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安らかに眠れ、恐ろしくも美しい緋色の龍よ
小国ブラキスト
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ゼータが山道を超え小国ブラキストの地を踏んだのは、湖畔の国リーニャを出発してから丸5日経った日のことであった。ジンダイ曰く、ゴルダとブラキストを繋ぐ山道は「迷わなければ2日で越えられる道」だ。その山道を抜けるために5日もの時を要したのには、いくつかの理由がある。
まず山道が想像以上に悪路であったのだ。辛うじて道と呼べる道はあるが、木枝が生い茂り騎獣に跨る事ができない。倒木が行く手を塞ぐ場所もあり、草木の茂る急斜面を迂回路とせねばならぬ事態が度々発生した。幸いにもジンダイの地図は正確で、行く道を間違え廃道に足を踏み入れるという事態には至らなかった。しかし正しいはずの道も整えられた山道というには程遠く、三叉路を前に地図と睨めっこした回数は片手の指を軽く超える。頻繁に人の立ち入る場所ではないだけに魔獣の生息数も多く、黒毛並みの一角獣と鉢合わせたときには流石のゼータも肝を冷やした。グラニの威嚇の甲斐もあり戦闘には至らず、艶々黒毛並みの一角獣は軽やかな足取りで奥山へと消えた。
しかし最大の足止め要因は悪路でもなく、立ちはだかる魔獣でもなく、旅人との遭遇だ。四方八方を深緑に囲まれた山中で、ゼータは3度旅人と出くわした。それも皆が皆、小国ブラキストの地よりゴルダを目指す旅人であったのだ。彼らは皆地図を持っていなかった。迷わずに進んでも丸2日が掛かるという山道を、有ろうことか自らの勘を頼りに歩んでいたのである。「小国ブラキストで、山道を超えるための地図を買うことはできない」と旅人の一人は言った。安全を第一に考えるのならば、中央国セントラルを経由することが最善ということは理解している。しかしセントラルを経由すれば、歩む距離は数倍に膨れ上がる。道中で集落に立ち寄れば何かと金もかかるだろう。少ない金と時間でゴルダを目指すのならば、危険を承知で山越えをするに限る。旅人は口を揃えてそう言うのだ。
旅人との3度の遭遇のうち、2度は立ち話をして別れるだけで済んだ。いずれの旅人も数日分の食料を所持していたし、「食べ物がなくなればその辺で獣を獲って食べるから」と朗らかに笑うのだ。時折木に登り行く先を確認している姿も見え、時間は掛かってもいずれ山を越えられることは明らかだった。しかし山頂に近い場所で出会った残る1組の旅人達、彼らとの出会いがゼータにとって最大の足止めとなった。
ゼータが出会ったのは兄妹の旅人であった。歳は兄が10と少し、妹はまだ7つを迎えたばかりだという。満足な荷も持っておらず、ただ着の身着のままで山に登って来たという様子であった。なぜ子ども2人でこんな場所に、と聞けば、湖畔の国リーニャに母がいるのだと言う。小国ブラキストは13国の中では比較的整った国家ではあるが、外部と断絶された土地であるだけに不自由も多い。国王による統治が戻った今食うに困ることはないが、それでも苦難のない生活には程遠いのだ。だから兄妹の母は、単身湖畔の国リーニャへと出稼ぎに行った。旧バルトリア王国一の繁栄国であるとされるリーニャで半年も働けば、ブラキストの地で数年は金に困ることはない。実はそうした理由で山を越える者は少なくないのだと、兄妹は話した。遠いリーニャの地に想いを馳せ、命を賭して山を超える。山道を進むうちに魔獣に襲われ、命果てることもあるだろう。例えリーニャの地に辿り着いたとしても、思うように職を得られぬこともあるだろう。それでもブラキストの人々は豊かな生活を求めて、リーニャの地を目指すのだ。
「必死で働く母に面倒を掛けるつもりはない。少し話をしたら、また兄妹2人でブラキストに帰るつもりであったのだ。危険は承知。しかし一目で良いから母の顔を見たかった」泥だらけの子ども2人に涙ながらに訴えられれば、無慈悲に「引き返せ」と言うことなどできやしない。結局ゼータは疲れ果てた兄妹に付き添い、丸一日来た道を引き返すこととなったのだ。ゴルダの街並みが見える場所まで辿り着いたときに、ゼータは兄妹に言いつけた。
―帰り道は、ジンダイという男の飲み屋で地図を買うように。地図の代金は銀貨4枚。事情を説明してゼータに付けてもらって良い
母との再会を目前に浮かれ立つ兄妹が、ゼータの忠告を飲み込んだのか否かは定かではない。先刻までの疲れた様子はどこへやら、兄妹は手と手を取り合って山道を駆け下りて行った。そうして兄妹の背を見送ったゼータは、2度目となる山越えを開始することとなったのである。兄妹との出会いは、往復で丸2日の無駄足。しかし武器を持たぬ兄弟が山道で凶暴な魔獣に出くわせば、生き延びる可能性は限りなく低い。ゼータの2日が兄妹の一生に変わったのだと思えば、悪くはなかった。
そしてゼータは2度目となる山越えを経て、疲労困憊でブラキストの地へと辿り着いたのだ。
「…辿り着いたはずなんですけれどねぇ」
ゼータは一人、呟く。今ゼータの目の前には絶景が広がっている。夕暮れを目前にした薄青の空、果てしなく広がるなだらかな丘陵、丘陵の向こうに聳える絶壁の高山。ジンダイの地図の通りなら、今ゼータの立つ場所はもう小国ブラキストの国境内であるはずだ。しかし目の前に広がる物は悠然と佇む自然ばかりで、街どころか一つの家屋さえも見当たらない。
新王の即位式の折に訪れた小国ブラキストの中心地、さほど広くはない街であったが、その場所には確かに無数の建物が立ち並んでいた。賑やかな通りがあり、物売りをする人々がおり、街の周囲には実りを目前にした田畑が広がっていた。一体あの街はどこに行ってしまったのだとジンダイの地図を開くゼータであるが、悔しくも地図から得ることのできるブラキストの情報は何一つない。恐らくジンダイは自らの脚でブラキストの地を訪れたことはないのだ。彼の作る地図にはリーニャ周辺の集落、山河、魔獣の出没状況こそ詳細に書かれているが、その他大部分は空白だ。特に旧バルトリア王国国土の東部と南部については空白部分が多く、ブラキストに至ってはざっくりと書かれた国境の内部に国名が書き入れられているだけなのである。山越えに関しては、ジンダイの地図は良い助けとなった。しかしこれから先の道は、自らの脚と勘が頼りということである。
ゼータは溜息を一つ零し、ジンダイの地図をかばんの隅に仕舞い入れた。1時間もすれば日が暮れる。4夜に及ぶ野宿で身体はへとへと、今夜こそは温かい布団で眠れると思っていたのだ。買い溜めてきた食料にはまだ余裕はあるが、温かな食事を期待していただけに落胆も大きい。とりあえず高山の麓を目指すが吉と、ゼータはグラニの背に上る。
グラニの背に跨り、丘陵の間を15分ほど駆けたときだ。視界の端に家屋の屋根らしき物が映る。咄嗟にグラニを止め、丘陵の向こうをまじまじと眺めれば、やはりそこにはいくつかの家屋の屋根が並んでいた。夕暮れに馴染む橙色の灯りは、おそらく家屋の窓灯りであろう。集落がある。集落があり、人が住んでいる。これ幸いと、ゼータはグラニに跨ったまま集落を目指す。道に迷ったのなら、地元の者に助けを求めるのが一番だ。
間もなくして辿り着いた場所は、小さな家屋が10集まっただけの小さな集落だ。家屋はいずれも平屋建てで、丸太造りの壁に藁葺き屋根を載せている。窓枠にガラスは入っておらず、家の内側から簾を下ろす仕組みになっているようだ。家屋の立つ場所は野原と森林の端境部であるが、集落内部の木々は適度に間引かれ見通しが良い。家屋と家屋を繋ぐ土の道は均されているし、家屋周りの雑草も良く手入れされていた。
ゼータはグラニの背を降り、集落内部へと立ち入った。時刻は日暮れ時、夕飯の支度をする家が多いのか、涼風に乗って飯の炊ける匂いが漂ってくる。簾の隙間から橙灯りが漏れ出しているから、家屋の中に人がいることは確かだ。しかし飯時に人様の家に上がり込むというのも、中々勇気のいることだ。飯乞いかと思われるのも癪である。
途方に暮れ集落内部をうろうろと歩き回るゼータの目に、天の助けとも言うべき人の姿が飛び込んできた。集落の隅にある古びた井戸、その井戸から水を汲み上げる女性がいる。ゼータは泥で汚れた衣服の襟を直し、女性へと近づいて行く。
「すみません。道をお聞きしたいんですけれど」
ゼータの問いにふいと顔を上げたのは、外見が四十路ほどと思われる小柄な女性だ。腰まである薄茶色の髪を、肩のあたりで一つに結わっている。女性は汲み上げたばかりの井戸水をブリキのバケツへと注ぎ入れ、再度ゼータに向き直る。
「どこに行きたいの?」
「ブラキストの中心部に行きたいんです。ここからは遠いですか?」
「遠くはないけれど…でも日が暮れてからの移動はお勧めしないわよ。この辺りの丘陵は、飛行獣の絶好の狩場なの。空から見たときに、遮蔽物が何もないでしょう。足の速い騎獣に乗っていたって、上空から狙われたらひとたまりもないわよ」
そう言って、女性は暮れなずむ空を見上げた。ゼータもつられて空を仰ぐ。濃紺色に染まりゆく空には、確かに一羽二羽と飛行獣の姿が見え始めていた。旧バルトリア王国国土には、いまだに凶暴な魔獣が出没する。飛行獣も然りだ。ブラキストの中心部を目指し丘陵を駆けるうちに、空飛ぶグリフォンに掴み上げられたのでは洒落にもならない。
「…つかぬ事をお伺いしますが、この集落に宿屋はありますか?」
「宿屋は、無いわねぇ」
「近くに宿屋のありそうな集落は?」
「そもそも近くに他の集落が無いわねぇ」
「そうですか…」
ゼータはへなへなと地面に座り込んだ。丸5日間に及ぶ山越え、4夜に渡る野宿。ドラキス王国を出発した時からある程度の野宿は覚悟していたが、覚悟云々に関わらず疲労は溜まる。かばんに詰めた携帯食を頻繁に口に運ぶようにはしていたが、運動量に比較すれば満足な食事には程遠い。湧き水で手足は洗えても、山の中に都合よく温泉が湧いているはずもない。髪も服も泥だらけだ。折角人のいる集落に辿り付いたというのに、まさかの野宿。項垂れるゼータの横で、グラニが悲しげな鳴き声を零す。
「ええっと…貴方、ブラキストの人じゃないのね。もしかして山を越えてきたの?」
薄茶髪の女性の声が、ゼータの頭上に降り注ぐ。地面にしゃがみ込んだまま顔だけを上げれば、女性は大層申し訳ないというような表情でゼータを見下ろしていた。
「はい…ゴルダから山を越えてきました」
「それは大変だったわねぇ。お住まいはゴルダ?それともリーニャ?」
「ドラキス王国です。1週間前にポトスの街を出発して、リーニャとゴルダを経由してここまで来ました」
「あら、そうなの。へぇ…ドラキス王国から」
女性は驚嘆の声を上げた。見開かれた瞳は泥まみれのゼータの姿をじっと見て、それから手綱の先にいるグラニを見やる。5日間の山越えで銀の毛並みは薄汚れているが、それでも持ち前の高貴さは失っていない。主の横に凛と立つグラニは、ドラキス王国の名を背負うに相応しい姿だ。騎獣がこうであるのに、主が座り込んでいては情けない。ゼータは萎える足を立てる。
「申し遅れました。私、ドラキス王国直属の研究員でゼータといいます。ポトスの街にある魔法研究所という施設で、ドラゴンの研究をしているんです」
「あらあら、ご丁寧にどうも。ドラゴンの研究員様が、どうして遥々ブラキストの地に?」
「2か月ほど前に、ブラキストの上空を2頭のドラゴンが横切ったでしょう。緋色のドラゴンと、苔色のドラゴンです。随分と激しく争っていたようですから、喧嘩の原因と結末を突き止めたいと思って」
「そういえば、そんな事があったわねぇ。あの夜は息子を寝かしつけるのに苦労したわ。ドラゴンの喧嘩なんて初めて見たと言って、興奮して大変だったのよ」
事もなげに伝えられる女性の証言に、ゼータは思わず目を剥いた。
「息子さん、ドラゴンを目撃しているんですか」
「ええ。私も話半分で聞いていたから詳しくは覚えていないけれど、何だか色々と言っていたわよ」
「あの、ぜひとも息子さんに詳しく話を…」
まさかブラキストの地で、こんなにも早くドラゴンの目撃者に相見えるとは。ゼータは半ば興奮状態で女性との距離を詰める。しかしその時、遥か上空で飛行獣が一鳴き。人の悲鳴に似た耳障りの悪い鳴き声だ。真っ赤な太陽は山の向こうへと姿を隠し、辺りはどんどん暗くなる。井戸に水を汲みに来たという事は、女性はこの後何かしらの手仕事を抱えているのだ。息子がいると言ったのだから、食事の支度に取り掛かる予定なのかもしれない。食事時の来訪者ほど迷惑な者はいないだろう。ゼータは肩を竦め、すごすごと女性の元から遠ざかる。
「…すみません。明日また出直します。近くの森で適当に夜を明かしますので…」
予定外の野宿は辛いが、情報提供者を見つけられたのなら良し。まだ日のあるうちに寝心地の良さそうな草地を探そうと、ゼータは古井戸に背を向け歩き出す。手綱を引かれたグラニもそれに続く。泥土に塗れたゼータとグラニの背を見て、女性の眉尻がきゅうと下がった。
「ねぇ貴方、もし良かったらうちに泊っていく?」
まず山道が想像以上に悪路であったのだ。辛うじて道と呼べる道はあるが、木枝が生い茂り騎獣に跨る事ができない。倒木が行く手を塞ぐ場所もあり、草木の茂る急斜面を迂回路とせねばならぬ事態が度々発生した。幸いにもジンダイの地図は正確で、行く道を間違え廃道に足を踏み入れるという事態には至らなかった。しかし正しいはずの道も整えられた山道というには程遠く、三叉路を前に地図と睨めっこした回数は片手の指を軽く超える。頻繁に人の立ち入る場所ではないだけに魔獣の生息数も多く、黒毛並みの一角獣と鉢合わせたときには流石のゼータも肝を冷やした。グラニの威嚇の甲斐もあり戦闘には至らず、艶々黒毛並みの一角獣は軽やかな足取りで奥山へと消えた。
しかし最大の足止め要因は悪路でもなく、立ちはだかる魔獣でもなく、旅人との遭遇だ。四方八方を深緑に囲まれた山中で、ゼータは3度旅人と出くわした。それも皆が皆、小国ブラキストの地よりゴルダを目指す旅人であったのだ。彼らは皆地図を持っていなかった。迷わずに進んでも丸2日が掛かるという山道を、有ろうことか自らの勘を頼りに歩んでいたのである。「小国ブラキストで、山道を超えるための地図を買うことはできない」と旅人の一人は言った。安全を第一に考えるのならば、中央国セントラルを経由することが最善ということは理解している。しかしセントラルを経由すれば、歩む距離は数倍に膨れ上がる。道中で集落に立ち寄れば何かと金もかかるだろう。少ない金と時間でゴルダを目指すのならば、危険を承知で山越えをするに限る。旅人は口を揃えてそう言うのだ。
旅人との3度の遭遇のうち、2度は立ち話をして別れるだけで済んだ。いずれの旅人も数日分の食料を所持していたし、「食べ物がなくなればその辺で獣を獲って食べるから」と朗らかに笑うのだ。時折木に登り行く先を確認している姿も見え、時間は掛かってもいずれ山を越えられることは明らかだった。しかし山頂に近い場所で出会った残る1組の旅人達、彼らとの出会いがゼータにとって最大の足止めとなった。
ゼータが出会ったのは兄妹の旅人であった。歳は兄が10と少し、妹はまだ7つを迎えたばかりだという。満足な荷も持っておらず、ただ着の身着のままで山に登って来たという様子であった。なぜ子ども2人でこんな場所に、と聞けば、湖畔の国リーニャに母がいるのだと言う。小国ブラキストは13国の中では比較的整った国家ではあるが、外部と断絶された土地であるだけに不自由も多い。国王による統治が戻った今食うに困ることはないが、それでも苦難のない生活には程遠いのだ。だから兄妹の母は、単身湖畔の国リーニャへと出稼ぎに行った。旧バルトリア王国一の繁栄国であるとされるリーニャで半年も働けば、ブラキストの地で数年は金に困ることはない。実はそうした理由で山を越える者は少なくないのだと、兄妹は話した。遠いリーニャの地に想いを馳せ、命を賭して山を超える。山道を進むうちに魔獣に襲われ、命果てることもあるだろう。例えリーニャの地に辿り着いたとしても、思うように職を得られぬこともあるだろう。それでもブラキストの人々は豊かな生活を求めて、リーニャの地を目指すのだ。
「必死で働く母に面倒を掛けるつもりはない。少し話をしたら、また兄妹2人でブラキストに帰るつもりであったのだ。危険は承知。しかし一目で良いから母の顔を見たかった」泥だらけの子ども2人に涙ながらに訴えられれば、無慈悲に「引き返せ」と言うことなどできやしない。結局ゼータは疲れ果てた兄妹に付き添い、丸一日来た道を引き返すこととなったのだ。ゴルダの街並みが見える場所まで辿り着いたときに、ゼータは兄妹に言いつけた。
―帰り道は、ジンダイという男の飲み屋で地図を買うように。地図の代金は銀貨4枚。事情を説明してゼータに付けてもらって良い
母との再会を目前に浮かれ立つ兄妹が、ゼータの忠告を飲み込んだのか否かは定かではない。先刻までの疲れた様子はどこへやら、兄妹は手と手を取り合って山道を駆け下りて行った。そうして兄妹の背を見送ったゼータは、2度目となる山越えを開始することとなったのである。兄妹との出会いは、往復で丸2日の無駄足。しかし武器を持たぬ兄弟が山道で凶暴な魔獣に出くわせば、生き延びる可能性は限りなく低い。ゼータの2日が兄妹の一生に変わったのだと思えば、悪くはなかった。
そしてゼータは2度目となる山越えを経て、疲労困憊でブラキストの地へと辿り着いたのだ。
「…辿り着いたはずなんですけれどねぇ」
ゼータは一人、呟く。今ゼータの目の前には絶景が広がっている。夕暮れを目前にした薄青の空、果てしなく広がるなだらかな丘陵、丘陵の向こうに聳える絶壁の高山。ジンダイの地図の通りなら、今ゼータの立つ場所はもう小国ブラキストの国境内であるはずだ。しかし目の前に広がる物は悠然と佇む自然ばかりで、街どころか一つの家屋さえも見当たらない。
新王の即位式の折に訪れた小国ブラキストの中心地、さほど広くはない街であったが、その場所には確かに無数の建物が立ち並んでいた。賑やかな通りがあり、物売りをする人々がおり、街の周囲には実りを目前にした田畑が広がっていた。一体あの街はどこに行ってしまったのだとジンダイの地図を開くゼータであるが、悔しくも地図から得ることのできるブラキストの情報は何一つない。恐らくジンダイは自らの脚でブラキストの地を訪れたことはないのだ。彼の作る地図にはリーニャ周辺の集落、山河、魔獣の出没状況こそ詳細に書かれているが、その他大部分は空白だ。特に旧バルトリア王国国土の東部と南部については空白部分が多く、ブラキストに至ってはざっくりと書かれた国境の内部に国名が書き入れられているだけなのである。山越えに関しては、ジンダイの地図は良い助けとなった。しかしこれから先の道は、自らの脚と勘が頼りということである。
ゼータは溜息を一つ零し、ジンダイの地図をかばんの隅に仕舞い入れた。1時間もすれば日が暮れる。4夜に及ぶ野宿で身体はへとへと、今夜こそは温かい布団で眠れると思っていたのだ。買い溜めてきた食料にはまだ余裕はあるが、温かな食事を期待していただけに落胆も大きい。とりあえず高山の麓を目指すが吉と、ゼータはグラニの背に上る。
グラニの背に跨り、丘陵の間を15分ほど駆けたときだ。視界の端に家屋の屋根らしき物が映る。咄嗟にグラニを止め、丘陵の向こうをまじまじと眺めれば、やはりそこにはいくつかの家屋の屋根が並んでいた。夕暮れに馴染む橙色の灯りは、おそらく家屋の窓灯りであろう。集落がある。集落があり、人が住んでいる。これ幸いと、ゼータはグラニに跨ったまま集落を目指す。道に迷ったのなら、地元の者に助けを求めるのが一番だ。
間もなくして辿り着いた場所は、小さな家屋が10集まっただけの小さな集落だ。家屋はいずれも平屋建てで、丸太造りの壁に藁葺き屋根を載せている。窓枠にガラスは入っておらず、家の内側から簾を下ろす仕組みになっているようだ。家屋の立つ場所は野原と森林の端境部であるが、集落内部の木々は適度に間引かれ見通しが良い。家屋と家屋を繋ぐ土の道は均されているし、家屋周りの雑草も良く手入れされていた。
ゼータはグラニの背を降り、集落内部へと立ち入った。時刻は日暮れ時、夕飯の支度をする家が多いのか、涼風に乗って飯の炊ける匂いが漂ってくる。簾の隙間から橙灯りが漏れ出しているから、家屋の中に人がいることは確かだ。しかし飯時に人様の家に上がり込むというのも、中々勇気のいることだ。飯乞いかと思われるのも癪である。
途方に暮れ集落内部をうろうろと歩き回るゼータの目に、天の助けとも言うべき人の姿が飛び込んできた。集落の隅にある古びた井戸、その井戸から水を汲み上げる女性がいる。ゼータは泥で汚れた衣服の襟を直し、女性へと近づいて行く。
「すみません。道をお聞きしたいんですけれど」
ゼータの問いにふいと顔を上げたのは、外見が四十路ほどと思われる小柄な女性だ。腰まである薄茶色の髪を、肩のあたりで一つに結わっている。女性は汲み上げたばかりの井戸水をブリキのバケツへと注ぎ入れ、再度ゼータに向き直る。
「どこに行きたいの?」
「ブラキストの中心部に行きたいんです。ここからは遠いですか?」
「遠くはないけれど…でも日が暮れてからの移動はお勧めしないわよ。この辺りの丘陵は、飛行獣の絶好の狩場なの。空から見たときに、遮蔽物が何もないでしょう。足の速い騎獣に乗っていたって、上空から狙われたらひとたまりもないわよ」
そう言って、女性は暮れなずむ空を見上げた。ゼータもつられて空を仰ぐ。濃紺色に染まりゆく空には、確かに一羽二羽と飛行獣の姿が見え始めていた。旧バルトリア王国国土には、いまだに凶暴な魔獣が出没する。飛行獣も然りだ。ブラキストの中心部を目指し丘陵を駆けるうちに、空飛ぶグリフォンに掴み上げられたのでは洒落にもならない。
「…つかぬ事をお伺いしますが、この集落に宿屋はありますか?」
「宿屋は、無いわねぇ」
「近くに宿屋のありそうな集落は?」
「そもそも近くに他の集落が無いわねぇ」
「そうですか…」
ゼータはへなへなと地面に座り込んだ。丸5日間に及ぶ山越え、4夜に渡る野宿。ドラキス王国を出発した時からある程度の野宿は覚悟していたが、覚悟云々に関わらず疲労は溜まる。かばんに詰めた携帯食を頻繁に口に運ぶようにはしていたが、運動量に比較すれば満足な食事には程遠い。湧き水で手足は洗えても、山の中に都合よく温泉が湧いているはずもない。髪も服も泥だらけだ。折角人のいる集落に辿り付いたというのに、まさかの野宿。項垂れるゼータの横で、グラニが悲しげな鳴き声を零す。
「ええっと…貴方、ブラキストの人じゃないのね。もしかして山を越えてきたの?」
薄茶髪の女性の声が、ゼータの頭上に降り注ぐ。地面にしゃがみ込んだまま顔だけを上げれば、女性は大層申し訳ないというような表情でゼータを見下ろしていた。
「はい…ゴルダから山を越えてきました」
「それは大変だったわねぇ。お住まいはゴルダ?それともリーニャ?」
「ドラキス王国です。1週間前にポトスの街を出発して、リーニャとゴルダを経由してここまで来ました」
「あら、そうなの。へぇ…ドラキス王国から」
女性は驚嘆の声を上げた。見開かれた瞳は泥まみれのゼータの姿をじっと見て、それから手綱の先にいるグラニを見やる。5日間の山越えで銀の毛並みは薄汚れているが、それでも持ち前の高貴さは失っていない。主の横に凛と立つグラニは、ドラキス王国の名を背負うに相応しい姿だ。騎獣がこうであるのに、主が座り込んでいては情けない。ゼータは萎える足を立てる。
「申し遅れました。私、ドラキス王国直属の研究員でゼータといいます。ポトスの街にある魔法研究所という施設で、ドラゴンの研究をしているんです」
「あらあら、ご丁寧にどうも。ドラゴンの研究員様が、どうして遥々ブラキストの地に?」
「2か月ほど前に、ブラキストの上空を2頭のドラゴンが横切ったでしょう。緋色のドラゴンと、苔色のドラゴンです。随分と激しく争っていたようですから、喧嘩の原因と結末を突き止めたいと思って」
「そういえば、そんな事があったわねぇ。あの夜は息子を寝かしつけるのに苦労したわ。ドラゴンの喧嘩なんて初めて見たと言って、興奮して大変だったのよ」
事もなげに伝えられる女性の証言に、ゼータは思わず目を剥いた。
「息子さん、ドラゴンを目撃しているんですか」
「ええ。私も話半分で聞いていたから詳しくは覚えていないけれど、何だか色々と言っていたわよ」
「あの、ぜひとも息子さんに詳しく話を…」
まさかブラキストの地で、こんなにも早くドラゴンの目撃者に相見えるとは。ゼータは半ば興奮状態で女性との距離を詰める。しかしその時、遥か上空で飛行獣が一鳴き。人の悲鳴に似た耳障りの悪い鳴き声だ。真っ赤な太陽は山の向こうへと姿を隠し、辺りはどんどん暗くなる。井戸に水を汲みに来たという事は、女性はこの後何かしらの手仕事を抱えているのだ。息子がいると言ったのだから、食事の支度に取り掛かる予定なのかもしれない。食事時の来訪者ほど迷惑な者はいないだろう。ゼータは肩を竦め、すごすごと女性の元から遠ざかる。
「…すみません。明日また出直します。近くの森で適当に夜を明かしますので…」
予定外の野宿は辛いが、情報提供者を見つけられたのなら良し。まだ日のあるうちに寝心地の良さそうな草地を探そうと、ゼータは古井戸に背を向け歩き出す。手綱を引かれたグラニもそれに続く。泥土に塗れたゼータとグラニの背を見て、女性の眉尻がきゅうと下がった。
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