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荒城の夜半に龍が啼く
追憶
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咄嗟に立ち入った部屋の中で、ゼータとダイナは壁際に置かれた机の下に潜り込んだ。薄い壁の向こうで数人の話し声がする。何を話しているかはわからない。しかし笑い声の混じる会話を聞くに親しい間柄の官吏なのだろう。笑い声は遠ざかり、やがて聞こえなくなった。
机の下から這い出たゼータは安堵の息を吐いた。部屋の中に入るところを官吏に見られずに済んで良かった。扉の開閉音も彼らの耳には届かなかったようだ。万が一部屋の中に立ち入られた時の事を考え机の下に潜り込んだもののいらぬ心配だったと、ゼータはドレスの裾に付いた埃を払う。ゼータに続き机の下から這い出したダイナも、髪やドレスについた埃を手のひらで払いのけていた。
「ゼータ様の機転で助かりました。危うくいらぬ疑いを抱かれるところです」
「物品庫を探っていた事に違いはないですからね。いらぬ疑いという言葉も違和感がありますけれど」
ダイナの銀の髪についた屑ごみを指先でつまみながら、ゼータはとある事に気が付く。ダイナは探検の目的を、「新女王フィビアスに、他国侵略の意思がないことを確認したい。不必要に多くの武器を蓄えていないか、兵士の数が異様に多くはないか、といったことを城の探索を通して探る」と述べていなかっただろうか。その目的を達成するためならば、見るからに物置でしかない部屋の内部を物色する必要はない。その疑問を口にすると、ダイナは悪戯な顔で笑った。
「1,2時間の探検で、他国侵略の意思を把握することは不可能です、。武器庫には鍵がかかっているでしょうし、他国の国賓を招くのですから知られたくない情報は巧みに隠しているでしょう。私が少しばかり城の内部を偵察したところで、得るものなどありませんよ」
「待ってください。ならこの探検の意味は?」
自分はなぜ危険を冒してまで冒険の供をしているのだと、詰め寄るゼータにダイナは子どものような笑みを返した。
「だから探検ですよ。アメシス様に内緒で王宮の探検をした時は、前王が隠していた宝剣を見つけましたの。天井と壁板の境目に隙間があって、そこに埋め込まれていたんです。さすがのアメシス様も、その時は私を責める事はしませんでした。失くしたと思っていた剣が見つかったんですもの」
「えーと…」
「黒の城は建築より1400年の時が経っていると聞きます。お宝が隠されている可能性は高いと思いませんか?今のところはがらくたばかりで収穫はありませんけれど」
「それが目的ならアメシス殿に止められなかったのですか?他国の城を漁るのはまずいと」
「アメシス様は私の癖を理解しております。好きにしても良いが問題だけは起こすなと言い含められました」
ゼータはがっくりと肩を起こした。国のために決死で隠密活動に当たっていると思われたダイナは、ただ自身の趣味で城漁りをしていただけだったのだ。書棚に張り付こうとしたゼータと良い勝負である。流れるような動作で官吏に賄賂を渡した手腕から、神国ジュリの王妃は優秀だと恐縮していたわけであるが、どうやら一線を引かずに済みそうだ。ゼータは肩を落としながらも、悪戯な王妃に対し笑顔を返した。
気持ちを切り替えた2人は、偶然立ち入った部屋をぐるりと見まわした。広い部屋だ。大きな窓には紅色のカーテンがかかっているが、布地が破れ部屋の中には日が差し込んでいる。柔らかな陽光に照らされる物は古びた調度品だ。繊細な堀模様が施された執務机、同じ風合いの椅子、ガラスの割れた飾り棚、朽ちた本の詰まる書棚、皮のひび割れたソファ。他にも細々とした調度品が部屋の至る所に置かれているが、朽ち果てた家具が何に使われた物なのかはわからない。
「…物置ではないみたいですね。過去に執務室として使われていた場所でしょうか」
部屋の物色を開始したダイナは、埃の積もった執務机のそばに座り込んだ。無遠慮に机の引出しを開ける音がゼータの耳に届く。確かに部屋の造りは通い慣れたレイバックの執務室によく似ていた。扉の傍には応接用のソファが置かれ、部屋の奥には豪華な執務机が佇んでいる。南棟で立ち入った物品庫とは異なり、壁にはいくつもの額縁が飾られていた。額縁に飾られた絵画は色あせただの茶色い紙のようになってしまった物が多い。
壁の額縁を目で追っていたゼータは、そのうちの一つで視線を止めた。壁の上部、天井に近い位置にかかる他の物よりもひと際大きな額縁だ。他の絵画が朽ち果てているのに対し、その額縁の内部はまともな色合いを保っている。描かれているのは男性の肖像画だ。黒の頭髪を撫で付け、鋭い眼光を保つ40代半ばほどの男性。顔立ちは整っているが、きつい目つきと引き結ばれた口元が冷淡な印象を抱かせる。
「ブルタス前国王」
ゼータの呟きに、机漁りを止めたダイナが同様の肖像画を見上げた。
「そのようですね。書物で読んだ外見の特徴と一致します。ならば、ここは以前ブルタス前国王の執務室だったのでしょうか」
「…というよりも、フィビアス女王が王の執務室を使うようになったから、残されていたブルタス前国王の備品をこの空き部屋に移したのではないでしょうか。王の執務室というには内装が質素な気がします。部屋の場所も2階ですし」
調度品こそ豪華だが、壁紙や絨毯は特別なものとは言い難い。天井の灯りは客室の物と大差無く質素で、家具の中には壁際にひとまとめになっている物もある。不要だが捨てることのできない調度品を空き部屋に詰め込んで、とりあえず元の様態にしたという印象が強い。そしてもう一つ、この部屋のある場所は城の中でも下層階に入る2階なのだ。国家の最高権力者の執務室ともなれば、建物の上層階に位置しそうなものである。ゼータの予想に納得したようで、肖像画を見上げたダイナは何度か頷いた。
「話は聞いておりましたけれど、ブルタス前国王は本当に城の者に崇拝されていたのですね。こうして彼の持ち物が捨てられずに残されているんですもの。死して千数百年の時が経つというのに」
「ブルタス前国王が崇拝されていた?城の者に?」
ダイナの言葉はゼータには意外なものであった。ゼータは過去に何度かブルタス前国王に関する評価を耳にしたことがあるが、「賢王とは言い難い」「厳しい刑罰で民を虐げた」という負の印象ばかりであった。城の者に崇拝されていたなどという言葉は初めて聞く。
「私も人伝に聞いた話ですから、確かな情報とは言えません。しかしブルタス前国王が強靭な力を持って国土を治めていたことは事実です。強者を敬うという魔族の性を考えれば、ブルタス前国王に崇拝にも近い念を抱いていた家臣は多いのではないでしょうか」
「確かに、そうかもしれませんね」
「ゼータ様はブルタス前国王についてはあまり詳しくはない?」
「ほとんど何も知らないです。暴王であったとの話は聞いたことはありますけれど」
「不確かな情報でよければお話し致しましょうか」
「ぜひお願いします」
1200年の時を刻む調度品で埋め尽くされた部屋に、ダイナの声が響く。
元々現在のバルトリア王国地帯は小さな小国がひしめき合う混沌とした土地であった。食料を奪い合い、豊かな土壌を求めて頻繁な紛争が繰り返される場所。およそ1700年前に強大な力を持ってこれらの小国をまとめ上げた者がブルタス前国王である。膨大な魔力を有した彼は民を震え上がらせる凄惨な魔法を用いて、統治を拒む数多の集落を国土に吸収した。
ブルタス前国王は徹底的に悪を罰した。盗人や暴行、殺人行為の類を厳しく取り締まり、犯した民は一切の情けをかけず処罰した。餓死を逃れるための、たった一握りの穀物の盗難行為でも許されることはない。彼が暴王と言われた所以である。町は昼夜問わず武装した兵士によって警備され、国家直属の兵士の数は数万に上ったとも言われている。
暴王と称されるブルタス前国王であったが、民の暮らしは比較的自由が許されていた。兵士を雇うために徴収される国税も、まともに働いていれば支払えない額ではない。盗人行為や暴力行為を働くことがなければ穏やかな暮らしを送ることができたのだ。厳しい刑罰に恐れをなし、盗賊と呼ばれる集団がバルトリア王国の国土から消え失せていた事も大きい。暴王ではあるが愚王ではない。それが当時の民の評価だ。
圧倒的な武力で混沌の地を治めたブルタス前国王は、黒の城を築き自らの側近として七指を任命した。黒の城の内部におけるブルタス前国王の支配力は絶対的で、彼の言葉に異を返す者はいなかった。そして民には暴王と評されながらも、ブルタス前国王はおよそ500年の間バルトリア王国の国土を治めたのだ。
語り終えたダイナは静かに息を吐いた。1200年の時を遡った部屋の中には、床から舞い上がった細かな埃が舞う。たくさんの埃が陽の光を受け煌めく様は、幻想的と言えない事もない。
「その話が真実ならば、黒の城内部に新王即位を拒む輩がいるというのも事実なんでしょうね。ブルタス前国王の統治を懐かしむ者が、新王候補をことごとく打ち倒した」
何気ないゼータの言葉に、ダイナは首を傾げた。
「あら、ドラキス王国ではそのように噂されているのですか?」
「民の間の噂というほど大層なものではないですよ。私とレイはそう認識しているというだけ。バルトリア王国に王が立たなかったのは、新王即位を許さぬ輩に討ち取られたため。新王フィビアスはその輩を返り討ちにした、もしくは何らかの手段で懐柔したのだと」
「私が聞いた話は違いますわ。黒の城には、ブルタス前国王が飼い慣らしていた魔獣が棲んでいるのだと聞き及びました」
「魔獣?」
「そう。ブルタス前国王は黒の城の中で強大な魔獣を飼い慣らしていたのです。国王の治世に異を唱える者、反逆の意志を持つ者はこの魔獣にことごとく惨殺されたと聞きます。そして主を亡くした魔獣は、ブルタス前国王に成り代わろうとする者を敵と見なし殺していたのです。フィビアス女王が王座に立つことができたのは、この魔獣を飼い慣らしたからだとも言われています」
ダイナの話はゼータには初耳であった。メリオンのバルトリア王国講義の中で「黒の城に棲む魔獣」の話が出てきたことは一度たりともない。しかしメリオンの話とダイナの話には共通点もある。人にしろ魔獣にしろ、ブルタス前国王の残した遺物が黒の城の時を止めていたのだ。そしてフィビアスは何らかの手段でその遺物を飼い慣らし王座に座った。
どちらの話が真実であるにしろ、黒の城の中にゼータにとって得体の知れない存在がいる事に違いはなかった。姿かたちのわからぬ異形の魔獣か、それとも人の形をした生き物か。ただそれだけの違いである。
「ダイナは、ブルタス前国王の崩御の理由を知っていますか?」
突然のゼータの問いに、ダイナは考え込んだ。
「噂程度に聞いたことはあります。直接の死因としては、自らが飼い慣らしていた魔獣に喰い殺されたのだと聞きます」
「それはなぜでしょう。魔獣を御しきれなかったから?」
「恐らくそうなのでしょう」
ダイナは視線を上げ、ブルタス前国王の肖像画を見つめる。つられるようにゼータも視線を上げた。朽ちた部屋の中で唯一当時の面影を残す一枚の肖像画。薄い埃が積もりながらも一つの傷さえ見当たらないその肖像画は、この城の中にブルタス前国王を懐かしむ者がいる事をひしひしと伝えていた。
彼のいる時代を思い起こすように、ダイナの唇は言葉を紡ぐ。
「ブルタス前国王には愛する方がいらっしゃったそうです。しかし自らの弱点とも言うべき愛人の存在を、民にも足元の官吏にも伝えていなかった。聞くところによると御子も儲けていたようです」
「へぇ…」
「愛人と御子は遠方の集落に置き、時折逢瀬を重ねていたと聞きます。しかし自由に会えぬ事に焦れたのでしょうね。その愛人を妃として迎え入れる事を決めたのです。妃となる女性と御子を黒の城に住まわせ、官吏と民への告知を目前にしておりました。しかし告知が行われることはなかった。ブルタス前国王は正式に妃を迎えることなくお隠れになりました」
「それは確かな情報ですか?」
「妃を迎えようとしていた事は真実のようですよ。当時黒の城に仕えていた者が神国ジュリの神殿で働いておりまして、彼女に聞き及んだ話です。先ほどお話しした新王候補を殺す魔獣の話も、私は彼女から教えられました。愛は人を盲目にし、時に弱くします。ブルタス前国王は愛しき存在を間近に置くことにより、魔獣を御する力を弱めてしまったのではないかと彼女は言っておりました」
「そうですか…」
ゼータは遥か遠い日の暴王の中に、人の心を見た。
***
追憶を終えたゼータとダイナは、薄汚れた扉に横並びで耳をつけていた。城の者との相対を避けるために逃げ込んだ部屋の中で、ずいぶん長い事話し込んでしまった。そうでなくとも物品庫の探検でかなりの時間を使っている。フィビアス女王との対談を終えた国王らがサロンに戻ってきたときに、妃2人の行方がわからぬと言うのも宜しくはないだろう。レイバックとアメシスは上手く誤魔化そうとしてくれるだろうが、誤魔化しきれずに捜索願が出される事は非常にまずい。今2人がいる場所は立ち入り禁止とされた西棟の部屋なのだ。国王らよりも先に、何としてもサロンに戻らねばならない。
「ゼータ様、どうでしょう。扉を開けても大丈夫でしょうか」
「…多分。人の話し声は聞こえないですから」
ゼータとダイナは顔を見合わせ、小さな声で掛け声をかけて扉を開けた。薄く開いた扉の隙間から西棟の廊下を眺め見る。20mほど先に人の姿を確認し、ゼータは慌てて扉を閉めた。
「南棟との境目辺りに人がいます。作業着を着ていたから、壁の塗り直しでもしているのでしょうか」
「…そのようですね。どうしましょう。あの場所に長居されては南棟に戻れません」
新王即位に合わせて黒の城の至る所を改修してしまおうという思惑なのだろう。壁が綺麗になるのは結構だが、ゼータとダイナは一刻も早く南棟に戻りたいのだ。しかし壁の塗り直し作業が数分程度で終わるとも思えない。扉に張り付いたまま、ゼータは考え込む。
「1階に下りましょう。西棟の真ん中辺りに階段があります。幸い廊下の作業員はこちらに背を向けていましたから、大きな音を立てなければ気がつかれる事はないと思います。西棟1階の戸口から屋外に出ましょう」
「…それしかないですね。」
「では私が扉を開けますから、ダイナは先に階段に向かってください。さほど距離は離れていないと思います。扉を閉めたらすぐに追いかけます」
ゼータの指示にダイナは頷き、2人の間に緊張が走る。薄く開いた扉の隙間から作業員の視線が別方向にある事を確認し、ゼータは大きく扉を開けた。ダイナが扉から躍り出て、作業員とは逆方向にある階段へ向かって小走りで進む。極力音を立てぬように古びた扉を閉めたゼータは、頼むから気づかないでくれと作業員に念を送りながらダイナの後を追った。
そうして1階へと続く階段を下りた2人は人気のない廊下を進み、豪華な戸口から無事西棟を脱出することができたのだった。
机の下から這い出たゼータは安堵の息を吐いた。部屋の中に入るところを官吏に見られずに済んで良かった。扉の開閉音も彼らの耳には届かなかったようだ。万が一部屋の中に立ち入られた時の事を考え机の下に潜り込んだもののいらぬ心配だったと、ゼータはドレスの裾に付いた埃を払う。ゼータに続き机の下から這い出したダイナも、髪やドレスについた埃を手のひらで払いのけていた。
「ゼータ様の機転で助かりました。危うくいらぬ疑いを抱かれるところです」
「物品庫を探っていた事に違いはないですからね。いらぬ疑いという言葉も違和感がありますけれど」
ダイナの銀の髪についた屑ごみを指先でつまみながら、ゼータはとある事に気が付く。ダイナは探検の目的を、「新女王フィビアスに、他国侵略の意思がないことを確認したい。不必要に多くの武器を蓄えていないか、兵士の数が異様に多くはないか、といったことを城の探索を通して探る」と述べていなかっただろうか。その目的を達成するためならば、見るからに物置でしかない部屋の内部を物色する必要はない。その疑問を口にすると、ダイナは悪戯な顔で笑った。
「1,2時間の探検で、他国侵略の意思を把握することは不可能です、。武器庫には鍵がかかっているでしょうし、他国の国賓を招くのですから知られたくない情報は巧みに隠しているでしょう。私が少しばかり城の内部を偵察したところで、得るものなどありませんよ」
「待ってください。ならこの探検の意味は?」
自分はなぜ危険を冒してまで冒険の供をしているのだと、詰め寄るゼータにダイナは子どものような笑みを返した。
「だから探検ですよ。アメシス様に内緒で王宮の探検をした時は、前王が隠していた宝剣を見つけましたの。天井と壁板の境目に隙間があって、そこに埋め込まれていたんです。さすがのアメシス様も、その時は私を責める事はしませんでした。失くしたと思っていた剣が見つかったんですもの」
「えーと…」
「黒の城は建築より1400年の時が経っていると聞きます。お宝が隠されている可能性は高いと思いませんか?今のところはがらくたばかりで収穫はありませんけれど」
「それが目的ならアメシス殿に止められなかったのですか?他国の城を漁るのはまずいと」
「アメシス様は私の癖を理解しております。好きにしても良いが問題だけは起こすなと言い含められました」
ゼータはがっくりと肩を起こした。国のために決死で隠密活動に当たっていると思われたダイナは、ただ自身の趣味で城漁りをしていただけだったのだ。書棚に張り付こうとしたゼータと良い勝負である。流れるような動作で官吏に賄賂を渡した手腕から、神国ジュリの王妃は優秀だと恐縮していたわけであるが、どうやら一線を引かずに済みそうだ。ゼータは肩を落としながらも、悪戯な王妃に対し笑顔を返した。
気持ちを切り替えた2人は、偶然立ち入った部屋をぐるりと見まわした。広い部屋だ。大きな窓には紅色のカーテンがかかっているが、布地が破れ部屋の中には日が差し込んでいる。柔らかな陽光に照らされる物は古びた調度品だ。繊細な堀模様が施された執務机、同じ風合いの椅子、ガラスの割れた飾り棚、朽ちた本の詰まる書棚、皮のひび割れたソファ。他にも細々とした調度品が部屋の至る所に置かれているが、朽ち果てた家具が何に使われた物なのかはわからない。
「…物置ではないみたいですね。過去に執務室として使われていた場所でしょうか」
部屋の物色を開始したダイナは、埃の積もった執務机のそばに座り込んだ。無遠慮に机の引出しを開ける音がゼータの耳に届く。確かに部屋の造りは通い慣れたレイバックの執務室によく似ていた。扉の傍には応接用のソファが置かれ、部屋の奥には豪華な執務机が佇んでいる。南棟で立ち入った物品庫とは異なり、壁にはいくつもの額縁が飾られていた。額縁に飾られた絵画は色あせただの茶色い紙のようになってしまった物が多い。
壁の額縁を目で追っていたゼータは、そのうちの一つで視線を止めた。壁の上部、天井に近い位置にかかる他の物よりもひと際大きな額縁だ。他の絵画が朽ち果てているのに対し、その額縁の内部はまともな色合いを保っている。描かれているのは男性の肖像画だ。黒の頭髪を撫で付け、鋭い眼光を保つ40代半ばほどの男性。顔立ちは整っているが、きつい目つきと引き結ばれた口元が冷淡な印象を抱かせる。
「ブルタス前国王」
ゼータの呟きに、机漁りを止めたダイナが同様の肖像画を見上げた。
「そのようですね。書物で読んだ外見の特徴と一致します。ならば、ここは以前ブルタス前国王の執務室だったのでしょうか」
「…というよりも、フィビアス女王が王の執務室を使うようになったから、残されていたブルタス前国王の備品をこの空き部屋に移したのではないでしょうか。王の執務室というには内装が質素な気がします。部屋の場所も2階ですし」
調度品こそ豪華だが、壁紙や絨毯は特別なものとは言い難い。天井の灯りは客室の物と大差無く質素で、家具の中には壁際にひとまとめになっている物もある。不要だが捨てることのできない調度品を空き部屋に詰め込んで、とりあえず元の様態にしたという印象が強い。そしてもう一つ、この部屋のある場所は城の中でも下層階に入る2階なのだ。国家の最高権力者の執務室ともなれば、建物の上層階に位置しそうなものである。ゼータの予想に納得したようで、肖像画を見上げたダイナは何度か頷いた。
「話は聞いておりましたけれど、ブルタス前国王は本当に城の者に崇拝されていたのですね。こうして彼の持ち物が捨てられずに残されているんですもの。死して千数百年の時が経つというのに」
「ブルタス前国王が崇拝されていた?城の者に?」
ダイナの言葉はゼータには意外なものであった。ゼータは過去に何度かブルタス前国王に関する評価を耳にしたことがあるが、「賢王とは言い難い」「厳しい刑罰で民を虐げた」という負の印象ばかりであった。城の者に崇拝されていたなどという言葉は初めて聞く。
「私も人伝に聞いた話ですから、確かな情報とは言えません。しかしブルタス前国王が強靭な力を持って国土を治めていたことは事実です。強者を敬うという魔族の性を考えれば、ブルタス前国王に崇拝にも近い念を抱いていた家臣は多いのではないでしょうか」
「確かに、そうかもしれませんね」
「ゼータ様はブルタス前国王についてはあまり詳しくはない?」
「ほとんど何も知らないです。暴王であったとの話は聞いたことはありますけれど」
「不確かな情報でよければお話し致しましょうか」
「ぜひお願いします」
1200年の時を刻む調度品で埋め尽くされた部屋に、ダイナの声が響く。
元々現在のバルトリア王国地帯は小さな小国がひしめき合う混沌とした土地であった。食料を奪い合い、豊かな土壌を求めて頻繁な紛争が繰り返される場所。およそ1700年前に強大な力を持ってこれらの小国をまとめ上げた者がブルタス前国王である。膨大な魔力を有した彼は民を震え上がらせる凄惨な魔法を用いて、統治を拒む数多の集落を国土に吸収した。
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語り終えたダイナは静かに息を吐いた。1200年の時を遡った部屋の中には、床から舞い上がった細かな埃が舞う。たくさんの埃が陽の光を受け煌めく様は、幻想的と言えない事もない。
「その話が真実ならば、黒の城内部に新王即位を拒む輩がいるというのも事実なんでしょうね。ブルタス前国王の統治を懐かしむ者が、新王候補をことごとく打ち倒した」
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「あら、ドラキス王国ではそのように噂されているのですか?」
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「私が聞いた話は違いますわ。黒の城には、ブルタス前国王が飼い慣らしていた魔獣が棲んでいるのだと聞き及びました」
「魔獣?」
「そう。ブルタス前国王は黒の城の中で強大な魔獣を飼い慣らしていたのです。国王の治世に異を唱える者、反逆の意志を持つ者はこの魔獣にことごとく惨殺されたと聞きます。そして主を亡くした魔獣は、ブルタス前国王に成り代わろうとする者を敵と見なし殺していたのです。フィビアス女王が王座に立つことができたのは、この魔獣を飼い慣らしたからだとも言われています」
ダイナの話はゼータには初耳であった。メリオンのバルトリア王国講義の中で「黒の城に棲む魔獣」の話が出てきたことは一度たりともない。しかしメリオンの話とダイナの話には共通点もある。人にしろ魔獣にしろ、ブルタス前国王の残した遺物が黒の城の時を止めていたのだ。そしてフィビアスは何らかの手段でその遺物を飼い慣らし王座に座った。
どちらの話が真実であるにしろ、黒の城の中にゼータにとって得体の知れない存在がいる事に違いはなかった。姿かたちのわからぬ異形の魔獣か、それとも人の形をした生き物か。ただそれだけの違いである。
「ダイナは、ブルタス前国王の崩御の理由を知っていますか?」
突然のゼータの問いに、ダイナは考え込んだ。
「噂程度に聞いたことはあります。直接の死因としては、自らが飼い慣らしていた魔獣に喰い殺されたのだと聞きます」
「それはなぜでしょう。魔獣を御しきれなかったから?」
「恐らくそうなのでしょう」
ダイナは視線を上げ、ブルタス前国王の肖像画を見つめる。つられるようにゼータも視線を上げた。朽ちた部屋の中で唯一当時の面影を残す一枚の肖像画。薄い埃が積もりながらも一つの傷さえ見当たらないその肖像画は、この城の中にブルタス前国王を懐かしむ者がいる事をひしひしと伝えていた。
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「ブルタス前国王には愛する方がいらっしゃったそうです。しかし自らの弱点とも言うべき愛人の存在を、民にも足元の官吏にも伝えていなかった。聞くところによると御子も儲けていたようです」
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「愛人と御子は遠方の集落に置き、時折逢瀬を重ねていたと聞きます。しかし自由に会えぬ事に焦れたのでしょうね。その愛人を妃として迎え入れる事を決めたのです。妃となる女性と御子を黒の城に住まわせ、官吏と民への告知を目前にしておりました。しかし告知が行われることはなかった。ブルタス前国王は正式に妃を迎えることなくお隠れになりました」
「それは確かな情報ですか?」
「妃を迎えようとしていた事は真実のようですよ。当時黒の城に仕えていた者が神国ジュリの神殿で働いておりまして、彼女に聞き及んだ話です。先ほどお話しした新王候補を殺す魔獣の話も、私は彼女から教えられました。愛は人を盲目にし、時に弱くします。ブルタス前国王は愛しき存在を間近に置くことにより、魔獣を御する力を弱めてしまったのではないかと彼女は言っておりました」
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追憶を終えたゼータとダイナは、薄汚れた扉に横並びで耳をつけていた。城の者との相対を避けるために逃げ込んだ部屋の中で、ずいぶん長い事話し込んでしまった。そうでなくとも物品庫の探検でかなりの時間を使っている。フィビアス女王との対談を終えた国王らがサロンに戻ってきたときに、妃2人の行方がわからぬと言うのも宜しくはないだろう。レイバックとアメシスは上手く誤魔化そうとしてくれるだろうが、誤魔化しきれずに捜索願が出される事は非常にまずい。今2人がいる場所は立ち入り禁止とされた西棟の部屋なのだ。国王らよりも先に、何としてもサロンに戻らねばならない。
「ゼータ様、どうでしょう。扉を開けても大丈夫でしょうか」
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「1階に下りましょう。西棟の真ん中辺りに階段があります。幸い廊下の作業員はこちらに背を向けていましたから、大きな音を立てなければ気がつかれる事はないと思います。西棟1階の戸口から屋外に出ましょう」
「…それしかないですね。」
「では私が扉を開けますから、ダイナは先に階段に向かってください。さほど距離は離れていないと思います。扉を閉めたらすぐに追いかけます」
ゼータの指示にダイナは頷き、2人の間に緊張が走る。薄く開いた扉の隙間から作業員の視線が別方向にある事を確認し、ゼータは大きく扉を開けた。ダイナが扉から躍り出て、作業員とは逆方向にある階段へ向かって小走りで進む。極力音を立てぬように古びた扉を閉めたゼータは、頼むから気づかないでくれと作業員に念を送りながらダイナの後を追った。
そうして1階へと続く階段を下りた2人は人気のない廊下を進み、豪華な戸口から無事西棟を脱出することができたのだった。
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遠距離恋愛中だった恋人との関係が自然消滅した。どこか心にぽっかりと穴が空いたまま毎日を過ごしていた藍(あい)。大晦日の夜、寂しがり屋の親友と二人で年越しを楽しむことになり、ハメを外して酔いつぶれてしまう。目が覚めたら「ここどこ」状態!!
親友と仲良すぎな主人公と、別れたはずの恋人とのお話。
⚠️趣味で書いておりますので、誤字脱字のご報告や、世界観に対する批判コメントはご遠慮します。そういったコメントにはお返しできませんので宜しくお願いします。
大晦日あたりに出そうと思ったお話です。
【完結】オーロラ魔法士と第3王子
N2O
BL
全16話
※2022.2.18 完結しました。ありがとうございました。
※2023.11.18 文章を整えました。
辺境伯爵家次男のリーシュ・ギデオン(16)が、突然第3王子のラファド・ミファエル(18)の専属魔法士に任命された。
「なんで、僕?」
一人狼第3王子×黒髪美人魔法士
設定はふんわりです。
小説を書くのは初めてなので、何卒ご容赦ください。
嫌な人が出てこない、ふわふわハッピーエンドを書きたくて始めました。
感想聞かせていただけると大変嬉しいです。
表紙絵
⇨ キラクニ 様 X(@kirakunibl)
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今夜のご飯も一緒に食べよう~ある日突然やってきたヒゲの熊男はまさかのスパダリでした~
松本尚生
BL
瞬は失恋して職と住み処を失い、小さなワンルームから弁当屋のバイトに通っている。
ある日瞬が帰ると、「誠~~~!」と背後からヒゲの熊男が襲いかかる。「誠って誰!?」上がりこんだ熊は大量の食材を持っていた。瞬は困り果てながら調理する。瞬が「『誠さん』って恋人?」と尋ねると、彼はふふっと笑って瞬を抱きしめ――。
恋なんてコリゴリの瞬と、正体不明のスパダリ熊男=伸幸のお部屋グルメの顛末。
伸幸の持ちこむ謎の食材と、それらをテキパキとさばいていく瞬のかけ合いもお楽しみください。
死に戻り騎士は、今こそ駆け落ち王子を護ります!
時雨
BL
「駆け落ちの供をしてほしい」
すべては真面目な王子エリアスの、この一言から始まった。
王子に”国を捨てても一緒になりたい人がいる”と打ち明けられた、護衛騎士ランベルト。
発表されたばかりの公爵家令嬢との婚約はなんだったのか!?混乱する騎士の気持ちなど関係ない。
国境へ向かう二人を追う影……騎士ランベルトは追手の剣に倒れた。
後悔と共に途切れた騎士の意識は、死亡した時から三年も前の騎士団の寮で目覚める。
――二人に追手を放った犯人は、一体誰だったのか?
容疑者が浮かんでは消える。そもそも犯人が三年先まで何もしてこない保証はない。
怪しいのは、王位を争う第一王子?裏切られた公爵令嬢?…正体不明の駆け落ち相手?
今度こそ王子エリアスを護るため、過去の記憶よりも積極的に王子に関わるランベルト。
急に距離を縮める騎士を、はじめは警戒するエリアス。ランベルトの昔と変わらぬ態度に、徐々にその警戒も解けていって…?
過去にない行動で変わっていく事象。動き出す影。
ランベルトは今度こそエリアスを護りきれるのか!?
負けず嫌いで頑固で堅実、第二王子(年下) × 面倒見の良い、気の長い一途騎士(年上)のお話です。
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主人公は頑な、王子も頑固なので、ゆるい気持ちで見守っていただけると幸いです。
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