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安らかに眠れ、恐ろしくも美しい緋色の龍よ
緋色の龍
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この世界のどこかにはドラゴンのコロニーがある、という話を聞いたことがあるだろうか。ドラゴンは孤高な存在でいて、基本的に群れを作ることはないが、例外的にそのコロニーにおいては数十匹のドラゴンが寄り集まって暮らしている。何故と言われれば分からない。ドラゴンの生態については多くが謎のままであるからだ。群れの多くは子を宿した雌のドラゴンと、単体で狩りができない子どものドラゴンであるという説もある。
さて、遠い昔の話をしよう。とある高い高い山のいただきに、小さな集落があった。その山には凶暴な魔獣が多数生息していたが、例外的に山頂付近だけは魔獣が近寄らずにいた。というのも、山のいただきにドラゴンがコロニーを作っていたからだ。数十匹に及ぶドラゴンが、同じ土地に寄り集まって暮らしていた。つまりその小さな集落というのは、ドラゴンのコロニーの内部に位置する集落ということだ。付近の魔獣はドラゴンを恐れ、山のいただき付近に近づくことは決してしない。集落の住人はドラゴンの機嫌を損ねないようにと最大限気を遣いながら、強大な魔力の庇護を受けて暮らしていた。
ドラゴンの庇護を受けているがゆえに、その集落には忌まわしき風習があった。供儀だ。集落では神獣の庇護を受ける代価として、10年に一度生贄を捧げていた。勿論、ドラゴンが生贄を欲したのではない。ただ集落の者たちが勝手にやっていたことだ。ドラゴンの魔力はそれほどまでに凄まじく、ただ恩恵ばかりを受けるということが恐ろしかったのだろう。だから集落内の若く美しい娘を、一方的に生贄として捧げていた。
ある供儀の年、生贄として選ばれたのはとある人間の娘であった。人間にしては珍しい、燃えるような緋髪の娘。その娘は元々の集落の住人ではなかった。籠に入れられて山の中に捨てられていた赤子を、集落の住人が保護したのだ。当時その山の麓には、日々の食にも困る貧しい村がいくつもあった。そのような村の者が、育てることのできない子どもを山の中に捨てていったのだろう。当時集落の住人は魔族ばかりであったが、人間の娘は大切に育てられた。親兄弟のいない異種族の子どもなど、生贄として最適だからだ。魔族は家族の情に薄いなどとも言われるが、望んで我が子をドラゴンの贄にしたい者などいない。そうして娘は集落の中で十数年のときを過ごし、17を迎えた年に生贄として捧げられた。
集落の者は、当然娘は死んだものだと思っていた。娘が死ぬ瞬間を見たわけではなくとも、獣の巣窟に足を踏み入れた柔らかな肉がまさか生きていられるはずがない。娘はドラゴンに喰われ、集落を守る神獣の一部となったのだ。誰もがそう思っていた。
しかし供儀が行われてから3か月も経った頃、予想だにせぬ出来事が起こった。生贄として捧げられたはずの娘が生きて帰って来たのだ。それも身体には傷一つなく、酷くやつれた様子もない。3か月前と同じ美しい面影を保っていた。集落の者は初めこそ娘を訝しんだ。生贄となった振りをして、今までどこかに隠れ住んでいたのではないか、と。だが娘は「違う」という。「私はコロニーに住む1匹のドラゴンに番として認められた。だから殺されずに帰されたのだ」と。
集落の者は娘の言うことを信じなかった。人間がドラゴンの番として認められることなど有り得ない。娘は運良くドラゴンの牙を逃れただけ。番に認められたなどという話は、死にたくないがための虚言である。誰もがそう言った。しかし一月二月と時が経つにつれて、集落の者たちは娘の言葉を疑うことができなくなる。娘の腹が大きく膨らみ始めたからだ。そこに新たな生命が宿っていることは明らかであった。まさか娘は本当にドラゴンの番となり、人間の身でありながら神獣の子を宿したのか。集落の者は畏怖と尊崇の入り混じる気持ちで、日々大きくなる娘の腹を眺めていた。
そして供儀からちょうど10月が経ったとき、娘は男児を出産した。生まれた男児は人の姿でありながらも、身体のあちこちに緋色の鱗を持ち、背中には小さな羽が生えていた。ドラゴンの血を引く人間の子ども。集落の者は、その不可思議な存在をどう扱えば良いのか分からなかった。
その年、集落にとって残念なことが2つ起こった。一つはドラゴンの子を産んだ娘が亡くなったこと。産後の肥立ちが悪かったのだ。異種族の子を産むということは、女性の身体に多大なる負担をかける。神獣の血を引く子を産んだとなれば殊更だ。娘は我が子の手を握りしめながら息絶え、亡骸は見晴らしの良い山頂に埋められた。
そしてもう一つ、集落にとって残念なこと。それは村の守り手であるドラゴンたちが、コロニーを解体してしまったということだ。ドラゴンは数百年に一度の頻度でコロニーの場所を変えると言われている。その数百年に一度の「ドラゴンたちのお引越し」が、偶然にも娘の亡くなった年に重なったのだ。
集落の者たちは大空を仰ぎ、去り行くドラゴンの群れを見送った。涙を流す者もいた。ドラゴンの庇護失くして集落は成り立たない。強大な魔力の残渣が消えたとき、集落には多数の魔獣が押し寄せるだろう。すぐにでも荷物をまとめ、人々は集落を立ち去る必要があった。女子どもの多い集落だ。魔獣を退けながら山を下りることには難儀するだろう。安全な土地を見つけ、新しい集落を作ることも容易ではない。
――見て、ドラゴンが戻ってくる
空を見上げる少年が言った。集落の者は導かれるようにしてまた大空を仰ぐ。確かに1匹のドラゴンが群れを離れ、集落のある方へと引き返してくる。青空に映える、大きな緋色のドラゴンだ。緋色のドラゴンは見晴らしの良い山頂に降り立つと、柔らかな芝生にうずくまり、そのまま動かなくなった。そこは娘の遺骸が埋められた場所。集落の者たちは悟る。あの緋色のドラゴンこそが娘の番であると。
緋色のドラゴンは娘の遺骸を守るように、いつまでもそこにいた。仲間であるドラゴンの群れが飛び去ってもなお。食うことを止め命が絶えかけてもなお。肉と内腑が腐り落ち、真っ白な骨だけになってもなお。地中に埋まる娘の亡骸に寄り添うようにして、いつまでもいつまでもそこにいた。
「――と、これがククの故郷に語り継がれる『緋色のドラゴンに関する伝説』だ」
そう話を締めくくると、青年は額に流れる汗を拭った。青年の話に耳を澄ませるうちに、太陽は天高く昇っている。3人が腰を下ろす場所は湖畔の木陰であるけれど、まとわりつくような熱気から逃れることはできない。周囲に木々が生い茂っているために、風の抜ける場所がないのだ。藍緑色の泉の周りには、むせ返るような暑さが立ち込めている。
「緋色のドラゴンと…緋髪の娘?」
尋ねるゼータの声は掠れていた。異常に喉が渇くのは、うだるような暑さのためだけではない。心臓がどくどくと脈打っている。
「そうだ。ドラゴンが娘を番にしたのは、その緋髪が理由ではないかと言われている。自身と同じ色を持つ娘に情が移ったのではないか、とな」
「その話は実話でしょうか。それとも単なる作り話?」
「さぁ、どうだろう。確かめる術がないから分からないな。だが精霊の里が、ドラゴンの遺骸に守られた土地であるというのは本当だ。里の外れには朽ちてぼろぼろになったドラゴンの骨が祀られている。強大な魔力の籠る神獣の死骸は、そこにあるだけで他の生物を遠ざける。遠い昔に息絶えたドラゴンの骨が、今もなお里を守り続けているんだ」
精霊の里、そこは一体どのような場所なのだろう。高山の山頂部に位置する外部から隔絶された集落。言葉すらも通じない異質の土地。だが10年に一度の祭りに合わせて、里の者が山を下りてくるというのだから、部外者との接触を拒むという土地柄ではなさそうだ。里へ向かう山道も、きっと命の危険を冒すような悪路ではない。
ゼータは生い茂る木々の向こうに山脈を臨み、それから目の前の泉へと目線を落とした。泉のほとりには、一足早く会話から離脱したククがいる。「緋色のドラゴンに関する伝説」を語り終えたことで、自らの役割は終わりと判断したのだろう。水際ぎりぎりの場所にしゃがみ込んだククは、両手のひらを胸の前で組みじっと押し黙る。人が神に祈りを捧げるような格好だ。
「ククは何をしているんでしょう」
「水底に沈んだドラゴンを弔っている。ククにとって、ドラゴンは生活を守る神様だからな。週に一度泉を訪れては、ああして死んだドラゴンに祈りを捧げている」
ああ、そうなんだ。ゼータは呟き、泉のほとりに座る小さな背中を見つめた。生い茂る深緑の木々、苔むした岩々、藍緑色の水面に浮かぶ蓮葉。枝葉の間から降り注ぐ陽光と、そして泉のほとりで祈りを捧げるすみれ色の髪の少女。身震いするほどに美しい光景だ。旅の間に数えきれないほどの美しい景色を見た。だが目の前の景色に涙が零れ落ちそうになるのは初めての経験だ。跳ねるような鼓動は治まっていた。
「さっきの話…」
「ん?」
「伝説の中で、緋髪の娘は男児を産んだんですよね。男児はその後どうなったんでしょう」
「言い伝えられている伝説は、さっき話した分で全てだ。男児のその後については語られていない」
「貴方は、その男児が生き延びたと思いますか?死んだ母親の代わりに、誰かが大切に育ててくれたと思います?」
「…なぜそんなことを聞くんだ」
「何となくです。その伝説に続きがあるとしたら、一体それはどんな物語なのかなって」
青年は腕を組み、考え込む。泉のほとりでは、祈ることを止めたククが水面に枯葉を浮かべていた。それが祈りの一環であるのか、それとも単なる手遊びであるのかは分からない。ククが水面をすいとなぞれば、枯葉は泉の中心へと向かって流れていく。水面に浮かぶ物が枯葉ではなく生花であれば、さぞかし絵になる光景であろう。ゼータは目に流れ込まんとする汗を拭い、青年の答えを待つ。
「…大切には育てられなかったかもしれないな。当時集落の者たちはドラゴンを崇め奉りながらも、ドラゴンの持つ強大な力を恐れていた。だから供儀などという物騒な風習が生まれたんだろう。ならばその強大な力を継ぐ男児を、集落の中に置いておくことは恐ろしいだろうさ」
「殺されてしまったでしょうか」
「直接手に掛けることはしなかったんじゃないか。ドラゴンを神だと思うのなら、男児は神の血を継ぐ子どもなわけであるし。例えば籠に入れて川に流すとか、森の中に置き去りにするとか…。直接手を下さずとも、男児を集落から追放する方法はいくらでもあるだろう」
確かにそうかもしれない。人は異端を恐れるものだ。自らの力が及ばぬ存在もまた、恐れるものだ。ならば神獣の血を引く男児は、集落の者にとってさぞかし恐ろしい存在であっただろう。今はまだ幼く愛らしくとも、いつか我らに牙を剥きやしないかと。しかし集落の者は男児を殺せない。父である緋色のドラゴンが集落を守っているのだから、男児を殺すことは守り神の血を殺すことだ。
男児を村に置いておくこともできない、だからといって殺すこともできない。ならば集落の者に残された道は、男児を殺さずに集落から追放することだけだ。男児に宿る獣の力を信じ、森の中に置き去りにするか。それとも誰かに拾い上げられることを信じ、籠に入れて川に流すか。
ゼータは俯き、「ふふ」と笑い声を零す。青年が驚いたようにゼータを見る。今の話のどこに笑うべき要素があったのだ、とでも言いたげである。
ああ、神よ。これは何と素晴らしい奇跡だ。
「その男児はね、きっと王様になったと思いますよ」
「…はぁ、王様?」
「そう。遠い遠い異国の地で王様になったんです。ドラゴンの王様が治める国、凄いでしょう。その国では人間と魔族が皆平等に暮らせるんです。人間が奴隷にされることもなく、特定の種族が蔑まれることもなく、全ての人が幸せに暮らせる国。王様はその夢のような国のいただきで、たくさんの人に愛されて、ずっとずっと幸せに暮らすんです」
「…それが、あんたが考えた物語の続き?」
「そう。『緋色のドラゴンに関する伝説』」の結末です」
「おとぎ話としてはありきたりな結末だが、悪くないんじゃないか。あとでククに伝えておく」
ゼータと青年が眺める先では、ククが泉に小石を投げ入れていた。ククの右手を離れた小石は、ぽちゃんと音を立てて水に落ちる。石を投げることに弔いの意図があるとは思えないから、あれは単なる手遊びだろう。「あーあ、暇だな。早く話、終わらないかな」ククの心の声が聞こえてくるようだ。よいしょっと、ゼータは掛け声とともに立ち上がる。
「さて、すみませんが最後にもう一つだけ教えていただけますか」
「構わないが手短に頼む。ククがあの調子だから」
青年はククの背中を指さす。ゼータは青年の空色の瞳を見つめる。
「精霊の里の場所を教えてください」
さて、遠い昔の話をしよう。とある高い高い山のいただきに、小さな集落があった。その山には凶暴な魔獣が多数生息していたが、例外的に山頂付近だけは魔獣が近寄らずにいた。というのも、山のいただきにドラゴンがコロニーを作っていたからだ。数十匹に及ぶドラゴンが、同じ土地に寄り集まって暮らしていた。つまりその小さな集落というのは、ドラゴンのコロニーの内部に位置する集落ということだ。付近の魔獣はドラゴンを恐れ、山のいただき付近に近づくことは決してしない。集落の住人はドラゴンの機嫌を損ねないようにと最大限気を遣いながら、強大な魔力の庇護を受けて暮らしていた。
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ある供儀の年、生贄として選ばれたのはとある人間の娘であった。人間にしては珍しい、燃えるような緋髪の娘。その娘は元々の集落の住人ではなかった。籠に入れられて山の中に捨てられていた赤子を、集落の住人が保護したのだ。当時その山の麓には、日々の食にも困る貧しい村がいくつもあった。そのような村の者が、育てることのできない子どもを山の中に捨てていったのだろう。当時集落の住人は魔族ばかりであったが、人間の娘は大切に育てられた。親兄弟のいない異種族の子どもなど、生贄として最適だからだ。魔族は家族の情に薄いなどとも言われるが、望んで我が子をドラゴンの贄にしたい者などいない。そうして娘は集落の中で十数年のときを過ごし、17を迎えた年に生贄として捧げられた。
集落の者は、当然娘は死んだものだと思っていた。娘が死ぬ瞬間を見たわけではなくとも、獣の巣窟に足を踏み入れた柔らかな肉がまさか生きていられるはずがない。娘はドラゴンに喰われ、集落を守る神獣の一部となったのだ。誰もがそう思っていた。
しかし供儀が行われてから3か月も経った頃、予想だにせぬ出来事が起こった。生贄として捧げられたはずの娘が生きて帰って来たのだ。それも身体には傷一つなく、酷くやつれた様子もない。3か月前と同じ美しい面影を保っていた。集落の者は初めこそ娘を訝しんだ。生贄となった振りをして、今までどこかに隠れ住んでいたのではないか、と。だが娘は「違う」という。「私はコロニーに住む1匹のドラゴンに番として認められた。だから殺されずに帰されたのだ」と。
集落の者は娘の言うことを信じなかった。人間がドラゴンの番として認められることなど有り得ない。娘は運良くドラゴンの牙を逃れただけ。番に認められたなどという話は、死にたくないがための虚言である。誰もがそう言った。しかし一月二月と時が経つにつれて、集落の者たちは娘の言葉を疑うことができなくなる。娘の腹が大きく膨らみ始めたからだ。そこに新たな生命が宿っていることは明らかであった。まさか娘は本当にドラゴンの番となり、人間の身でありながら神獣の子を宿したのか。集落の者は畏怖と尊崇の入り混じる気持ちで、日々大きくなる娘の腹を眺めていた。
そして供儀からちょうど10月が経ったとき、娘は男児を出産した。生まれた男児は人の姿でありながらも、身体のあちこちに緋色の鱗を持ち、背中には小さな羽が生えていた。ドラゴンの血を引く人間の子ども。集落の者は、その不可思議な存在をどう扱えば良いのか分からなかった。
その年、集落にとって残念なことが2つ起こった。一つはドラゴンの子を産んだ娘が亡くなったこと。産後の肥立ちが悪かったのだ。異種族の子を産むということは、女性の身体に多大なる負担をかける。神獣の血を引く子を産んだとなれば殊更だ。娘は我が子の手を握りしめながら息絶え、亡骸は見晴らしの良い山頂に埋められた。
そしてもう一つ、集落にとって残念なこと。それは村の守り手であるドラゴンたちが、コロニーを解体してしまったということだ。ドラゴンは数百年に一度の頻度でコロニーの場所を変えると言われている。その数百年に一度の「ドラゴンたちのお引越し」が、偶然にも娘の亡くなった年に重なったのだ。
集落の者たちは大空を仰ぎ、去り行くドラゴンの群れを見送った。涙を流す者もいた。ドラゴンの庇護失くして集落は成り立たない。強大な魔力の残渣が消えたとき、集落には多数の魔獣が押し寄せるだろう。すぐにでも荷物をまとめ、人々は集落を立ち去る必要があった。女子どもの多い集落だ。魔獣を退けながら山を下りることには難儀するだろう。安全な土地を見つけ、新しい集落を作ることも容易ではない。
――見て、ドラゴンが戻ってくる
空を見上げる少年が言った。集落の者は導かれるようにしてまた大空を仰ぐ。確かに1匹のドラゴンが群れを離れ、集落のある方へと引き返してくる。青空に映える、大きな緋色のドラゴンだ。緋色のドラゴンは見晴らしの良い山頂に降り立つと、柔らかな芝生にうずくまり、そのまま動かなくなった。そこは娘の遺骸が埋められた場所。集落の者たちは悟る。あの緋色のドラゴンこそが娘の番であると。
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「――と、これがククの故郷に語り継がれる『緋色のドラゴンに関する伝説』だ」
そう話を締めくくると、青年は額に流れる汗を拭った。青年の話に耳を澄ませるうちに、太陽は天高く昇っている。3人が腰を下ろす場所は湖畔の木陰であるけれど、まとわりつくような熱気から逃れることはできない。周囲に木々が生い茂っているために、風の抜ける場所がないのだ。藍緑色の泉の周りには、むせ返るような暑さが立ち込めている。
「緋色のドラゴンと…緋髪の娘?」
尋ねるゼータの声は掠れていた。異常に喉が渇くのは、うだるような暑さのためだけではない。心臓がどくどくと脈打っている。
「そうだ。ドラゴンが娘を番にしたのは、その緋髪が理由ではないかと言われている。自身と同じ色を持つ娘に情が移ったのではないか、とな」
「その話は実話でしょうか。それとも単なる作り話?」
「さぁ、どうだろう。確かめる術がないから分からないな。だが精霊の里が、ドラゴンの遺骸に守られた土地であるというのは本当だ。里の外れには朽ちてぼろぼろになったドラゴンの骨が祀られている。強大な魔力の籠る神獣の死骸は、そこにあるだけで他の生物を遠ざける。遠い昔に息絶えたドラゴンの骨が、今もなお里を守り続けているんだ」
精霊の里、そこは一体どのような場所なのだろう。高山の山頂部に位置する外部から隔絶された集落。言葉すらも通じない異質の土地。だが10年に一度の祭りに合わせて、里の者が山を下りてくるというのだから、部外者との接触を拒むという土地柄ではなさそうだ。里へ向かう山道も、きっと命の危険を冒すような悪路ではない。
ゼータは生い茂る木々の向こうに山脈を臨み、それから目の前の泉へと目線を落とした。泉のほとりには、一足早く会話から離脱したククがいる。「緋色のドラゴンに関する伝説」を語り終えたことで、自らの役割は終わりと判断したのだろう。水際ぎりぎりの場所にしゃがみ込んだククは、両手のひらを胸の前で組みじっと押し黙る。人が神に祈りを捧げるような格好だ。
「ククは何をしているんでしょう」
「水底に沈んだドラゴンを弔っている。ククにとって、ドラゴンは生活を守る神様だからな。週に一度泉を訪れては、ああして死んだドラゴンに祈りを捧げている」
ああ、そうなんだ。ゼータは呟き、泉のほとりに座る小さな背中を見つめた。生い茂る深緑の木々、苔むした岩々、藍緑色の水面に浮かぶ蓮葉。枝葉の間から降り注ぐ陽光と、そして泉のほとりで祈りを捧げるすみれ色の髪の少女。身震いするほどに美しい光景だ。旅の間に数えきれないほどの美しい景色を見た。だが目の前の景色に涙が零れ落ちそうになるのは初めての経験だ。跳ねるような鼓動は治まっていた。
「さっきの話…」
「ん?」
「伝説の中で、緋髪の娘は男児を産んだんですよね。男児はその後どうなったんでしょう」
「言い伝えられている伝説は、さっき話した分で全てだ。男児のその後については語られていない」
「貴方は、その男児が生き延びたと思いますか?死んだ母親の代わりに、誰かが大切に育ててくれたと思います?」
「…なぜそんなことを聞くんだ」
「何となくです。その伝説に続きがあるとしたら、一体それはどんな物語なのかなって」
青年は腕を組み、考え込む。泉のほとりでは、祈ることを止めたククが水面に枯葉を浮かべていた。それが祈りの一環であるのか、それとも単なる手遊びであるのかは分からない。ククが水面をすいとなぞれば、枯葉は泉の中心へと向かって流れていく。水面に浮かぶ物が枯葉ではなく生花であれば、さぞかし絵になる光景であろう。ゼータは目に流れ込まんとする汗を拭い、青年の答えを待つ。
「…大切には育てられなかったかもしれないな。当時集落の者たちはドラゴンを崇め奉りながらも、ドラゴンの持つ強大な力を恐れていた。だから供儀などという物騒な風習が生まれたんだろう。ならばその強大な力を継ぐ男児を、集落の中に置いておくことは恐ろしいだろうさ」
「殺されてしまったでしょうか」
「直接手に掛けることはしなかったんじゃないか。ドラゴンを神だと思うのなら、男児は神の血を継ぐ子どもなわけであるし。例えば籠に入れて川に流すとか、森の中に置き去りにするとか…。直接手を下さずとも、男児を集落から追放する方法はいくらでもあるだろう」
確かにそうかもしれない。人は異端を恐れるものだ。自らの力が及ばぬ存在もまた、恐れるものだ。ならば神獣の血を引く男児は、集落の者にとってさぞかし恐ろしい存在であっただろう。今はまだ幼く愛らしくとも、いつか我らに牙を剥きやしないかと。しかし集落の者は男児を殺せない。父である緋色のドラゴンが集落を守っているのだから、男児を殺すことは守り神の血を殺すことだ。
男児を村に置いておくこともできない、だからといって殺すこともできない。ならば集落の者に残された道は、男児を殺さずに集落から追放することだけだ。男児に宿る獣の力を信じ、森の中に置き去りにするか。それとも誰かに拾い上げられることを信じ、籠に入れて川に流すか。
ゼータは俯き、「ふふ」と笑い声を零す。青年が驚いたようにゼータを見る。今の話のどこに笑うべき要素があったのだ、とでも言いたげである。
ああ、神よ。これは何と素晴らしい奇跡だ。
「その男児はね、きっと王様になったと思いますよ」
「…はぁ、王様?」
「そう。遠い遠い異国の地で王様になったんです。ドラゴンの王様が治める国、凄いでしょう。その国では人間と魔族が皆平等に暮らせるんです。人間が奴隷にされることもなく、特定の種族が蔑まれることもなく、全ての人が幸せに暮らせる国。王様はその夢のような国のいただきで、たくさんの人に愛されて、ずっとずっと幸せに暮らすんです」
「…それが、あんたが考えた物語の続き?」
「そう。『緋色のドラゴンに関する伝説』」の結末です」
「おとぎ話としてはありきたりな結末だが、悪くないんじゃないか。あとでククに伝えておく」
ゼータと青年が眺める先では、ククが泉に小石を投げ入れていた。ククの右手を離れた小石は、ぽちゃんと音を立てて水に落ちる。石を投げることに弔いの意図があるとは思えないから、あれは単なる手遊びだろう。「あーあ、暇だな。早く話、終わらないかな」ククの心の声が聞こえてくるようだ。よいしょっと、ゼータは掛け声とともに立ち上がる。
「さて、すみませんが最後にもう一つだけ教えていただけますか」
「構わないが手短に頼む。ククがあの調子だから」
青年はククの背中を指さす。ゼータは青年の空色の瞳を見つめる。
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