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安らかに眠れ、恐ろしくも美しい緋色の龍よ
リジンの生業
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リジンの持ち帰った紙袋の中身は、まず一つ目が黒を基調とした可愛らしいワンピース。スカート丈は膝より少し短いくらいで、襟元やスカートの裾、袖口にはたくさんのレース飾りがあしらわれている。可憐の代名詞であるメアリやシルフィーが身にまとえば、さぞかし絵になることだろう。
さらに紙袋の中には靴下が数足と、髪飾りを詰め込んだ箱、それに上下揃いの下着がきっちりと収められている。ワンピースと同様大量のレース飾りがあしらわれた下着を目の前に広げ、ゼータはひくりと頬を震わせる。
「これを私に身に付けよと?いやいや…絶対似合わないですし…」
人様の好みに文句をつけるつもりもないが、しかし着せる相手が悪すぎる。ゼータは日頃からひらひらと装飾の多い衣服を好まないし、ドレスを選ぶときにはまずシンプルさに重点を置く。愛らしい形状の衣服に興味がないというのも勿論あるが、それ以上に「自分にひらひらふわふわの衣服は似合わない」という確固たる自信があるからだ。ゼータを溺愛するレイバックとカミラは「どのような衣服を着ていても目が潰れるほどに美しい」などと言ってくれるのだけれど、愛情に瞳が曇った者の主張などあてにはならない。「ゼータはシンプルな服が似合うよね。きりっとした顔立ちが引き立って見えるもの」というクリスの意見の方が、100倍は信用できるのである。
似合う・似合わないはさておき、まず最低限の命令は遂行せねばならない。そう考えたゼータは、重い足取りでリジンの寝室へと立ち入った。昨日今日と言いつけられた仕事をこなすうちに、やむを得ず何度か立ち入った場所。リビングの半分ほどの広さの部屋の中には、ベッドと大きな姿見、衣装用のクローゼット、その他諸々の家具が詰め込まれている。酷く散らかってはいないが、特別片付いてもいないといった印象である。ゼータは部屋の大きさに対し不釣り合いに大きい姿見の前に立ち、着ていた衣服を全て脱いだ。亡霊のような顔つきで女性へと姿を変え、死装束とも言うべき衣服にもそもそと腕を通す。
ゼータとて、まさか馬鹿正直にリジンの命令を受け入れるつもりはない。ただ「性的行為は勘弁」との要望を押し通すためも、まずは最低限リジンのご機嫌を取らねばならぬのだ。着替えて待っていよとの命令を無視しては、その後の穏便な交渉が困難になってしまう。自称屑野郎のリジンを相手に、まともな交渉が可能かどうかは定かではない。
ゼータがワンピースの胸元のボタンを留め終えたとき、寝室の扉が勢いよく開く。肩にタオルをかけたままのリジンが、足音を立てて寝室に歩み入る。髪はまだ濡れたままだ。ゼータは姿見の前に立ち竦んだまま、一先ず無難な会話を試みるのだ。
「お風呂のお湯加減はいかがでした?」
「ぬるま湯だ。今日と同じ時間に帰宅する日は、飯の後に風呂に入る。俺が浸かるときに丁度良い温度になっているように、逆算して風呂を沸かしておけ」
「無茶おっしゃいますね…」
ゼータが苦笑いを浮かべたところで、リジンの視線がゼータの胸元へと落ちた。可憐なレース飾りがあしらわれた前立てに、きらきらと光る銀ボタン。きゅうと引き絞られた腰回りに、ゼータが身動きをするたびにふわふわと揺れる膝丈スカート。真っ白なニーハイソックスを履いた2本の脚。ゼータの全身をくまなく眺めた後、リジンはふんと鼻を鳴らす。
「思ったよりは着こなしているじゃないか。馬子にも衣装と言うべきか、猿にも衣装と言うべきか」
「…ありがとうございます?」
「しかし全体的に貧相だな。こればかりは素材が悪い。もう少し凹凸のある体形ならば、胸元や腰回りの飾りも目立つだろうに。まるで枯れ木にドレスを着せている気分だ。豚に真珠とはこのことを言うのか?」
「すみませんねぇ。胸も腰も脚も貧相で」
馬だの猿だの豚だのと、散々な言われようである。しかし何度でも言うが、日頃メリオンの暴言に晒されているゼータにとって、リジンの悪口など頬を撫でるそよ風同然。恐れることなど何もないのである。ゼータが真に恐れているのは、この先に待ち受ける行為。こうして自分好みの衣服を着せたゼータに対し、どんなマニアックな行為を働くつもりなのだ。想像ができないからこそ、怖くて堪らない。
もぞもぞと不自然な身動ぎをするゼータの首元に、リジンの右手が伸びた。入浴により熱を持つ指先はゼータの左側の首筋に触れ、そのまま皮膚をすいと撫でる。背筋にぞわりと寒気が走り、ゼータは思わずリジンの指先を掴み上げた。「ひぃっ」という情けない悲鳴とともに。
「…何だ」
鷲掴みにされた指先を見つめ、リジンは怪訝な表情である。
「あのねリジン。お触りの前に少し話をしましょう。もちろん自分が奴隷であることは理解していますし、絶対に嫌ってわけじゃないんですけどね?でもその…私、一応結婚しているんですよ。旅先でこういうことになっちゃうのは少し不味いかなって。もちろん、もちろん自分が宿を借りている身であるという事は重々承知の上です。命令に従えないのなら出て行けと言われると、私としても辛いところなんですよ。でもこの件に関しては、何とか代替案を考えていただけないかと…なにとぞ…」
リジンの指先を両手のひらで包み込み、ゼータは必死で懇願する。このハクジャの土地において、ゼータはリジンに逆らうことができない。奴隷の刻印を押されているからという意味ではない。旅の命綱である「片割れを探す神具」を、リジンの知り合いであるロザリーの店に預けてしまっているからだ。もしも神具が直る前にリジンの機嫌を激しく損ねるようなことがあれば、恐らく神具は2度とゼータの手に戻ってこない。「糞生意気な奴隷の持ち物など直さなくて良い。即刻処分せよ」リジンがそう告げれば、ロザリーは迷うことなくゼータの神具を処分してしまうことだろう。何故ならこのハクジャの土地で、ゼータは生き死にすら自由にならぬ哀れな奴隷。奴隷の持ち物は主の持ち物も同然である。
なにとぞ、なにとぞ、と繰り返し懇願するゼータ。リジンは長らくぽかんとした表情でゼータを眺めていたが、やがて懇願の理由に思い至ったようである。ゼータの手のひらから指先を引き抜き、過去最大級の呆れ顔。
「あんた、何を勘違いしているんだ。俺はあんたを性奴隷として扱うつもりなどない。首に触ろうとしたのは、襟が乱れているからだ」
「え、襟?」
ゼータは素っ頓狂な声を上げ、レース飾りのあしらわれた襟元に触れる。確かにレース飾りの一部が、襟の内側に入り込んでいる。リジンはこのレース飾りを正しい位置に戻すために、ゼータの首元に手を伸ばしたということか。
「俺の店は貸衣装店だ。客人相手にドレスや燕尾服、ちょっとした外出着なんかを貸し出している。言っていなかったか?」
「聞いていないです…」
「今あんたが着ている服は店の新商品。貸衣装として店に並べる前に、衣服の全体的なイメージを掴みたかっただけだ。この服のデザインは俺の趣味じゃあないし、これをあんたに着せてどうこうしようとは思っていない」
「そ、そうですか…」
どうやら非常に恥ずかしい思い違いをしていたようである。ゼータは両手のひらで顔面を多い、へなへなとその場に座り込む。襟を正すための気遣いを、まさか性的な接触と勘違いしようとは。顔から業火が噴き出さんばかりの恥ずべき勘違いである。
膝を抱え込み小さくなったゼータを見下ろし、リジンはにんまりと口の端を上げる。
「ご期待に沿えず申し訳ないなぁ?職業柄、店の貸し出し衣装を着た相手には欲情できないんだ。例え相手が豊満美女でもな。客人の着替えを手伝うたびにおっ勃ててたんじゃ、仕事にならないだろう」
「…ごもっともです」
「全く。純朴そうな顔をしておきながら、とんだ淫乱野郎だ。枯れ木を愛でる趣味はないが、あんたがどうしてもと言うのなら付き合ってやらんこともない。ただし店の服は全て脱げよ。陳列前の大切な商品を、愚図な奴隷の体液で汚されちゃとんだ損失だ」
「脱ぎませんし、汚しません…」
ゼータが蚊の鳴くような声を絞り出したところで、とりあえずは一件落着である。
出会って以後最大級の恥を晒したゼータは、その後姿見の前に座らされた。尻をのせる物は背もたれのない丸椅子。巨大な姿見を前にしていれば、自然と背筋が伸びる。王宮の晩餐会さながらの良姿勢を保つゼータの背後では、リジンが整髪の真っ最中。乱れた黒髪を丁寧に櫛でとかし、魔法で熱した金属ごてで癖をつける。慣れた動作である。金属ごての他にも、ベッドの上には髪飾りや整髪料、化粧道具や裁縫道具などが散らばっている。
「貸衣装店って、服を貸し出すだけじゃないんですね。化粧も髪結いも一緒くたに請け負っているんですか?」
ゼータは目の前に置かれた姿見を興味深げに覗き込む。癖のないゼータの黒髪は、愛らしい内巻き髪へと変貌の真っ最中。くるりと内向いた髪束が頬に触れ、くすぐったい。
「そうだ。店にやって来た客人に衣服を着せ、化粧と髪結いを済ませ、その衣服に相応しい佇まいを教えて送り出すまでが俺の仕事。要望があれば私宅まで赴き身支度を請け負うこともある。昨日家を出るのが早かったのは、とある貴人からの要望を受けたためだ。買い受けたばかりの縁者と街歩きを楽しみたい、縁者のお披露目に相応しい豪勢で品の良い衣服を貸し出してくれとな」
「リジンの貸衣装店って、まさか奴隷専用の?」
「専用とはしていないが、奴隷の利用が圧倒的に多い。とは言っても奴隷自らがのこのこ俺の店にやって来るわけではないぞ。先の縁者の例のように、主が奴隷を連れてくるんだ。例えば街歩きのために豪勢なドレスを見繕うとなれば、宝飾品や靴も含めてかなりの値段になるだろう。一度しか袖を通さないドレスに巨額の金を払うのも馬鹿らしい。だから俺の店に来るんだ。ドレスに宝石に靴に化粧、髪結い。全て含めても靴一足の購入価格にも及ばない。金のある主の中には、縁者を着飾らせて楽しむ奴も多いからな。これが中々良い金になる」
「そういった趣向の店は、ハクジャでは一般的なんですか?」
「貸衣装専門店や髪結い専門店は、俺が知っているだけでも数件あるな。しかし身繕いを一緒くたに請け負っている貸衣装店は、ハクジャ広しと言えども俺の店だけだ」
「へぇ…ろくでもない輩だと思っていたら、意外と有能なんですね」
一瞬頭髪を引き千切られるかと身構えるゼータであるが、口を開けば罵詈雑言のリジンは人の悪口にも寛容であった。一度鼻を鳴らしたきり、何事もなかったかのように金属ごてを振るっている。
「従者を所有する主の中にも、俺の店を訪れる奴は多い。こちらは先の縁者とは少し目的が違う。例えば飲食店を営む御仁が、同業者の開店祝賀会に招待されたとする。使用人である従者も祝賀会に同行させる必要があるが、生憎参列のための燕尾服がない。身体に合った燕尾服を作るには時間もかかるし金もかかる。だから俺に店に来る。奴隷に金を掛けたい主も、掛けたくない主も利用できる便利な店なのさ」
「ははぁ…成程。合理的な商売です。ということは、このひらひらの衣服は街歩き用ですか?厳かな場で着るにしては、デザインが独創的すぎますよね」
「これは主の趣味用だ。夜伽用と言い換えても良い。あんたの不安はあながち間違っちゃいなかったということだ」
その件に関してはどうぞ潔く忘れてくれ、と切願するゼータである。
それからおよそ5分後、リジンの口から「さぁできた」との声が上がった。ゼータは促されるがままに席を立ち、姿見に映る自身の姿に眺め入る。黒を基調とした愛らしいワンピースに、真っ白なニーハイソックス。肩まで伸びた黒髪は毛先がくるりと内側を向き、長く伸びた前髪だけが緩く三つ編みに編み込まれている。そして顔。日頃きつい印象を抱かれがちなゼータの顔面は、化粧の力により様変わりしていた。まなじりの下がった幼げな目元に、長く伸びた睫毛。薄っすらと紅をのせた頬に、ぽってりとふくよかな唇。可憐の代名詞であるシルフィーやメアリにも引きを取らぬ愛らしさだ。
凄い、とゼータは声を上げる。
「まるで魔法に掛けられたみたいです。見事な腕前ですねぇ」
凄い凄いとはしゃぎ回るゼータは、姿見の前で無意味な回転を繰り返す。つぼみのように膨らむスカートの裾を見下ろしながら、リジンは浮かない表情だ。
「服の形は良い。ぼたんやレースの位置も悪くない。だが…地味だな。もう少し華やかさが欲しい。髪飾りを付けるか、それとも化粧を派手にするか…」
ぶつぶつと呟くリジンは、回転するゼータをそのままにして髪飾りの箱を漁り出した。桃色のカチューシャ、薔薇を模した金色のティアラ、大ぶりのリボン、その他諸々。髪飾りを手に神妙な面持ちのリジンを見て、ゼータはようやく独楽のような回転を止める。ふわふわとスカートの裾を揺らしながら、リジンの傍らへと歩み寄る。
「リジン。店に服を増やすたびに、こうして試着を行うんですか?」
「珍しい形の服を入れたときには試着が必須だ。壁に掛けたときと人が着たときでは、衣服の印象は大分異なる。衣服の特徴を把握し化粧や髪結いのイメージを膨らませておかないと、円滑な接客ができないだろ」
「今まではどうしていたんですか?」
「優先的な衣服の貸し付けを条件に、知り合いに奴隷を貸し出してもらっていた。ロザリーに協力を仰いでいた時期もあったな。しかしロザリーは、身なりのこととなると口喧しくてな。口紅を変えろだの、首飾りは真珠が良いだのと散々要望を付けやがる。大人しく着せ替え人形を演じろと言っても聞きやしない。全く俺はよい拾い物をした。人間と同じ黒髪黒目で、人間よりも遥かに頑丈。魔石を埋め込む手間もないし、果ては男の姿も女の姿も自由自在ときたもんだ。飯の不味さにさえ目を瞑れば、考え得る限り最高の奴隷じゃないか。ああ、厚かましくて神経が図太いところにも目を瞑る必要はある」
リジンはくつくつと笑い声を零しながら、ゼータの頭にカチューシャをのせた。比較的しっかりとした作りのそのカチューシャは、黒い布地の上に大小様々なたくさんの宝石があしらわれている。ともすれば宝石ではなく、ただのガラス玉なのかもしれない。しかし星粒を散りばめたようなそのカチューシャは、ゼータの黒髪によく合っていた。
「よし、良いな。この組み合わせで店に並べよう。冷めないうちに風呂に入って来て良いぞ。服は綺麗に畳んで紙袋に入れておけ」
「下着は?」
「一度身につけた下着は買い取りだ。あんたの着けたそれは店の経費で落としておいてやるよ。神の如き存在である主からの贈り物だ。壁に掛けて終夜拝み倒せよ」
「下着本来の用途を逸脱しているじゃないですか。普通に身に着けますよ。ありがとうございます」
仕事は終わり。ゼータは床に落ちた紙袋を拾い上げ、リジンの寝室を出て行かんとする。扉の取っ手に手を掛けた瞬間、背中に愉悦を帯びたリジンの声があたる。
「それで。俺は今夜、愚図な奴隷をベッドに招く必要があるのか?」
「いいえ、微塵もございません」
さらに紙袋の中には靴下が数足と、髪飾りを詰め込んだ箱、それに上下揃いの下着がきっちりと収められている。ワンピースと同様大量のレース飾りがあしらわれた下着を目の前に広げ、ゼータはひくりと頬を震わせる。
「これを私に身に付けよと?いやいや…絶対似合わないですし…」
人様の好みに文句をつけるつもりもないが、しかし着せる相手が悪すぎる。ゼータは日頃からひらひらと装飾の多い衣服を好まないし、ドレスを選ぶときにはまずシンプルさに重点を置く。愛らしい形状の衣服に興味がないというのも勿論あるが、それ以上に「自分にひらひらふわふわの衣服は似合わない」という確固たる自信があるからだ。ゼータを溺愛するレイバックとカミラは「どのような衣服を着ていても目が潰れるほどに美しい」などと言ってくれるのだけれど、愛情に瞳が曇った者の主張などあてにはならない。「ゼータはシンプルな服が似合うよね。きりっとした顔立ちが引き立って見えるもの」というクリスの意見の方が、100倍は信用できるのである。
似合う・似合わないはさておき、まず最低限の命令は遂行せねばならない。そう考えたゼータは、重い足取りでリジンの寝室へと立ち入った。昨日今日と言いつけられた仕事をこなすうちに、やむを得ず何度か立ち入った場所。リビングの半分ほどの広さの部屋の中には、ベッドと大きな姿見、衣装用のクローゼット、その他諸々の家具が詰め込まれている。酷く散らかってはいないが、特別片付いてもいないといった印象である。ゼータは部屋の大きさに対し不釣り合いに大きい姿見の前に立ち、着ていた衣服を全て脱いだ。亡霊のような顔つきで女性へと姿を変え、死装束とも言うべき衣服にもそもそと腕を通す。
ゼータとて、まさか馬鹿正直にリジンの命令を受け入れるつもりはない。ただ「性的行為は勘弁」との要望を押し通すためも、まずは最低限リジンのご機嫌を取らねばならぬのだ。着替えて待っていよとの命令を無視しては、その後の穏便な交渉が困難になってしまう。自称屑野郎のリジンを相手に、まともな交渉が可能かどうかは定かではない。
ゼータがワンピースの胸元のボタンを留め終えたとき、寝室の扉が勢いよく開く。肩にタオルをかけたままのリジンが、足音を立てて寝室に歩み入る。髪はまだ濡れたままだ。ゼータは姿見の前に立ち竦んだまま、一先ず無難な会話を試みるのだ。
「お風呂のお湯加減はいかがでした?」
「ぬるま湯だ。今日と同じ時間に帰宅する日は、飯の後に風呂に入る。俺が浸かるときに丁度良い温度になっているように、逆算して風呂を沸かしておけ」
「無茶おっしゃいますね…」
ゼータが苦笑いを浮かべたところで、リジンの視線がゼータの胸元へと落ちた。可憐なレース飾りがあしらわれた前立てに、きらきらと光る銀ボタン。きゅうと引き絞られた腰回りに、ゼータが身動きをするたびにふわふわと揺れる膝丈スカート。真っ白なニーハイソックスを履いた2本の脚。ゼータの全身をくまなく眺めた後、リジンはふんと鼻を鳴らす。
「思ったよりは着こなしているじゃないか。馬子にも衣装と言うべきか、猿にも衣装と言うべきか」
「…ありがとうございます?」
「しかし全体的に貧相だな。こればかりは素材が悪い。もう少し凹凸のある体形ならば、胸元や腰回りの飾りも目立つだろうに。まるで枯れ木にドレスを着せている気分だ。豚に真珠とはこのことを言うのか?」
「すみませんねぇ。胸も腰も脚も貧相で」
馬だの猿だの豚だのと、散々な言われようである。しかし何度でも言うが、日頃メリオンの暴言に晒されているゼータにとって、リジンの悪口など頬を撫でるそよ風同然。恐れることなど何もないのである。ゼータが真に恐れているのは、この先に待ち受ける行為。こうして自分好みの衣服を着せたゼータに対し、どんなマニアックな行為を働くつもりなのだ。想像ができないからこそ、怖くて堪らない。
もぞもぞと不自然な身動ぎをするゼータの首元に、リジンの右手が伸びた。入浴により熱を持つ指先はゼータの左側の首筋に触れ、そのまま皮膚をすいと撫でる。背筋にぞわりと寒気が走り、ゼータは思わずリジンの指先を掴み上げた。「ひぃっ」という情けない悲鳴とともに。
「…何だ」
鷲掴みにされた指先を見つめ、リジンは怪訝な表情である。
「あのねリジン。お触りの前に少し話をしましょう。もちろん自分が奴隷であることは理解していますし、絶対に嫌ってわけじゃないんですけどね?でもその…私、一応結婚しているんですよ。旅先でこういうことになっちゃうのは少し不味いかなって。もちろん、もちろん自分が宿を借りている身であるという事は重々承知の上です。命令に従えないのなら出て行けと言われると、私としても辛いところなんですよ。でもこの件に関しては、何とか代替案を考えていただけないかと…なにとぞ…」
リジンの指先を両手のひらで包み込み、ゼータは必死で懇願する。このハクジャの土地において、ゼータはリジンに逆らうことができない。奴隷の刻印を押されているからという意味ではない。旅の命綱である「片割れを探す神具」を、リジンの知り合いであるロザリーの店に預けてしまっているからだ。もしも神具が直る前にリジンの機嫌を激しく損ねるようなことがあれば、恐らく神具は2度とゼータの手に戻ってこない。「糞生意気な奴隷の持ち物など直さなくて良い。即刻処分せよ」リジンがそう告げれば、ロザリーは迷うことなくゼータの神具を処分してしまうことだろう。何故ならこのハクジャの土地で、ゼータは生き死にすら自由にならぬ哀れな奴隷。奴隷の持ち物は主の持ち物も同然である。
なにとぞ、なにとぞ、と繰り返し懇願するゼータ。リジンは長らくぽかんとした表情でゼータを眺めていたが、やがて懇願の理由に思い至ったようである。ゼータの手のひらから指先を引き抜き、過去最大級の呆れ顔。
「あんた、何を勘違いしているんだ。俺はあんたを性奴隷として扱うつもりなどない。首に触ろうとしたのは、襟が乱れているからだ」
「え、襟?」
ゼータは素っ頓狂な声を上げ、レース飾りのあしらわれた襟元に触れる。確かにレース飾りの一部が、襟の内側に入り込んでいる。リジンはこのレース飾りを正しい位置に戻すために、ゼータの首元に手を伸ばしたということか。
「俺の店は貸衣装店だ。客人相手にドレスや燕尾服、ちょっとした外出着なんかを貸し出している。言っていなかったか?」
「聞いていないです…」
「今あんたが着ている服は店の新商品。貸衣装として店に並べる前に、衣服の全体的なイメージを掴みたかっただけだ。この服のデザインは俺の趣味じゃあないし、これをあんたに着せてどうこうしようとは思っていない」
「そ、そうですか…」
どうやら非常に恥ずかしい思い違いをしていたようである。ゼータは両手のひらで顔面を多い、へなへなとその場に座り込む。襟を正すための気遣いを、まさか性的な接触と勘違いしようとは。顔から業火が噴き出さんばかりの恥ずべき勘違いである。
膝を抱え込み小さくなったゼータを見下ろし、リジンはにんまりと口の端を上げる。
「ご期待に沿えず申し訳ないなぁ?職業柄、店の貸し出し衣装を着た相手には欲情できないんだ。例え相手が豊満美女でもな。客人の着替えを手伝うたびにおっ勃ててたんじゃ、仕事にならないだろう」
「…ごもっともです」
「全く。純朴そうな顔をしておきながら、とんだ淫乱野郎だ。枯れ木を愛でる趣味はないが、あんたがどうしてもと言うのなら付き合ってやらんこともない。ただし店の服は全て脱げよ。陳列前の大切な商品を、愚図な奴隷の体液で汚されちゃとんだ損失だ」
「脱ぎませんし、汚しません…」
ゼータが蚊の鳴くような声を絞り出したところで、とりあえずは一件落着である。
出会って以後最大級の恥を晒したゼータは、その後姿見の前に座らされた。尻をのせる物は背もたれのない丸椅子。巨大な姿見を前にしていれば、自然と背筋が伸びる。王宮の晩餐会さながらの良姿勢を保つゼータの背後では、リジンが整髪の真っ最中。乱れた黒髪を丁寧に櫛でとかし、魔法で熱した金属ごてで癖をつける。慣れた動作である。金属ごての他にも、ベッドの上には髪飾りや整髪料、化粧道具や裁縫道具などが散らばっている。
「貸衣装店って、服を貸し出すだけじゃないんですね。化粧も髪結いも一緒くたに請け負っているんですか?」
ゼータは目の前に置かれた姿見を興味深げに覗き込む。癖のないゼータの黒髪は、愛らしい内巻き髪へと変貌の真っ最中。くるりと内向いた髪束が頬に触れ、くすぐったい。
「そうだ。店にやって来た客人に衣服を着せ、化粧と髪結いを済ませ、その衣服に相応しい佇まいを教えて送り出すまでが俺の仕事。要望があれば私宅まで赴き身支度を請け負うこともある。昨日家を出るのが早かったのは、とある貴人からの要望を受けたためだ。買い受けたばかりの縁者と街歩きを楽しみたい、縁者のお披露目に相応しい豪勢で品の良い衣服を貸し出してくれとな」
「リジンの貸衣装店って、まさか奴隷専用の?」
「専用とはしていないが、奴隷の利用が圧倒的に多い。とは言っても奴隷自らがのこのこ俺の店にやって来るわけではないぞ。先の縁者の例のように、主が奴隷を連れてくるんだ。例えば街歩きのために豪勢なドレスを見繕うとなれば、宝飾品や靴も含めてかなりの値段になるだろう。一度しか袖を通さないドレスに巨額の金を払うのも馬鹿らしい。だから俺の店に来るんだ。ドレスに宝石に靴に化粧、髪結い。全て含めても靴一足の購入価格にも及ばない。金のある主の中には、縁者を着飾らせて楽しむ奴も多いからな。これが中々良い金になる」
「そういった趣向の店は、ハクジャでは一般的なんですか?」
「貸衣装専門店や髪結い専門店は、俺が知っているだけでも数件あるな。しかし身繕いを一緒くたに請け負っている貸衣装店は、ハクジャ広しと言えども俺の店だけだ」
「へぇ…ろくでもない輩だと思っていたら、意外と有能なんですね」
一瞬頭髪を引き千切られるかと身構えるゼータであるが、口を開けば罵詈雑言のリジンは人の悪口にも寛容であった。一度鼻を鳴らしたきり、何事もなかったかのように金属ごてを振るっている。
「従者を所有する主の中にも、俺の店を訪れる奴は多い。こちらは先の縁者とは少し目的が違う。例えば飲食店を営む御仁が、同業者の開店祝賀会に招待されたとする。使用人である従者も祝賀会に同行させる必要があるが、生憎参列のための燕尾服がない。身体に合った燕尾服を作るには時間もかかるし金もかかる。だから俺に店に来る。奴隷に金を掛けたい主も、掛けたくない主も利用できる便利な店なのさ」
「ははぁ…成程。合理的な商売です。ということは、このひらひらの衣服は街歩き用ですか?厳かな場で着るにしては、デザインが独創的すぎますよね」
「これは主の趣味用だ。夜伽用と言い換えても良い。あんたの不安はあながち間違っちゃいなかったということだ」
その件に関してはどうぞ潔く忘れてくれ、と切願するゼータである。
それからおよそ5分後、リジンの口から「さぁできた」との声が上がった。ゼータは促されるがままに席を立ち、姿見に映る自身の姿に眺め入る。黒を基調とした愛らしいワンピースに、真っ白なニーハイソックス。肩まで伸びた黒髪は毛先がくるりと内側を向き、長く伸びた前髪だけが緩く三つ編みに編み込まれている。そして顔。日頃きつい印象を抱かれがちなゼータの顔面は、化粧の力により様変わりしていた。まなじりの下がった幼げな目元に、長く伸びた睫毛。薄っすらと紅をのせた頬に、ぽってりとふくよかな唇。可憐の代名詞であるシルフィーやメアリにも引きを取らぬ愛らしさだ。
凄い、とゼータは声を上げる。
「まるで魔法に掛けられたみたいです。見事な腕前ですねぇ」
凄い凄いとはしゃぎ回るゼータは、姿見の前で無意味な回転を繰り返す。つぼみのように膨らむスカートの裾を見下ろしながら、リジンは浮かない表情だ。
「服の形は良い。ぼたんやレースの位置も悪くない。だが…地味だな。もう少し華やかさが欲しい。髪飾りを付けるか、それとも化粧を派手にするか…」
ぶつぶつと呟くリジンは、回転するゼータをそのままにして髪飾りの箱を漁り出した。桃色のカチューシャ、薔薇を模した金色のティアラ、大ぶりのリボン、その他諸々。髪飾りを手に神妙な面持ちのリジンを見て、ゼータはようやく独楽のような回転を止める。ふわふわとスカートの裾を揺らしながら、リジンの傍らへと歩み寄る。
「リジン。店に服を増やすたびに、こうして試着を行うんですか?」
「珍しい形の服を入れたときには試着が必須だ。壁に掛けたときと人が着たときでは、衣服の印象は大分異なる。衣服の特徴を把握し化粧や髪結いのイメージを膨らませておかないと、円滑な接客ができないだろ」
「今まではどうしていたんですか?」
「優先的な衣服の貸し付けを条件に、知り合いに奴隷を貸し出してもらっていた。ロザリーに協力を仰いでいた時期もあったな。しかしロザリーは、身なりのこととなると口喧しくてな。口紅を変えろだの、首飾りは真珠が良いだのと散々要望を付けやがる。大人しく着せ替え人形を演じろと言っても聞きやしない。全く俺はよい拾い物をした。人間と同じ黒髪黒目で、人間よりも遥かに頑丈。魔石を埋め込む手間もないし、果ては男の姿も女の姿も自由自在ときたもんだ。飯の不味さにさえ目を瞑れば、考え得る限り最高の奴隷じゃないか。ああ、厚かましくて神経が図太いところにも目を瞑る必要はある」
リジンはくつくつと笑い声を零しながら、ゼータの頭にカチューシャをのせた。比較的しっかりとした作りのそのカチューシャは、黒い布地の上に大小様々なたくさんの宝石があしらわれている。ともすれば宝石ではなく、ただのガラス玉なのかもしれない。しかし星粒を散りばめたようなそのカチューシャは、ゼータの黒髪によく合っていた。
「よし、良いな。この組み合わせで店に並べよう。冷めないうちに風呂に入って来て良いぞ。服は綺麗に畳んで紙袋に入れておけ」
「下着は?」
「一度身につけた下着は買い取りだ。あんたの着けたそれは店の経費で落としておいてやるよ。神の如き存在である主からの贈り物だ。壁に掛けて終夜拝み倒せよ」
「下着本来の用途を逸脱しているじゃないですか。普通に身に着けますよ。ありがとうございます」
仕事は終わり。ゼータは床に落ちた紙袋を拾い上げ、リジンの寝室を出て行かんとする。扉の取っ手に手を掛けた瞬間、背中に愉悦を帯びたリジンの声があたる。
「それで。俺は今夜、愚図な奴隷をベッドに招く必要があるのか?」
「いいえ、微塵もございません」
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エチシーンが書けなくて、朝チュンとなりました。
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侯爵令息セドリックの憂鬱な日
めちゅう
BL
第二王子の婚約者候補侯爵令息セドリック・グランツはある日王子の婚約者が決定した事を聞いてしまう。しかし先に王子からお呼びがかかったのはもう一人の候補だった。候補落ちを確信し泣き腫らした次の日は憂鬱な気分で幕を開ける———
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初投稿で拙い文章ですが楽しんでいただけますと幸いです。
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僕はお別れしたつもりでした
まと
BL
遠距離恋愛中だった恋人との関係が自然消滅した。どこか心にぽっかりと穴が空いたまま毎日を過ごしていた藍(あい)。大晦日の夜、寂しがり屋の親友と二人で年越しを楽しむことになり、ハメを外して酔いつぶれてしまう。目が覚めたら「ここどこ」状態!!
親友と仲良すぎな主人公と、別れたはずの恋人とのお話。
⚠️趣味で書いておりますので、誤字脱字のご報告や、世界観に対する批判コメントはご遠慮します。そういったコメントにはお返しできませんので宜しくお願いします。
大晦日あたりに出そうと思ったお話です。
【完結】オーロラ魔法士と第3王子
N2O
BL
全16話
※2022.2.18 完結しました。ありがとうございました。
※2023.11.18 文章を整えました。
辺境伯爵家次男のリーシュ・ギデオン(16)が、突然第3王子のラファド・ミファエル(18)の専属魔法士に任命された。
「なんで、僕?」
一人狼第3王子×黒髪美人魔法士
設定はふんわりです。
小説を書くのは初めてなので、何卒ご容赦ください。
嫌な人が出てこない、ふわふわハッピーエンドを書きたくて始めました。
感想聞かせていただけると大変嬉しいです。
表紙絵
⇨ キラクニ 様 X(@kirakunibl)
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今夜のご飯も一緒に食べよう~ある日突然やってきたヒゲの熊男はまさかのスパダリでした~
松本尚生
BL
瞬は失恋して職と住み処を失い、小さなワンルームから弁当屋のバイトに通っている。
ある日瞬が帰ると、「誠~~~!」と背後からヒゲの熊男が襲いかかる。「誠って誰!?」上がりこんだ熊は大量の食材を持っていた。瞬は困り果てながら調理する。瞬が「『誠さん』って恋人?」と尋ねると、彼はふふっと笑って瞬を抱きしめ――。
恋なんてコリゴリの瞬と、正体不明のスパダリ熊男=伸幸のお部屋グルメの顛末。
伸幸の持ちこむ謎の食材と、それらをテキパキとさばいていく瞬のかけ合いもお楽しみください。
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