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安らかに眠れ、恐ろしくも美しい緋色の龍よ
友との夕餉
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神国ジュリの中心地、王と王妃の住まう神殿の一部屋で、ゼータは山盛りの夕餉を頂いていた。若草色の丸テーブルに並ぶ焼き立てパンに、具沢山のスープ、サラダに蒸し野菜、大盛りの肉料理に尾頭付きの焼き魚。それに唾液湧くすももの果実水に、ダイナ御用達のはと麦茶。育ち盛りの少年のように料理を掻き込むゼータの横では、ダイナがゼータの分の取り皿にせっせと料理を取り分けていた。ゼータの頬のこけ具合を心配するダイナは、不足分の栄養分をこの食事で補わせるつもりなのである。
食事に没頭するゼータがようやく一息を付いたのは、一通りの料理を腹に収めた頃であった。すももの果実水を一口口に含み、甘酸っぱさを噛み締めるように飲み下す。
「生き返った心地です」
ゼータの呟きに、ダイナはころころと愛らしい笑い声を零した。夕餉の開始以降ゼータの接待に時間を割いていたダイナは、これからが食事の本番だ。蒸したかぼちゃを一口大に切り分け、口元へと運ぶ所作は見惚れるほどに美しい。
「ドラキス王国を出発して、直接神国ジュリにいらしたのですか」
一足早く食事を終えたアメシスは、優雅に食事のコーヒーを楽しんでいた。久々の香りだ、とゼータは鼻を動かす。ドラキス王国を出発して、明日で丁度2週間の時が経つ。湖畔の国リーニャでも、小国ブラキストでも滞在中まともな食事はとれていたが、嗜好品であるコーヒーを飲む機会は一度たりとも存在しなかった。王宮にいた頃は、毎日飽きるほどに飲んでいたというのに。
「湖畔の国リーニャと小国ブラキストを経由してきました。他にも、道中何か所かの集落には立ち寄りましたよ」
「中央国セントラルを経由していないということは、まさか山越えをなさったのですか」
「リーニャ―ブラキスト間は山越えです。神国ジュリに向かう途中も何度か低山を超えました。即位式に参列した時はあまり意識しませんでしたけど、旧バルトリア王国の国土は山が多いですよね。そりゃ魔獣も頻出するだろうと、勝手に納得しているところです」
「確かに旧バルトリア王国国土は起伏に富んでいる。即位式に向かう道中は、我々も苦労致しました。平らな道を進めば移動に酷く時間が掛かりますし、山を越えるためには馬車を降りねばならない。安全を第一に考え、即位式への参列を断念した国家もいくつかあります。小国ブラキストは正にそれですね。あの国家は四方を山に囲まれておりますから、馬車での立ち入りは困難です」
「顔をお見掛けしないことがあると思ったら、そういう事情だったんですね」
ゼータとアメシスが雑談を交わす間に、ダイナは一人食事を堪能していた。柔らかなヒレ肉をナイフで切り分け、ソースに浸しては口元に運ぶ。人参、じゃが芋、キャベツにかぼちゃ。色とりどりの蒸し野菜も同様だ。愛飲のはと麦茶を音もたてずに飲み干し、次はまだほかほかと柔らかなパンだ。一口大に千切ったロールパンを、黄金色の蜂蜜にたっぷりと浸す。パンを口に頬張るたびに、幸せそうに緩む表情が堪らない。ここまで美味そうに食事を堪能する者がいれば、厨房の神官も料理の作り甲斐があるだろう。
ダイナが皿に残る最後のヒレ肉を口に運んだ時に、食事会場である部屋の中に2人の神官が入室した。一人の神官は掌上の盆に2人分のコーヒーカップをのせ、もう一人の神官は胸の前に菓子皿を抱えている。ダイナとゼータの前に揃いのコーヒーカップを、丸テーブルの上に菓子皿を置いた2人の神官は、食事を終えた空皿を抱え部屋を出て行こうとする。ガーネット、とアメシスが神官の一人を呼び止める。
「人払いを。私が良いと言うまで何人たりとも部屋に立ち入らぬよう、皆に周知をしてくれ」
「畏まりました」
部屋を出る直前に、ガーネットと呼ばれた神官の瞳はゼータの姿を掠める。何と言う化け具合、とでも思っているのやもしれぬ。ダイナとアメシスの公務終了を待つ間に、ゼータは神官の付き添いのもと大浴場での湯浴みを終えていた。頭皮や爪先に付いた泥汚れをすっかり落とし、湯上りにダイナ御用達の化粧水と椿油をたっぷりと塗り込めれば、荒れ放題だった髪も肌も本来の輝きを取り戻す。仕上げに柔らかな絹地のワンピースに袖を通し、神官の手を借り化粧と髪結いを済ませば、泥塗れの旅人は大国の王妃へと大変身だ。「羽を広げた孔雀のごとし変貌ぶりでございます」とは、身支度を手伝ってくれた神官長の言葉である。中でもガーネットは、薄汚れた騎獣を連れたゼータの姿を知っている。変身の感動もひとしおであろう。
ガーネットともう一人の神官は扉の向こう側へと消え、象牙色の扉は音を立てて閉まる。さて、とアメシスは声を上げる。
「ゼータ様、早速本題をお話いただきたい。貴方が単身神国ジュリを訪れるに至った経緯を」
はい、とゼータは頷く。ゼータの横では、ダイナがコーヒーにたっぷりのミルクを流し込んでいるところである。
「およそ2か月半前に、旧バルトリア王国の上空を2頭のドラゴンが横切りました。緋色のドラゴンと、苔色のドラゴンです。2頭のドラゴンは争いながら飛行を続け、終には小国ブラキスト東方にある山脈地帯の向こう側へと姿を消しました。この話をご存じですか?」
「いえ、そのような話は聞き及んでおりません」
「私は2頭のドラゴンの足跡を辿ってここまでやって来ました。本当はブラキスト東方の山脈を超えられれば良かったんですけれど、山越えは現実的ではないと言われてしまって」
「…お待ちください。もしや貴方が追っている緋色のドラゴンとは、レイバック殿のことですか?」
「お察しの通りです。旧バルトリア王国へと続く道路の敷設状況を確認に出た王宮軍の兵士は、国境付近で苔色のドラゴンに襲われました。好戦的なドラゴンであったと聞いています。王宮軍は応戦を試みましたが、神獣相手に歯が立つはずもない。そこで視察に同行していたレイが、ドラコンに姿を変え空中で交戦しました。これが2か月半前の出来事。レイは未だに、ドラキス王国の地に帰っていません。文も伝令もなく、生死すら不明のままです」
淡々と語られる報せに、アメシスは驚愕の表情だ。コーヒーカップを両手のひらに抱え込んだダイナも、驚きと悲哀の入り混じった複雑な表情である。同時に、この話題に関してゼータが人払いを要求した理由にも理解が及んだとも見える。神獣の王レイバックは、言わばドラキス王国の守り神。例えどのような臨時的措置が取られていようにも、守り神不在の国家は脆弱であろう。万が一にでもドラキス王国の国土侵略を目論む野蛮な輩が存在するとすれば、今この機を逃さぬ手はない。情報の漏洩は必要最低限に留めるべきなのだ。
「小国ブラキストに立ち寄った時に、アメシス様の噂を耳にしたんです。未開の地探索を趣味にしているはずだから、山脈の向こう側の地理を知っているかもしれないって」
「なるほど。貴方が神国ジュリに立ち寄ったのはそういう経緯でしたか。確かに私は未踏地探索を道楽としております。ゼータ様のおっしゃる山脈の向こう側にも、何度か足を運んだ経験はある」
小国ブラキスト王宮軍副隊長サーヴァの言は正しく、アメシスは山脈の向こう側の地理に知がある。ドラゴン探索に光明が差し、ゼータは表情を明るくする。
「山脈の向こう側には、何がありますか?」
「見渡す限りの森林地帯です。魔族の住む集落はいくつかありますが、いずれも住人が数十か数百程度の小規模な物ばかり。国家、と呼ぶべき土地は私の知る限りありませんね。我々の言葉が通じぬ集落もありますし、外部者の立ち入りを頑なに拒む集落も多い。簡単な物ですが地図を作っておりますから、出発前にお渡ししましょう」
「ありがとうございます。助かります」
ゼータはアメシスに向けて深々と礼をする。先刻よりも幾分和らいだ表情のゼータに違い、アメシスは浮かぬ面持ちだ。
「しかし大変申し上げにくいのですが…私の地図はさほど旅路の役には立たないでしょう。というのも私が足を運んだ経験のある集落は、神国ジュリから片道で2日程度の距離内にある物に限られます。四六時中道無き道を進むことになりますから、距離にすればたいしたことはない。貴方の旅はほぼ間違いなく、その先に進むことになります」
「…やっぱりそうでしょうか」
アメシスの指先は、若草色のテーブルに地図を描く。最初に書いた円形は神国ジュリ、円形の真上に伸びるジグザクは山脈。そして神国ジュリの右手側を伸びる矢印を書き、20㎝も離れた場所に再び小さな円形を書いた。とんとん、と線の細い指先は、最後に書いた円形を叩く。
「神国ジュリの真東に、ポンペイと呼ばれる集落があります。住人が300人を超える一帯では最も大きな集落で、付近の極小集落の者もポンペイの名は知っています。もしレイバック殿が交戦の果てに墜落し、付近の集落に保護を求めたとなれば、ほぼ間違いなくポンペイに辿り着くことでしょう。情報の集まる場所を目指すのは、迷い人の性ですからね。そしてポンペイの村長たる人物は、神国ジュリの存在を知っています。道楽の一環として、私は何度かポンペイの地を訪れておりますから」
「つまりアメシス殿の地図にある場所に落ちたとなれば、神国ジュリまで辿り着くことは可能…」
「そういうことです。果て無き旅路に、お力添えができず申し訳ありません」
「いえ、陸地が続いているとわかっただけで十分です。山脈の向こうが海洋だったら、どうしようかと思っていたんですよ」
「確かに。どんなに優れた騎獣でも海を越えることはできない」
目許と口元を緩ませ、アメシスは半分程が残ったコーヒーカップに口を付けた。この件に関して聞き手役に回っているダイナは、コーヒーカップの受け皿にたくさんの焼き菓子を並べている。華奢な指先が一つ、また一つと焼き菓子を摘み上げる様は、洗練された芸術作品のように美しい。ダイナに倣い、ゼータはテーブル中央に置かれた菓子皿から一つの菓子を摘み上げる。淡黄色の包み紙の中身は、一口大のチョコレートだ。満腹まで食事を詰め込んだあとであっても、甘味は別腹。口に放り入れたチョコレートを舌先で溶かしながら、ゼータは話を続ける。
「アメシス殿。実はもう一つお願いがありまして、道具を見繕ってもらうことは可能ですか?」
「道具?失礼ですが、道具とは?」
「神国ジュリでは、妖精や精霊の力を宿した不思議な道具を作っていると聞き及びました。人探しに有効な道具があれば、貸していただくことはできないでしょうか」
「ああ…神具のことですか…」
件の道具は「神具」と名が付けられているようだ。ふむふむと頷くゼータに対し、アメシスは渋い表情を向ける。
「人探しや物探しに有用な神具は、確かに存在します。しかしゼータ様に神具をお貸しすることは出来ません」
「え…何で?」
「神具は神の加護の元に作られた我が国秘蔵の逸品。いかなる理由があっても、神国ジュリからの持ち出しは禁じられているのです。ご協力差し上げたい気持ちは山々ですが、神具の持出禁止は法文にも明記されている事項でございますから…」
「そ、そんな…」
口内のチョコレートを飲み下し、ゼータは絶望の表情だ。神具の貸し出しを受けられぬこと、それ即ちゼータは今まで通り集落での聞き込みを頼りに2頭のドラゴンを追わねばならぬということだ。それも最低限土地勘のある旧バルトリア王国国土で聞き込みを行うのとは訳が違う。言葉の通じぬ集落があり、外部者の立ち入りを頑なに拒む集落があるとアメシスは言った。そのような土地でドラゴンの目撃情報を集めることは、不可能ではなくとも至難の業だ。さらにアメシスの地図の外側に出てしまえば、その先は真実未知の土地。人の住む集落など無いやもしれぬ。大地が続いているのかどうかもわからない。集落が途絶え、聞き込みという追跡方法が取れなくなったときに、ゼータの旅路はどうなるのだ。溺れるほどに深い深緑の奥地で、人知れず終わりを迎えることになるのか。
レイバックを追うと決意した当初、神具の力を当てにはしていなかった。ただがむしゃらに、行けるところまで行こうと思っただけ。しかしメリオンに旅立ちの報告をしてからというもの、神具の存在はゼータの心の拠り所となった。アメシスに協力を求めれば、レイバックの元に辿り着けるやもしれぬ。だからこそアメシスの謝絶はゼータの心に深く突き刺さる。「人探しや物探しに有用な神具は、確かに存在します」そう聞いた後では尚更だ。ゼータの絶望は、ダイナにも伝わったようである。麗しの王妃は悲哀に満ちた表情を浮かべ、ゼータとアメシスを交互に見やる。
「アメシス様。例外的な措置として、神具を見繕って差し上げることは出来ませんか?」
「この件に関して例外は認められない。かつて獣人国家オズトの国王殿から、国宝の紛失を理由として神具の貸し出しを求められたことがあった。大病を患う王妃のために、痛覚の遮断を可能にする神具の開発を求めた国王殿もいた。情に絆されゼータ様に神具の貸し出しを行ったとなれば、辛酸をなめた国王殿に申し訳が立たない。今後の交易にも悪影響が及ぶだろう」
「それは、理解しておりますが…」
絶望の中ダイナとアメシスのやり取りを眺めていたゼータは、ふととある出来事を思い出す。それは果て無き旅路への出発前夜、レイバックの執務室での出来事だ。メリオンと神国ジュリに関する話をした直後、ゼータは彼からとある物を受け取った。
「すみません。ちょっと退席します」
そう告げたゼータは、部屋を飛び出し宛がわれた客室へと向かう。物置台に置かれた旅行鞄を漁り、鞄の奥底からハンカチに包まれた紙切れを探し当てる。それがメリオンに渡された物だ。メリオンの手帳から破り取られた、2つ折りの紙切れ。その紙切れに一体何が書かれているのか、ゼータは知らない。誰それに渡せとの明確な言を受けたわけではないが、恐らくこれはアメシスに宛てた文だろう。どうかアメシスの心を絆す物であれと、ゼータは駆け足で夕餉の会場まで戻る。
食事に没頭するゼータがようやく一息を付いたのは、一通りの料理を腹に収めた頃であった。すももの果実水を一口口に含み、甘酸っぱさを噛み締めるように飲み下す。
「生き返った心地です」
ゼータの呟きに、ダイナはころころと愛らしい笑い声を零した。夕餉の開始以降ゼータの接待に時間を割いていたダイナは、これからが食事の本番だ。蒸したかぼちゃを一口大に切り分け、口元へと運ぶ所作は見惚れるほどに美しい。
「ドラキス王国を出発して、直接神国ジュリにいらしたのですか」
一足早く食事を終えたアメシスは、優雅に食事のコーヒーを楽しんでいた。久々の香りだ、とゼータは鼻を動かす。ドラキス王国を出発して、明日で丁度2週間の時が経つ。湖畔の国リーニャでも、小国ブラキストでも滞在中まともな食事はとれていたが、嗜好品であるコーヒーを飲む機会は一度たりとも存在しなかった。王宮にいた頃は、毎日飽きるほどに飲んでいたというのに。
「湖畔の国リーニャと小国ブラキストを経由してきました。他にも、道中何か所かの集落には立ち寄りましたよ」
「中央国セントラルを経由していないということは、まさか山越えをなさったのですか」
「リーニャ―ブラキスト間は山越えです。神国ジュリに向かう途中も何度か低山を超えました。即位式に参列した時はあまり意識しませんでしたけど、旧バルトリア王国の国土は山が多いですよね。そりゃ魔獣も頻出するだろうと、勝手に納得しているところです」
「確かに旧バルトリア王国国土は起伏に富んでいる。即位式に向かう道中は、我々も苦労致しました。平らな道を進めば移動に酷く時間が掛かりますし、山を越えるためには馬車を降りねばならない。安全を第一に考え、即位式への参列を断念した国家もいくつかあります。小国ブラキストは正にそれですね。あの国家は四方を山に囲まれておりますから、馬車での立ち入りは困難です」
「顔をお見掛けしないことがあると思ったら、そういう事情だったんですね」
ゼータとアメシスが雑談を交わす間に、ダイナは一人食事を堪能していた。柔らかなヒレ肉をナイフで切り分け、ソースに浸しては口元に運ぶ。人参、じゃが芋、キャベツにかぼちゃ。色とりどりの蒸し野菜も同様だ。愛飲のはと麦茶を音もたてずに飲み干し、次はまだほかほかと柔らかなパンだ。一口大に千切ったロールパンを、黄金色の蜂蜜にたっぷりと浸す。パンを口に頬張るたびに、幸せそうに緩む表情が堪らない。ここまで美味そうに食事を堪能する者がいれば、厨房の神官も料理の作り甲斐があるだろう。
ダイナが皿に残る最後のヒレ肉を口に運んだ時に、食事会場である部屋の中に2人の神官が入室した。一人の神官は掌上の盆に2人分のコーヒーカップをのせ、もう一人の神官は胸の前に菓子皿を抱えている。ダイナとゼータの前に揃いのコーヒーカップを、丸テーブルの上に菓子皿を置いた2人の神官は、食事を終えた空皿を抱え部屋を出て行こうとする。ガーネット、とアメシスが神官の一人を呼び止める。
「人払いを。私が良いと言うまで何人たりとも部屋に立ち入らぬよう、皆に周知をしてくれ」
「畏まりました」
部屋を出る直前に、ガーネットと呼ばれた神官の瞳はゼータの姿を掠める。何と言う化け具合、とでも思っているのやもしれぬ。ダイナとアメシスの公務終了を待つ間に、ゼータは神官の付き添いのもと大浴場での湯浴みを終えていた。頭皮や爪先に付いた泥汚れをすっかり落とし、湯上りにダイナ御用達の化粧水と椿油をたっぷりと塗り込めれば、荒れ放題だった髪も肌も本来の輝きを取り戻す。仕上げに柔らかな絹地のワンピースに袖を通し、神官の手を借り化粧と髪結いを済ませば、泥塗れの旅人は大国の王妃へと大変身だ。「羽を広げた孔雀のごとし変貌ぶりでございます」とは、身支度を手伝ってくれた神官長の言葉である。中でもガーネットは、薄汚れた騎獣を連れたゼータの姿を知っている。変身の感動もひとしおであろう。
ガーネットともう一人の神官は扉の向こう側へと消え、象牙色の扉は音を立てて閉まる。さて、とアメシスは声を上げる。
「ゼータ様、早速本題をお話いただきたい。貴方が単身神国ジュリを訪れるに至った経緯を」
はい、とゼータは頷く。ゼータの横では、ダイナがコーヒーにたっぷりのミルクを流し込んでいるところである。
「およそ2か月半前に、旧バルトリア王国の上空を2頭のドラゴンが横切りました。緋色のドラゴンと、苔色のドラゴンです。2頭のドラゴンは争いながら飛行を続け、終には小国ブラキスト東方にある山脈地帯の向こう側へと姿を消しました。この話をご存じですか?」
「いえ、そのような話は聞き及んでおりません」
「私は2頭のドラゴンの足跡を辿ってここまでやって来ました。本当はブラキスト東方の山脈を超えられれば良かったんですけれど、山越えは現実的ではないと言われてしまって」
「…お待ちください。もしや貴方が追っている緋色のドラゴンとは、レイバック殿のことですか?」
「お察しの通りです。旧バルトリア王国へと続く道路の敷設状況を確認に出た王宮軍の兵士は、国境付近で苔色のドラゴンに襲われました。好戦的なドラゴンであったと聞いています。王宮軍は応戦を試みましたが、神獣相手に歯が立つはずもない。そこで視察に同行していたレイが、ドラコンに姿を変え空中で交戦しました。これが2か月半前の出来事。レイは未だに、ドラキス王国の地に帰っていません。文も伝令もなく、生死すら不明のままです」
淡々と語られる報せに、アメシスは驚愕の表情だ。コーヒーカップを両手のひらに抱え込んだダイナも、驚きと悲哀の入り混じった複雑な表情である。同時に、この話題に関してゼータが人払いを要求した理由にも理解が及んだとも見える。神獣の王レイバックは、言わばドラキス王国の守り神。例えどのような臨時的措置が取られていようにも、守り神不在の国家は脆弱であろう。万が一にでもドラキス王国の国土侵略を目論む野蛮な輩が存在するとすれば、今この機を逃さぬ手はない。情報の漏洩は必要最低限に留めるべきなのだ。
「小国ブラキストに立ち寄った時に、アメシス様の噂を耳にしたんです。未開の地探索を趣味にしているはずだから、山脈の向こう側の地理を知っているかもしれないって」
「なるほど。貴方が神国ジュリに立ち寄ったのはそういう経緯でしたか。確かに私は未踏地探索を道楽としております。ゼータ様のおっしゃる山脈の向こう側にも、何度か足を運んだ経験はある」
小国ブラキスト王宮軍副隊長サーヴァの言は正しく、アメシスは山脈の向こう側の地理に知がある。ドラゴン探索に光明が差し、ゼータは表情を明るくする。
「山脈の向こう側には、何がありますか?」
「見渡す限りの森林地帯です。魔族の住む集落はいくつかありますが、いずれも住人が数十か数百程度の小規模な物ばかり。国家、と呼ぶべき土地は私の知る限りありませんね。我々の言葉が通じぬ集落もありますし、外部者の立ち入りを頑なに拒む集落も多い。簡単な物ですが地図を作っておりますから、出発前にお渡ししましょう」
「ありがとうございます。助かります」
ゼータはアメシスに向けて深々と礼をする。先刻よりも幾分和らいだ表情のゼータに違い、アメシスは浮かぬ面持ちだ。
「しかし大変申し上げにくいのですが…私の地図はさほど旅路の役には立たないでしょう。というのも私が足を運んだ経験のある集落は、神国ジュリから片道で2日程度の距離内にある物に限られます。四六時中道無き道を進むことになりますから、距離にすればたいしたことはない。貴方の旅はほぼ間違いなく、その先に進むことになります」
「…やっぱりそうでしょうか」
アメシスの指先は、若草色のテーブルに地図を描く。最初に書いた円形は神国ジュリ、円形の真上に伸びるジグザクは山脈。そして神国ジュリの右手側を伸びる矢印を書き、20㎝も離れた場所に再び小さな円形を書いた。とんとん、と線の細い指先は、最後に書いた円形を叩く。
「神国ジュリの真東に、ポンペイと呼ばれる集落があります。住人が300人を超える一帯では最も大きな集落で、付近の極小集落の者もポンペイの名は知っています。もしレイバック殿が交戦の果てに墜落し、付近の集落に保護を求めたとなれば、ほぼ間違いなくポンペイに辿り着くことでしょう。情報の集まる場所を目指すのは、迷い人の性ですからね。そしてポンペイの村長たる人物は、神国ジュリの存在を知っています。道楽の一環として、私は何度かポンペイの地を訪れておりますから」
「つまりアメシス殿の地図にある場所に落ちたとなれば、神国ジュリまで辿り着くことは可能…」
「そういうことです。果て無き旅路に、お力添えができず申し訳ありません」
「いえ、陸地が続いているとわかっただけで十分です。山脈の向こうが海洋だったら、どうしようかと思っていたんですよ」
「確かに。どんなに優れた騎獣でも海を越えることはできない」
目許と口元を緩ませ、アメシスは半分程が残ったコーヒーカップに口を付けた。この件に関して聞き手役に回っているダイナは、コーヒーカップの受け皿にたくさんの焼き菓子を並べている。華奢な指先が一つ、また一つと焼き菓子を摘み上げる様は、洗練された芸術作品のように美しい。ダイナに倣い、ゼータはテーブル中央に置かれた菓子皿から一つの菓子を摘み上げる。淡黄色の包み紙の中身は、一口大のチョコレートだ。満腹まで食事を詰め込んだあとであっても、甘味は別腹。口に放り入れたチョコレートを舌先で溶かしながら、ゼータは話を続ける。
「アメシス殿。実はもう一つお願いがありまして、道具を見繕ってもらうことは可能ですか?」
「道具?失礼ですが、道具とは?」
「神国ジュリでは、妖精や精霊の力を宿した不思議な道具を作っていると聞き及びました。人探しに有効な道具があれば、貸していただくことはできないでしょうか」
「ああ…神具のことですか…」
件の道具は「神具」と名が付けられているようだ。ふむふむと頷くゼータに対し、アメシスは渋い表情を向ける。
「人探しや物探しに有用な神具は、確かに存在します。しかしゼータ様に神具をお貸しすることは出来ません」
「え…何で?」
「神具は神の加護の元に作られた我が国秘蔵の逸品。いかなる理由があっても、神国ジュリからの持ち出しは禁じられているのです。ご協力差し上げたい気持ちは山々ですが、神具の持出禁止は法文にも明記されている事項でございますから…」
「そ、そんな…」
口内のチョコレートを飲み下し、ゼータは絶望の表情だ。神具の貸し出しを受けられぬこと、それ即ちゼータは今まで通り集落での聞き込みを頼りに2頭のドラゴンを追わねばならぬということだ。それも最低限土地勘のある旧バルトリア王国国土で聞き込みを行うのとは訳が違う。言葉の通じぬ集落があり、外部者の立ち入りを頑なに拒む集落があるとアメシスは言った。そのような土地でドラゴンの目撃情報を集めることは、不可能ではなくとも至難の業だ。さらにアメシスの地図の外側に出てしまえば、その先は真実未知の土地。人の住む集落など無いやもしれぬ。大地が続いているのかどうかもわからない。集落が途絶え、聞き込みという追跡方法が取れなくなったときに、ゼータの旅路はどうなるのだ。溺れるほどに深い深緑の奥地で、人知れず終わりを迎えることになるのか。
レイバックを追うと決意した当初、神具の力を当てにはしていなかった。ただがむしゃらに、行けるところまで行こうと思っただけ。しかしメリオンに旅立ちの報告をしてからというもの、神具の存在はゼータの心の拠り所となった。アメシスに協力を求めれば、レイバックの元に辿り着けるやもしれぬ。だからこそアメシスの謝絶はゼータの心に深く突き刺さる。「人探しや物探しに有用な神具は、確かに存在します」そう聞いた後では尚更だ。ゼータの絶望は、ダイナにも伝わったようである。麗しの王妃は悲哀に満ちた表情を浮かべ、ゼータとアメシスを交互に見やる。
「アメシス様。例外的な措置として、神具を見繕って差し上げることは出来ませんか?」
「この件に関して例外は認められない。かつて獣人国家オズトの国王殿から、国宝の紛失を理由として神具の貸し出しを求められたことがあった。大病を患う王妃のために、痛覚の遮断を可能にする神具の開発を求めた国王殿もいた。情に絆されゼータ様に神具の貸し出しを行ったとなれば、辛酸をなめた国王殿に申し訳が立たない。今後の交易にも悪影響が及ぶだろう」
「それは、理解しておりますが…」
絶望の中ダイナとアメシスのやり取りを眺めていたゼータは、ふととある出来事を思い出す。それは果て無き旅路への出発前夜、レイバックの執務室での出来事だ。メリオンと神国ジュリに関する話をした直後、ゼータは彼からとある物を受け取った。
「すみません。ちょっと退席します」
そう告げたゼータは、部屋を飛び出し宛がわれた客室へと向かう。物置台に置かれた旅行鞄を漁り、鞄の奥底からハンカチに包まれた紙切れを探し当てる。それがメリオンに渡された物だ。メリオンの手帳から破り取られた、2つ折りの紙切れ。その紙切れに一体何が書かれているのか、ゼータは知らない。誰それに渡せとの明確な言を受けたわけではないが、恐らくこれはアメシスに宛てた文だろう。どうかアメシスの心を絆す物であれと、ゼータは駆け足で夕餉の会場まで戻る。
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表紙絵
⇨ キラクニ 様 X(@kirakunibl)
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今夜のご飯も一緒に食べよう~ある日突然やってきたヒゲの熊男はまさかのスパダリでした~
松本尚生
BL
瞬は失恋して職と住み処を失い、小さなワンルームから弁当屋のバイトに通っている。
ある日瞬が帰ると、「誠~~~!」と背後からヒゲの熊男が襲いかかる。「誠って誰!?」上がりこんだ熊は大量の食材を持っていた。瞬は困り果てながら調理する。瞬が「『誠さん』って恋人?」と尋ねると、彼はふふっと笑って瞬を抱きしめ――。
恋なんてコリゴリの瞬と、正体不明のスパダリ熊男=伸幸のお部屋グルメの顛末。
伸幸の持ちこむ謎の食材と、それらをテキパキとさばいていく瞬のかけ合いもお楽しみください。
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