211 / 318
安らかに眠れ、恐ろしくも美しい緋色の龍よ
集落の朝
しおりを挟む
ブラキストの地へと辿り着いた翌日の朝だ。薄い布団の中でゼータが目覚めたときには、すでに日は高く昇っていた。昨晩の荒れ模様はどこへやら、すっきりと片付いた部屋の中に人の姿はない。しかし簾の上げられた窓の外からは、数人の子ども達の賑やかな声が聞こえてくる。どうやら随分と寝坊をしてしまったようだ。ゼータは布団の感触を名残惜しむように、稲殻の枕に頬を擦り付ける。
まずは布団から出ねばならぬと、ゼータが意味のない寝返りを繰り返していたときだ。家屋の戸口に人の影、マリーだ。衣服の袖を捲り上げたマリーは、ゼータには目もくれず浴室の方へと歩いて行く。頬に石鹸泡が飛んでいるところを見るに、恐らくは家屋の外で洗濯の真っ最中なのだ。家主が仕事をしているというのに、客人がいつまでも寝ているわけにはいかない。ゼータは眠気眼で、布団の上に身体を起こす。
「マリー、おはようございます」
「あら、ゼータさん。おはよう」
「すみません。随分と寝坊をしてしまったみたいで」
「4夜も野宿が続いたんじゃ仕方ないわよ。シーラとミムが大分頑張って起こそうとしていたんだけどね、泥のように眠っていたわ」
浴室の扉脇に落ちたシーラのシャツを拾い上げながら、マリーは言う。どうやら彼女はそのシャツを拾いに家屋の中へと立ち入ったようだ。昨晩のシーラは派手に衣服を脱ぎ散らかしていたから、放り投げたシャツが衣類籠の外へと零れ落ちてしまったのだろう。目的の衣類を手にしたマリーは、家屋の戸口へと引き返す。その途中ではたと足を止めた。
「起床早々悪いんだけど、洗濯物があったら出してくれる?今着ている夜着も脱いで欲しいわ。今日は気温が高いから、今洗えば夕方までには乾くと思うのよ。着替えは布団の横に置いてあるあるからね。イグニスという男性から借りた物よ。この集落一の有力者だから、あとでお礼を言っておいてね」
「わかりました」
「朝ご飯は調理台の上よ。昨日の残り物だけど、好きなだけよそって食べて。使った食器は水桶に漬けておいてね」
そう言い残すと、マリーは小走りに戸口の向こう側へと消えた。しかしすぐに戻って来た。戸口から顔半分を覗かせたマリーは、大層申し訳なさそうな表情である。
「ゼータさんが寝ている間に、ちょっと話が大きくなっちゃってね。話の内容はまぁ…間違ってはいないと思うんだけど。油の回ったシーラの舌を止めることは、興奮した馬を宥める以上に難しいのよ。ごめんなさいね」
不吉な謝罪を残し、マリーは今度こそ戸口の向こうへと消えた。
話が大きくなったとは一体どういうことだ。ゼータは布団から抜け出して、そろそろと窓際に寄る。簾の上げられた窓から外を覗き見れば、30mほど先に集落の中心となる広場が見えた。青々とした芝生の広場には大勢の人が集まっている。子どもが大半だが、数人の大人の姿も見える。人の輪の中心にいる者はシーラだ。シーラの隣には、ゼータの愛獣であるグラニ。グラニの手綱を握り締めたシーラは、集まった人々を前に声高に何かを喋っている。遠く離れたシーラの話す内容が、ゼータの耳に届くことはない。しかし愛獣グラニが皆の前に引き出されているということは、シーラの演説の内容は間違いなくゼータに関わることである。
ゼータは怒涛の勢いで夜着を脱ぎ、布団の脇に置かれていた衣類に腕脚を通した。イグニスという人物はゼータよりも大分背丈が高いらしく、シャツの袖もズボンの裾も捲り上げなければ格好が付かぬ。とりあえず動ける長さに袖裾を捲り、床に散らばった夜着を拾い集めたゼータは、調理台の握り飯一つ口に詰め込み家屋を飛び出すのであった。
明るい太陽の下で見る集落は、昨夜見た集落の印象とはまた違っていた。短く刈り込まれた緑の芝、家々を守るように立ち並ぶ背の高い樹木、自然の色合いに溶け込む丸太造りの家屋。夕焼け灯りに照らされた丘陵の集落は鬱蒼として見えたが、十分な太陽光の元では「のどか」の一言だ。旧バルトリア王国黒の城からの帰路で立ち寄った、獣人族の集落によく似ている。国家の保護を受けることができなかった頃、一体この集落はどのような有様であったのだろう。思い巡らせてみても、当時の凄惨たる状況を想像することは易くない。
広場の中心には、やはり集落内のほぼ全員が集まっているようであった。芝生に座り込む子ども達が12人と、子ども達の中心には仁王立ちのシーラ。シーラの語りに耳澄ませながら、刀研ぎや武具の手入れに勤しむ成人男性が3人、洗濯に勤しむ女性が5人。女性のうち2人は、背中に赤子を背負っている。昨晩のマリーの話では、集落の住人は全員で25人ということであった。25人中23人が芝生の広場に集まっているのだから、相当な集合率である。
極力気配を消したゼータの接近に、真っ先に気が付いた者はシーラであった。グラニの手綱に絡められたシーラの右手が、ゼータに向けて敬礼のごとく掲げられる。「皆への説明は一足早く済ませておきましたから」とでも言いたげだ。シーラの真横では、愛獣グラニが銀色の尻尾を揺らしていた。「御主人、なぜ私はこのような人の輪の中心に立たされているのでしょう」グラニが言葉を話すとしたら、まず間違いなくそう述べるはずだ。
シーラが敬礼をしたことで、村人の視線は一斉にゼータへと向いた。好奇、崇拝、賛美。様々な感情をのせた視線を全身に受け、ゼータは思わず立ち竦む。喋り魔シーラは、集落の皆に一体何を話したのだ。声にならぬ疑問に答える者は、突如ゼータの目の前に立ちはだかった背年だ。黒々とした短髪に力強い眼。寸秒前まで刀研ぎをしていた青年の手には、鞘に納められた一振りの剣が握られている。
「ゼータ殿、お初にお目に掛かります。私、この集落で首長の任を請け負っております、イグニスと申します。貴方様の旅路の目的は、先ほどシーラの口から皆に語られました。ドラキス王国の御遣いともあろう者が、このような辺境の集落によくぞいらっしゃいました。貴方様の来訪を心より歓迎致します」
そう言うと、青年はゼータに向けて深々と頭を下げた。イグニスの名には覚えがある。今ゼータの着る衣服の持ち主だ。恐らくは今ゼータが両腕に抱え込む夜着も、イグニスから借り受けた物なのであろう。衣服の礼を言わねばならぬことは重々承知。しかしそれよりも先に、どうしても確認せねばならぬ事項がある。
「イグニス様。念のためにお聞きしたいのですが、シーラの口から語られた私の旅の目的とは…?」
「ドラキス王国現国王直々の命を受けて、2頭のドラゴンの行方を追っていると聞きました。ゼータ殿はドラキス王国直属の研究員であり、幅広い知識のみならず魔法にも長け、国王殿の信頼も厚いのだと。ドラゴン探しの旅も、国王殿の個人的な頼み事であると伺いました。シーラの言に、何か誤りはあるでしょうか」
ゼータは喉の奥で唸る。旅路の目的については、昨晩湯船の中でシーラに説明した。しかしゼータのした説明と言えば「研究員という職業柄、生態調査のために2頭のドラゴンを追っている」という短文に限ったはずだ。間違っても「ドラキス王国国王殿」の名など語ってはいない。ではなぜシーラの口から「ドラキス王国国王殿」の名が出ることになったかと言えば、原因はゼータの愛獣グラニにありそうだ。グラニの付けている馬具は、グラニの体格に合わせて特別に製作された一品物。製作元はポトスの街中にある職人街の工房で、ドラキス王国の王宮で使用される馬具は全てその工房に製作が依頼されることとなっている。そして今回不幸と言うべきは、その工房で作られた馬具には王宮の模様が焼き付けられるという点だ。恐らくシーラはグラニの鞍に焼き付けられた模様を見て、ゼータとドラキス王国の王宮を結びつけたのであろう。いや、昨晩マリーに「ドラキス王国直属の研究員」と名乗ったのが悪かったのか。どのような経緯を辿ったにせよ、ひた隠しにするはずであったゼータの地位は明かされた。現国王レイバックの行方を追うという旅に目的を鑑みても、代理王メリオンのお墨付きを貰っているという点を鑑みても、「ドラキス王国国王直々の命」という言葉を真っ向から否定することはできない。
「いえ…誤りはないです」
「そうですか。しかし昨晩は申し訳ないことを致しました。ドラキス王国からの御遣いがご到着となれば、真っ先にご挨拶に伺わねばならぬところでした。マリーから客人の来訪は聞き及んでおりましたが、まさかこのような高貴な立場の方とはいざ知らず。衣服も夜着も布団も、使い古した物をお貸ししてしまいました。未使用の衣類が数着ございます。今からでも召し替えられませんか」
「いえいえ、どうぞお気になさらずに。衣服も夜着も布団も、お借りできただけで十分なんです。ありがとうございました。本当は朝一でお礼に伺う予定だったんです。でもその…何せ数夜野宿が続いておりまして、すっかり寝坊をしてしまいました。申し訳ありません」
ゼータが肩を竦めたそのときだ。いつの間にやら忍び寄っていたマリーが、ゼータの手の中から使用済みの夜着を奪い去っていった。子ども2人抱えた多忙のマリーにとっては、洗濯を済ませることがこの場の最優先事項なのである。くたびれた夜着は木製たらいへと放り込まれ、石鹸泡の中へと沈んでゆく。マリーによる夜着奪取など気にも留めず、イグニスは人の良い笑みを零す。
「ドラキス王国の御遣い様は腰が低くていらっしゃる。聞くところによると、昨晩はシーラとミムと共に風呂に浸かったというではありませんか。大事な旅路の間にも、土地の者と少しでも打ち解けようとする姿勢には非常に好感が持てます。どうでしょう、もし宜しければ今晩は私の家で夕餉を共にしませんか。馳走はご用意できませんが、できる限りのもてなしはさせていただきます」
「とても嬉しいご提案なんですけれど、あまり長居はできないんです。この集落に立ち寄ったのも、ドラゴンの目撃者がいるとの話を耳にしたからなんですよ。情報収集が終わり、洗濯物が乾いたら、今日のうちにはブラキストの街に向かいたいと思っています」
ゼータの答えは、夕食の誘いを無下に断るに等しい。しかしイグニスは気分を害した様子はない。
「失礼ですが、ブラキストの街では何をなさるご予定で?」
「ドラゴンの目撃者探しです。こちらの集落で得た情報ももちろん今後の旅路の参考にさせていただきますが、極力大勢からの目撃情報が欲しいんです。あとは買い物ですね。ドラゴンの行く先にもよりますが、一度神国ジュリを訪れようと思っているんです。また数晩野宿が続くでしょうから、水や食料を買い貯めねばなりません」
「なるほど…。差し支えなければ、今後のご予定に口出しをさせていただいても構いませんか」
「え、はい。ぜひお願いします」
イグニスの言葉は、意外や意外である。しかし行く先のわからぬ旅路だけに、土地勘のある者の助言は有難い。ゼータは背筋を伸ばし、イグニスの言葉に耳を澄ませる。向かい合う2人の周りでは、13人の子ども達と手仕事に勤しむ大人達が、息を潜ませ事の成り行きを見守っている。
「まず、ブラキストの街に向かうのは明朝が宜しい。そして聞き込みと買い物を済ませたら、夕刻にはこちらの集落にお戻りくださいませ。神国ジュリへの出発は、明後日の朝というのが現実的でしょう」
「それはなぜ?」
「ブラキストの街には宿屋がないのです。観光客がやって来るような土地柄ではありませんし、周囲から隔絶された土地だけに旅人の立ち寄りもありません。商人用の宿泊施設が設置されたとの話は聞きますが、旅人の利用は認められないでしょう。今日の夕刻にブラキストの街を目指せば、無駄な野宿を増やすことになります」
「そうなんですか…」
「ですから今日は一日ゆっくりと身体を休め、明日集落の者と共にブラキストの街にお向かいくださいませ。馬を使えば30分は掛からぬ道です。往復したとしても、大した手間にはなりますまい」
ゼータは腕を組み、ふむと考え込む。昨晩床に入ってから、ゼータは今後の予定について大方の方針は定めている。ブラキストの地で済ますべき用事は、第一に当集落での情報収集、第二にブラキストの街での情報収集、第三に神国ジュリに向けた旅路の準備だ。全ての予定を済ませるとすれば、ブラキストへの滞在は最低2日必要となる。集落での情報収集を終え次第ブラキストの街に向かってしまえば、移動時間に無駄がないと安易に考えていた。しかしブラキストの街に宿屋がないとなれば話は変わってくる。燦然と輝く街並みを目前にして、野宿というのも辛かろう。
ここはイグニスの助言に従い、宿泊地を当集落に変更すべきか。しかし慣れぬ街での聞き取り調査となれば、少しでも長く滞在時間を確保したいところ。山越えに想定以上の時間を使ってしまったから、目ぼしい情報に行き当たらず滞在期間を引き延ばすという事態は、何としても避けたいのだ。そうとなれば野宿を覚悟で、当初の予定通り今夜ブラキストの街に向かうべきか。揺れるゼータの後押しをする者は、洗濯に勤しむマリーである。
「丁度明日は荷馬車市の日よ。ゼータさんには、子ども達の付き添いを務めてもらえば良いんじゃないかしら。大の大人が単身で聞き込みをするよりも、子どもが一緒の方が情報は集まりやすいわよ。無邪気な子ども相手なら、誰だって口が軽くなるもの」
言葉の合間合間にも、マリーの手元からはじゃぶじゃぶと賑やかな水音が届く。他の4人の女性も同様に洗濯活動に勤しんでいるから、全ての水音が合わさればかなりの音量だ。ふわりと宙に浮いた石鹸泡を見て、数人の幼子が立ち上がる。ミムもその内の一人だ。年端もいかぬ幼子は、大人達の会話に飽いてしまったらしい。散会する子ども達の輪をよそに、大人の論議は続く。
「それは良い考えだ。荷馬車市には国家の要人も訪れます。子ども達に混じって商いをしていれば、彼らと話をすることも可能ですよ。ドラゴンの目撃者を探して、うろうろと街を練り歩くより効率は良い」
そう話すイグニスは満面の笑みだ。しかしゼータは、聞き慣れぬ言葉にこくりと首を傾げるのである。
「すみません、荷馬車市って?」
「ブラキストの街で、2週に一度開かれる市場のことです。ブラキスト内各集落より、村人が手作りの品を持ち寄るのですよ。例えばうちの集落からは、革小物や魔獣の骨細工、薬草茶などが出品されます。中でもマリーの作る薬草茶は人気の品でね、国家の要人にも愛好者が多いのですよ」
「へぇ…楽しそうですね」
「楽しいですよ。ブラキストの地には辺境の集落が多くありますから、持ち寄る品も個性豊かな物ばかりです。ドラゴン探しという旅の目的がなければ、土産の購入を勧めるところです」
「先ほどマリーが子ども達の付き添い、と言いましたけれど、荷馬車市では子どもが売り子を務めるんですか?」
「そうです。どこの集落でも、売り子は子どもと相場が決まっているのです。大人は畑仕事や狩りで忙しいですから。荷馬車市の帰りには、子ども達が各家の買い出しを済ませるのもまた恒例ですからね。ゼータ様の買い物も一緒に済ませるのが宜しいでしょう。シーラの値切りは大人顔負けですから、相当な銭の節約になりましょう」
野宿の回避に加え、情報収集の効率化、さらには銭の節約を挙げられてしまえば、提案を断る利は薄い。ゼータは、イグニスとマリーに交互に笑顔を向ける。
「では荷馬車市にご一緒させてもらうことにします。マリー、すみませんがあと2晩お世話になります。宿代分は働きますから」
「あら、助かるわぁ。男手があるなら今晩もお風呂を溜めようかしら。3日続けてお湯に浸かれるなんて夢みたい」
石鹸泡に塗れたマリーは、心底嬉しそうな表情である。
まずは布団から出ねばならぬと、ゼータが意味のない寝返りを繰り返していたときだ。家屋の戸口に人の影、マリーだ。衣服の袖を捲り上げたマリーは、ゼータには目もくれず浴室の方へと歩いて行く。頬に石鹸泡が飛んでいるところを見るに、恐らくは家屋の外で洗濯の真っ最中なのだ。家主が仕事をしているというのに、客人がいつまでも寝ているわけにはいかない。ゼータは眠気眼で、布団の上に身体を起こす。
「マリー、おはようございます」
「あら、ゼータさん。おはよう」
「すみません。随分と寝坊をしてしまったみたいで」
「4夜も野宿が続いたんじゃ仕方ないわよ。シーラとミムが大分頑張って起こそうとしていたんだけどね、泥のように眠っていたわ」
浴室の扉脇に落ちたシーラのシャツを拾い上げながら、マリーは言う。どうやら彼女はそのシャツを拾いに家屋の中へと立ち入ったようだ。昨晩のシーラは派手に衣服を脱ぎ散らかしていたから、放り投げたシャツが衣類籠の外へと零れ落ちてしまったのだろう。目的の衣類を手にしたマリーは、家屋の戸口へと引き返す。その途中ではたと足を止めた。
「起床早々悪いんだけど、洗濯物があったら出してくれる?今着ている夜着も脱いで欲しいわ。今日は気温が高いから、今洗えば夕方までには乾くと思うのよ。着替えは布団の横に置いてあるあるからね。イグニスという男性から借りた物よ。この集落一の有力者だから、あとでお礼を言っておいてね」
「わかりました」
「朝ご飯は調理台の上よ。昨日の残り物だけど、好きなだけよそって食べて。使った食器は水桶に漬けておいてね」
そう言い残すと、マリーは小走りに戸口の向こう側へと消えた。しかしすぐに戻って来た。戸口から顔半分を覗かせたマリーは、大層申し訳なさそうな表情である。
「ゼータさんが寝ている間に、ちょっと話が大きくなっちゃってね。話の内容はまぁ…間違ってはいないと思うんだけど。油の回ったシーラの舌を止めることは、興奮した馬を宥める以上に難しいのよ。ごめんなさいね」
不吉な謝罪を残し、マリーは今度こそ戸口の向こうへと消えた。
話が大きくなったとは一体どういうことだ。ゼータは布団から抜け出して、そろそろと窓際に寄る。簾の上げられた窓から外を覗き見れば、30mほど先に集落の中心となる広場が見えた。青々とした芝生の広場には大勢の人が集まっている。子どもが大半だが、数人の大人の姿も見える。人の輪の中心にいる者はシーラだ。シーラの隣には、ゼータの愛獣であるグラニ。グラニの手綱を握り締めたシーラは、集まった人々を前に声高に何かを喋っている。遠く離れたシーラの話す内容が、ゼータの耳に届くことはない。しかし愛獣グラニが皆の前に引き出されているということは、シーラの演説の内容は間違いなくゼータに関わることである。
ゼータは怒涛の勢いで夜着を脱ぎ、布団の脇に置かれていた衣類に腕脚を通した。イグニスという人物はゼータよりも大分背丈が高いらしく、シャツの袖もズボンの裾も捲り上げなければ格好が付かぬ。とりあえず動ける長さに袖裾を捲り、床に散らばった夜着を拾い集めたゼータは、調理台の握り飯一つ口に詰め込み家屋を飛び出すのであった。
明るい太陽の下で見る集落は、昨夜見た集落の印象とはまた違っていた。短く刈り込まれた緑の芝、家々を守るように立ち並ぶ背の高い樹木、自然の色合いに溶け込む丸太造りの家屋。夕焼け灯りに照らされた丘陵の集落は鬱蒼として見えたが、十分な太陽光の元では「のどか」の一言だ。旧バルトリア王国黒の城からの帰路で立ち寄った、獣人族の集落によく似ている。国家の保護を受けることができなかった頃、一体この集落はどのような有様であったのだろう。思い巡らせてみても、当時の凄惨たる状況を想像することは易くない。
広場の中心には、やはり集落内のほぼ全員が集まっているようであった。芝生に座り込む子ども達が12人と、子ども達の中心には仁王立ちのシーラ。シーラの語りに耳澄ませながら、刀研ぎや武具の手入れに勤しむ成人男性が3人、洗濯に勤しむ女性が5人。女性のうち2人は、背中に赤子を背負っている。昨晩のマリーの話では、集落の住人は全員で25人ということであった。25人中23人が芝生の広場に集まっているのだから、相当な集合率である。
極力気配を消したゼータの接近に、真っ先に気が付いた者はシーラであった。グラニの手綱に絡められたシーラの右手が、ゼータに向けて敬礼のごとく掲げられる。「皆への説明は一足早く済ませておきましたから」とでも言いたげだ。シーラの真横では、愛獣グラニが銀色の尻尾を揺らしていた。「御主人、なぜ私はこのような人の輪の中心に立たされているのでしょう」グラニが言葉を話すとしたら、まず間違いなくそう述べるはずだ。
シーラが敬礼をしたことで、村人の視線は一斉にゼータへと向いた。好奇、崇拝、賛美。様々な感情をのせた視線を全身に受け、ゼータは思わず立ち竦む。喋り魔シーラは、集落の皆に一体何を話したのだ。声にならぬ疑問に答える者は、突如ゼータの目の前に立ちはだかった背年だ。黒々とした短髪に力強い眼。寸秒前まで刀研ぎをしていた青年の手には、鞘に納められた一振りの剣が握られている。
「ゼータ殿、お初にお目に掛かります。私、この集落で首長の任を請け負っております、イグニスと申します。貴方様の旅路の目的は、先ほどシーラの口から皆に語られました。ドラキス王国の御遣いともあろう者が、このような辺境の集落によくぞいらっしゃいました。貴方様の来訪を心より歓迎致します」
そう言うと、青年はゼータに向けて深々と頭を下げた。イグニスの名には覚えがある。今ゼータの着る衣服の持ち主だ。恐らくは今ゼータが両腕に抱え込む夜着も、イグニスから借り受けた物なのであろう。衣服の礼を言わねばならぬことは重々承知。しかしそれよりも先に、どうしても確認せねばならぬ事項がある。
「イグニス様。念のためにお聞きしたいのですが、シーラの口から語られた私の旅の目的とは…?」
「ドラキス王国現国王直々の命を受けて、2頭のドラゴンの行方を追っていると聞きました。ゼータ殿はドラキス王国直属の研究員であり、幅広い知識のみならず魔法にも長け、国王殿の信頼も厚いのだと。ドラゴン探しの旅も、国王殿の個人的な頼み事であると伺いました。シーラの言に、何か誤りはあるでしょうか」
ゼータは喉の奥で唸る。旅路の目的については、昨晩湯船の中でシーラに説明した。しかしゼータのした説明と言えば「研究員という職業柄、生態調査のために2頭のドラゴンを追っている」という短文に限ったはずだ。間違っても「ドラキス王国国王殿」の名など語ってはいない。ではなぜシーラの口から「ドラキス王国国王殿」の名が出ることになったかと言えば、原因はゼータの愛獣グラニにありそうだ。グラニの付けている馬具は、グラニの体格に合わせて特別に製作された一品物。製作元はポトスの街中にある職人街の工房で、ドラキス王国の王宮で使用される馬具は全てその工房に製作が依頼されることとなっている。そして今回不幸と言うべきは、その工房で作られた馬具には王宮の模様が焼き付けられるという点だ。恐らくシーラはグラニの鞍に焼き付けられた模様を見て、ゼータとドラキス王国の王宮を結びつけたのであろう。いや、昨晩マリーに「ドラキス王国直属の研究員」と名乗ったのが悪かったのか。どのような経緯を辿ったにせよ、ひた隠しにするはずであったゼータの地位は明かされた。現国王レイバックの行方を追うという旅に目的を鑑みても、代理王メリオンのお墨付きを貰っているという点を鑑みても、「ドラキス王国国王直々の命」という言葉を真っ向から否定することはできない。
「いえ…誤りはないです」
「そうですか。しかし昨晩は申し訳ないことを致しました。ドラキス王国からの御遣いがご到着となれば、真っ先にご挨拶に伺わねばならぬところでした。マリーから客人の来訪は聞き及んでおりましたが、まさかこのような高貴な立場の方とはいざ知らず。衣服も夜着も布団も、使い古した物をお貸ししてしまいました。未使用の衣類が数着ございます。今からでも召し替えられませんか」
「いえいえ、どうぞお気になさらずに。衣服も夜着も布団も、お借りできただけで十分なんです。ありがとうございました。本当は朝一でお礼に伺う予定だったんです。でもその…何せ数夜野宿が続いておりまして、すっかり寝坊をしてしまいました。申し訳ありません」
ゼータが肩を竦めたそのときだ。いつの間にやら忍び寄っていたマリーが、ゼータの手の中から使用済みの夜着を奪い去っていった。子ども2人抱えた多忙のマリーにとっては、洗濯を済ませることがこの場の最優先事項なのである。くたびれた夜着は木製たらいへと放り込まれ、石鹸泡の中へと沈んでゆく。マリーによる夜着奪取など気にも留めず、イグニスは人の良い笑みを零す。
「ドラキス王国の御遣い様は腰が低くていらっしゃる。聞くところによると、昨晩はシーラとミムと共に風呂に浸かったというではありませんか。大事な旅路の間にも、土地の者と少しでも打ち解けようとする姿勢には非常に好感が持てます。どうでしょう、もし宜しければ今晩は私の家で夕餉を共にしませんか。馳走はご用意できませんが、できる限りのもてなしはさせていただきます」
「とても嬉しいご提案なんですけれど、あまり長居はできないんです。この集落に立ち寄ったのも、ドラゴンの目撃者がいるとの話を耳にしたからなんですよ。情報収集が終わり、洗濯物が乾いたら、今日のうちにはブラキストの街に向かいたいと思っています」
ゼータの答えは、夕食の誘いを無下に断るに等しい。しかしイグニスは気分を害した様子はない。
「失礼ですが、ブラキストの街では何をなさるご予定で?」
「ドラゴンの目撃者探しです。こちらの集落で得た情報ももちろん今後の旅路の参考にさせていただきますが、極力大勢からの目撃情報が欲しいんです。あとは買い物ですね。ドラゴンの行く先にもよりますが、一度神国ジュリを訪れようと思っているんです。また数晩野宿が続くでしょうから、水や食料を買い貯めねばなりません」
「なるほど…。差し支えなければ、今後のご予定に口出しをさせていただいても構いませんか」
「え、はい。ぜひお願いします」
イグニスの言葉は、意外や意外である。しかし行く先のわからぬ旅路だけに、土地勘のある者の助言は有難い。ゼータは背筋を伸ばし、イグニスの言葉に耳を澄ませる。向かい合う2人の周りでは、13人の子ども達と手仕事に勤しむ大人達が、息を潜ませ事の成り行きを見守っている。
「まず、ブラキストの街に向かうのは明朝が宜しい。そして聞き込みと買い物を済ませたら、夕刻にはこちらの集落にお戻りくださいませ。神国ジュリへの出発は、明後日の朝というのが現実的でしょう」
「それはなぜ?」
「ブラキストの街には宿屋がないのです。観光客がやって来るような土地柄ではありませんし、周囲から隔絶された土地だけに旅人の立ち寄りもありません。商人用の宿泊施設が設置されたとの話は聞きますが、旅人の利用は認められないでしょう。今日の夕刻にブラキストの街を目指せば、無駄な野宿を増やすことになります」
「そうなんですか…」
「ですから今日は一日ゆっくりと身体を休め、明日集落の者と共にブラキストの街にお向かいくださいませ。馬を使えば30分は掛からぬ道です。往復したとしても、大した手間にはなりますまい」
ゼータは腕を組み、ふむと考え込む。昨晩床に入ってから、ゼータは今後の予定について大方の方針は定めている。ブラキストの地で済ますべき用事は、第一に当集落での情報収集、第二にブラキストの街での情報収集、第三に神国ジュリに向けた旅路の準備だ。全ての予定を済ませるとすれば、ブラキストへの滞在は最低2日必要となる。集落での情報収集を終え次第ブラキストの街に向かってしまえば、移動時間に無駄がないと安易に考えていた。しかしブラキストの街に宿屋がないとなれば話は変わってくる。燦然と輝く街並みを目前にして、野宿というのも辛かろう。
ここはイグニスの助言に従い、宿泊地を当集落に変更すべきか。しかし慣れぬ街での聞き取り調査となれば、少しでも長く滞在時間を確保したいところ。山越えに想定以上の時間を使ってしまったから、目ぼしい情報に行き当たらず滞在期間を引き延ばすという事態は、何としても避けたいのだ。そうとなれば野宿を覚悟で、当初の予定通り今夜ブラキストの街に向かうべきか。揺れるゼータの後押しをする者は、洗濯に勤しむマリーである。
「丁度明日は荷馬車市の日よ。ゼータさんには、子ども達の付き添いを務めてもらえば良いんじゃないかしら。大の大人が単身で聞き込みをするよりも、子どもが一緒の方が情報は集まりやすいわよ。無邪気な子ども相手なら、誰だって口が軽くなるもの」
言葉の合間合間にも、マリーの手元からはじゃぶじゃぶと賑やかな水音が届く。他の4人の女性も同様に洗濯活動に勤しんでいるから、全ての水音が合わさればかなりの音量だ。ふわりと宙に浮いた石鹸泡を見て、数人の幼子が立ち上がる。ミムもその内の一人だ。年端もいかぬ幼子は、大人達の会話に飽いてしまったらしい。散会する子ども達の輪をよそに、大人の論議は続く。
「それは良い考えだ。荷馬車市には国家の要人も訪れます。子ども達に混じって商いをしていれば、彼らと話をすることも可能ですよ。ドラゴンの目撃者を探して、うろうろと街を練り歩くより効率は良い」
そう話すイグニスは満面の笑みだ。しかしゼータは、聞き慣れぬ言葉にこくりと首を傾げるのである。
「すみません、荷馬車市って?」
「ブラキストの街で、2週に一度開かれる市場のことです。ブラキスト内各集落より、村人が手作りの品を持ち寄るのですよ。例えばうちの集落からは、革小物や魔獣の骨細工、薬草茶などが出品されます。中でもマリーの作る薬草茶は人気の品でね、国家の要人にも愛好者が多いのですよ」
「へぇ…楽しそうですね」
「楽しいですよ。ブラキストの地には辺境の集落が多くありますから、持ち寄る品も個性豊かな物ばかりです。ドラゴン探しという旅の目的がなければ、土産の購入を勧めるところです」
「先ほどマリーが子ども達の付き添い、と言いましたけれど、荷馬車市では子どもが売り子を務めるんですか?」
「そうです。どこの集落でも、売り子は子どもと相場が決まっているのです。大人は畑仕事や狩りで忙しいですから。荷馬車市の帰りには、子ども達が各家の買い出しを済ませるのもまた恒例ですからね。ゼータ様の買い物も一緒に済ませるのが宜しいでしょう。シーラの値切りは大人顔負けですから、相当な銭の節約になりましょう」
野宿の回避に加え、情報収集の効率化、さらには銭の節約を挙げられてしまえば、提案を断る利は薄い。ゼータは、イグニスとマリーに交互に笑顔を向ける。
「では荷馬車市にご一緒させてもらうことにします。マリー、すみませんがあと2晩お世話になります。宿代分は働きますから」
「あら、助かるわぁ。男手があるなら今晩もお風呂を溜めようかしら。3日続けてお湯に浸かれるなんて夢みたい」
石鹸泡に塗れたマリーは、心底嬉しそうな表情である。
10
お気に入りに追加
252
あなたにおすすめの小説

前世が俺の友人で、いまだに俺のことが好きだって本当ですか
Bee
BL
半年前に別れた元恋人だった男の結婚式で、ユウジはそこではじめて二股をかけられていたことを知る。8年も一緒にいた相手に裏切られていたことを知り、ショックを受けたユウジは式場を飛び出してしまう。
無我夢中で車を走らせて、気がつくとユウジは見知らぬ場所にいることに気がつく。そこはまるで天国のようで、そばには7年前に死んだ友人の黒木が。黒木はユウジのことが好きだったと言い出して――
最初は主人公が別れた男の結婚式に参加しているところから始まります。
死んだ友人との再会と、その友人の生まれ変わりと思われる青年との出会いへと話が続きます。
生まれ変わり(?)21歳大学生×きれいめな48歳おっさんの話です。
※軽い性的表現あり
短編から長編に変更しています
悩める文官のひとりごと
きりか
BL
幼い頃から憧れていた騎士団に入りたくても、小柄でひ弱なリュカ・アルマンは、学校を卒業と同時に、文官として騎士団に入団する。方向音痴なリュカは、マルーン副団長の部屋と間違え、イザーク団長の部屋に入り込む。
そこでは、惚れ薬を口にした団長がいて…。
エチシーンが書けなくて、朝チュンとなりました。
ムーンライト様にも掲載しております。


侯爵令息セドリックの憂鬱な日
めちゅう
BL
第二王子の婚約者候補侯爵令息セドリック・グランツはある日王子の婚約者が決定した事を聞いてしまう。しかし先に王子からお呼びがかかったのはもう一人の候補だった。候補落ちを確信し泣き腫らした次の日は憂鬱な気分で幕を開ける———
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
初投稿で拙い文章ですが楽しんでいただけますと幸いです。

僕はお別れしたつもりでした
まと
BL
遠距離恋愛中だった恋人との関係が自然消滅した。どこか心にぽっかりと穴が空いたまま毎日を過ごしていた藍(あい)。大晦日の夜、寂しがり屋の親友と二人で年越しを楽しむことになり、ハメを外して酔いつぶれてしまう。目が覚めたら「ここどこ」状態!!
親友と仲良すぎな主人公と、別れたはずの恋人とのお話。
⚠️趣味で書いておりますので、誤字脱字のご報告や、世界観に対する批判コメントはご遠慮します。そういったコメントにはお返しできませんので宜しくお願いします。
大晦日あたりに出そうと思ったお話です。

【完結】オーロラ魔法士と第3王子
N2O
BL
全16話
※2022.2.18 完結しました。ありがとうございました。
※2023.11.18 文章を整えました。
辺境伯爵家次男のリーシュ・ギデオン(16)が、突然第3王子のラファド・ミファエル(18)の専属魔法士に任命された。
「なんで、僕?」
一人狼第3王子×黒髪美人魔法士
設定はふんわりです。
小説を書くのは初めてなので、何卒ご容赦ください。
嫌な人が出てこない、ふわふわハッピーエンドを書きたくて始めました。
感想聞かせていただけると大変嬉しいです。
表紙絵
⇨ キラクニ 様 X(@kirakunibl)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる