218 / 318
安らかに眠れ、恐ろしくも美しい緋色の龍よ
昔話
しおりを挟む
象牙色の扉を開けたとき、室内は殺伐とした様子であった。「アメシス様が心のない言葉をお掛けになるから」「レイバック様が行方知れずとなり、一番辛いのは誰だとお思いです」声を荒げたダイナがアメシスに詰め寄っている。華奢な指先は、アメシスの胸倉を掴み上げそうな勢いだ。どうやらダイナは、ゼータはアメシスの言葉に悲観し部屋を飛び出したと勘違いをしたようだ。そう言えば退席の理由を伝えていなかったと、ゼータは苦笑いを浮かべながら2人の元へと向かう。
「ダイナ。私、別に泣いていたわけじゃないですからね。これ、アメシス殿への文です。メリオンという人物から預かってきました」
「…メリオン?」
小さな文を手渡されたアメシスは、心底ほっとしたような表情だ。一国の主とて、王妃の怒りは恐ろしいらしい。反対に、ダイナは頬を膨らませながら自席へと戻る。女神のごとし美しさと評されるダイナは、むくれ顔ですら愛らしい。
「メリオンは、現在代理王としてドラキス王国の国政を担っている人物です。神国ジュリに立ち寄れ、と言ったのはメリオンなんですよ。人探しに有用な神具を見繕ってもらえと。アメシス殿のことを馴染み、と言っていましたよ」
ゼータの言葉に耳を傾けながら、アメシスは2つ折りの文をくるくると回す。道中で大雨に降られたために、文は湿気て端々がくしゃりと丸まっている。しかし中に書かれた文章を読むに不都合はあるまい。アメシスの指先は小さな文をゆっくりと開き、紫紺の眼差しは紙の上を滑る。その途端に、アメシスの瞳は大きく見開かれた。驚愕、戸惑い、葛藤。入り乱れる感情はやがて、一つの情へと統一される。郷愁。ダイナがアメシスの手の中を覗き込み、そして「どういう意味かしら」とばかりに首を傾げた。
「あの、アメシス様。文にはなんと?」
恐る恐る尋ねれば、アメシスはゼータに向けて文を差し出した。ゼータは手を伸ばして文を受け取り、顔の前に開く。湿気てぼろぼろになった紙には、見慣れた端正な文字で一言こう連ねられている。
―恩を忘れるな
一体どういう意味なのだ。ゼータとダイナは顔を見合わせた。空になったコーヒーカップを指先で弄びながら、アメシスはゆっくりと語り出す。
「私は過去に、メリオン殿に命を救われた経験があるのです。もう500年も前のことでしょうか。私は元々、旧バルトリア王国国土の東方に位置する小さな集落の生まれです。精霊族ばかりが寄り集まった、食うにも困る貧しい集落でした。小さいながらも畑を作り、何とか命を繋いでおりましたが、ある時実りを目前にした畑を魔獣の群れに荒らされたのです。魔獣との戦いにより集落の中でも多数の人死にが出て、当時の村長は集落を捨てる決意をしました。住み慣れた家も田畑も捨てて、武力を有する他集落に庇護を求めたのです」
一国の国王たる人物の、凄惨な過去。しかし語り部であるアメシスの表情に哀切の色はない。懐かしい過去だ。室内に響く声音は、ただただ懐古の情に満ちている。
「私共が庇護を求めた集落は、人口が千人を超える東部地域で最も恵まれた土地でした。しかしその集落は、遥か昔からその場所で栄えていたわけではない。元は人口が20人にも満たぬ極小集落であったと聞きます。死に絶えかけていた小さな集落を、一人の旅人が救い上げたのだと。森で魔獣を獲っては飢えた人々の腹を満たし、荒れ果てた田畑を耕し、崩れかけた家屋を直し、余裕が出来れば庇護の手を広げ、そうして数百年の時を掛けて平穏を築き上げた土地です。わかりますか。築き上げられた土地が、現在の小国ブラキストの街です」
「まさかその…集落を救い上げた旅人というのが…」
「そう、メリオン殿ですよ。彼がどのような理由で集落を救い上げるに至ったか、詳細な事情を私は存じ上げません。しかし私共が庇護を求めた当時、メリオン殿は集落の首長として確固たる地位を築いておりました。守り人と呼ばれる武人を多数育て上げ、集落の人々を魔獣と盗賊の襲来から守っていた。荒れ果てた国土に疲弊し、他集落の者が庇護を求める遣いを出せば、彼は決まってこう言うのです」
―自らの脚で歩いて来い。俺の手の届くところに来れば守ってやる
「無事メリオン殿の治める集落に辿り着いた後は、50年ほどの時を現在のブラキストの地で過ごしました。私は魔法を得手としておりますから、魔法論議を交わすために何度かメリオン殿の私宅を訪れたこともあります。守り人を務めないかと打診を受けたこともございます。ですが私は結局、集落を離れることを選びました。精霊族の中には、本能的に殺生を厭う者も多い。私は必要に狩られれば魔獣程度は討ちますが、ダイナは身体に止まった蠅も殺せませんよ。集落内部は平穏を保っていましたが、当時のバルトリア王国国土は精霊族が生きるには辛い土地でした。ですから私は集落内部で有志を募り、神国ジュリの地を目指すことを決めたのです」
ゼータはさわさわと産毛が逆立つのを感じた。
―これは何の曲ですか?
―俺の故郷の曲だ。祝いの時に良く奏でていた
―今日は祝いの日ですか
―そうだろう。今日この曲を聞かずして、いつ聞く
ブラキストの街で耳にした、祭歌。竹笛で奏でられる軽快な音楽を、ゼータはどこかで耳にしたことがあった。今ならはっきりと思い出せる。あの曲はメリオンの執務室で聞いたのだ。旧バルトリア王国の解体を終えたメリオンが、一人執務室で聞いていた。そこにゼータが立ち入り、この曲は何だと尋ねたのだ。祭歌はメリオンが作った曲だ。遥か昔のブラキストの地で、生活に窮する人々を想い作った。日々苦悩は多くとも、せめてこの曲を聴く一時は幸せであれ。民を想い、国を想い、遥か遠くに佇む黒の城を想い、自ら筆を取ったのだ。
メリオンは過去を語らぬ男だ。もしも黒の城でユダと出会わなければ、今もゼータはメリオンの過去など何一つ知る由はなかった。そして今日アメシスと話さなければ、祭歌の意味になど思い至ることはなかった。決して過去を語らぬ男の過去に触れた。その事実に、ゼータは軽い高揚感を覚えるのだ。
「私がメリオン殿に命を救われたことは事実です。しかしまさか、今になって恩を返せとは…」
丸テーブルに頬杖を付き、アメシスはじっと考え込む。しかし頬杖の上の穏やかな表情は、狼狽とは程遠い。答えなど、もうとっくに決まっているのだ。
「アメシス様、これは由々しき事態です。命を救われた恩を返さぬとなっては、神国ジュリの国王はとんだ痴れ者との噂が広がってしまいますわ。他の小国との交易にも悪影響が及ぶやもしれません。いかが致しましょう」
そう言うダイナの表情は悪戯気だ。アメシスはくつくつと笑い声を立てる。
「例外を作る大義名分ができて、ほっと胸を撫で下ろしているところですよ。ゼータ様、レイバック殿の捜索に、全身全霊を上げて協力させていただきましょう」
***
ゼータ「メリオンは意外と人望がありますよねぇ」
アメシス「当たり前でしょう。命の恩人を厭う人物などおりません。代理王を任されたということは、メリオン殿はドラキス王国でも人望を一入に集めていらっしゃるのでしょう?彼を敬わぬ人物がいるというのなら、ぜひとも顔を合わせてみたいところです」
ゼータ「ソウデスネェ」
「ダイナ。私、別に泣いていたわけじゃないですからね。これ、アメシス殿への文です。メリオンという人物から預かってきました」
「…メリオン?」
小さな文を手渡されたアメシスは、心底ほっとしたような表情だ。一国の主とて、王妃の怒りは恐ろしいらしい。反対に、ダイナは頬を膨らませながら自席へと戻る。女神のごとし美しさと評されるダイナは、むくれ顔ですら愛らしい。
「メリオンは、現在代理王としてドラキス王国の国政を担っている人物です。神国ジュリに立ち寄れ、と言ったのはメリオンなんですよ。人探しに有用な神具を見繕ってもらえと。アメシス殿のことを馴染み、と言っていましたよ」
ゼータの言葉に耳を傾けながら、アメシスは2つ折りの文をくるくると回す。道中で大雨に降られたために、文は湿気て端々がくしゃりと丸まっている。しかし中に書かれた文章を読むに不都合はあるまい。アメシスの指先は小さな文をゆっくりと開き、紫紺の眼差しは紙の上を滑る。その途端に、アメシスの瞳は大きく見開かれた。驚愕、戸惑い、葛藤。入り乱れる感情はやがて、一つの情へと統一される。郷愁。ダイナがアメシスの手の中を覗き込み、そして「どういう意味かしら」とばかりに首を傾げた。
「あの、アメシス様。文にはなんと?」
恐る恐る尋ねれば、アメシスはゼータに向けて文を差し出した。ゼータは手を伸ばして文を受け取り、顔の前に開く。湿気てぼろぼろになった紙には、見慣れた端正な文字で一言こう連ねられている。
―恩を忘れるな
一体どういう意味なのだ。ゼータとダイナは顔を見合わせた。空になったコーヒーカップを指先で弄びながら、アメシスはゆっくりと語り出す。
「私は過去に、メリオン殿に命を救われた経験があるのです。もう500年も前のことでしょうか。私は元々、旧バルトリア王国国土の東方に位置する小さな集落の生まれです。精霊族ばかりが寄り集まった、食うにも困る貧しい集落でした。小さいながらも畑を作り、何とか命を繋いでおりましたが、ある時実りを目前にした畑を魔獣の群れに荒らされたのです。魔獣との戦いにより集落の中でも多数の人死にが出て、当時の村長は集落を捨てる決意をしました。住み慣れた家も田畑も捨てて、武力を有する他集落に庇護を求めたのです」
一国の国王たる人物の、凄惨な過去。しかし語り部であるアメシスの表情に哀切の色はない。懐かしい過去だ。室内に響く声音は、ただただ懐古の情に満ちている。
「私共が庇護を求めた集落は、人口が千人を超える東部地域で最も恵まれた土地でした。しかしその集落は、遥か昔からその場所で栄えていたわけではない。元は人口が20人にも満たぬ極小集落であったと聞きます。死に絶えかけていた小さな集落を、一人の旅人が救い上げたのだと。森で魔獣を獲っては飢えた人々の腹を満たし、荒れ果てた田畑を耕し、崩れかけた家屋を直し、余裕が出来れば庇護の手を広げ、そうして数百年の時を掛けて平穏を築き上げた土地です。わかりますか。築き上げられた土地が、現在の小国ブラキストの街です」
「まさかその…集落を救い上げた旅人というのが…」
「そう、メリオン殿ですよ。彼がどのような理由で集落を救い上げるに至ったか、詳細な事情を私は存じ上げません。しかし私共が庇護を求めた当時、メリオン殿は集落の首長として確固たる地位を築いておりました。守り人と呼ばれる武人を多数育て上げ、集落の人々を魔獣と盗賊の襲来から守っていた。荒れ果てた国土に疲弊し、他集落の者が庇護を求める遣いを出せば、彼は決まってこう言うのです」
―自らの脚で歩いて来い。俺の手の届くところに来れば守ってやる
「無事メリオン殿の治める集落に辿り着いた後は、50年ほどの時を現在のブラキストの地で過ごしました。私は魔法を得手としておりますから、魔法論議を交わすために何度かメリオン殿の私宅を訪れたこともあります。守り人を務めないかと打診を受けたこともございます。ですが私は結局、集落を離れることを選びました。精霊族の中には、本能的に殺生を厭う者も多い。私は必要に狩られれば魔獣程度は討ちますが、ダイナは身体に止まった蠅も殺せませんよ。集落内部は平穏を保っていましたが、当時のバルトリア王国国土は精霊族が生きるには辛い土地でした。ですから私は集落内部で有志を募り、神国ジュリの地を目指すことを決めたのです」
ゼータはさわさわと産毛が逆立つのを感じた。
―これは何の曲ですか?
―俺の故郷の曲だ。祝いの時に良く奏でていた
―今日は祝いの日ですか
―そうだろう。今日この曲を聞かずして、いつ聞く
ブラキストの街で耳にした、祭歌。竹笛で奏でられる軽快な音楽を、ゼータはどこかで耳にしたことがあった。今ならはっきりと思い出せる。あの曲はメリオンの執務室で聞いたのだ。旧バルトリア王国の解体を終えたメリオンが、一人執務室で聞いていた。そこにゼータが立ち入り、この曲は何だと尋ねたのだ。祭歌はメリオンが作った曲だ。遥か昔のブラキストの地で、生活に窮する人々を想い作った。日々苦悩は多くとも、せめてこの曲を聴く一時は幸せであれ。民を想い、国を想い、遥か遠くに佇む黒の城を想い、自ら筆を取ったのだ。
メリオンは過去を語らぬ男だ。もしも黒の城でユダと出会わなければ、今もゼータはメリオンの過去など何一つ知る由はなかった。そして今日アメシスと話さなければ、祭歌の意味になど思い至ることはなかった。決して過去を語らぬ男の過去に触れた。その事実に、ゼータは軽い高揚感を覚えるのだ。
「私がメリオン殿に命を救われたことは事実です。しかしまさか、今になって恩を返せとは…」
丸テーブルに頬杖を付き、アメシスはじっと考え込む。しかし頬杖の上の穏やかな表情は、狼狽とは程遠い。答えなど、もうとっくに決まっているのだ。
「アメシス様、これは由々しき事態です。命を救われた恩を返さぬとなっては、神国ジュリの国王はとんだ痴れ者との噂が広がってしまいますわ。他の小国との交易にも悪影響が及ぶやもしれません。いかが致しましょう」
そう言うダイナの表情は悪戯気だ。アメシスはくつくつと笑い声を立てる。
「例外を作る大義名分ができて、ほっと胸を撫で下ろしているところですよ。ゼータ様、レイバック殿の捜索に、全身全霊を上げて協力させていただきましょう」
***
ゼータ「メリオンは意外と人望がありますよねぇ」
アメシス「当たり前でしょう。命の恩人を厭う人物などおりません。代理王を任されたということは、メリオン殿はドラキス王国でも人望を一入に集めていらっしゃるのでしょう?彼を敬わぬ人物がいるというのなら、ぜひとも顔を合わせてみたいところです」
ゼータ「ソウデスネェ」
10
お気に入りに追加
252
あなたにおすすめの小説

前世が俺の友人で、いまだに俺のことが好きだって本当ですか
Bee
BL
半年前に別れた元恋人だった男の結婚式で、ユウジはそこではじめて二股をかけられていたことを知る。8年も一緒にいた相手に裏切られていたことを知り、ショックを受けたユウジは式場を飛び出してしまう。
無我夢中で車を走らせて、気がつくとユウジは見知らぬ場所にいることに気がつく。そこはまるで天国のようで、そばには7年前に死んだ友人の黒木が。黒木はユウジのことが好きだったと言い出して――
最初は主人公が別れた男の結婚式に参加しているところから始まります。
死んだ友人との再会と、その友人の生まれ変わりと思われる青年との出会いへと話が続きます。
生まれ変わり(?)21歳大学生×きれいめな48歳おっさんの話です。
※軽い性的表現あり
短編から長編に変更しています
悩める文官のひとりごと
きりか
BL
幼い頃から憧れていた騎士団に入りたくても、小柄でひ弱なリュカ・アルマンは、学校を卒業と同時に、文官として騎士団に入団する。方向音痴なリュカは、マルーン副団長の部屋と間違え、イザーク団長の部屋に入り込む。
そこでは、惚れ薬を口にした団長がいて…。
エチシーンが書けなくて、朝チュンとなりました。
ムーンライト様にも掲載しております。


侯爵令息セドリックの憂鬱な日
めちゅう
BL
第二王子の婚約者候補侯爵令息セドリック・グランツはある日王子の婚約者が決定した事を聞いてしまう。しかし先に王子からお呼びがかかったのはもう一人の候補だった。候補落ちを確信し泣き腫らした次の日は憂鬱な気分で幕を開ける———
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
初投稿で拙い文章ですが楽しんでいただけますと幸いです。

僕はお別れしたつもりでした
まと
BL
遠距離恋愛中だった恋人との関係が自然消滅した。どこか心にぽっかりと穴が空いたまま毎日を過ごしていた藍(あい)。大晦日の夜、寂しがり屋の親友と二人で年越しを楽しむことになり、ハメを外して酔いつぶれてしまう。目が覚めたら「ここどこ」状態!!
親友と仲良すぎな主人公と、別れたはずの恋人とのお話。
⚠️趣味で書いておりますので、誤字脱字のご報告や、世界観に対する批判コメントはご遠慮します。そういったコメントにはお返しできませんので宜しくお願いします。
大晦日あたりに出そうと思ったお話です。

【完結】オーロラ魔法士と第3王子
N2O
BL
全16話
※2022.2.18 完結しました。ありがとうございました。
※2023.11.18 文章を整えました。
辺境伯爵家次男のリーシュ・ギデオン(16)が、突然第3王子のラファド・ミファエル(18)の専属魔法士に任命された。
「なんで、僕?」
一人狼第3王子×黒髪美人魔法士
設定はふんわりです。
小説を書くのは初めてなので、何卒ご容赦ください。
嫌な人が出てこない、ふわふわハッピーエンドを書きたくて始めました。
感想聞かせていただけると大変嬉しいです。
表紙絵
⇨ キラクニ 様 X(@kirakunibl)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる