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安らかに眠れ、恐ろしくも美しい緋色の龍よ
異国への旅路
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早朝、まだ日も昇り切らぬ頃だ。ポトス城東部、白の街の大通りを一人の男が歩いていた。使い込まれた革の上着に、歩きやすい革の靴。ズボンの腰ベルトには護身用の短刀を下げ、右手には小さな旅行鞄。4か月の旅路に赴くにしてはいささか軽装と思われるが、男の歩みに迷いはない。欠けた石畳を軽快と踏みしめる様からは、清々しささえも伺える。
人気のない白の街を歩み抜ければ、ポトス城の東端に位置する東門へと辿り着く。人の背丈を少し超えるだけの小さな門だ。開閉に衛兵の手が必要な正門とは違い、力のない侍女や官吏の手でも容易く開くことができる。薄い扉を潜り抜ければ、そこは高い塀に囲われたポトス城の外側だ。
東門を抜けた先は一面の山林だ。右を見ても左を見ても真正面を見ても、2階建ての建物を優に超える大木が生い茂っている。一日を通し頻繁に人の出入りがある正門とは異なり、東門の使用者は白の街に住まう一部の官吏と兵士だけ。使用者の少ない東門付近は手入れが行き届いているとは言い難く、樹木の伐採も最低限だ。しかし鬱蒼と茂る山林を見回せば、ある一部分だけ草木の生えぬ場所がある。東門を出て向かって右方向、ポトス城の外壁に沿うようにして、人一人通れるだけの小路が設けられているのだ。一見すれば獣道とも思われる小路であるが、道を進むにつれて視界はひらけてくる。左右の樹木は適度に間引きされ、疎らに生えた草花の間をそよ風が吹き抜ける。菫の花弁にのる朝露が、朝陽を浴びて宝石のように輝いている。今は一年の中で、最も夜間が冷え込む時期だ。当然気温の上がり切らぬ早朝も冷える。吐き出す息は微かに白く、外気に晒される指先は冷える。手袋を持ってくればよかった、と今更ながら後悔する。
小路を抜けた先には広場があった。だだ広い土の広場だ。広場の端には古びた木製の小屋が立てられており、小屋の周りには廃棄物と思われる木刀や甲冑が積み上げられている。ここはポトス城に在籍する王宮軍の訓練場。白の街に住まう王宮軍の兵士は、毎日東門を抜け、草木茂る小路を通り、この訓練場へとやってくる。そして来るべき有事に備え、日々体術や剣術の訓練に励むのだ。
思い出深い訓練場を通り過ぎれば、景色はまた緑一色へと戻る。背の高い樹木に生い茂る草花。新緑の景色に飽いてふと頭上を見渡せば、重なり合う樹葉の間には豪華絢爛の建物が臨む。背の高い外壁の向こう側にあるは、つい30分ほど前まで己の棲家であった王宮だ。しかし今となっては、それはただの巨大な箱。中に住まう人の顔も声も、遥か遠い日の記憶のように朧になりつつある。
短い小路を抜ければ、また拓けた広場があった。木製柵に囲われた芝生の広場だ。広場の片隅には、同様の外見をした3つの建物。水場や鉄柵を備えた長方形の建物が、茂る樹木に埋もれるようにして佇んでいる。それは厩舎だ。王宮で働く官吏が移動の足として使う馬、王宮軍の出兵の際に使用される騎乗用の魔獣、合わせて数十に及ぶ騎獣が飼育されている。木製柵に囲われた芝生の広場は、馬と魔獣の放牧地だ。日が昇り暖かくなれば、その場所には十数頭の馬が放たれる。柔らかな芝生の上を思いのままに走り回り、草を食むのだ。ただし人に懐かない質の魔獣は、一日の大半を狭い厩舎の中で過ごす。彼らを散歩に連れ出すのは、厩舎番をする官吏の仕事なのだ。
木製柵を横目に見ながら広場を進み、やがて厩舎の出入り口へと辿り着く。朝陽も昇り切らぬ今、厩舎周りに人の姿はない。王宮の者も白の街の侍女官吏も皆、温かな布団の中で心地良い眠りに就いている時間である。木製の扉に手のひらを当て、厩舎の中へと立ち入ろうとしたその時だ。
「ゼータ、おはよう」
誰もいないと思い込んでいた厩舎周りで、思いがけず人の声を聞いた。ゼータは木製の扉から手のひらを離し、首を捻って声の主を探す。厩舎の陰、広場を吹き抜ける微風を凌ぐようにして、金の髪の男が座り込んでいた。膝を抱え、裾の長い上着に全身をくるみ込む様は酷く寒そうだ。
「…クリス。何をしているんですか?こんな場所で」
「お見送り。ここにいれば間違いなく会えると思って」
そう言うと、クリスはぶるりと全身を震わせた。彼が座り込む場所は朝陽の当たる場所ではあるが、昇り切らぬ朝陽は冷え切った大地を暖めるに十分ではない。赤くなった指先を懸命に擦り合わせる様子は、クリスがもう随分と前からその場所に座り込んでいることを物語っていた。
「いつからここに居るんですか?」
「…いつだろう。そんなに待っていないよ。30分くらいじゃない」
30分前と言えば、まだ辺りは夜闇に包まれていた頃だ。今でさえ吐息の凍る寒さのなのだから、日の昇らぬ頃はそれこそ身を切るような寒さであったはず。わざわざ屋外で待たずとも、見送りをするのならば王宮の玄関口で十分だ。現にザトとメリオン、カミラは、ゼータの出発に合わせて玄関口に集まっていた。他の十二種族長や侍女には出発時刻を伝えていないから、4か月に及ぶ旅路の見送りはそれだけだ。でも、それで充分であった。盛大に見送られれば別れが惜しくなる。足取りに迷いが生まれれば、決断力は鈍る。緋色のドラゴンは旧バルトリア王国を超えて姿をくらましたのだから、行く先は間違いなく悪路だ。いらぬ迷いは死を呼び寄せるやもしれぬ。
「見送りはいらないって言ったのに」
「そうなんだけどさ。渡したい物があったんだよ」
「渡したい物?」
「そう、旅の餞別」
餞別と聞いて思い出すのは、かつてバルトリア王国訪問だ。サキュバスの女王、フィビアスの即位式に参列するために、レイバックと2人黒の城を目指したときのこと。陰鬱の旅路を明朝に控えた夜分、ゼータはクリスに呼び出されたのだ。今と同じように「渡したい物がある」と言って。そしてクリスから貰い受けたエメラルドの指輪は、フィビアスとの戦いの中で遺憾ない効力を発揮した。レイバックとゼータが無事黒の城を脱出することができたのは、クリスのくれた指輪のお陰と言っても過言ではない。
昨日メリオンの元を訪れた後、ゼータは各十二種族長の執務室を巡って歩いた。明朝の旅立ちを伝えるためだ。すると皆が何かしらの餞別を差し出した。それは身を守るための剣であったり、帰国を願うお守りであったり、日持ちのする菓子であったりと様々だ。しかしゼータは全ての餞別を断った。身軽な旅路を望んだからだ。身体だけではなく、心も軽くありたかった。誰の期待も背負いたくはなかった。だがクリスの餞別ならば受け取っても良い。かつて命を救ってくれた友の差し出す物ならば、一握りの錘として異国への旅路へ持ってゆこう。
「くれると言うのなら、有難く頂戴します」
「良かった。じゃあ目を閉じて」
言われるがままにゼータは目を閉じる。目の前で、クリスの立ち上がる気配がする。芝生を踏み締める音。ゼータは両手を差し出して、その手に餞別がのせられるのを待った。しかしいつまで待っても手のひらに触れる物はなく、代わりに温もりが全身を包み込んだ。すぐに抱き締められているのだと気付く。およそ2か月振りに感じる人の体温だ。慈愛に満ちた抱擁は、例え愛する者のそれではなくとも身震いするほどに心地よい。
「…これが餞別?」
「そう。幸運のお裾分け。僕、運に関しては相当自信があるからね。ドラキス王国の王様に真正面から喧嘩を売って、五体満足で生き延びている人なんて多くはいないでしょう。ゼータとレイさんが無事王宮に帰って来られるように、僕の強運をお裾分けしてあげる」
確かに強運の持ち主ということで言えば、クリスの右に出る者はそう多くはいないだろう。神獣の王と名高いレイバックの元から妃の簒奪を目論み、殺意の籠る攻撃を受けながらも生き延びた。罪を許され国家直属の機関である魔法研究所に迎え入れられただけにあらず、王妃であるゼータの推薦を受けて十二種族長の一員となった。一つ間違えれば、魔導大学の地下研究室で朽ち果てていたやもしれぬ。見る者の羨む男前の顔立ちに加え、クリスは恐ろしいほどの強運の持ち主であるのだ。
幸運を送る、などと言われて断る者などいやしない。クリスの腕の中で、ゼータは声を立てて笑う。
「最高の餞別です。何だか、全てが上手くいくような気がしてきました」
そうでしょう。ゼータを抱き込んだクリスも、別れ際とは思えぬ和やかな笑い声を立てる。
束の間の抱擁を経て、ゼータは予定通り旅立ちの時を迎える。旅の共はグラニと呼ばれる銀毛並の魔獣だ。馬によく似た姿の魔獣で、駿足ではないが持久力に優れている。忠誠心に厚く、例え強靭な魔獣に出くわしたとしても主を捨てて逃げるようなことはしない。狩りのために手綱を離したとしても、腹が満たされれば自らの判断で主の元へと戻って来るから、長旅の共としては最適なのだ。幸いにも魔獣好きのゼータは、日常的に厩舎へと足を運んでいる。餌やりも毛繕いも糞掃除も慣れたもので、魔獣との主従関係の構築はばっちりだ。中でも美しい銀毛並のグラニはゼータのお気に入りであった。魔獣への騎乗に慣れるための導入として、木製柵の内側で頻繁に背に跨っていたのである。
王宮の官吏の中には、魔獣への騎乗に慣れぬ者も多い。馬に似た外見でありながら、魔獣の持久力を備えるグラニは重宝される。同様の理由からポトスの街中での取引値も高額で、グラニが捕らえられたとの噂が流れればそれだけで騎獣市場が賑やかとなるのだ。それゆえに、ゼータはグラニを連れ出すことを躊躇った。行き先のわからない旅路である以上、連れ出した騎獣を返還できるという保証はない。強大な魔獣に相対し噛み殺されるやもしれぬし、海を越える旅路となれば騎獣を連れて進むことはできない。「返還の保証ができないのだから、最も使用頻度の低い騎獣で構わない」そう告げるゼータに対し、魔獣管理部の官吏は一同に首を横に振った。「王の足跡を辿る王妃の旅路。危険な旅にはせめて最良の共を」そうして銀毛並のグラニが、ゼータの共となったのである。
小さな旅行鞄を背負い、ゼータはグラニの背に跨る。鞍の取り付けも、蹄の手入れも、魔獣管理部の官吏が昨晩のうちに済ませてくれた。見送りはいらないと言ったから、早朝の厩舎に人の姿はない。だが毛並みの一本までを整えられたグラニの姿が、皆がゼータの旅立ちを後押ししていると伝えていた。
「じゃあ、行ってきます」
「行ってらっしゃい」
別れの挨拶はそれだけだ。ゼータは右脚の踵で、グラニの腹を軽く叩く。出発の合図を受けたグラニはとことこと数歩歩み、それから徐々に速度を上げる。
草原を抜けるその時に、ゼータは背後を振り返った。先ほどよりも高くなった朝陽の元に、クリスが立っている。絹糸のように滑らかな金の髪が、陽光を浴びてきらきらと輝いている。遠ざかるクリスの顔は、泣いているようにも見えた。
人気のない白の街を歩み抜ければ、ポトス城の東端に位置する東門へと辿り着く。人の背丈を少し超えるだけの小さな門だ。開閉に衛兵の手が必要な正門とは違い、力のない侍女や官吏の手でも容易く開くことができる。薄い扉を潜り抜ければ、そこは高い塀に囲われたポトス城の外側だ。
東門を抜けた先は一面の山林だ。右を見ても左を見ても真正面を見ても、2階建ての建物を優に超える大木が生い茂っている。一日を通し頻繁に人の出入りがある正門とは異なり、東門の使用者は白の街に住まう一部の官吏と兵士だけ。使用者の少ない東門付近は手入れが行き届いているとは言い難く、樹木の伐採も最低限だ。しかし鬱蒼と茂る山林を見回せば、ある一部分だけ草木の生えぬ場所がある。東門を出て向かって右方向、ポトス城の外壁に沿うようにして、人一人通れるだけの小路が設けられているのだ。一見すれば獣道とも思われる小路であるが、道を進むにつれて視界はひらけてくる。左右の樹木は適度に間引きされ、疎らに生えた草花の間をそよ風が吹き抜ける。菫の花弁にのる朝露が、朝陽を浴びて宝石のように輝いている。今は一年の中で、最も夜間が冷え込む時期だ。当然気温の上がり切らぬ早朝も冷える。吐き出す息は微かに白く、外気に晒される指先は冷える。手袋を持ってくればよかった、と今更ながら後悔する。
小路を抜けた先には広場があった。だだ広い土の広場だ。広場の端には古びた木製の小屋が立てられており、小屋の周りには廃棄物と思われる木刀や甲冑が積み上げられている。ここはポトス城に在籍する王宮軍の訓練場。白の街に住まう王宮軍の兵士は、毎日東門を抜け、草木茂る小路を通り、この訓練場へとやってくる。そして来るべき有事に備え、日々体術や剣術の訓練に励むのだ。
思い出深い訓練場を通り過ぎれば、景色はまた緑一色へと戻る。背の高い樹木に生い茂る草花。新緑の景色に飽いてふと頭上を見渡せば、重なり合う樹葉の間には豪華絢爛の建物が臨む。背の高い外壁の向こう側にあるは、つい30分ほど前まで己の棲家であった王宮だ。しかし今となっては、それはただの巨大な箱。中に住まう人の顔も声も、遥か遠い日の記憶のように朧になりつつある。
短い小路を抜ければ、また拓けた広場があった。木製柵に囲われた芝生の広場だ。広場の片隅には、同様の外見をした3つの建物。水場や鉄柵を備えた長方形の建物が、茂る樹木に埋もれるようにして佇んでいる。それは厩舎だ。王宮で働く官吏が移動の足として使う馬、王宮軍の出兵の際に使用される騎乗用の魔獣、合わせて数十に及ぶ騎獣が飼育されている。木製柵に囲われた芝生の広場は、馬と魔獣の放牧地だ。日が昇り暖かくなれば、その場所には十数頭の馬が放たれる。柔らかな芝生の上を思いのままに走り回り、草を食むのだ。ただし人に懐かない質の魔獣は、一日の大半を狭い厩舎の中で過ごす。彼らを散歩に連れ出すのは、厩舎番をする官吏の仕事なのだ。
木製柵を横目に見ながら広場を進み、やがて厩舎の出入り口へと辿り着く。朝陽も昇り切らぬ今、厩舎周りに人の姿はない。王宮の者も白の街の侍女官吏も皆、温かな布団の中で心地良い眠りに就いている時間である。木製の扉に手のひらを当て、厩舎の中へと立ち入ろうとしたその時だ。
「ゼータ、おはよう」
誰もいないと思い込んでいた厩舎周りで、思いがけず人の声を聞いた。ゼータは木製の扉から手のひらを離し、首を捻って声の主を探す。厩舎の陰、広場を吹き抜ける微風を凌ぐようにして、金の髪の男が座り込んでいた。膝を抱え、裾の長い上着に全身をくるみ込む様は酷く寒そうだ。
「…クリス。何をしているんですか?こんな場所で」
「お見送り。ここにいれば間違いなく会えると思って」
そう言うと、クリスはぶるりと全身を震わせた。彼が座り込む場所は朝陽の当たる場所ではあるが、昇り切らぬ朝陽は冷え切った大地を暖めるに十分ではない。赤くなった指先を懸命に擦り合わせる様子は、クリスがもう随分と前からその場所に座り込んでいることを物語っていた。
「いつからここに居るんですか?」
「…いつだろう。そんなに待っていないよ。30分くらいじゃない」
30分前と言えば、まだ辺りは夜闇に包まれていた頃だ。今でさえ吐息の凍る寒さのなのだから、日の昇らぬ頃はそれこそ身を切るような寒さであったはず。わざわざ屋外で待たずとも、見送りをするのならば王宮の玄関口で十分だ。現にザトとメリオン、カミラは、ゼータの出発に合わせて玄関口に集まっていた。他の十二種族長や侍女には出発時刻を伝えていないから、4か月に及ぶ旅路の見送りはそれだけだ。でも、それで充分であった。盛大に見送られれば別れが惜しくなる。足取りに迷いが生まれれば、決断力は鈍る。緋色のドラゴンは旧バルトリア王国を超えて姿をくらましたのだから、行く先は間違いなく悪路だ。いらぬ迷いは死を呼び寄せるやもしれぬ。
「見送りはいらないって言ったのに」
「そうなんだけどさ。渡したい物があったんだよ」
「渡したい物?」
「そう、旅の餞別」
餞別と聞いて思い出すのは、かつてバルトリア王国訪問だ。サキュバスの女王、フィビアスの即位式に参列するために、レイバックと2人黒の城を目指したときのこと。陰鬱の旅路を明朝に控えた夜分、ゼータはクリスに呼び出されたのだ。今と同じように「渡したい物がある」と言って。そしてクリスから貰い受けたエメラルドの指輪は、フィビアスとの戦いの中で遺憾ない効力を発揮した。レイバックとゼータが無事黒の城を脱出することができたのは、クリスのくれた指輪のお陰と言っても過言ではない。
昨日メリオンの元を訪れた後、ゼータは各十二種族長の執務室を巡って歩いた。明朝の旅立ちを伝えるためだ。すると皆が何かしらの餞別を差し出した。それは身を守るための剣であったり、帰国を願うお守りであったり、日持ちのする菓子であったりと様々だ。しかしゼータは全ての餞別を断った。身軽な旅路を望んだからだ。身体だけではなく、心も軽くありたかった。誰の期待も背負いたくはなかった。だがクリスの餞別ならば受け取っても良い。かつて命を救ってくれた友の差し出す物ならば、一握りの錘として異国への旅路へ持ってゆこう。
「くれると言うのなら、有難く頂戴します」
「良かった。じゃあ目を閉じて」
言われるがままにゼータは目を閉じる。目の前で、クリスの立ち上がる気配がする。芝生を踏み締める音。ゼータは両手を差し出して、その手に餞別がのせられるのを待った。しかしいつまで待っても手のひらに触れる物はなく、代わりに温もりが全身を包み込んだ。すぐに抱き締められているのだと気付く。およそ2か月振りに感じる人の体温だ。慈愛に満ちた抱擁は、例え愛する者のそれではなくとも身震いするほどに心地よい。
「…これが餞別?」
「そう。幸運のお裾分け。僕、運に関しては相当自信があるからね。ドラキス王国の王様に真正面から喧嘩を売って、五体満足で生き延びている人なんて多くはいないでしょう。ゼータとレイさんが無事王宮に帰って来られるように、僕の強運をお裾分けしてあげる」
確かに強運の持ち主ということで言えば、クリスの右に出る者はそう多くはいないだろう。神獣の王と名高いレイバックの元から妃の簒奪を目論み、殺意の籠る攻撃を受けながらも生き延びた。罪を許され国家直属の機関である魔法研究所に迎え入れられただけにあらず、王妃であるゼータの推薦を受けて十二種族長の一員となった。一つ間違えれば、魔導大学の地下研究室で朽ち果てていたやもしれぬ。見る者の羨む男前の顔立ちに加え、クリスは恐ろしいほどの強運の持ち主であるのだ。
幸運を送る、などと言われて断る者などいやしない。クリスの腕の中で、ゼータは声を立てて笑う。
「最高の餞別です。何だか、全てが上手くいくような気がしてきました」
そうでしょう。ゼータを抱き込んだクリスも、別れ際とは思えぬ和やかな笑い声を立てる。
束の間の抱擁を経て、ゼータは予定通り旅立ちの時を迎える。旅の共はグラニと呼ばれる銀毛並の魔獣だ。馬によく似た姿の魔獣で、駿足ではないが持久力に優れている。忠誠心に厚く、例え強靭な魔獣に出くわしたとしても主を捨てて逃げるようなことはしない。狩りのために手綱を離したとしても、腹が満たされれば自らの判断で主の元へと戻って来るから、長旅の共としては最適なのだ。幸いにも魔獣好きのゼータは、日常的に厩舎へと足を運んでいる。餌やりも毛繕いも糞掃除も慣れたもので、魔獣との主従関係の構築はばっちりだ。中でも美しい銀毛並のグラニはゼータのお気に入りであった。魔獣への騎乗に慣れるための導入として、木製柵の内側で頻繁に背に跨っていたのである。
王宮の官吏の中には、魔獣への騎乗に慣れぬ者も多い。馬に似た外見でありながら、魔獣の持久力を備えるグラニは重宝される。同様の理由からポトスの街中での取引値も高額で、グラニが捕らえられたとの噂が流れればそれだけで騎獣市場が賑やかとなるのだ。それゆえに、ゼータはグラニを連れ出すことを躊躇った。行き先のわからない旅路である以上、連れ出した騎獣を返還できるという保証はない。強大な魔獣に相対し噛み殺されるやもしれぬし、海を越える旅路となれば騎獣を連れて進むことはできない。「返還の保証ができないのだから、最も使用頻度の低い騎獣で構わない」そう告げるゼータに対し、魔獣管理部の官吏は一同に首を横に振った。「王の足跡を辿る王妃の旅路。危険な旅にはせめて最良の共を」そうして銀毛並のグラニが、ゼータの共となったのである。
小さな旅行鞄を背負い、ゼータはグラニの背に跨る。鞍の取り付けも、蹄の手入れも、魔獣管理部の官吏が昨晩のうちに済ませてくれた。見送りはいらないと言ったから、早朝の厩舎に人の姿はない。だが毛並みの一本までを整えられたグラニの姿が、皆がゼータの旅立ちを後押ししていると伝えていた。
「じゃあ、行ってきます」
「行ってらっしゃい」
別れの挨拶はそれだけだ。ゼータは右脚の踵で、グラニの腹を軽く叩く。出発の合図を受けたグラニはとことこと数歩歩み、それから徐々に速度を上げる。
草原を抜けるその時に、ゼータは背後を振り返った。先ほどよりも高くなった朝陽の元に、クリスが立っている。絹糸のように滑らかな金の髪が、陽光を浴びてきらきらと輝いている。遠ざかるクリスの顔は、泣いているようにも見えた。
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