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安らかに眠れ、恐ろしくも美しい緋色の龍よ
アリッサ
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奇妙な男に出会った。その男はニシキギの御宿の意味を知らず、ロマ周辺諸国の地理を知らず、そして宝とも言うべき金貨の価値を知らぬ。だが決して無知というわけではなく、食事や人付き合いの作法については心得ているし、不思議なことにも魔獣の話題となると途端に饒舌になる。1週間前に南の空に空飛ぶ魔獣を見たと言えば、まるで少年のようにはしゃぎ詳細を問い質そうとするのだ。急な用事ができてロマの地を訪れたという割に、呑気に買い物を楽しみ高価な食事に舌鼓を打つ。ロマ周辺諸国では共通であるはずの魔族の恐怖を知らぬ。共に過ごせば過ごすほどに、奇妙な男。
太陽が西の空に傾きかけた頃に、アリッサはロマ北側に位置する林の中を訪れた。ロマの民は不用意に山林地帯に近付かない。魔獣が出るからだ。山警隊と呼ばれる山林の警備を担当する者達が、数日に一度警笛を鳴らし、ロマの街から魔獣を遠ざけて回る。しかし所詮は追い払うだけ。非力な人間は魔獣に太刀打ちできない。凶暴な魔獣との遭遇を恐れて、ロマの民は山林には近づかない。そんな中でアリッサが林の中へと立ち入ったのは、例の奇妙な男に呼び出されたからだ。「今日日が暮れかけた頃に、ロマ北側の林に来てください」不審な呼び出しにも関わらず、アリッサは素直に頷いた。悉く奇妙な男であるが、悪人ではない。それは昨日の街歩きで思い知ったことだ。
アリッサが指定されたロマ北側の林に辿り付いたとき、ゼータは1頭の騎獣を連れていた。使い込まれた茶革の馬具を付けた、美しい騎獣だ。馬によく似ているが、アリッサの知る馬とは少し形態が違う。艶々と波打つ毛並みは白ではなく銀。風にそよぐ鬣も尾も眩しいほどの銀色で、頭頂には短い角が生えている。ぱかぱかと四足を踏み鳴らす様は馬そのもの、だが馬というにはどこか奇妙だ。ゼータという男もこうである。人であるはずなのに普通の人とはどこか違う。馬であるはずなのに普通の馬とは何かが違う。奇妙な一人と一匹だ。
「アリッサ。突然呼び出してすみません。先に済ませる仕事があるので、少し待っていてください」
そう言うと、ゼータは銀馬の馬具を外し始めた。くつわを外し、項革を解き、しっかりと固定された鞍を慣れた手つきで外していく。アリッサは銀馬を刺激せぬようにと、抜き足差し足でゼータの背後に忍びのる。
「何だか変わった馬だね。白馬とは少し色が違うし、角が生えている」
「馬じゃなくて魔獣ですよ。私の国ではグラニと呼ばれていました」
「魔獣?ゼータさんは魔獣を慣らせるの?」
アリッサは驚愕の表情である。人間に魔獣は慣らせない、魔獣は人間に懐かない。それは幼子でも知る常識だ。例え特殊な訓練を積んだ山警隊の隊員であっても、決して不用意に魔獣に近付くことはしない。人間と魔獣は相容れぬ存在である、長年の常識を覆され目を白黒させるアリッサ。銀馬の馬具外しに精を出しながら、アリッサの問いに答えるゼータ。
「グラニは私が捕らえた子ではないですよ。魔獣の捕獲を生業とする人々がいるんです。グラニは人懐こい種なので、特別な訓練なくとも騎獣としての利用が可能です。でもグラニのような種というのは貴重で、魔獣とは元来凶暴なものなんですよね。だから捕獲とは別に、魔獣慣らしを生業とする人々が存在します。調教師なんて呼ぶ人もいますけれど、実際の仕事は調教とは少し違うみたいですよ。心を通わせるというのかな。魔獣と心を通わせて、少しの間だけ人に力を貸して欲しいとお願いする」
「…あたし、ゼータさんが何を言っているかよくわかんないよ」
ゼータは細やかな笑いを零したきり、答えない。
全ての馬具を外し終えるには数分と掛からず、身軽になった銀馬は嬉しそうだ。跳ね回る銀馬を横目に見ながら、ゼータは一纏めにした馬具を風呂敷に包み込む。その風呂敷は昨日の買い物で手に入れた物だ。たくさんの衣服を買ってくれたおまけだと、服飾店の店主が紙袋に忍ばせてくれた物。風呂敷に描かれた細長い花弁の白花は、ロマの特産品である檸檬の花だ。毎年檸檬の花が咲き乱れる時期には、独特の芳香がロマの地を包み込む。衣服や寝具の模様として定番である檸檬の花は、アリッサの一番好きな花でもある。
馬具を包み込んだ檸檬の風呂敷を、ゼータは手近な樹木のうろの中へと隠した。周りの木々よりも一際大きな大木にできたうろは、人が隠れるには狭く、そして小動物が棲家とするには少しばかり大きい。幸いにもそのうろを棲家とする動物はいないようで、からっぽのうろの中に檸檬の風呂敷はぴたりと収まった。手ぶらになったゼータは、グラニの傍に歩み寄り銀色の背中を軽く叩く。今までありがとう、あなたのお陰でここまで来ることが出来ました。ゼータの囁きを聞いて、グラニはとことこと歩み出す。緩やかな歩みは次第に駆け足となり、銀色の背中は林の中へと消えて行く。一人と一匹の別れの時だ。
「逃がしちゃうの?何で?」
アリッサは消えゆく銀色の背中と、ゼータの横顔を交互に見やる。ゼータはロマの民ではない。騎獣に跨りロマの地へとやって来た異国人。騎獣を逃がしてしまっては、元居た地に帰ることができなくなってしまう。焦るアリッサとは対照的に、ゼータの表情は穏やかだ。
「この辺りに魔獣の世話をしてくれる牧場なんてないでしょう。いつ戻るかわからない主を、戻るともわからぬ主を、森の中で待たせておくのは可哀そうです」
「戻るともわからない主って、ゼータさんのこと?待ってよ。ゼータさんは何か目的があってロマの地に来たんじゃないの?ロマを離れて、一体どこに行こうと言うの」
「ロマは通過点なんですよ。私の旅の目的地は、海の向こう側」
ゼータの指先が指すは東の空。青々とした海原の果て。昨日よりも幾分気温の下がった今日、空気は澄み大海の向こうがよく見える。白く輝く水平線の果てにぽつりと浮かぶは陸地。ロマの人々を無慈悲と連れ去る、魔族の棲家だ。アリッサの姉ベルは、もう7年も前にその地に連れ去られた。姉を思い海原を臨んだ回数は千をとうに超える。ロマの人々の恨み集う土地。
「もしかしてゼータさんは、魔族に攫われるつもりなの?海の向こうに渡るために?」
そんな馬鹿なことがあるものか、冗談交じりの問いであった。しかし当のゼータはといえば、至極真面目な表情で海原を見据える。
「どうにもそれが手っ取り早そうなんですよねぇ。小舟を買いあげて海を渡るという方法も考えましたけど、生憎操舵の経験なんて無いですし。慣れた者に運んでもらうのが一番確実かなって」
「海を渡ることだけを考えれば、そうかもしれないよ。でも運ばれた後はどうするの。相手は残虐非道の魔族だよ。魔族に捕らわれた者は、生きたまま奴らの食料になるだなんて話もある。無事海を越えたとしても、死んでしまったら目的は果たせない」
「大丈夫ですよ。いざ身の危険を感じれば、相手をぶっ飛ばして逃げますから」
「そんなことできるはずがない。人間は魔族に敵わない」
「大丈夫。だって私、魔族ですから」
魔族、憎むべき言葉が頭の芯に響き渡る。まさか、そんなはずはない。アリッサは震える声を絞り出す。
「嘘だ」
「本当ですよ。人間らしい見た目をしていますけど、れっきとした魔族です」
アリッサは唇を震わせながら、ゼータの風貌を熟視する。アリッサと同じ黒髪に、闇夜を思わせる黒の瞳。ロマの地では、黒髪黒目は人間の象徴であると言われている。稀に容姿に黒の色を持たぬ人間も存在するが、茶髪や焦げ茶の瞳が精々だ。黒を激しく逸脱した色合いを持つ人間は存在しない。反対に赤や金、緑や橙と言った黒からかけ離れた色合いは、魔族の象徴であるとも言われている。海を越えロマの地にやって来る魔族は、派手な目髪の色に人間にはあるまじき容姿的特徴を有している。例えば鋭く尖った爪や牙、毛むくじゃらの手足、鱗に覆われた表皮。ロマの街に暗躍する魔族を偶然に目撃した人々は、口を揃えてこう言うのだ。「あれは化物だ。我々人間が太刀打ちできるはずもない」
黒は人間の色、黒以外は魔族の色。それがロマの人々の常識だ。そしてその常識に当て嵌めてみれば、黒髪黒目のゼータは人間であるはずなのだ。しかしゼータは自身が魔族であるという。長年の常識が次々と覆されていく。混乱状態に陥るアリッサを、ゼータは悠然とした眼差しで見つめている。
「ロマの地から遥か西方に、ドラキス王国という国があります。ドラゴンの王様が治める世にも珍しい国家です。そしてその国では、魔族と人間が共存しています。争うことなく、いがみ合うことなく、互いに強調し合って暮らしているんですよ」
「嘘。あたし、そんな国知らない」
「知らなくて当然ですよ。私は騎獣に跨り1か月半も旅をしてきたんですから。夢物語と捉えてもらっても構いません。でも私が魔族だというのは、本当の話。だから心配は無用ですよ。私は魔族だから、魔族と相対することは別に怖くないんです。事情を説明すれば快く船に乗せてもらえないか、なんて呑気に考えているくらい」
ゼータはアリッサに背を向けて、林の中を数歩進んだ。歩みの先に広がるものは広大な山林。ロマ周辺で人の住む土地は少ない。ロマの南側には無人の山林地帯が広がり、東側は海洋に面している。北側の海岸線には長く道が伸びているが、先にある物は名の知られた4つの小国だけだ。斜面を超えた西側にも小国地帯が広がっているが、小国地帯を超えた先は人の住まわぬ深い森。高さが500mに及ばぬ低山が幾十幾百も連なり、その先に何があるかは誰も知らない。凶暴な魔獣の巣窟である山々を超えようとする者など、冒険家ではなくただの命知らずだ。
ゼータの話が本当ならば、彼はロマ西方の低山地帯を超えてきたことになる。体の良い作り話と自身に言い聞かせながらも、ゼータの話を真っ向から否定することはできない。山々の向こうの世界をアリッサは知らない。遠い世界の果てに、人間と魔族が共存する夢のような国がある。御伽話の真偽を確かめる術はない。深緑に埋もれるゼータの背に、アリッサは問い掛ける。
「ゼータさんは、海の向こうに何をしに行くの」
「大切な人がいるんです。海の向こうに」
「まさかその人は、魔族に攫われたの?」
「違います。少し複雑な事情を抱えていて、その人が海を越えた理由をアリッサに説明することは出来ません。でも彼は確かにあの海の向こうにいて、もう4か月近くも帰りません。だから私は彼に会いに行くんです」
「そう…そうなの」
世界の果てに住む異国人の事情など、細々と説明されたところで理解することは困難だ。思考を放棄し溜息を零すアリッサに向けて、手のひら大の包み紙が放られる。ゼータの手元を離れ空中に弧を描くそれは、じゃらりと音を立ててアリッサの手のひらに落ちる。
「それ、御宿のお代です。明日朝まで私が客室に戻らなかったら、女将に支払っておいてもらえませんか?料金明細が不明なので、少し多めにいれてありますから」
ゼータの言葉を聞きながら、アリッサは手のひらに収まる紙包みを揺する。包みの中から聞こえるがちゃがちゃと賑やかな音は、確かに数枚の貝通貨が擦れ合う音だ。なるほどこれがゼータが自身を呼び出した理由かと、アリッサは素直に首を縦に振る。
「まぁそのくらいなら、引き受けても良いけどさ」
「あともう一つ、私の荷物なんですけれどね。御宿に置きっぱなしも不味いかと思うので、うろの中に隠しておきます。2か月半経っても私が海の向こうから戻らなかったら、適当に処分しておいてください。売り払うなり人にあげるなり、好きにして構いませんから」
そう言うと、ゼータは大樹の根元に歩み寄り、放り出してあった旅行鞄をうろの中へと放り入れた。白花の風呂敷に重なる、茶革の旅行鞄。ぴたりとうろに収まった二つの荷物に、ゼータはせっせと木の葉を掛ける。緑、黄色、橙、たくさんの木の葉に埋もれ、風呂敷と鞄はすっかり姿を隠してしまう。身一つとなったゼータの姿を見て、アリッサはふとある事に思い至る。昨日ゼータの懐に仕舞いこまれていた銭袋、異国の通貨が詰まるあの銭袋は一体どこへ行ったのだ。
「…ねぇゼータさん。まさかその荷物、金貨が入っている?」
「入っています。数枚は衣服の裏地に縫い付けたんですけれど、流石に全部は持っていけませんし。出来れば捕まらずに船に忍び込みたいところではありますけれど、状況によっては人間を装い捕まることもやぶさかではありません。大金を所持していると気付かれたら、奪われちゃうと思うんですよね。見知らぬ魔族に大金を明け渡すのも不本意なので、ここに置いていきます」
木の葉に埋もれたうろの中を見やり、アリッサは片頬を引き攣らせた。ゼータの銭袋にどれだけの金貨が仕舞い込まれていたのか、アリッサは知らない。しかし昨日のゼータの言動を鑑みるに、あの銭袋に仕舞われていた金貨は数枚程度ではない。十数枚、あるいは数十枚。アリッサの給料3か月分に相当する輝かしい金貨が、目の前のうろの中に隠されている。巨額の埋蔵金を目前にし、アリッサは拳を震わせる。
「そんな話、あたしに伝えていいの?もしゼータさんが無事海の向こうから戻ったら、その金貨は持ち去っちゃうんでしょ?あたし、明日にでもゼータさんの銭袋を盗み出すかもよ。金貨を脱国税の支払いに充てて、まんまと他国に逃げ出すかも」
「アリッサが悪事を働く必要はありませんよ。2か月半待てば良いんです。そうすれば、私の銭袋は丸々アリッサの物になるんですから」
アリッサは息を呑む。何だか奇妙な物言いだ。それではまるで―
「…ゼータさんは、海の向こうから帰らないつもりなの」
「帰りたいとは思いますよ。目的を達成してドラキス王国に帰りたい。でも多分、彼はもう…」
深緑に埋もれるゼータは、その先の言葉を語らない。
太陽が西の空に傾きかけた頃に、アリッサはロマ北側に位置する林の中を訪れた。ロマの民は不用意に山林地帯に近付かない。魔獣が出るからだ。山警隊と呼ばれる山林の警備を担当する者達が、数日に一度警笛を鳴らし、ロマの街から魔獣を遠ざけて回る。しかし所詮は追い払うだけ。非力な人間は魔獣に太刀打ちできない。凶暴な魔獣との遭遇を恐れて、ロマの民は山林には近づかない。そんな中でアリッサが林の中へと立ち入ったのは、例の奇妙な男に呼び出されたからだ。「今日日が暮れかけた頃に、ロマ北側の林に来てください」不審な呼び出しにも関わらず、アリッサは素直に頷いた。悉く奇妙な男であるが、悪人ではない。それは昨日の街歩きで思い知ったことだ。
アリッサが指定されたロマ北側の林に辿り付いたとき、ゼータは1頭の騎獣を連れていた。使い込まれた茶革の馬具を付けた、美しい騎獣だ。馬によく似ているが、アリッサの知る馬とは少し形態が違う。艶々と波打つ毛並みは白ではなく銀。風にそよぐ鬣も尾も眩しいほどの銀色で、頭頂には短い角が生えている。ぱかぱかと四足を踏み鳴らす様は馬そのもの、だが馬というにはどこか奇妙だ。ゼータという男もこうである。人であるはずなのに普通の人とはどこか違う。馬であるはずなのに普通の馬とは何かが違う。奇妙な一人と一匹だ。
「アリッサ。突然呼び出してすみません。先に済ませる仕事があるので、少し待っていてください」
そう言うと、ゼータは銀馬の馬具を外し始めた。くつわを外し、項革を解き、しっかりと固定された鞍を慣れた手つきで外していく。アリッサは銀馬を刺激せぬようにと、抜き足差し足でゼータの背後に忍びのる。
「何だか変わった馬だね。白馬とは少し色が違うし、角が生えている」
「馬じゃなくて魔獣ですよ。私の国ではグラニと呼ばれていました」
「魔獣?ゼータさんは魔獣を慣らせるの?」
アリッサは驚愕の表情である。人間に魔獣は慣らせない、魔獣は人間に懐かない。それは幼子でも知る常識だ。例え特殊な訓練を積んだ山警隊の隊員であっても、決して不用意に魔獣に近付くことはしない。人間と魔獣は相容れぬ存在である、長年の常識を覆され目を白黒させるアリッサ。銀馬の馬具外しに精を出しながら、アリッサの問いに答えるゼータ。
「グラニは私が捕らえた子ではないですよ。魔獣の捕獲を生業とする人々がいるんです。グラニは人懐こい種なので、特別な訓練なくとも騎獣としての利用が可能です。でもグラニのような種というのは貴重で、魔獣とは元来凶暴なものなんですよね。だから捕獲とは別に、魔獣慣らしを生業とする人々が存在します。調教師なんて呼ぶ人もいますけれど、実際の仕事は調教とは少し違うみたいですよ。心を通わせるというのかな。魔獣と心を通わせて、少しの間だけ人に力を貸して欲しいとお願いする」
「…あたし、ゼータさんが何を言っているかよくわかんないよ」
ゼータは細やかな笑いを零したきり、答えない。
全ての馬具を外し終えるには数分と掛からず、身軽になった銀馬は嬉しそうだ。跳ね回る銀馬を横目に見ながら、ゼータは一纏めにした馬具を風呂敷に包み込む。その風呂敷は昨日の買い物で手に入れた物だ。たくさんの衣服を買ってくれたおまけだと、服飾店の店主が紙袋に忍ばせてくれた物。風呂敷に描かれた細長い花弁の白花は、ロマの特産品である檸檬の花だ。毎年檸檬の花が咲き乱れる時期には、独特の芳香がロマの地を包み込む。衣服や寝具の模様として定番である檸檬の花は、アリッサの一番好きな花でもある。
馬具を包み込んだ檸檬の風呂敷を、ゼータは手近な樹木のうろの中へと隠した。周りの木々よりも一際大きな大木にできたうろは、人が隠れるには狭く、そして小動物が棲家とするには少しばかり大きい。幸いにもそのうろを棲家とする動物はいないようで、からっぽのうろの中に檸檬の風呂敷はぴたりと収まった。手ぶらになったゼータは、グラニの傍に歩み寄り銀色の背中を軽く叩く。今までありがとう、あなたのお陰でここまで来ることが出来ました。ゼータの囁きを聞いて、グラニはとことこと歩み出す。緩やかな歩みは次第に駆け足となり、銀色の背中は林の中へと消えて行く。一人と一匹の別れの時だ。
「逃がしちゃうの?何で?」
アリッサは消えゆく銀色の背中と、ゼータの横顔を交互に見やる。ゼータはロマの民ではない。騎獣に跨りロマの地へとやって来た異国人。騎獣を逃がしてしまっては、元居た地に帰ることができなくなってしまう。焦るアリッサとは対照的に、ゼータの表情は穏やかだ。
「この辺りに魔獣の世話をしてくれる牧場なんてないでしょう。いつ戻るかわからない主を、戻るともわからぬ主を、森の中で待たせておくのは可哀そうです」
「戻るともわからない主って、ゼータさんのこと?待ってよ。ゼータさんは何か目的があってロマの地に来たんじゃないの?ロマを離れて、一体どこに行こうと言うの」
「ロマは通過点なんですよ。私の旅の目的地は、海の向こう側」
ゼータの指先が指すは東の空。青々とした海原の果て。昨日よりも幾分気温の下がった今日、空気は澄み大海の向こうがよく見える。白く輝く水平線の果てにぽつりと浮かぶは陸地。ロマの人々を無慈悲と連れ去る、魔族の棲家だ。アリッサの姉ベルは、もう7年も前にその地に連れ去られた。姉を思い海原を臨んだ回数は千をとうに超える。ロマの人々の恨み集う土地。
「もしかしてゼータさんは、魔族に攫われるつもりなの?海の向こうに渡るために?」
そんな馬鹿なことがあるものか、冗談交じりの問いであった。しかし当のゼータはといえば、至極真面目な表情で海原を見据える。
「どうにもそれが手っ取り早そうなんですよねぇ。小舟を買いあげて海を渡るという方法も考えましたけど、生憎操舵の経験なんて無いですし。慣れた者に運んでもらうのが一番確実かなって」
「海を渡ることだけを考えれば、そうかもしれないよ。でも運ばれた後はどうするの。相手は残虐非道の魔族だよ。魔族に捕らわれた者は、生きたまま奴らの食料になるだなんて話もある。無事海を越えたとしても、死んでしまったら目的は果たせない」
「大丈夫ですよ。いざ身の危険を感じれば、相手をぶっ飛ばして逃げますから」
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「大丈夫。だって私、魔族ですから」
魔族、憎むべき言葉が頭の芯に響き渡る。まさか、そんなはずはない。アリッサは震える声を絞り出す。
「嘘だ」
「本当ですよ。人間らしい見た目をしていますけど、れっきとした魔族です」
アリッサは唇を震わせながら、ゼータの風貌を熟視する。アリッサと同じ黒髪に、闇夜を思わせる黒の瞳。ロマの地では、黒髪黒目は人間の象徴であると言われている。稀に容姿に黒の色を持たぬ人間も存在するが、茶髪や焦げ茶の瞳が精々だ。黒を激しく逸脱した色合いを持つ人間は存在しない。反対に赤や金、緑や橙と言った黒からかけ離れた色合いは、魔族の象徴であるとも言われている。海を越えロマの地にやって来る魔族は、派手な目髪の色に人間にはあるまじき容姿的特徴を有している。例えば鋭く尖った爪や牙、毛むくじゃらの手足、鱗に覆われた表皮。ロマの街に暗躍する魔族を偶然に目撃した人々は、口を揃えてこう言うのだ。「あれは化物だ。我々人間が太刀打ちできるはずもない」
黒は人間の色、黒以外は魔族の色。それがロマの人々の常識だ。そしてその常識に当て嵌めてみれば、黒髪黒目のゼータは人間であるはずなのだ。しかしゼータは自身が魔族であるという。長年の常識が次々と覆されていく。混乱状態に陥るアリッサを、ゼータは悠然とした眼差しで見つめている。
「ロマの地から遥か西方に、ドラキス王国という国があります。ドラゴンの王様が治める世にも珍しい国家です。そしてその国では、魔族と人間が共存しています。争うことなく、いがみ合うことなく、互いに強調し合って暮らしているんですよ」
「嘘。あたし、そんな国知らない」
「知らなくて当然ですよ。私は騎獣に跨り1か月半も旅をしてきたんですから。夢物語と捉えてもらっても構いません。でも私が魔族だというのは、本当の話。だから心配は無用ですよ。私は魔族だから、魔族と相対することは別に怖くないんです。事情を説明すれば快く船に乗せてもらえないか、なんて呑気に考えているくらい」
ゼータはアリッサに背を向けて、林の中を数歩進んだ。歩みの先に広がるものは広大な山林。ロマ周辺で人の住む土地は少ない。ロマの南側には無人の山林地帯が広がり、東側は海洋に面している。北側の海岸線には長く道が伸びているが、先にある物は名の知られた4つの小国だけだ。斜面を超えた西側にも小国地帯が広がっているが、小国地帯を超えた先は人の住まわぬ深い森。高さが500mに及ばぬ低山が幾十幾百も連なり、その先に何があるかは誰も知らない。凶暴な魔獣の巣窟である山々を超えようとする者など、冒険家ではなくただの命知らずだ。
ゼータの話が本当ならば、彼はロマ西方の低山地帯を超えてきたことになる。体の良い作り話と自身に言い聞かせながらも、ゼータの話を真っ向から否定することはできない。山々の向こうの世界をアリッサは知らない。遠い世界の果てに、人間と魔族が共存する夢のような国がある。御伽話の真偽を確かめる術はない。深緑に埋もれるゼータの背に、アリッサは問い掛ける。
「ゼータさんは、海の向こうに何をしに行くの」
「大切な人がいるんです。海の向こうに」
「まさかその人は、魔族に攫われたの?」
「違います。少し複雑な事情を抱えていて、その人が海を越えた理由をアリッサに説明することは出来ません。でも彼は確かにあの海の向こうにいて、もう4か月近くも帰りません。だから私は彼に会いに行くんです」
「そう…そうなの」
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「まぁそのくらいなら、引き受けても良いけどさ」
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「…ねぇゼータさん。まさかその荷物、金貨が入っている?」
「入っています。数枚は衣服の裏地に縫い付けたんですけれど、流石に全部は持っていけませんし。出来れば捕まらずに船に忍び込みたいところではありますけれど、状況によっては人間を装い捕まることもやぶさかではありません。大金を所持していると気付かれたら、奪われちゃうと思うんですよね。見知らぬ魔族に大金を明け渡すのも不本意なので、ここに置いていきます」
木の葉に埋もれたうろの中を見やり、アリッサは片頬を引き攣らせた。ゼータの銭袋にどれだけの金貨が仕舞い込まれていたのか、アリッサは知らない。しかし昨日のゼータの言動を鑑みるに、あの銭袋に仕舞われていた金貨は数枚程度ではない。十数枚、あるいは数十枚。アリッサの給料3か月分に相当する輝かしい金貨が、目の前のうろの中に隠されている。巨額の埋蔵金を目前にし、アリッサは拳を震わせる。
「そんな話、あたしに伝えていいの?もしゼータさんが無事海の向こうから戻ったら、その金貨は持ち去っちゃうんでしょ?あたし、明日にでもゼータさんの銭袋を盗み出すかもよ。金貨を脱国税の支払いに充てて、まんまと他国に逃げ出すかも」
「アリッサが悪事を働く必要はありませんよ。2か月半待てば良いんです。そうすれば、私の銭袋は丸々アリッサの物になるんですから」
アリッサは息を呑む。何だか奇妙な物言いだ。それではまるで―
「…ゼータさんは、海の向こうから帰らないつもりなの」
「帰りたいとは思いますよ。目的を達成してドラキス王国に帰りたい。でも多分、彼はもう…」
深緑に埋もれるゼータは、その先の言葉を語らない。
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辺境伯爵家次男のリーシュ・ギデオン(16)が、突然第3王子のラファド・ミファエル(18)の専属魔法士に任命された。
「なんで、僕?」
一人狼第3王子×黒髪美人魔法士
設定はふんわりです。
小説を書くのは初めてなので、何卒ご容赦ください。
嫌な人が出てこない、ふわふわハッピーエンドを書きたくて始めました。
感想聞かせていただけると大変嬉しいです。
表紙絵
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