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安らかに眠れ、恐ろしくも美しい緋色の龍よ
リジン-2
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食事前、食事中と比較的落ち着いた様子を保っていたゼータであるが、食事を終えた直後から不可解な行動が目立ち始めた。食器を片付ける最中に皿を取り落としたり、洗剤を床にぶちまけたり、果てはスープ鍋に残飯を放り入れようとしたり。不安を覚えたリジンが横であれこれと口を出すものの、まともな会話を交わすことは叶わない。ゼータの半開きの唇からは、んー…あー…と曖昧な相槌が返ってくるだけだ。
そして風呂から上がったリジンがリビングへと戻ったときには、ゼータは完全に機能を停止していた。ソファの座面にくったりと身を横たえ、何をするでもなくただ虚空を見つめている。リジンは濡れタオルでがしがしと頭髪を拭いながら、ソファへと歩み寄る。
「おい、風呂には入ったのか」
比較的大声でそう問うても、ゼータから答えは返ってこない。黒い瞳は虚空を見つめたまま、肉付きの薄い胸元が規則的な上下を繰り返すだけだ。
「こら奴隷、主の質問には間髪入れずに答えろ。風呂には入ったのか」
いくらか声を荒げても、やはり答えは返ってこない。無作法としか言いようのない態度に苛立ちを覚えながら、リジンはゼータの首元に顔を近づける。夕食の匂いに混じり、ほんのりと石鹸の匂いが香る。今日は気温が高かったから、夕食準備の前にシャワーを浴びたのだろう。やるべきことを終えているのなら最早文句は言うまいと、リジンはソファに背を向ける。
「今日話すべきことがないのなら、俺はもう寝るぞ。明日はいつもと同じ時間に家を出る。くれぐれも朝飯の支度を怠るなよ」
返事が返ってこないことは端から承知の上でそう吐き捨てると、リジンは寝室へと続く扉をくぐる。部屋の灯りはともさないまま、ひんやりと冷たい布団にもぐる。いつものリジンの生活からすれば、まだ寝るには早い時間だ。けれどもあのままリビングに滞在していたとしても、得られる物は何もない。会話をする意思がない同居人と肩を並べていたところで、一方的にストレスが溜まるだけだ。こんな日はさっさと寝るに限る、そう考えたゆえの早寝である。
太陽の匂いの残る枕に顔をうずめ、色々なことを考える。明日の昼飯は何にしようか、新しく仕入れた商品のお披露目はいつにしようか、そういえば常連客からの文にまだ返事を書いていない。そんな取り留めのないことを考えるうちにも、思考の端には常に同じ人物の顔がある。先ほどまで顔を合わせていた同居人、恐らくはまだぼんやりとソファに寝転がっているであろうリジンの奴隷。
まだ眠気は訪れない。だからこそ色々なことを考えてしまう。
あの男は一体どこから来たのだろう。遥か西の地から、とは聞いた。しかし例えば男の住んでいた国の名前だとか、どのような気候の土地であるとか、食べ物は何が美味いだとか、そんな話は一言も耳にしていない。リジンが尋ねなかったのだから当たり前だ。そうだ、何も尋ねていない。思えばリジンは、もう3週間も生活を共にしている男について何も知らない。趣味も、好物も、地位も、特技も、何も。男の旅の目的が人探しであるということすら、今日自宅に帰るまで綺麗さっぱり忘れていた。
なぜリジンは男に何も尋ねなかったのか。興味がなかったからだ。運よく手に入れた奴隷の素性になどまるで興味がなかった。ただすべき仕事をこなしてくれるのなら、その男がどのような人物であろうがどうでも良かった。
なぜ男はリジンに何も語らなかったのか。それはリジンと同じ理由だ。男はリジンに興味がない。リジンとの生活にも興味がない。旅の標となる神具を直すために、仕方なくリジンとの同居を受け入れたというだけ。男がリジンの嫌味を嫌な顔一つせずに受け流すのも、押し付けられる無茶な要望に声を荒げようとしないのも、リジンに好物の一つすら教えようとしないのも、つまりはそういうことだ。リジンにとって男が便利な奴隷であったように、男にとってリジンもまた便利な同居人であったのだ。そう割り切っていたからこそ、リジンに対し不必要に突っかかることはしなかった。どうせいつかは終わる生活なのだから。
良い関係を築けているのだと思っていた。喧嘩をすることもなく不用意に干渉しあうこともなく、それなりに仲良くやれているものだと思っていた。しかしそれは勘違いであった。名前の付く関係など築いてはいなかった。3週間生活を共にしても、男とリジンは赤の他人のまま。リジンは男の好物一つ知らず、男はリジンに感情一つ語らない。表面上うまく回っているように見えた共同生活は、互いの無関心の上に成り立っていた。それを虚しいと言わずして何という?
リジンは着ていた毛布を跳ねのけた。暗闇の中を数歩歩み、リビングへと続く扉を引き開ければ、そこにある光景は数分前と何ら変わりない。天井灯りの下に置かれたソファと、ソファに身を横たえるゼータ。扉が開く音は聞こえていただろうに、身動ぎ一つしない。扉の取っ手に手を掛けたまま、リジンは言う。
「おい、こっちへ来い」
ゼータは答えない。
「おい奴隷、ぼさっとせずに今すぐこっちへ来い。今すぐにだ」
やはりゼータは答えない。聞こえない振りをしているのではない。本当に聞こえていないのだ。自己喪失状態のゼータにとれば、リジンに声など虫の羽音と同じ。恐らくは存在すらまともに認識されてはいない。リジンは大きく息を吸い込む。
「ゼータ!今すぐ俺の元へ来い、これは命令だ!」
きんと反響音が残るほどに声を荒げれば、ゼータはようやくソファから立ち上がった。のろのろと歩み寄ってくるゼータを横目に見ながら、リジンは寝室の扉を大きく開ける。薄暗闇の寝室へとゼータを招き入れ、扉を閉める。がちゃりと音が鳴るまでしっかりと。
「さっさと布団に入れ。俺も横で寝る。糞狭いのは我慢しろ」
リジンが指さす先には、先ほどまでリジンが身を横たえていたベッドがある。流石に文句の一つでも出るかと思いきや、ゼータはリジンの言葉通り大人しくベッドに上る。そしてベッドの向こう端で、布団もかけずに丸々と丸くなった。リジンはふんと鼻を鳴らし、自らもベッドによじ登る。お日様香る毛布を宙に広げ、2人分の身体を包む。温かい。
いつもよりも大分狭く、そして随分と温かな布団の中で、リジンははぁと溜息を吐く。勢い任せにベッドへと連れ込んでみたところで、結局2人の心の距離は変わらない。ゼータはリジンに何も語らず丸くなったままであるし、リジンはゼータにかける言葉を見つけられない。例え少し優しい言葉をかけてみたところで、3週間の嫌味と暴言がなくなるわけでもない。そう理解はしていても、今にも消え入りそうな背中を眺めていては、何かを言わずにはいられない。
「あー…あんた。明日は1日ぱっと遊びに行くか?どんな形であれ、ひとまず旅の目的は達成されたんだろう。1日くらい遊び惚けても罰は当たらない。幸い貸衣装店に来店予約は入っちゃいないし、ハクジャ国内の大概の施設は案内できる。コロセウムに行ってみるというのはどうだ?以前気に掛けていただろう」
早口でそう告げると、リジンはゼータの様子を伺い見た。ゼータはやはりリジンに背を向けたまま、ベッドの端で丸々と身体を丸めているだけ。会話に応じようという意思は感じられない。
「美味い飯を食いに行ってもいい。あんた、酒は飲めるのか。俺の店の近くに、美味い酒と甘味を一緒に楽しめる酒場がある。人気店だが、夕方の早い時間なら比較的入りやすい。ハクジャの地酒を飲んでみたくはないか?」
これは良い提案かもしれない、と内心リジンは思う。同居生活を送るうちに、ゼータは酒好きなのではないかと感じる機会が何度かあった、それは例えば酒に関する話題への食いつきが良かったり、夕食のメニューに酒のつまみになりそうな物が多かったりと、そんなささいな理由からくる想像ではあるが。それでも魔族には酒好きが多いものであるし、リジンの誘いには甘味というおまけつき。普通に考えればかなり魅力的な誘いであるはずだ。
だが案の定というべきか、悔しくもというべきか。ゼータはリジンの誘いに言葉を返さない。頷きもせず首を横に振ることもない。薄暗闇の中でじっと息を潜めるだけ。その頑なな態度に、リジンは流石に苛立ちを覚える。
「ゼータ、こっちを見ろ!」
リジンの右手はゼータの肩を鷲掴みにする。指先が食い込むくらいに強くその肩を引き寄せて、主の誘いに相槌一つ返さない無礼な奴隷の顔を拝んでやろうとする。そして――すぐにその行いが間違いであったと気づく。
「…何」
随分と久しぶりに聞いた気がするゼータの声は、哀愁誘う涙声。随分と久しぶりに真正面から見たゼータの顔は、目元と頬が涙でぐっしょりと濡れていた。息が詰まる、心臓が縮む、頭の中が真っ白になる。
ゼータの濡れた瞳は、しばらくの間じっとリジンの顔を見つめていた。言いたいことがあるのなら言ってみろ、とでも言うように。しかしリジンは何も言えない。ゼータの肩に指先を食い込ませたまま、呆然と黒真珠にも似た瞳を見つめ返す。やがて沈黙に痺れを切らしたゼータは、またふいと向こう側を向いてしまう。
――ああ、糞
リジンは手のひらを宙に浮かせたまま悪態を吐く。客商売だ、人の機嫌を操ることなんざ簡単だ。そう偉そうに述べたところで、肝心なところで慰めの言葉一つ掛けられやしない。せめてこの3週間のうちにもう少し打ち解けた関係を築けていれば、優しく背中を撫でてやることくらいはできたのだろうか。
優しく、この俺が?
ほんの出来心であった。ほんの出来心でもう一度目の前の身体に触れてみた。苛立ち任せに掴みかかるのではなく、赤子をあやすように何度か優しく背中を叩く。ぽん、ぽんと。ゼータはリジンに背を向けたままであるから、その表情を窺い知ることはできない。手のひらを通して温かな人の体温が伝わってくる。それに薄くて硬い肉の感触。男の身体に触れたところで楽しいことなど何もない。そうは思いながらも、リジンはゼータの背中に触れることを止めない。ぼん、ぽん、ぼん。
「う…ぐ…」
絞り出すような声が聞こえた。丸まった背中が小刻みに揺れる。手のひらを介して溢れんばかりの感情が伝わってくる。哀情、苦悩、喪失。悲しみが身体に傷跡を残すなら、ゼータの身体は胸元をズタズタに引き裂かれて血溜まりの中に沈んでいることだろう。探し求めた「片割れ」は、彼にとってそれほど大きな存在であったのだ。
震える身体を抱き締める。悲しみを分け合うことはできなくとも、せめて温もりだけは与えられるようにと。石鹸の香るうなじに顔をうずめ、肉付きの薄い胸元に腕を回し、1枚の布団の中で熱を分け合う。
引き絞るような嗚咽は止まぬ。それでもせめて行き場のない苦しみを受け止められることを嬉しく思う。そうして1人分の体温を腕の中に抱き続ける。芽生え始めた感情の正体も分からないまま。
そして風呂から上がったリジンがリビングへと戻ったときには、ゼータは完全に機能を停止していた。ソファの座面にくったりと身を横たえ、何をするでもなくただ虚空を見つめている。リジンは濡れタオルでがしがしと頭髪を拭いながら、ソファへと歩み寄る。
「おい、風呂には入ったのか」
比較的大声でそう問うても、ゼータから答えは返ってこない。黒い瞳は虚空を見つめたまま、肉付きの薄い胸元が規則的な上下を繰り返すだけだ。
「こら奴隷、主の質問には間髪入れずに答えろ。風呂には入ったのか」
いくらか声を荒げても、やはり答えは返ってこない。無作法としか言いようのない態度に苛立ちを覚えながら、リジンはゼータの首元に顔を近づける。夕食の匂いに混じり、ほんのりと石鹸の匂いが香る。今日は気温が高かったから、夕食準備の前にシャワーを浴びたのだろう。やるべきことを終えているのなら最早文句は言うまいと、リジンはソファに背を向ける。
「今日話すべきことがないのなら、俺はもう寝るぞ。明日はいつもと同じ時間に家を出る。くれぐれも朝飯の支度を怠るなよ」
返事が返ってこないことは端から承知の上でそう吐き捨てると、リジンは寝室へと続く扉をくぐる。部屋の灯りはともさないまま、ひんやりと冷たい布団にもぐる。いつものリジンの生活からすれば、まだ寝るには早い時間だ。けれどもあのままリビングに滞在していたとしても、得られる物は何もない。会話をする意思がない同居人と肩を並べていたところで、一方的にストレスが溜まるだけだ。こんな日はさっさと寝るに限る、そう考えたゆえの早寝である。
太陽の匂いの残る枕に顔をうずめ、色々なことを考える。明日の昼飯は何にしようか、新しく仕入れた商品のお披露目はいつにしようか、そういえば常連客からの文にまだ返事を書いていない。そんな取り留めのないことを考えるうちにも、思考の端には常に同じ人物の顔がある。先ほどまで顔を合わせていた同居人、恐らくはまだぼんやりとソファに寝転がっているであろうリジンの奴隷。
まだ眠気は訪れない。だからこそ色々なことを考えてしまう。
あの男は一体どこから来たのだろう。遥か西の地から、とは聞いた。しかし例えば男の住んでいた国の名前だとか、どのような気候の土地であるとか、食べ物は何が美味いだとか、そんな話は一言も耳にしていない。リジンが尋ねなかったのだから当たり前だ。そうだ、何も尋ねていない。思えばリジンは、もう3週間も生活を共にしている男について何も知らない。趣味も、好物も、地位も、特技も、何も。男の旅の目的が人探しであるということすら、今日自宅に帰るまで綺麗さっぱり忘れていた。
なぜリジンは男に何も尋ねなかったのか。興味がなかったからだ。運よく手に入れた奴隷の素性になどまるで興味がなかった。ただすべき仕事をこなしてくれるのなら、その男がどのような人物であろうがどうでも良かった。
なぜ男はリジンに何も語らなかったのか。それはリジンと同じ理由だ。男はリジンに興味がない。リジンとの生活にも興味がない。旅の標となる神具を直すために、仕方なくリジンとの同居を受け入れたというだけ。男がリジンの嫌味を嫌な顔一つせずに受け流すのも、押し付けられる無茶な要望に声を荒げようとしないのも、リジンに好物の一つすら教えようとしないのも、つまりはそういうことだ。リジンにとって男が便利な奴隷であったように、男にとってリジンもまた便利な同居人であったのだ。そう割り切っていたからこそ、リジンに対し不必要に突っかかることはしなかった。どうせいつかは終わる生活なのだから。
良い関係を築けているのだと思っていた。喧嘩をすることもなく不用意に干渉しあうこともなく、それなりに仲良くやれているものだと思っていた。しかしそれは勘違いであった。名前の付く関係など築いてはいなかった。3週間生活を共にしても、男とリジンは赤の他人のまま。リジンは男の好物一つ知らず、男はリジンに感情一つ語らない。表面上うまく回っているように見えた共同生活は、互いの無関心の上に成り立っていた。それを虚しいと言わずして何という?
リジンは着ていた毛布を跳ねのけた。暗闇の中を数歩歩み、リビングへと続く扉を引き開ければ、そこにある光景は数分前と何ら変わりない。天井灯りの下に置かれたソファと、ソファに身を横たえるゼータ。扉が開く音は聞こえていただろうに、身動ぎ一つしない。扉の取っ手に手を掛けたまま、リジンは言う。
「おい、こっちへ来い」
ゼータは答えない。
「おい奴隷、ぼさっとせずに今すぐこっちへ来い。今すぐにだ」
やはりゼータは答えない。聞こえない振りをしているのではない。本当に聞こえていないのだ。自己喪失状態のゼータにとれば、リジンに声など虫の羽音と同じ。恐らくは存在すらまともに認識されてはいない。リジンは大きく息を吸い込む。
「ゼータ!今すぐ俺の元へ来い、これは命令だ!」
きんと反響音が残るほどに声を荒げれば、ゼータはようやくソファから立ち上がった。のろのろと歩み寄ってくるゼータを横目に見ながら、リジンは寝室の扉を大きく開ける。薄暗闇の寝室へとゼータを招き入れ、扉を閉める。がちゃりと音が鳴るまでしっかりと。
「さっさと布団に入れ。俺も横で寝る。糞狭いのは我慢しろ」
リジンが指さす先には、先ほどまでリジンが身を横たえていたベッドがある。流石に文句の一つでも出るかと思いきや、ゼータはリジンの言葉通り大人しくベッドに上る。そしてベッドの向こう端で、布団もかけずに丸々と丸くなった。リジンはふんと鼻を鳴らし、自らもベッドによじ登る。お日様香る毛布を宙に広げ、2人分の身体を包む。温かい。
いつもよりも大分狭く、そして随分と温かな布団の中で、リジンははぁと溜息を吐く。勢い任せにベッドへと連れ込んでみたところで、結局2人の心の距離は変わらない。ゼータはリジンに何も語らず丸くなったままであるし、リジンはゼータにかける言葉を見つけられない。例え少し優しい言葉をかけてみたところで、3週間の嫌味と暴言がなくなるわけでもない。そう理解はしていても、今にも消え入りそうな背中を眺めていては、何かを言わずにはいられない。
「あー…あんた。明日は1日ぱっと遊びに行くか?どんな形であれ、ひとまず旅の目的は達成されたんだろう。1日くらい遊び惚けても罰は当たらない。幸い貸衣装店に来店予約は入っちゃいないし、ハクジャ国内の大概の施設は案内できる。コロセウムに行ってみるというのはどうだ?以前気に掛けていただろう」
早口でそう告げると、リジンはゼータの様子を伺い見た。ゼータはやはりリジンに背を向けたまま、ベッドの端で丸々と身体を丸めているだけ。会話に応じようという意思は感じられない。
「美味い飯を食いに行ってもいい。あんた、酒は飲めるのか。俺の店の近くに、美味い酒と甘味を一緒に楽しめる酒場がある。人気店だが、夕方の早い時間なら比較的入りやすい。ハクジャの地酒を飲んでみたくはないか?」
これは良い提案かもしれない、と内心リジンは思う。同居生活を送るうちに、ゼータは酒好きなのではないかと感じる機会が何度かあった、それは例えば酒に関する話題への食いつきが良かったり、夕食のメニューに酒のつまみになりそうな物が多かったりと、そんなささいな理由からくる想像ではあるが。それでも魔族には酒好きが多いものであるし、リジンの誘いには甘味というおまけつき。普通に考えればかなり魅力的な誘いであるはずだ。
だが案の定というべきか、悔しくもというべきか。ゼータはリジンの誘いに言葉を返さない。頷きもせず首を横に振ることもない。薄暗闇の中でじっと息を潜めるだけ。その頑なな態度に、リジンは流石に苛立ちを覚える。
「ゼータ、こっちを見ろ!」
リジンの右手はゼータの肩を鷲掴みにする。指先が食い込むくらいに強くその肩を引き寄せて、主の誘いに相槌一つ返さない無礼な奴隷の顔を拝んでやろうとする。そして――すぐにその行いが間違いであったと気づく。
「…何」
随分と久しぶりに聞いた気がするゼータの声は、哀愁誘う涙声。随分と久しぶりに真正面から見たゼータの顔は、目元と頬が涙でぐっしょりと濡れていた。息が詰まる、心臓が縮む、頭の中が真っ白になる。
ゼータの濡れた瞳は、しばらくの間じっとリジンの顔を見つめていた。言いたいことがあるのなら言ってみろ、とでも言うように。しかしリジンは何も言えない。ゼータの肩に指先を食い込ませたまま、呆然と黒真珠にも似た瞳を見つめ返す。やがて沈黙に痺れを切らしたゼータは、またふいと向こう側を向いてしまう。
――ああ、糞
リジンは手のひらを宙に浮かせたまま悪態を吐く。客商売だ、人の機嫌を操ることなんざ簡単だ。そう偉そうに述べたところで、肝心なところで慰めの言葉一つ掛けられやしない。せめてこの3週間のうちにもう少し打ち解けた関係を築けていれば、優しく背中を撫でてやることくらいはできたのだろうか。
優しく、この俺が?
ほんの出来心であった。ほんの出来心でもう一度目の前の身体に触れてみた。苛立ち任せに掴みかかるのではなく、赤子をあやすように何度か優しく背中を叩く。ぽん、ぽんと。ゼータはリジンに背を向けたままであるから、その表情を窺い知ることはできない。手のひらを通して温かな人の体温が伝わってくる。それに薄くて硬い肉の感触。男の身体に触れたところで楽しいことなど何もない。そうは思いながらも、リジンはゼータの背中に触れることを止めない。ぼん、ぽん、ぼん。
「う…ぐ…」
絞り出すような声が聞こえた。丸まった背中が小刻みに揺れる。手のひらを介して溢れんばかりの感情が伝わってくる。哀情、苦悩、喪失。悲しみが身体に傷跡を残すなら、ゼータの身体は胸元をズタズタに引き裂かれて血溜まりの中に沈んでいることだろう。探し求めた「片割れ」は、彼にとってそれほど大きな存在であったのだ。
震える身体を抱き締める。悲しみを分け合うことはできなくとも、せめて温もりだけは与えられるようにと。石鹸の香るうなじに顔をうずめ、肉付きの薄い胸元に腕を回し、1枚の布団の中で熱を分け合う。
引き絞るような嗚咽は止まぬ。それでもせめて行き場のない苦しみを受け止められることを嬉しく思う。そうして1人分の体温を腕の中に抱き続ける。芽生え始めた感情の正体も分からないまま。
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