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安らかに眠れ、恐ろしくも美しい緋色の龍よ
縁者
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随分と長い時間眠ったような気がする。初めて眠るベッドで夢も見ないほどぐっすりと眠ってしまったのは、人の腕に抱かれることが心地よかったからか。
ゼータが目覚めると、部屋の中は柔らかな光に包まれていた。ベッドの枕元に位置する窓はすでにカーテンが開けられていて、たっぷりとした朝日が部屋の隅々までをも照らし出している。どうやら薄く窓が開けられているようで、細く舞い込む朝風が寝ぐせだらけのゼータの黒髪を撫でる。気持ち良い、こんな気持ちの良い朝はいつ以来だろう。
眠気眼でベッドから下りたゼータは、ふぁぁと大きな欠伸をしながらリビングへと続く扉を開けた。途端、香ばしいコーヒーの香りが鼻孔に流れ込む。コーヒーと、それに食欲をそそる朝食の匂い。見れば何と珍しいことにも調理台の前にはリジンの姿があった。どうやら卵を焼いているようで、ぱちぱちと油の弾ける音がする。
「リジン、おはようございます。すみません、寝坊しました」
ゼータがそう話しかけると、リジンはゼータを振り返ることなく答える。
「まだ6時前だ。寝坊はしていない」
「え、本当に?」
ゼータは壁にかかる時計を見上げる。アンティーク時計が示す時刻は午前5時52分。リジンの出勤はいつも午前7時半前後であるから、確かにまだ寝坊という時刻ではない。どちらかと言えばいつもより早起きであるくらいだ。
「たまたま早く目が覚めたんだ。特にすることもないから、たまには飯でも作るかと思って。ただそれだけだ。特に深い意味はない」
「…そうですか?続き、変わりましょうか」
「いらん。あんたは適当に座っていろ。コーヒーを淹れてやるから」
リジンは調理台上のコーヒーポットを掴み上げると、ゼータのマグカップにとくとくとコーヒーを注ぎ入れた。半ば強引に押し付けられるマグカップを、ゼータは目を白黒させながら受け取る。この家にやって来てから3週間、リジンが自ら進んでコーヒーを給仕してくれたのは初めての経験だ。朝食の準備を引き受けてくれるのも、初日を除けば初めてのこと。
不思議なこともあるものだと小首を傾げながらも、ゼータは大人しく食卓椅子に腰を下ろす。まだ淹れてからあまり時間は経っていなかったようで、マグカップの中のコーヒーはほかほかと温かい。香ばしい香りに誘われてマグカップに口を付ける。ドラキス王国でよく飲まれる品種とは少し味わいが違う、苦みよりも酸味が際立つ一杯だ。
のんびりとコーヒーの風味を楽しむゼータの目の前に、リジン手製の朝食が次々と並べられた。たっぷりとジャムを塗ったトーストに、多少のアレンジを加えられた根菜ときのこのスープ。縁がかりかりに焼けた目玉焼きに、瑞々しいフルーツの盛り合わせ。中々豪華な朝食である。リジンが食卓椅子に腰を下ろしたので、ゼータのコーヒータイムも一区切り。2人揃って「いただきます」と挨拶をする。
食事の最中、リジンは終始無言であった。昼夜問わず口数の多いリジンにしては珍しい。しかし決して不機嫌というわけではないらしく、大嫌いであるはずのきのこがちゅるりと口内に吸い込まれていく。暴言を吐かず、嫌味も言わず、不適と笑うこともせず、ただ黙々と朝食を口に運んでいる。奇妙だ、とても奇妙な光景だ。ゼータは時折上目遣いでリジンの様子を伺いながらも、同じように黙々と朝食を食む。
リジンがようやく会話らしい会話を口にしたのは、目の前の皿をすっかり綺麗にしたとき。
「あんた、この先どうするかは決まったのか」
突然の問いかけに、ゼータは口に入れたばかりの卵をもぐもぐと咀嚼する。
「この先って…国に帰るかどうか、ってことですよね」
「そうだ。昨晩はあまり乗り気ではなかっただろ。夜が明けて気持ちは変わったか」
ゼータは「んんー」と唸る。十分な睡眠とたっぷりとした朝日のおかげで、昨晩よりもいくらか気持ちは上向いている。少なくとも昨晩のように、無責任に全てを投げ出してしまいたいという気持ちにはならない。だからといって命を賭してドラキス王国に帰り着く気力があるかと言われれば、それは難しいところではあるけれど。
「…帰ることを選択肢の一つに入れてもいいかな、くらいの精神状態にはなりました」
「そうかよ、そりゃ良かったな」
リジンはふんと鼻を鳴らす。人を小馬鹿にしたような態度であることに違いはいないが、やはりリジンの様子は昨日までとどこか違う。言葉の端々から嫌味っぽさが消えたとでも言おうか、小指の先ほどの優しさが滲み出ているとでも言おうか。リジンが態度を軟化させた理由については、やはり昨晩の出来事が影響しているのだろうか。気恥ずかしい記憶を打ち消すように、ゼータは努めて明るい声を出す。
「でも実際、海を越えるのは簡単なことじゃないですよね。まさかハクジャからロマに向けて、定期船が運航されていたりはしないですよね?」
「そんなものはない。加えてハクジャにおいて船の所有が認められる者は、国に認められた奴隷商人と漁師だけだ。その他の者が船を持てば問答無用で処罰の対象だ。私的に船を作ることも禁止されている。ロマから奴隷を連れてくるという特性上、この辺りの法はかなり厳しく整備されている。法の眼をかいくぐることは考えない方が良い」
「船以外の方法で海を渡ることはできます?」
「丸太にしがみついて数日波に揺られていれば、運よくロマに辿り着ける可能性はあるかもな。ただしハクジャ近郊の海には、セイレーンの他にも多種の魔獣が生息する。中には魔族を一飲みにするような狂暴な魔獣も存在するから、死にたくなければお勧めはしない」
「そうですか…」
ゼータは呟き、中断していた食事を再開する。
ハクジャとロマがどれほどの距離関係にあるかは分からない。しかし簡単に往来ができるような距離ではないことは確かだろう。ゼータが奴隷商人の船に乗せられてハクジャへと連れてこられたとき、船に乗る魔族は2人がかりで船を漕いでいた。船の扱いに慣れた者が2人がかりで船を漕ぎ、所要時間は数時間。櫂の扱いすら知らないゼータが一人で船を漕ぎだしたとしたら、一体どれほどの時間がかかるのだろう?潮の流れる方向によっては、まったく見当違いの方向に船が進んでしまう可能性も捨てきれない。
そして船を漕ぎだす云々以前に、その船を用意することができないときたものだ。ロマの人々を奴隷として働かせる以上、船に関する規制はかなり厳しいものだろうと安易に想像はつく。人が海を越えたいと願うとき、まず初めに思いつく手段は船。奴隷の刻印を持つゼータがこのハクジャの地で船を手に入れることは、泉の水底から小さな指輪を探す以上に困難なことだ。
他に考え得る可能性があるとすれば、空飛ぶ魔獣を捕獲することだろうか。しかしゼータは魔獣を慣らせない。ハクジャ近郊の森林地帯をうろうろと彷徨ったところで、運良く飛行獣に出くわせるとも思えない。前途は難ばかりだ。
「あー…。もしあんたにその気があれば、の話ではあるが」
「ん?」
やや遠慮がちなリジンの声に、ゼータは考えることを止めた。フォークを手にしたまま真正面を見やれば、一見不機嫌とも見える表情のリジンがいる。しかしその表情はの本当に不機嫌というよりも、非常に言いにくいことを言おうとするときのそれに近い。
「もしも国に帰ることが億劫で、このままハクジャに滞在するつもりがあるのなら、という仮の話だ。もしもあんたがこのまま俺の家に住むというのなら…まぁ、何だ。縁者の刻印を押し直してやらんこともない、が」
「…縁者の?」
「そうだ。縁者となった奴隷は主の命令に従う必要がない。国内各施設への立ち入りに制限はなし、飯屋の利用や酒類の購入も自由自在。娯楽施設を利用することもできるし、ある程度高額な買い物も自らの意思で行うこともできる。奴隷の刻印を押されていることを除けば、俺達魔族と何ら変わりない生活を送ることができる。どうだ、悪い話じゃないだろう」
ハクジャの奴隷制における奴隷の枠組みは3つ。主に絶対的な服従を強いられる隷者、絶対的とは言わずともある程度の命令には従う必要がある従者、そして奴隷でありながらも自由な言動・行動が許される縁者。この中でも縁者は、主と奴隷が対等な関係を築くための仕組みなのだとかつてリジンは語った。例えば魔族の主が人間の奴隷と恋人関係、またはそれに類する関係を築くために。例えば奴隷市場で買い受けた子どもの奴隷を実子のように育てるために。ハクジャにいる奴隷の2割がこの縁者であるという。リジンの言う「刻印の押し直し」は、ゼータがこの先もハクジャに滞在するのなら最高とも言える待遇だ。
「確かに悪い話ではないですね。でも、どうして急にそんな提案を?」
「別に、深い理由などない。何となく思いついたから言ってみただけだ」
リジンの縁者となりハクジャの土地で暮らす。口にすればそれはとても魅力的な提案とも思われた。海を渡る方法だとか、ロマからドラキス王国に帰り着くまでの孤独で長い道のりだとか、面倒なことは全て忘れてしまったこの土地で新しい生活を得る。元より生きて帰ることは難しいと思っていた旅路。ゼータがドラキス王国に戻らなかったところで、国政運営になんら支障はない。クリスとビットとカミラと――それに数人の知り合いたちが少し悲しむだけだ。ドラキス王国は2代目国王の指揮の元、新しい歴史を刻む。ただそこに、かつての王と王妃の姿がないというだけの話だ。
今ここでリジンの提案を受け入れてしまえばどんなに楽だろう。帰還を諦め新しい土地での生活を始めれば、半身を喪った悲しみもいつかは消えてくれるだろうか。それでもゼータには、その魅力的な提案に飛びつくことができない理由がある。それは昨晩布団の中で行き着いた一つの可能性。絶望の中に残された、小さな小さな希望の光。
「リジン。一つお願いがあるんですけれどね」
「何だ」
「数日自由な時間をいただけませんか?彼の遺骸を見つけた泉の付近で、少し調べてみたいことがあるんです」
「何を足掻くつもりなのかは知らないが、過去は覆らない。死者は蘇らない」
「知っています。でも足掻きたいんです。後悔などしないように、ほんの少しだけ」
リジンは言葉を返さない。ゼータもそれ以上は何も言わない。温かな朝食を囲み、居心地の悪い沈黙が落ちる。無言のときが過ぎ、やがてリジンが口を開く。
「帰ってきたら俺の縁者になると約束しろ。約束すれば3日間だけ自由をやる。泉の傍で死者を悼むなり、思い出の品を探すなり、好きにすれば良い」
ありがとうございます、ゼータは笑う。
ゼータが目覚めると、部屋の中は柔らかな光に包まれていた。ベッドの枕元に位置する窓はすでにカーテンが開けられていて、たっぷりとした朝日が部屋の隅々までをも照らし出している。どうやら薄く窓が開けられているようで、細く舞い込む朝風が寝ぐせだらけのゼータの黒髪を撫でる。気持ち良い、こんな気持ちの良い朝はいつ以来だろう。
眠気眼でベッドから下りたゼータは、ふぁぁと大きな欠伸をしながらリビングへと続く扉を開けた。途端、香ばしいコーヒーの香りが鼻孔に流れ込む。コーヒーと、それに食欲をそそる朝食の匂い。見れば何と珍しいことにも調理台の前にはリジンの姿があった。どうやら卵を焼いているようで、ぱちぱちと油の弾ける音がする。
「リジン、おはようございます。すみません、寝坊しました」
ゼータがそう話しかけると、リジンはゼータを振り返ることなく答える。
「まだ6時前だ。寝坊はしていない」
「え、本当に?」
ゼータは壁にかかる時計を見上げる。アンティーク時計が示す時刻は午前5時52分。リジンの出勤はいつも午前7時半前後であるから、確かにまだ寝坊という時刻ではない。どちらかと言えばいつもより早起きであるくらいだ。
「たまたま早く目が覚めたんだ。特にすることもないから、たまには飯でも作るかと思って。ただそれだけだ。特に深い意味はない」
「…そうですか?続き、変わりましょうか」
「いらん。あんたは適当に座っていろ。コーヒーを淹れてやるから」
リジンは調理台上のコーヒーポットを掴み上げると、ゼータのマグカップにとくとくとコーヒーを注ぎ入れた。半ば強引に押し付けられるマグカップを、ゼータは目を白黒させながら受け取る。この家にやって来てから3週間、リジンが自ら進んでコーヒーを給仕してくれたのは初めての経験だ。朝食の準備を引き受けてくれるのも、初日を除けば初めてのこと。
不思議なこともあるものだと小首を傾げながらも、ゼータは大人しく食卓椅子に腰を下ろす。まだ淹れてからあまり時間は経っていなかったようで、マグカップの中のコーヒーはほかほかと温かい。香ばしい香りに誘われてマグカップに口を付ける。ドラキス王国でよく飲まれる品種とは少し味わいが違う、苦みよりも酸味が際立つ一杯だ。
のんびりとコーヒーの風味を楽しむゼータの目の前に、リジン手製の朝食が次々と並べられた。たっぷりとジャムを塗ったトーストに、多少のアレンジを加えられた根菜ときのこのスープ。縁がかりかりに焼けた目玉焼きに、瑞々しいフルーツの盛り合わせ。中々豪華な朝食である。リジンが食卓椅子に腰を下ろしたので、ゼータのコーヒータイムも一区切り。2人揃って「いただきます」と挨拶をする。
食事の最中、リジンは終始無言であった。昼夜問わず口数の多いリジンにしては珍しい。しかし決して不機嫌というわけではないらしく、大嫌いであるはずのきのこがちゅるりと口内に吸い込まれていく。暴言を吐かず、嫌味も言わず、不適と笑うこともせず、ただ黙々と朝食を口に運んでいる。奇妙だ、とても奇妙な光景だ。ゼータは時折上目遣いでリジンの様子を伺いながらも、同じように黙々と朝食を食む。
リジンがようやく会話らしい会話を口にしたのは、目の前の皿をすっかり綺麗にしたとき。
「あんた、この先どうするかは決まったのか」
突然の問いかけに、ゼータは口に入れたばかりの卵をもぐもぐと咀嚼する。
「この先って…国に帰るかどうか、ってことですよね」
「そうだ。昨晩はあまり乗り気ではなかっただろ。夜が明けて気持ちは変わったか」
ゼータは「んんー」と唸る。十分な睡眠とたっぷりとした朝日のおかげで、昨晩よりもいくらか気持ちは上向いている。少なくとも昨晩のように、無責任に全てを投げ出してしまいたいという気持ちにはならない。だからといって命を賭してドラキス王国に帰り着く気力があるかと言われれば、それは難しいところではあるけれど。
「…帰ることを選択肢の一つに入れてもいいかな、くらいの精神状態にはなりました」
「そうかよ、そりゃ良かったな」
リジンはふんと鼻を鳴らす。人を小馬鹿にしたような態度であることに違いはいないが、やはりリジンの様子は昨日までとどこか違う。言葉の端々から嫌味っぽさが消えたとでも言おうか、小指の先ほどの優しさが滲み出ているとでも言おうか。リジンが態度を軟化させた理由については、やはり昨晩の出来事が影響しているのだろうか。気恥ずかしい記憶を打ち消すように、ゼータは努めて明るい声を出す。
「でも実際、海を越えるのは簡単なことじゃないですよね。まさかハクジャからロマに向けて、定期船が運航されていたりはしないですよね?」
「そんなものはない。加えてハクジャにおいて船の所有が認められる者は、国に認められた奴隷商人と漁師だけだ。その他の者が船を持てば問答無用で処罰の対象だ。私的に船を作ることも禁止されている。ロマから奴隷を連れてくるという特性上、この辺りの法はかなり厳しく整備されている。法の眼をかいくぐることは考えない方が良い」
「船以外の方法で海を渡ることはできます?」
「丸太にしがみついて数日波に揺られていれば、運よくロマに辿り着ける可能性はあるかもな。ただしハクジャ近郊の海には、セイレーンの他にも多種の魔獣が生息する。中には魔族を一飲みにするような狂暴な魔獣も存在するから、死にたくなければお勧めはしない」
「そうですか…」
ゼータは呟き、中断していた食事を再開する。
ハクジャとロマがどれほどの距離関係にあるかは分からない。しかし簡単に往来ができるような距離ではないことは確かだろう。ゼータが奴隷商人の船に乗せられてハクジャへと連れてこられたとき、船に乗る魔族は2人がかりで船を漕いでいた。船の扱いに慣れた者が2人がかりで船を漕ぎ、所要時間は数時間。櫂の扱いすら知らないゼータが一人で船を漕ぎだしたとしたら、一体どれほどの時間がかかるのだろう?潮の流れる方向によっては、まったく見当違いの方向に船が進んでしまう可能性も捨てきれない。
そして船を漕ぎだす云々以前に、その船を用意することができないときたものだ。ロマの人々を奴隷として働かせる以上、船に関する規制はかなり厳しいものだろうと安易に想像はつく。人が海を越えたいと願うとき、まず初めに思いつく手段は船。奴隷の刻印を持つゼータがこのハクジャの地で船を手に入れることは、泉の水底から小さな指輪を探す以上に困難なことだ。
他に考え得る可能性があるとすれば、空飛ぶ魔獣を捕獲することだろうか。しかしゼータは魔獣を慣らせない。ハクジャ近郊の森林地帯をうろうろと彷徨ったところで、運良く飛行獣に出くわせるとも思えない。前途は難ばかりだ。
「あー…。もしあんたにその気があれば、の話ではあるが」
「ん?」
やや遠慮がちなリジンの声に、ゼータは考えることを止めた。フォークを手にしたまま真正面を見やれば、一見不機嫌とも見える表情のリジンがいる。しかしその表情はの本当に不機嫌というよりも、非常に言いにくいことを言おうとするときのそれに近い。
「もしも国に帰ることが億劫で、このままハクジャに滞在するつもりがあるのなら、という仮の話だ。もしもあんたがこのまま俺の家に住むというのなら…まぁ、何だ。縁者の刻印を押し直してやらんこともない、が」
「…縁者の?」
「そうだ。縁者となった奴隷は主の命令に従う必要がない。国内各施設への立ち入りに制限はなし、飯屋の利用や酒類の購入も自由自在。娯楽施設を利用することもできるし、ある程度高額な買い物も自らの意思で行うこともできる。奴隷の刻印を押されていることを除けば、俺達魔族と何ら変わりない生活を送ることができる。どうだ、悪い話じゃないだろう」
ハクジャの奴隷制における奴隷の枠組みは3つ。主に絶対的な服従を強いられる隷者、絶対的とは言わずともある程度の命令には従う必要がある従者、そして奴隷でありながらも自由な言動・行動が許される縁者。この中でも縁者は、主と奴隷が対等な関係を築くための仕組みなのだとかつてリジンは語った。例えば魔族の主が人間の奴隷と恋人関係、またはそれに類する関係を築くために。例えば奴隷市場で買い受けた子どもの奴隷を実子のように育てるために。ハクジャにいる奴隷の2割がこの縁者であるという。リジンの言う「刻印の押し直し」は、ゼータがこの先もハクジャに滞在するのなら最高とも言える待遇だ。
「確かに悪い話ではないですね。でも、どうして急にそんな提案を?」
「別に、深い理由などない。何となく思いついたから言ってみただけだ」
リジンの縁者となりハクジャの土地で暮らす。口にすればそれはとても魅力的な提案とも思われた。海を渡る方法だとか、ロマからドラキス王国に帰り着くまでの孤独で長い道のりだとか、面倒なことは全て忘れてしまったこの土地で新しい生活を得る。元より生きて帰ることは難しいと思っていた旅路。ゼータがドラキス王国に戻らなかったところで、国政運営になんら支障はない。クリスとビットとカミラと――それに数人の知り合いたちが少し悲しむだけだ。ドラキス王国は2代目国王の指揮の元、新しい歴史を刻む。ただそこに、かつての王と王妃の姿がないというだけの話だ。
今ここでリジンの提案を受け入れてしまえばどんなに楽だろう。帰還を諦め新しい土地での生活を始めれば、半身を喪った悲しみもいつかは消えてくれるだろうか。それでもゼータには、その魅力的な提案に飛びつくことができない理由がある。それは昨晩布団の中で行き着いた一つの可能性。絶望の中に残された、小さな小さな希望の光。
「リジン。一つお願いがあるんですけれどね」
「何だ」
「数日自由な時間をいただけませんか?彼の遺骸を見つけた泉の付近で、少し調べてみたいことがあるんです」
「何を足掻くつもりなのかは知らないが、過去は覆らない。死者は蘇らない」
「知っています。でも足掻きたいんです。後悔などしないように、ほんの少しだけ」
リジンは言葉を返さない。ゼータもそれ以上は何も言わない。温かな朝食を囲み、居心地の悪い沈黙が落ちる。無言のときが過ぎ、やがてリジンが口を開く。
「帰ってきたら俺の縁者になると約束しろ。約束すれば3日間だけ自由をやる。泉の傍で死者を悼むなり、思い出の品を探すなり、好きにすれば良い」
ありがとうございます、ゼータは笑う。
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