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荒城の夜半に龍が啼く
白百合の扉
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扉へと続く鮮血の跡を眺めながら、ゼータは自らの手足を縛る麻紐を切った。指先一つの魔法で切れるはずの麻紐が、視界を奪われる事でここまでを難儀させられるとは。くっきりと鬱血跡の付いた手首を、ゼータは労わるように撫でる。
人気のない部屋の中は、甚だしい破壊を尽くされていた。石造りの壁はその一部に巨大な穴が空き、冷たい夜風が流れ込んでいる。穴に近しい部分の天井も同様に壊れ、石くれが次から次へと床に落ちる。部屋の隅に積んであった紙箱は崩れ、中に入っていた用途のわからぬがらくたが至る所に散らばっていた。石くれとがらくたの他に、床には点々と血の跡がある。黒ずんで乾いた血跡はゼータのものだ。魔法攻撃により負った傷から流れ落ちたものと、ユダの容赦ない殴打により口内から溢れ出たもの。
そして未だ乾く事のない鮮血の跡はユダの血跡だ。鮮やかな色を残しながらも、ユダの姿はこの部屋にない。視界を取り戻したゼータはユダに向けて容赦のない魔法を放ち、重傷を負ったユダは逃げるようにこの部屋を後にした。
「レイを迎えに行かないと」
ゼータの呟きは、壁穴から吹き込む荒風に搔き消された。レイバックがフィビアスの元に向かってからもう2時間以上の時が経っている。既にまぐわいは終わってしまっているだろう。それ即ちレイバックがフィビアスの忠実なる僕となる事を意味する。数多の男から精を奪い、力を蓄えたフィビアスに加え、ドラキス王国の最高戦力であるレイバック。戦闘経験の薄いゼータが到底勝てる相手ではない。さらに悪いことに、ゼータはすでに満身創痍なのだ。顔は腫れて見るに堪えない有様だし、魔法による傷跡は身体を動かすたびにずきずきと痛む。最もひどいのは右脇腹の焼き跡だ。手のひら程の大きさの焼き跡は黒く爛れ、未だ乾くことなく体液が滲み出ている。
無茶を働けば命に障るかも知れない。自嘲的な笑みを浮かべながらも、ゼータは萎える脚を立てる。それでも彼の元に向かわないという選択肢はない。
開け放たれた扉から外を覗き見れば、薄明かりの灯る廊下に人影はなかった。無機質な石床にユダの血跡が点々と続いている。血跡を追ってユダに留めを刺すことも可能だが、今は一刻の時も惜しい。ゼータは下り階段へと続く血跡に背を向ける。目指すべきは7階にある王座だ。
ゼータの幽閉されていた部屋は5階にある。棟の西側にある階段から6階へと上がり、長い廊下を歩き、東側の階段から最上階である7階へと上がる。ゼータを討ち取るための兵士や七指が布陣されていると予想したが、予想に違い廊下に人気はなかった。ユダが弱り、他者に命令を下すことが難しくなっているのだろうか。
わずか5分ほどの時を経て、ゼータは7階にある白百合の扉に辿り着いた。塗り直しをされてはいるが、その扉はゼータの記憶にある物と相違無い。今はもう顔すら忘れてしまった母に付き、何度も手を掛けた扉だ。この扉の向こうには同じく顔すら忘れてしまった父が、2人の来訪を今か今かと待っている。
重たい扉を開け、ゼータは王座の間に身体を滑り込ませた。白百合の扉をくぐり、最初の部屋は王の執務室だ。紅色を基調とした広々とした部屋の中には、最奥に執務机、その面前に5人が座ってもまだ余裕がある程の巨大なソファが2脚並べられている。その他にも壁際の飾り棚には細々とした雑貨が並べられ、人が入れそうなほどの花瓶、古びた石像の胸部、時を刻まぬ置時計など、不用品としか思えぬ調度品が部屋の至る所に置かれていた。ブルタスは無駄な物を部屋に置かない質であったが、フィビアスは物を増やすのが好きな部類の人のようだ。
灯りの落とされた執務室を通り抜け、ゼータは執務机の奥に設けられた木製の扉を押し開ける。そこは王の居室だ。食事を取るための大理石のテーブルに、揃いの白木の椅子。長い事火の灯された形跡のない暖炉、分厚い書物の詰まった書籍棚。窓辺に置かれた白い毛皮の絨毯の上には、書籍棚から抜かれた数冊の本が山になって積まれていた。ゼータはその場所で、毎夜父母に囲まれ絵本を読んだ。褪せた記憶を呼び起こしながらも、ゼータは居室の奥にある扉を開ける。
異様な熱気の籠る部屋であった。建物の最上階に位置するため、その部屋には日中温気が籠りやすい。ブルタスがこの部屋を寝室として使用していた当時は、部屋の壁には風を通すための大きな窓が付いていたはずだ。しかし今部屋にはただの一つの窓もない。細微な装飾の施された壁が、部屋の中心に置かれた緋色の天蓋をぐるりと囲っている。目が眩むほどに高い天井に光源はなく、古びた燭台が壁からぶら下がっているだけだ。寝室と言うには余りにも異質な空間。ここはフィビアスの作り上げた処刑台だ。サキュバスの女王はこの寝室に男を連れ込み、精を奪い、服従させる。どれ程の者がこの場所でフィビアスに下されたのであろう。
ゼータは寝室にフィビアスの姿がない事を確認し、緋色の天蓋に歩み寄った。天蓋を左右に開き、その中で眠る人の姿を確認し安堵する。天蓋に覆われた巨大なベッドの中央で、毛布にくるまれ寝息を立てている者は、ゼータの探し求めたレイバックその人であった。
「レイ、レイ。起きてください」
ゼータはベッドにのり、毛布にくるまれたレイバックの肩を揺する。緋色の枕に頬を付けた寝顔は安らかだ。もしかしてまだ、レイバックはフィビアスの服従の魔法の支配下に置かれてはいないのかもしれない。わずかな期待がゼータの脳裏を掠めた。しかしすぐにその期待は打ち砕かれる事になる。一向に目覚める気配のないレイバックの肩を揺するうちに、身体を覆う毛布がはだけて落ちる。薄い毛布の下から現れた身体は全裸だ。下着すら身に付けてはいない。規則正しい上下を繰り返す胸元には口吸いによる鬱血跡が浮かび、手足首には鎖の擦れた跡がある。誰が見てもわかる。まぐわいはすでに終えられた。
ベッドの上に茫然と佇むゼータの耳に、扉が開く音が届く。次いでひたひたと裸足の足音。一直線にベッドへと向かって来たその人物は、ゼータの姿を隠していた緋色の天蓋を勢いよく開けた。
「大国の王妃は礼儀がなっていないわね。人様の寝室に黙って入り込むなんて」
不機嫌の籠る声に、ゼータはのろのろと顔を上げる。ベッドの脇に仁王立ちする人物は、この寝室の主であるフィビアスである。しかしその容姿はゼータの知るフィビアスのものとは少しばかり違う。腰まである藍色の髪は濡れ、顔の化粧は落とされている。色味の強い化粧の下に隠されていた素顔は意外にも純朴だ。何よりフィビアスの印象を覆させるものは、彼女の纏う衣服である。黒や藍色のドレスを好み、豊かな肢体を惜しげもなく晒していたフィビアスであるが、今身にまとう衣服は身体の凹凸のわからないネグリジェワンピースだ。色は白に近い薄桃色で、絹の布地には光沢がある。胸元や膝下丈のスカートの裾にはレースが縫い付けられ、フィビアスの内面を知らぬ者が見れば妖精のようだと称える事だろう。妖精の風貌をしたその女性は、紅を落とした桃色の唇を忌まわし気に歪めた。
「貴方がここに来るという事はユダはやられたの?国を貸してやるなどと偉そうな口を利いておいて、死に掛けの屑一人足止めできないなんて。使えない奴」
フィビアスは手にしていたタオルをゼータの元へと放る。柔らかな肌触りのタオルは水気を吸いしっとりと濡れていた。ゼータの通り過ぎて来た王の居室には、寝室の他に浴室へと続く扉がある。フィビアスが寝室に不在だったのは、情事を終え湯浴みをしていたからのようだ。
「わざわざご足労頂いたのに残念だわ。もう全て終わってしまったの。私は神獣の精を吸い、彼は私の下僕となった。彼が目覚めれば愚鈍な貴方にもわかるでしょう。愛しい番が自らの元に帰る事はないと」
妖精の成りをした女は、およそ妖精とは思えぬ下卑た笑いを立てる。
「神獣の精はまことに美味だったわ。心配せずとも彼は私が飼ってあげる。私の足元に跪く事を悦びと感じるように躾けてあげるわ。負け犬はさっさとお帰りなさって」
フィビアスはそう言うと、自らの白魚の指先に口付けた。そこに残る微かな噛み跡を愛おしむように。子猫がじゃれ付いたとしか思えぬ細やかな噛み跡は、レイバックの必死の抵抗の跡だ。黒く霞んで行くゼータの視界の端に、銀色の鎖が映る。枕元の隅に束ねられた鎖には、乾いた血がこびり付いている。見れば鎖の束は一つではなく、ベッドの四隅に同様の鎖が備えられているのだ。フィビアスはレイバックの手足を鎖で繋ぎ、彼の精を蹂躙した。
―殺してやる。
ゼータは身体の痛みを忘れフィビアスに掴み掛かった。
***
激情に駆られフィビアスとの戦闘を開始したゼータであるが、戦況は圧倒的に不利であった。フィビアスのネグリジェの胸元を掴んだゼータは、その頭部を吹き飛ばすべく魔法の発動を試みるが、憎々しい笑みを浮かべた顔面には傷一つ付くこともない。フィビアスの魔力がゼータに勝っているのだ。ゼータの魔法攻撃は苛烈だが、強大な魔力に守られた対象物を破壊することはできない。魔法が駄目なら肉弾戦だと拳を振り上げるゼータであるが、何度腕を伸ばしてもその拳はフィビアスに届く事はなかった。それどころか膝下を蹴られ無様に床に転がる始末。うつ伏せに倒れ伏したゼータの頭を裸足で踏み付け、フィビアスは高らかに笑う。
「平和な国の平和惚けしたお妃様が私に勝てるとお思い?神獣の王を使役し彼の庇護下に居ねば、生すら保てぬ塵屑が。大人しく神獣の支配権を明け渡せば五体満足で国に返してやるつもりだったけど、私に拳を振り上げた以上生ぬるい処罰では済まさないわよ」
湯浴みを終えたばかりの温かな足裏が、ゼータの頭部を何度も踏み付ける。鈴音の声は、豪華絢爛の高天井によく響く。
「床に平伏して私の足先に口付けなさい。それで命は助けてあげる。上手に足指を舐れば、腕を1本頂く程ほどで私の気もすむ事でしょう。断れば達磨にして騎獣に括り付けてあげるわ。伝言役など口が動けば十分だもの」
少女のように愛らしい仕草で首を傾げ、フィビアスはゼータの頭部から脚を除けた。跪け。促されるままにゼータは身を起こし、手のひらを床に付く。這いずるようにしてフィビアスの足元に寄り、滑らかな足先に口付けるべく顔を落とす。
反抗的であったゼータの恭順を確信しフィビアスが警戒を緩めた、その時であった。
口付けを目前にしたゼータは手の中の最後の武器を握り込み、フィビアスの足甲に深々と突き立てた。
「痛っ」
突然の鋭い痛みにフィビアスは短い悲鳴を上げ、足元のゼータを蹴り飛ばす。良からぬ攻撃を受けたかとまじまじと足先を見れば、そこには小さな銀色の針が刺さり込んでいた。うずくまるゼータの右手には飾りのない銀の指輪。左手に握り込まれた大粒のエメラルド。
「指輪に武器を仕込んでいたの?」
フィビアスの問いにゼータは答えず、脱兎のように走り出す。しかし全身の傷が災いし、その走りは遅い。逃げる背に向けて罵倒の言葉を吐きかけたフィビアスは、未だレイバックの眠るベッドに歩み寄り、枕元に手を差し入れた。
枕下から引き出した物は長剣。鞘に色とりどりの宝石を散りばめた派手な剣だ。フィビアスは勢いよく長剣を引き抜くと、不要の鞘を床に投げ捨てた。1度、2度と剣を振りながら、ゼータの背を追う。
「質問にくらい答えたらどう?本当に気に障る」
ゼータはよろめきながら寝室の扉へと向かうが、その扉には悔しくも鍵がかかっている。何度か取っ手を動かした後、ゼータは走る向きを変え、寝室の奥側へと移動した。フィビアスは剣をぶら下げゼータの後を追う。小さな針は思いの他深く足に刺さり込んでおり、片足を引き摺るフィビアスもその歩みは遅い。もう少し、呟きながらゼータは必死で逃げる。
やがて2人きりの鬼ごっこには終止符が打たれた。脚をもつれさせ床に倒れ込むゼータに、フィビアスの歩みが追い付く。フィビアスは片足をゼータの背に掛け、無防備に晒された首筋に銀の刃を当てる。
「針に毒でも仕込んでいたのかと思ったけれど、違ったみたいね。命も要らぬようだしさっさと殺しましょうか。伝言役には別の者を任命するわ。御役御免ご苦労様」
両手で柄を握り直したフィビアスは、ゼータの頭部と胴体を両断すべく刀を振り上げる。身体に伸し掛かる重みにゼータは死を覚悟する。
しかしいつまで待っても覚悟した痛みと暗闇が訪れることはない。それどころかフィビアスの足はゼータの背を離れ、鋭く光る長剣は音を立てて床に落ちる。
「何…?」
弱々しく呟き、フィビアスは床に崩れ落ちた。からからと音を立てる刀の傍に両手を付き、その腕すら立てられずに倒れ込む。床に頬を付き、豪華絢爛の刀の柄を目前に眺めながら、フィビアスは茫然としていた。何が起きたのかまるでわからない。突然全身の力を抜き取られたかのように、足はおろか腕すらも立てることができない。
「クリス。感謝します」
咳き込みながら立ち上がったゼータは、床に落ちた長剣を拾いあげた。倒れ伏すネグリジェワンピースを見下ろしながら、その背中に足をのせる。先ほど自身がそうされたように。藍色の髪の下に覗く白い首筋に、剣の先を当てる。
「待って。私を殺せば、再び国土は混沌となる」
自らの行く先を理解したフィビアスは、震える声で懇願する。1200年の混沌の末に玉座に付いた王。新王候補を喰う魔獣が、ただ一人王座に付く事を許した者だ。フィビアスを弑せばバルトリア王国の頂からは王が消え、国土は再び混沌となる。しかし。ゼータの脳裏に蘇るのは、即位式典を終えた直後のレイバックの言葉だ。
「フィビアスの統治は治世にあらず、支配欲を満たすためだけのままごと遊びだ。俺は彼女を王とは認めない」
耳に残る言葉を一字一句違わず繰り返したゼータは、愚王の首を狩り取るべく銀の刃を振り翳した。
「御役御免ご苦労様」
人気のない部屋の中は、甚だしい破壊を尽くされていた。石造りの壁はその一部に巨大な穴が空き、冷たい夜風が流れ込んでいる。穴に近しい部分の天井も同様に壊れ、石くれが次から次へと床に落ちる。部屋の隅に積んであった紙箱は崩れ、中に入っていた用途のわからぬがらくたが至る所に散らばっていた。石くれとがらくたの他に、床には点々と血の跡がある。黒ずんで乾いた血跡はゼータのものだ。魔法攻撃により負った傷から流れ落ちたものと、ユダの容赦ない殴打により口内から溢れ出たもの。
そして未だ乾く事のない鮮血の跡はユダの血跡だ。鮮やかな色を残しながらも、ユダの姿はこの部屋にない。視界を取り戻したゼータはユダに向けて容赦のない魔法を放ち、重傷を負ったユダは逃げるようにこの部屋を後にした。
「レイを迎えに行かないと」
ゼータの呟きは、壁穴から吹き込む荒風に搔き消された。レイバックがフィビアスの元に向かってからもう2時間以上の時が経っている。既にまぐわいは終わってしまっているだろう。それ即ちレイバックがフィビアスの忠実なる僕となる事を意味する。数多の男から精を奪い、力を蓄えたフィビアスに加え、ドラキス王国の最高戦力であるレイバック。戦闘経験の薄いゼータが到底勝てる相手ではない。さらに悪いことに、ゼータはすでに満身創痍なのだ。顔は腫れて見るに堪えない有様だし、魔法による傷跡は身体を動かすたびにずきずきと痛む。最もひどいのは右脇腹の焼き跡だ。手のひら程の大きさの焼き跡は黒く爛れ、未だ乾くことなく体液が滲み出ている。
無茶を働けば命に障るかも知れない。自嘲的な笑みを浮かべながらも、ゼータは萎える脚を立てる。それでも彼の元に向かわないという選択肢はない。
開け放たれた扉から外を覗き見れば、薄明かりの灯る廊下に人影はなかった。無機質な石床にユダの血跡が点々と続いている。血跡を追ってユダに留めを刺すことも可能だが、今は一刻の時も惜しい。ゼータは下り階段へと続く血跡に背を向ける。目指すべきは7階にある王座だ。
ゼータの幽閉されていた部屋は5階にある。棟の西側にある階段から6階へと上がり、長い廊下を歩き、東側の階段から最上階である7階へと上がる。ゼータを討ち取るための兵士や七指が布陣されていると予想したが、予想に違い廊下に人気はなかった。ユダが弱り、他者に命令を下すことが難しくなっているのだろうか。
わずか5分ほどの時を経て、ゼータは7階にある白百合の扉に辿り着いた。塗り直しをされてはいるが、その扉はゼータの記憶にある物と相違無い。今はもう顔すら忘れてしまった母に付き、何度も手を掛けた扉だ。この扉の向こうには同じく顔すら忘れてしまった父が、2人の来訪を今か今かと待っている。
重たい扉を開け、ゼータは王座の間に身体を滑り込ませた。白百合の扉をくぐり、最初の部屋は王の執務室だ。紅色を基調とした広々とした部屋の中には、最奥に執務机、その面前に5人が座ってもまだ余裕がある程の巨大なソファが2脚並べられている。その他にも壁際の飾り棚には細々とした雑貨が並べられ、人が入れそうなほどの花瓶、古びた石像の胸部、時を刻まぬ置時計など、不用品としか思えぬ調度品が部屋の至る所に置かれていた。ブルタスは無駄な物を部屋に置かない質であったが、フィビアスは物を増やすのが好きな部類の人のようだ。
灯りの落とされた執務室を通り抜け、ゼータは執務机の奥に設けられた木製の扉を押し開ける。そこは王の居室だ。食事を取るための大理石のテーブルに、揃いの白木の椅子。長い事火の灯された形跡のない暖炉、分厚い書物の詰まった書籍棚。窓辺に置かれた白い毛皮の絨毯の上には、書籍棚から抜かれた数冊の本が山になって積まれていた。ゼータはその場所で、毎夜父母に囲まれ絵本を読んだ。褪せた記憶を呼び起こしながらも、ゼータは居室の奥にある扉を開ける。
異様な熱気の籠る部屋であった。建物の最上階に位置するため、その部屋には日中温気が籠りやすい。ブルタスがこの部屋を寝室として使用していた当時は、部屋の壁には風を通すための大きな窓が付いていたはずだ。しかし今部屋にはただの一つの窓もない。細微な装飾の施された壁が、部屋の中心に置かれた緋色の天蓋をぐるりと囲っている。目が眩むほどに高い天井に光源はなく、古びた燭台が壁からぶら下がっているだけだ。寝室と言うには余りにも異質な空間。ここはフィビアスの作り上げた処刑台だ。サキュバスの女王はこの寝室に男を連れ込み、精を奪い、服従させる。どれ程の者がこの場所でフィビアスに下されたのであろう。
ゼータは寝室にフィビアスの姿がない事を確認し、緋色の天蓋に歩み寄った。天蓋を左右に開き、その中で眠る人の姿を確認し安堵する。天蓋に覆われた巨大なベッドの中央で、毛布にくるまれ寝息を立てている者は、ゼータの探し求めたレイバックその人であった。
「レイ、レイ。起きてください」
ゼータはベッドにのり、毛布にくるまれたレイバックの肩を揺する。緋色の枕に頬を付けた寝顔は安らかだ。もしかしてまだ、レイバックはフィビアスの服従の魔法の支配下に置かれてはいないのかもしれない。わずかな期待がゼータの脳裏を掠めた。しかしすぐにその期待は打ち砕かれる事になる。一向に目覚める気配のないレイバックの肩を揺するうちに、身体を覆う毛布がはだけて落ちる。薄い毛布の下から現れた身体は全裸だ。下着すら身に付けてはいない。規則正しい上下を繰り返す胸元には口吸いによる鬱血跡が浮かび、手足首には鎖の擦れた跡がある。誰が見てもわかる。まぐわいはすでに終えられた。
ベッドの上に茫然と佇むゼータの耳に、扉が開く音が届く。次いでひたひたと裸足の足音。一直線にベッドへと向かって来たその人物は、ゼータの姿を隠していた緋色の天蓋を勢いよく開けた。
「大国の王妃は礼儀がなっていないわね。人様の寝室に黙って入り込むなんて」
不機嫌の籠る声に、ゼータはのろのろと顔を上げる。ベッドの脇に仁王立ちする人物は、この寝室の主であるフィビアスである。しかしその容姿はゼータの知るフィビアスのものとは少しばかり違う。腰まである藍色の髪は濡れ、顔の化粧は落とされている。色味の強い化粧の下に隠されていた素顔は意外にも純朴だ。何よりフィビアスの印象を覆させるものは、彼女の纏う衣服である。黒や藍色のドレスを好み、豊かな肢体を惜しげもなく晒していたフィビアスであるが、今身にまとう衣服は身体の凹凸のわからないネグリジェワンピースだ。色は白に近い薄桃色で、絹の布地には光沢がある。胸元や膝下丈のスカートの裾にはレースが縫い付けられ、フィビアスの内面を知らぬ者が見れば妖精のようだと称える事だろう。妖精の風貌をしたその女性は、紅を落とした桃色の唇を忌まわし気に歪めた。
「貴方がここに来るという事はユダはやられたの?国を貸してやるなどと偉そうな口を利いておいて、死に掛けの屑一人足止めできないなんて。使えない奴」
フィビアスは手にしていたタオルをゼータの元へと放る。柔らかな肌触りのタオルは水気を吸いしっとりと濡れていた。ゼータの通り過ぎて来た王の居室には、寝室の他に浴室へと続く扉がある。フィビアスが寝室に不在だったのは、情事を終え湯浴みをしていたからのようだ。
「わざわざご足労頂いたのに残念だわ。もう全て終わってしまったの。私は神獣の精を吸い、彼は私の下僕となった。彼が目覚めれば愚鈍な貴方にもわかるでしょう。愛しい番が自らの元に帰る事はないと」
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「神獣の精はまことに美味だったわ。心配せずとも彼は私が飼ってあげる。私の足元に跪く事を悦びと感じるように躾けてあげるわ。負け犬はさっさとお帰りなさって」
フィビアスはそう言うと、自らの白魚の指先に口付けた。そこに残る微かな噛み跡を愛おしむように。子猫がじゃれ付いたとしか思えぬ細やかな噛み跡は、レイバックの必死の抵抗の跡だ。黒く霞んで行くゼータの視界の端に、銀色の鎖が映る。枕元の隅に束ねられた鎖には、乾いた血がこびり付いている。見れば鎖の束は一つではなく、ベッドの四隅に同様の鎖が備えられているのだ。フィビアスはレイバックの手足を鎖で繋ぎ、彼の精を蹂躙した。
―殺してやる。
ゼータは身体の痛みを忘れフィビアスに掴み掛かった。
***
激情に駆られフィビアスとの戦闘を開始したゼータであるが、戦況は圧倒的に不利であった。フィビアスのネグリジェの胸元を掴んだゼータは、その頭部を吹き飛ばすべく魔法の発動を試みるが、憎々しい笑みを浮かべた顔面には傷一つ付くこともない。フィビアスの魔力がゼータに勝っているのだ。ゼータの魔法攻撃は苛烈だが、強大な魔力に守られた対象物を破壊することはできない。魔法が駄目なら肉弾戦だと拳を振り上げるゼータであるが、何度腕を伸ばしてもその拳はフィビアスに届く事はなかった。それどころか膝下を蹴られ無様に床に転がる始末。うつ伏せに倒れ伏したゼータの頭を裸足で踏み付け、フィビアスは高らかに笑う。
「平和な国の平和惚けしたお妃様が私に勝てるとお思い?神獣の王を使役し彼の庇護下に居ねば、生すら保てぬ塵屑が。大人しく神獣の支配権を明け渡せば五体満足で国に返してやるつもりだったけど、私に拳を振り上げた以上生ぬるい処罰では済まさないわよ」
湯浴みを終えたばかりの温かな足裏が、ゼータの頭部を何度も踏み付ける。鈴音の声は、豪華絢爛の高天井によく響く。
「床に平伏して私の足先に口付けなさい。それで命は助けてあげる。上手に足指を舐れば、腕を1本頂く程ほどで私の気もすむ事でしょう。断れば達磨にして騎獣に括り付けてあげるわ。伝言役など口が動けば十分だもの」
少女のように愛らしい仕草で首を傾げ、フィビアスはゼータの頭部から脚を除けた。跪け。促されるままにゼータは身を起こし、手のひらを床に付く。這いずるようにしてフィビアスの足元に寄り、滑らかな足先に口付けるべく顔を落とす。
反抗的であったゼータの恭順を確信しフィビアスが警戒を緩めた、その時であった。
口付けを目前にしたゼータは手の中の最後の武器を握り込み、フィビアスの足甲に深々と突き立てた。
「痛っ」
突然の鋭い痛みにフィビアスは短い悲鳴を上げ、足元のゼータを蹴り飛ばす。良からぬ攻撃を受けたかとまじまじと足先を見れば、そこには小さな銀色の針が刺さり込んでいた。うずくまるゼータの右手には飾りのない銀の指輪。左手に握り込まれた大粒のエメラルド。
「指輪に武器を仕込んでいたの?」
フィビアスの問いにゼータは答えず、脱兎のように走り出す。しかし全身の傷が災いし、その走りは遅い。逃げる背に向けて罵倒の言葉を吐きかけたフィビアスは、未だレイバックの眠るベッドに歩み寄り、枕元に手を差し入れた。
枕下から引き出した物は長剣。鞘に色とりどりの宝石を散りばめた派手な剣だ。フィビアスは勢いよく長剣を引き抜くと、不要の鞘を床に投げ捨てた。1度、2度と剣を振りながら、ゼータの背を追う。
「質問にくらい答えたらどう?本当に気に障る」
ゼータはよろめきながら寝室の扉へと向かうが、その扉には悔しくも鍵がかかっている。何度か取っ手を動かした後、ゼータは走る向きを変え、寝室の奥側へと移動した。フィビアスは剣をぶら下げゼータの後を追う。小さな針は思いの他深く足に刺さり込んでおり、片足を引き摺るフィビアスもその歩みは遅い。もう少し、呟きながらゼータは必死で逃げる。
やがて2人きりの鬼ごっこには終止符が打たれた。脚をもつれさせ床に倒れ込むゼータに、フィビアスの歩みが追い付く。フィビアスは片足をゼータの背に掛け、無防備に晒された首筋に銀の刃を当てる。
「針に毒でも仕込んでいたのかと思ったけれど、違ったみたいね。命も要らぬようだしさっさと殺しましょうか。伝言役には別の者を任命するわ。御役御免ご苦労様」
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しかしいつまで待っても覚悟した痛みと暗闇が訪れることはない。それどころかフィビアスの足はゼータの背を離れ、鋭く光る長剣は音を立てて床に落ちる。
「何…?」
弱々しく呟き、フィビアスは床に崩れ落ちた。からからと音を立てる刀の傍に両手を付き、その腕すら立てられずに倒れ込む。床に頬を付き、豪華絢爛の刀の柄を目前に眺めながら、フィビアスは茫然としていた。何が起きたのかまるでわからない。突然全身の力を抜き取られたかのように、足はおろか腕すらも立てることができない。
「クリス。感謝します」
咳き込みながら立ち上がったゼータは、床に落ちた長剣を拾いあげた。倒れ伏すネグリジェワンピースを見下ろしながら、その背中に足をのせる。先ほど自身がそうされたように。藍色の髪の下に覗く白い首筋に、剣の先を当てる。
「待って。私を殺せば、再び国土は混沌となる」
自らの行く先を理解したフィビアスは、震える声で懇願する。1200年の混沌の末に玉座に付いた王。新王候補を喰う魔獣が、ただ一人王座に付く事を許した者だ。フィビアスを弑せばバルトリア王国の頂からは王が消え、国土は再び混沌となる。しかし。ゼータの脳裏に蘇るのは、即位式典を終えた直後のレイバックの言葉だ。
「フィビアスの統治は治世にあらず、支配欲を満たすためだけのままごと遊びだ。俺は彼女を王とは認めない」
耳に残る言葉を一字一句違わず繰り返したゼータは、愚王の首を狩り取るべく銀の刃を振り翳した。
「御役御免ご苦労様」
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遠距離恋愛中だった恋人との関係が自然消滅した。どこか心にぽっかりと穴が空いたまま毎日を過ごしていた藍(あい)。大晦日の夜、寂しがり屋の親友と二人で年越しを楽しむことになり、ハメを外して酔いつぶれてしまう。目が覚めたら「ここどこ」状態!!
親友と仲良すぎな主人公と、別れたはずの恋人とのお話。
⚠️趣味で書いておりますので、誤字脱字のご報告や、世界観に対する批判コメントはご遠慮します。そういったコメントにはお返しできませんので宜しくお願いします。
大晦日あたりに出そうと思ったお話です。
【完結】オーロラ魔法士と第3王子
N2O
BL
全16話
※2022.2.18 完結しました。ありがとうございました。
※2023.11.18 文章を整えました。
辺境伯爵家次男のリーシュ・ギデオン(16)が、突然第3王子のラファド・ミファエル(18)の専属魔法士に任命された。
「なんで、僕?」
一人狼第3王子×黒髪美人魔法士
設定はふんわりです。
小説を書くのは初めてなので、何卒ご容赦ください。
嫌な人が出てこない、ふわふわハッピーエンドを書きたくて始めました。
感想聞かせていただけると大変嬉しいです。
表紙絵
⇨ キラクニ 様 X(@kirakunibl)
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今夜のご飯も一緒に食べよう~ある日突然やってきたヒゲの熊男はまさかのスパダリでした~
松本尚生
BL
瞬は失恋して職と住み処を失い、小さなワンルームから弁当屋のバイトに通っている。
ある日瞬が帰ると、「誠~~~!」と背後からヒゲの熊男が襲いかかる。「誠って誰!?」上がりこんだ熊は大量の食材を持っていた。瞬は困り果てながら調理する。瞬が「『誠さん』って恋人?」と尋ねると、彼はふふっと笑って瞬を抱きしめ――。
恋なんてコリゴリの瞬と、正体不明のスパダリ熊男=伸幸のお部屋グルメの顛末。
伸幸の持ちこむ謎の食材と、それらをテキパキとさばいていく瞬のかけ合いもお楽しみください。
死に戻り騎士は、今こそ駆け落ち王子を護ります!
時雨
BL
「駆け落ちの供をしてほしい」
すべては真面目な王子エリアスの、この一言から始まった。
王子に”国を捨てても一緒になりたい人がいる”と打ち明けられた、護衛騎士ランベルト。
発表されたばかりの公爵家令嬢との婚約はなんだったのか!?混乱する騎士の気持ちなど関係ない。
国境へ向かう二人を追う影……騎士ランベルトは追手の剣に倒れた。
後悔と共に途切れた騎士の意識は、死亡した時から三年も前の騎士団の寮で目覚める。
――二人に追手を放った犯人は、一体誰だったのか?
容疑者が浮かんでは消える。そもそも犯人が三年先まで何もしてこない保証はない。
怪しいのは、王位を争う第一王子?裏切られた公爵令嬢?…正体不明の駆け落ち相手?
今度こそ王子エリアスを護るため、過去の記憶よりも積極的に王子に関わるランベルト。
急に距離を縮める騎士を、はじめは警戒するエリアス。ランベルトの昔と変わらぬ態度に、徐々にその警戒も解けていって…?
過去にない行動で変わっていく事象。動き出す影。
ランベルトは今度こそエリアスを護りきれるのか!?
負けず嫌いで頑固で堅実、第二王子(年下) × 面倒見の良い、気の長い一途騎士(年上)のお話です。
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主人公は頑な、王子も頑固なので、ゆるい気持ちで見守っていただけると幸いです。
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【完】三度目の死に戻りで、アーネスト・ストレリッツは生き残りを図る
112
BL
ダジュール王国の第一王子アーネストは既に二度、処刑されては、その三日前に戻るというのを繰り返している。三度目の今回こそ、処刑を免れたいと、見張りの兵士に声をかけると、その兵士も同じように三度目の人生を歩んでいた。
★本編で出てこない世界観
男同士でも結婚でき、子供を産めます。その為、血統が重視されています。
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