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安らかに眠れ、恐ろしくも美しい緋色の龍よ
ニシキギの御宿-1
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2人組の男性と別れたゼータは、海岸線を北へと向かった。「夜の海には近づくな」との男性の言葉を忠実に守り、砂浜を歩くことはせず、海岸線に面した舗装路を黙々と歩く。花壇と街路樹の整備された小綺麗な通りだ。街灯は設置されておらず、通りに面する建物の窓灯りが闇夜に咲く金魚草を煌々と照らしている。片側を砂浜に面した見通しの良い通りであるから、進むべき道を間違えることはない。
建物内部から漏れ出す笑い声に耳を澄ませながら通りを歩いていたゼータは、ふとした瞬間不可解な事実に気付く。通りに人の姿がないのだ。今ゼータが歩く通りは、道幅が3mはあろうかという比較的大きな通りだ。飲食店や服飾店の看板を掲げた建物も多く、通常であれば多くの人が行き交う通りであるはずだ。しかし不自然なことにも、通りに面した全ての商店はすでに看板を下ろしている。窓灯りが漏れ出すのだから、建物の内部に人はいるのだ。人はいるはずなのに建物の扉はぴたりと閉ざされ、外部者の立ち入りを拒んでいる。1階の窓に鉄格子を嵌め込んだ建物も多い。
―闇に紛れて街に入り込んでは、ロマの人々を攫って行くんだ
男性の言葉が脳裏を過る。あの言葉は比喩や誇張ではない。海の向こうには魔族の住む土地があり、彼らは時折ロマを訪れては人間を攫って行く。だからロマに住まう人々は、夜間の来訪者を心から恐れている。冒険者アリデジャがロマの地に立ち入る事ができなかったのは、ロマの民が魔族を厭うているからだ。白緑肌に銀の髪、ドワーフの容姿は正に魔族そのもの。外敵との認定を受けても致し方はない。アリデジャ迫害の理由に納得がいくとともに、なぜとも思う。なぜ海の向こうに住む魔族は、ロマの民を攫って行くのか。安価な労働力とするためか、しかし魔法の使えぬ人間にできる仕事など限られている。人肉を食料とするためか、それなら森で魔獣でも狩っていた方が余程有意義であろう。暴力的な欲求を満たすための行いか、ならば建物や街路樹に破壊痕が無いのは不自然だ。いくら考えたところで、目ぼしい答えに辿り着くことはできない。
物思いに耽りながら歩くこと20分。ゼータはようやく「ニシキギ」と名の付く地区に辿り着いた。海洋の上に突き出した、岬の先端に位置する地区だ。岬の曲線に沿うようにしてなだらかな坂道が敷設されており、坂道はさらに上へ上へと続いていく。ゼータは通りの途中で足を止めて、岬の先端ににじり寄った。その場所に木柵や鉄柵の類は設置されていない。切り立った崖の下には、白波立つ黒海がぽっかりと口を開けている。波が引くたびに、ごつごつとした岩礁が見え隠れする。ぞわり、と背筋に悪寒が這う。この高さから夜の海に落下したとなれば、頑丈な魔族といえども無傷では済まされない。
ニシキギの通りには他の地区よりも背の高い建物が立ち並んでいた。建物の外壁はいずれも白、煉瓦色の平屋根を載せている。岬の内側に向けて石造りの小路が何本も伸びており、小路の先にも同様の外見の建物がいくつも建っている。どの建物も1階部分には灯りが灯っているが、上階部分には黒く塗りつぶされた窓も多い。ゼータは比較的多くの窓灯りが灯る建物へと歩み寄った。外壁と同じく真っ新な扉に手をかけて、恐る恐る建物の内部へと足を踏み入れる。
「すみません」
ゼータの言葉に答える者はいない。扉の内側は白塗りで統一された空間だ。一点の穢れなく塗られた漆喰の壁に、白いカーテンをぶら下げる半円窓。白木のカウンターに、同じく白革のソファ。壁際に並べられた陶器鉢には、純白の牡丹が大輪の花を咲かせている。広々とした部屋の内部に進み入り、ゼータが再度「すみません」と声を上げかけたときだ。ばたばたと慌ただしい音が響き、部屋奥の階段から一人の女性が駆け下りてくる。
「はいはい、御免なさいね。別のお客様をご案内していたところなの。ご滞在?」
尋ねる者は穏やかな笑みを浮かべる初老の女性だ。白髪交じりの黒髪を、右耳の横で一つに結わえている。品の良い花模様のワンピースが、小柄な身体によく似合っている。
「ええと、宿泊は出来ます?」
「もちろん。今夜はお客様が少ないから、良いお部屋にご案内ができるわよ」
「良かった。料金は1泊いくらですか?」
「基本料金は1泊桃貝5枚。その他希望のサービス内容に応じて追加料金を頂くわ。例えば朝夕の食事を付けるとすると…」
何だか聞き慣れぬ言葉を聞いた。ゼータは大慌てで女性の言葉を遮る。
「ちょっと待ってください。桃貝?それは通貨ですか?」
「そうだけど…貴方、ロマに来るのは初めて?」
「初めてです。急な用事で国を出てきたもので、国籍証明を取得するのを忘れてしまったんです。ここなら国籍証明がなくても宿泊が可能だとの噂を聞き及びまして」
「ああ、たまにいるわねぇ。そういう理由でうちを利用する人。私は国籍証明を取得した経験はないけれど、あれ面倒なんでしょ?発効までに数時間待たされるだなんて話を聞いたことがあるわ」
「そうそう。面倒なんですよ、あれ」
無難な相槌で場を凌ぐゼータである。
「宿屋代わりのご利用ということは、連泊のご予定かしら?」
「そうですね。2泊か3泊か…予定が済むまでに何日掛かるかわからないので、泊数は保留にしてもらえます?」
「構わないわよ。連泊となると料金の精算に多少時間が掛かるから、退室の前日には声を掛けてくれると助かるわ。あと10時から14時までは清掃時間だから、その時間は客室を空けて頂戴ね。荷物は置いたままで構わないけれど、貴重品は自己管理よ」
「わかりました。10時から14時ですね」
頷くゼータをその場に残し、女性は白木のカウンターに歩み寄った。カウンターの内側から金庫と思しきブリキ製の箱を取り出し、ダイヤル錠を回して蓋を開ける。箱の中から掴み上げた小さな物体を手のひらに握り締め、女性はゼータの元へと戻って来る。
「これがロマで使われている貝通貨よ。大きい物から順に赤貝、桃貝、白貝と呼ばれているわ」
目の前に掲げられた女性の手のひらを、ゼータはまじまじと覗き込んだ。皺の刻み込まれた手のひらには、色と大きさの違う3枚の貝殻が載っている。一番多きい物は赤く染色が施された貝殻で、大きさはあさり貝程度。2番目に大きい物は大ぶりのしじみ程度で、こちらは桃色。一番小さい物は小ぶりのしじみ程度で色は白。ただ貝殻を染色しただけの物かと思いきや、貝殻の中央部には小さな刻印がされている。細長い花弁を持つ花の刻印だ。
「他国の通貨から貝通貨への両替は、街中の両替所で行えるからね。国籍証明がなくても使用できる両替所を、明日朝までに調べておいてあげるわ」
「金貨や銀貨からの両替もできます?少し変わったデザインの物なんですけれど」
「金貨からの両替は、両替所ではなく換金所を使うわ。銀貨は…どうかしらね。換金所によっては取り扱いがあるとは思うけれど。金貨の重さや品質に応じて換金を行ってくれるから、珍しいデザインの物でも問題ないわ。換金所なら馴染みの場所があるから、口利きができるわよ。うちの子を同伴で連れて行くと良いわ」
「うちの子?」
ゼータは首を傾げる。
「はいはい、その辺の仕組みも説明しないとね。うちではお客様一人につき、一人世話役の女の子が付くわ。女の子の容姿や性格にご希望はある?」
「世話役って…具体的に何をしてもらえるんですか?」
「何でもよ。例えば食事の給仕、着替えのお手伝い、入浴時のお背中流し。女の子が嫌がらなければ、何をお願いしても良いわよ」
なるほど、これがニシキギの御宿が高額である理由か。ゼータは納得の表情である。ポトスの街中の高級宿でも、客人一人一人に専属の世話役が付くなどというサービスは存在しない。精々受付に在籍する従業員が、荷物の運搬を請け負って終いである。入浴時のお背中流しなど正直不要なサービスであるが、宿の仕組みである以上世話役の辞退は難しかろう。ゼータはううむ、と頭を捻る。
「そういう事なら…話好きな方が良いです。ロマを訪れるのは初めてなので、この土地の地理や歴史について詳しい方だとなお助かります。明日換金所に行ったついでに、少し街中の案内をお願いすることは出来ますか?」
「換金所への付き添いは私の方から話を通しておくけれど、街の案内については自分で交渉して頂戴。どこまでのサービスを提供するかは、女の子の裁量に任せているからね」
「そうですか…わかりました」
「じゃあ話好きの女の子を後で部屋に向かわせるわね。泊数が未定だから、人気の子は候補から外させてもらうわよ」
食事の運搬やお背中流しに人気不人気があるのだろうか。宿屋の仕組みにいささか疑問を覚えながらも、ゼータは素直にはい、と頷いた。
館内設備の説明、客室利用の注意点、朝夕の食事内容。細々とした雑談を交わしながら、ゼータは女性の背に続き部屋奥の階段を上った。案内された部屋は3階最奥に位置する見晴らしの良い客室だ。客室の南東側の壁には大きな出窓があり、濃紺の夜空に金色の十三夜月が浮いている。出窓の内側には台の大人が3人は寝転がれるほどの巨大なベッド。ベッド上の枕や掛布団には、もれなく白い花の刺繍があしらわれている。貝通貨の中央に押された刻印と同様の花だ。よくよく客室の内部を見回してみれば、出窓にぶら下がるカーテンにも、ソファの上の2つのクッションにも、同様の花模様があしらわれている。細長い5枚の花弁を持つ純白の花。ゼータには馴染みの無い花だ。
女性が客室から立ち去るとすぐに、ゼータは衣服を脱ぎ散らかし浴室へと向かった。触れれば壊れそうなガラス造りの扉を押し開けて、飛び込んだ浴室内で全身にたっぷりの湯を浴びる。備え付けの石鹸を惜しみなく使い、頭頂から足先までを丸洗いだ。浴室の内部には艶々と輝くホーロー素材の浴槽が備えられているから、時間が許せば熱々の湯にとっぷりと浸かり込みたいところではある。しかし今は一先ず身体を磨き上げることが先決だ。案内の女性は「夕食は15分と待たずに用意ができる」と言った。のんびり湯張りをしていたのでは、温かな夕食を食べ損ねてしまう。
烏の行水を終えたゼータが浴室から出ると、客室にはコンソメスープの芳しい香りが充満していた。匂いの元を辿れば、入り口付近に置かれた丸テーブルの上にはすでに何品かの料理が並べられている。ゼータが入室した当初その丸テーブルは置かれていなかったはずだから、夕食の提供に合わせて別部屋から持ち込んだ物なのだろう。ゼータは芳しさに誘われて、丸テーブルへと歩み寄る。1か月に及ぶ野宿。食事は十分にとるようにしていたが、口にする食物と言えばもっぱらが獣肉だ。それも捕らえた兎やリスをその場で丸焼きにしただけの野戦食。味付けも何もあったものではない。1か月ぶりとなる食事らしい食事を目の前にして、ゼータの口内は涎の大洪水だ。
世話役となる女性の姿は見えないが、先に一口頂いてしまおうか。ゼータが丸テーブルの周りをぐるぐると旋回していた、その時である。丸テーブル脇の扉が開き、客室内に一人の女性が入室した。
建物内部から漏れ出す笑い声に耳を澄ませながら通りを歩いていたゼータは、ふとした瞬間不可解な事実に気付く。通りに人の姿がないのだ。今ゼータが歩く通りは、道幅が3mはあろうかという比較的大きな通りだ。飲食店や服飾店の看板を掲げた建物も多く、通常であれば多くの人が行き交う通りであるはずだ。しかし不自然なことにも、通りに面した全ての商店はすでに看板を下ろしている。窓灯りが漏れ出すのだから、建物の内部に人はいるのだ。人はいるはずなのに建物の扉はぴたりと閉ざされ、外部者の立ち入りを拒んでいる。1階の窓に鉄格子を嵌め込んだ建物も多い。
―闇に紛れて街に入り込んでは、ロマの人々を攫って行くんだ
男性の言葉が脳裏を過る。あの言葉は比喩や誇張ではない。海の向こうには魔族の住む土地があり、彼らは時折ロマを訪れては人間を攫って行く。だからロマに住まう人々は、夜間の来訪者を心から恐れている。冒険者アリデジャがロマの地に立ち入る事ができなかったのは、ロマの民が魔族を厭うているからだ。白緑肌に銀の髪、ドワーフの容姿は正に魔族そのもの。外敵との認定を受けても致し方はない。アリデジャ迫害の理由に納得がいくとともに、なぜとも思う。なぜ海の向こうに住む魔族は、ロマの民を攫って行くのか。安価な労働力とするためか、しかし魔法の使えぬ人間にできる仕事など限られている。人肉を食料とするためか、それなら森で魔獣でも狩っていた方が余程有意義であろう。暴力的な欲求を満たすための行いか、ならば建物や街路樹に破壊痕が無いのは不自然だ。いくら考えたところで、目ぼしい答えに辿り着くことはできない。
物思いに耽りながら歩くこと20分。ゼータはようやく「ニシキギ」と名の付く地区に辿り着いた。海洋の上に突き出した、岬の先端に位置する地区だ。岬の曲線に沿うようにしてなだらかな坂道が敷設されており、坂道はさらに上へ上へと続いていく。ゼータは通りの途中で足を止めて、岬の先端ににじり寄った。その場所に木柵や鉄柵の類は設置されていない。切り立った崖の下には、白波立つ黒海がぽっかりと口を開けている。波が引くたびに、ごつごつとした岩礁が見え隠れする。ぞわり、と背筋に悪寒が這う。この高さから夜の海に落下したとなれば、頑丈な魔族といえども無傷では済まされない。
ニシキギの通りには他の地区よりも背の高い建物が立ち並んでいた。建物の外壁はいずれも白、煉瓦色の平屋根を載せている。岬の内側に向けて石造りの小路が何本も伸びており、小路の先にも同様の外見の建物がいくつも建っている。どの建物も1階部分には灯りが灯っているが、上階部分には黒く塗りつぶされた窓も多い。ゼータは比較的多くの窓灯りが灯る建物へと歩み寄った。外壁と同じく真っ新な扉に手をかけて、恐る恐る建物の内部へと足を踏み入れる。
「すみません」
ゼータの言葉に答える者はいない。扉の内側は白塗りで統一された空間だ。一点の穢れなく塗られた漆喰の壁に、白いカーテンをぶら下げる半円窓。白木のカウンターに、同じく白革のソファ。壁際に並べられた陶器鉢には、純白の牡丹が大輪の花を咲かせている。広々とした部屋の内部に進み入り、ゼータが再度「すみません」と声を上げかけたときだ。ばたばたと慌ただしい音が響き、部屋奥の階段から一人の女性が駆け下りてくる。
「はいはい、御免なさいね。別のお客様をご案内していたところなの。ご滞在?」
尋ねる者は穏やかな笑みを浮かべる初老の女性だ。白髪交じりの黒髪を、右耳の横で一つに結わえている。品の良い花模様のワンピースが、小柄な身体によく似合っている。
「ええと、宿泊は出来ます?」
「もちろん。今夜はお客様が少ないから、良いお部屋にご案内ができるわよ」
「良かった。料金は1泊いくらですか?」
「基本料金は1泊桃貝5枚。その他希望のサービス内容に応じて追加料金を頂くわ。例えば朝夕の食事を付けるとすると…」
何だか聞き慣れぬ言葉を聞いた。ゼータは大慌てで女性の言葉を遮る。
「ちょっと待ってください。桃貝?それは通貨ですか?」
「そうだけど…貴方、ロマに来るのは初めて?」
「初めてです。急な用事で国を出てきたもので、国籍証明を取得するのを忘れてしまったんです。ここなら国籍証明がなくても宿泊が可能だとの噂を聞き及びまして」
「ああ、たまにいるわねぇ。そういう理由でうちを利用する人。私は国籍証明を取得した経験はないけれど、あれ面倒なんでしょ?発効までに数時間待たされるだなんて話を聞いたことがあるわ」
「そうそう。面倒なんですよ、あれ」
無難な相槌で場を凌ぐゼータである。
「宿屋代わりのご利用ということは、連泊のご予定かしら?」
「そうですね。2泊か3泊か…予定が済むまでに何日掛かるかわからないので、泊数は保留にしてもらえます?」
「構わないわよ。連泊となると料金の精算に多少時間が掛かるから、退室の前日には声を掛けてくれると助かるわ。あと10時から14時までは清掃時間だから、その時間は客室を空けて頂戴ね。荷物は置いたままで構わないけれど、貴重品は自己管理よ」
「わかりました。10時から14時ですね」
頷くゼータをその場に残し、女性は白木のカウンターに歩み寄った。カウンターの内側から金庫と思しきブリキ製の箱を取り出し、ダイヤル錠を回して蓋を開ける。箱の中から掴み上げた小さな物体を手のひらに握り締め、女性はゼータの元へと戻って来る。
「これがロマで使われている貝通貨よ。大きい物から順に赤貝、桃貝、白貝と呼ばれているわ」
目の前に掲げられた女性の手のひらを、ゼータはまじまじと覗き込んだ。皺の刻み込まれた手のひらには、色と大きさの違う3枚の貝殻が載っている。一番多きい物は赤く染色が施された貝殻で、大きさはあさり貝程度。2番目に大きい物は大ぶりのしじみ程度で、こちらは桃色。一番小さい物は小ぶりのしじみ程度で色は白。ただ貝殻を染色しただけの物かと思いきや、貝殻の中央部には小さな刻印がされている。細長い花弁を持つ花の刻印だ。
「他国の通貨から貝通貨への両替は、街中の両替所で行えるからね。国籍証明がなくても使用できる両替所を、明日朝までに調べておいてあげるわ」
「金貨や銀貨からの両替もできます?少し変わったデザインの物なんですけれど」
「金貨からの両替は、両替所ではなく換金所を使うわ。銀貨は…どうかしらね。換金所によっては取り扱いがあるとは思うけれど。金貨の重さや品質に応じて換金を行ってくれるから、珍しいデザインの物でも問題ないわ。換金所なら馴染みの場所があるから、口利きができるわよ。うちの子を同伴で連れて行くと良いわ」
「うちの子?」
ゼータは首を傾げる。
「はいはい、その辺の仕組みも説明しないとね。うちではお客様一人につき、一人世話役の女の子が付くわ。女の子の容姿や性格にご希望はある?」
「世話役って…具体的に何をしてもらえるんですか?」
「何でもよ。例えば食事の給仕、着替えのお手伝い、入浴時のお背中流し。女の子が嫌がらなければ、何をお願いしても良いわよ」
なるほど、これがニシキギの御宿が高額である理由か。ゼータは納得の表情である。ポトスの街中の高級宿でも、客人一人一人に専属の世話役が付くなどというサービスは存在しない。精々受付に在籍する従業員が、荷物の運搬を請け負って終いである。入浴時のお背中流しなど正直不要なサービスであるが、宿の仕組みである以上世話役の辞退は難しかろう。ゼータはううむ、と頭を捻る。
「そういう事なら…話好きな方が良いです。ロマを訪れるのは初めてなので、この土地の地理や歴史について詳しい方だとなお助かります。明日換金所に行ったついでに、少し街中の案内をお願いすることは出来ますか?」
「換金所への付き添いは私の方から話を通しておくけれど、街の案内については自分で交渉して頂戴。どこまでのサービスを提供するかは、女の子の裁量に任せているからね」
「そうですか…わかりました」
「じゃあ話好きの女の子を後で部屋に向かわせるわね。泊数が未定だから、人気の子は候補から外させてもらうわよ」
食事の運搬やお背中流しに人気不人気があるのだろうか。宿屋の仕組みにいささか疑問を覚えながらも、ゼータは素直にはい、と頷いた。
館内設備の説明、客室利用の注意点、朝夕の食事内容。細々とした雑談を交わしながら、ゼータは女性の背に続き部屋奥の階段を上った。案内された部屋は3階最奥に位置する見晴らしの良い客室だ。客室の南東側の壁には大きな出窓があり、濃紺の夜空に金色の十三夜月が浮いている。出窓の内側には台の大人が3人は寝転がれるほどの巨大なベッド。ベッド上の枕や掛布団には、もれなく白い花の刺繍があしらわれている。貝通貨の中央に押された刻印と同様の花だ。よくよく客室の内部を見回してみれば、出窓にぶら下がるカーテンにも、ソファの上の2つのクッションにも、同様の花模様があしらわれている。細長い5枚の花弁を持つ純白の花。ゼータには馴染みの無い花だ。
女性が客室から立ち去るとすぐに、ゼータは衣服を脱ぎ散らかし浴室へと向かった。触れれば壊れそうなガラス造りの扉を押し開けて、飛び込んだ浴室内で全身にたっぷりの湯を浴びる。備え付けの石鹸を惜しみなく使い、頭頂から足先までを丸洗いだ。浴室の内部には艶々と輝くホーロー素材の浴槽が備えられているから、時間が許せば熱々の湯にとっぷりと浸かり込みたいところではある。しかし今は一先ず身体を磨き上げることが先決だ。案内の女性は「夕食は15分と待たずに用意ができる」と言った。のんびり湯張りをしていたのでは、温かな夕食を食べ損ねてしまう。
烏の行水を終えたゼータが浴室から出ると、客室にはコンソメスープの芳しい香りが充満していた。匂いの元を辿れば、入り口付近に置かれた丸テーブルの上にはすでに何品かの料理が並べられている。ゼータが入室した当初その丸テーブルは置かれていなかったはずだから、夕食の提供に合わせて別部屋から持ち込んだ物なのだろう。ゼータは芳しさに誘われて、丸テーブルへと歩み寄る。1か月に及ぶ野宿。食事は十分にとるようにしていたが、口にする食物と言えばもっぱらが獣肉だ。それも捕らえた兎やリスをその場で丸焼きにしただけの野戦食。味付けも何もあったものではない。1か月ぶりとなる食事らしい食事を目の前にして、ゼータの口内は涎の大洪水だ。
世話役となる女性の姿は見えないが、先に一口頂いてしまおうか。ゼータが丸テーブルの周りをぐるぐると旋回していた、その時である。丸テーブル脇の扉が開き、客室内に一人の女性が入室した。
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