何か追加の飲み物を頼もうかと、ゼータがメニュー表の手を伸ばした時である。あ、と声を上げ、シルフィーは窓の外を指さした。
「どうしました?」
「あれ、クリスだ」
シルフィーの指さす先は、眼下にあるポトスの街の大通り。大勢の人並みの片端で、確かに見慣れた金色の頭が動いている。
「…本当、クリスですね。買い物でしょうか」
「んー…」
クリスが向かう先には大きな書店がある。大方魔法書でも買いに行くだろうと予想したゼータは、窓ガラスから視線を外す。それよりも今は追加の飲み物だ。いつもコーヒーと紅茶ばかりだから、たまには物珍しい飲料を頼もうか。
「ゼータゼータ、メリオンもいるよ!」
「え?」
シルフィーの叫び声を聞き、ゼータは再度大通りを見下ろした。確かにクリスの傍にはメリオンの姿がある。目立たない黒髪であるがゆえに、すぐには気が付かなかった。
「一緒に買い物かなぁ。クリスとメリオンって、そんなに仲が良いの?」
「う、うーん。たまたまじゃないですか。たまたま同じ書店で買いたい本があったとか…」
とりあえず無難な答えで場を凌ぐゼータである。
多分、恐らく、十中八九、いやほぼ100%と言い換えても良い。メリオンとクリスはデート中だ。恋人関係の2人が肩を並べて歩いていることを、デート以外の言葉で表すことなどできやしない。一緒に食事をした後なのかもしれないし、これから3時のおやつを食べに行くのかもしれない。書店でお揃いの手帳を買う予定なのかも。この際2人のデートの内容はどうでも良い。仲がよろしくて結構だ。
しかしここで問題となるのは、王宮内でメリオンとクリスの関係を正しく知る者が、ゼータとザト、そしてレイバックしかいないということ。その他の者はと言えば、メリオンとクリスはただの飲み友達だと思っている。メリオンが突然女性になった経緯についても、「運の悪い事故に行き会った」だけだと。そう認識されているのだ。メリオンもクリスも、意図的に周囲に関係を隠しているわけではないのだと思う。ただ単に言う必要がないから言っていないというだけ。
けれどもただ一つ確かなことがある。それは今ゼータがシルフィーに「あの2人、実は付き合っているんですよ。恋人同士なんです」と暴露することは絶対に不味い。なぜなら魔法研究所の一件があるからだ。ゼータが拡声器ミーアの前で口を滑らせ、魔法研究所の面々がメリオンとの謁見を望んだのはほんの数週間前のこと。特大級の爆弾処理をさせられたのは苦い思い出だ。その思い出があるからこそ、ゼータはもう2人の関係には首を突っ込みたくないのだ。ここでシルフィーに余計なことを言えば、またメリオンの怒りを買うことは目に見えている。女の姿になっても淫猥物は淫猥物。ゼータとて貞操は惜しい。
余計な事を言わないが吉。ゼータがそう肝に銘じる横で、シルフィーは空になった皿の上にフォークを置いた。
「ゼータ、行くよ」
「え?もう出るんですか?私、もう1杯飲みたいんですけれど」
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