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荒城の夜半に龍が啼く
情報屋-1
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「あそこだ。緑色の小鳥の看板」
レイバックがそう声を上げたのは、人混みの中を50mも歩んだときであった。米粒の付いた指先が指し示す先は、十字路の一角に位置する石造りの建物だ。建物自体は綺麗な四角柱で、通りに面した部分に木製の扉が取り付けられている。扉の傍らにはブリキ製の郵便受けと、それから建物の2階部分には見えるだけで4つの窓。一見すれば一般の家屋と見紛う質素な建物である。そしてその建物の通り側、道行く人々からよく見える場所に、腰丈ほどの床置き看板が置かれているのだ。看板に描かれるは丸みを帯びた酒瓶と2つのワイングラス、そしてワイングラスの縁に止まる緑の小鳥。レイバックの指先は、可愛らしく描かれたその緑の小鳥を真っ直ぐに指している。
使い古された木製の扉を恐る恐る開けると、質素な外観に違い建物の内部は小洒落た作りだ。石造りの壁には揃いのランタンがずらりと並び、陽灯りの差し込まぬ店内を煌々と照らしている。天井は一般の家屋よりもいくらか高く、床面積以上に店内は広々として見える。その店内に置かれているのは、椅子のない7つの丸テーブル。光沢のある飴色の丸テーブルに並ぶは酒とつまみ。真っ昼間であるにも関わらず店内は程良く賑わっていて、7つあるテーブルのうち5つは酒を嗜む客人で埋まっている。立ち飲み形式の洒落た居酒屋、ゼータとレイバックは店内の様子をそう総括する。
店内の最奥部には、丸テーブルと同じ飴色のカウンターが佇んでいた。カウンターの上にはこれまた小洒落た2つの手提げランタン。給仕前と思われる3つのカクテルグラスが、橙色のランタン灯りを反射している。そこにまた、鮮やかな色合いのカクテルグラスが滑り込む。海洋を思わせる美しい酒を造りたるは、カウンターの内側に立つ剛腕の店主だ。ざっくり切り揃えられた黒い髪、無精髭、剝き出しの前腕は針金を思わせる剛毛で覆われている。シャツの下の胸板は厚く、2本の脚は丸太のよう。まるで「厳つい」を絵にかいたような男だ。
厳つい店主はソーセージのような10本の指で、絵を描くように酒を造る。透明なカクテルグラスに4つの氷を放り入れ、そこにさくらんぼ色の酒をとくとくと注ぐ。銀のマドラーでグラス内を一混ぜし、次いで注ぎ入れるは爽やかな蜜柑色の酒だ。出来上がった酒は混ぜることなく、水面に香り付けの蜜柑を一切れのせる。芸術品を思わせるカクテルの完成だ。店主の背後に並ぶ無数の酒瓶は、さながら絵画を描くための色とりどりの絵の具。見事な手際と感嘆の息を零しながら、レイバックとゼータは飴色のカウンターへと歩み寄る。
「酒を貰えるか。お勧めを2人分」
カウンターの下部に旅行かばんを置き、レイバックは言った。店主の無遠慮な視線が、レイバックの全身を隈なく眺める。緋色の頭髪、揃いの緋眼、日に焼けた頬、着古した麻シャツ、丁寧な縫製の皮の上着、カウンター台に置かれた武骨な手のひら。剣だこのできた左手を数秒眺め下ろした後に、店主の視線は緋色の頭髪へと戻る。珍しい色合いの髪だ、とでも言うようだ。
是とも非とも言わぬまま、厳つい店主はまた酒を作る。どこからともなく取り出した2つのカクテルグラスに、溶け掛けの氷を4つずつ放り入れる。背後の酒棚から色合いの違う2本の酒瓶を下ろし、両手の親指でコルク栓を弾いては、荒々しい動作で2つのカクテルグラスにそれぞれ酒を流し入れる。右手の酒瓶からは空色の酒が、左手の酒瓶からは朱色の酒が流れ出て、グラスの中ですみれ色に混じり合う。消毒液を思わせる濃いアルコールが香る。店主が2つの酒瓶のコルク栓を閉めるとき、カウンター台の左手に位置するくぐり戸から一人の女性が現れた。銀盆を手にしたその女性は店主の脇へと歩み寄ると、すでに完成していた4つのグラスを盆の上に次々とのせる。レイバックとゼータの姿を一瞥し、盆を掲げ何も言わずに去って行く。店員と思しき女性の向かう先は、店の入り口付近に位置する円形のテーブルだ。「お待ちどぉ」と、間延びした声。女性店員の背から視線を外し、レイバックはカウンター向かいの店主に向き直った。丁度2杯の酒が出来上がったところで、菫色の酒がレイバックとゼータの目の前に滑り込む。グラスに口を付けるより先に、レイバックは問う。
「貴方が情報屋か」
「そうだ」
返されるは、厳つい外見に相違なく重低音の腹に響く声だ。
「金次第でどんな情報でも売ってくれる?」
「その通り」
「新王即位の噂が流れているな。噂の真偽を貴方は掴んでいるか」
「もちろん、掴んでいるぜ。リーニャの北部首長であるベアトラ殿から得た確かな情報だ」
「では新王即位に関し、貴方が知り得る情報を売ってくれ。これは前金だ」
レイバックは懐から取り出した金貨を一枚、カウンター台に置いた。店主は小金の金貨をちらと眺め下ろし、それから再度レイバックへと眼差しを向ける。
「具体的には何を知りたい」
「真実と民の認識の間に齟齬がある理由だ。新王即位は事実である。しかしリーニャの住人は、バルトリア王国の頂に王が立つのだという話をまるで信じちゃいないだろう?一体なぜこのようなことが起こっている」
「…参考までに聞きたい。アンタはどこで新王即位の事実を聞き及んだんだ」
「失敬、自己紹介がまだであった。俺達はドラキス王国の王宮に務める者である。新王の即位式に合わせ、黒の城へと贈物を届ける道中だ。ドラキス王国のレイバック国王殿が、即位式に参列する予定でいらっしゃるからな。うちの王宮では、バルトリア王国に新王が立つという話は事実として認識されている」
レイバックは上着の身頃を開き、腰に差した短刀を店主の視線に晒した。刃渡り30㎝程のその短刀は朴の木の柄に収められ、鍔は無く、柄部分には紅と金の柄糸がきっちりと巻かれている。そして柄の中央部には、龍を模した目貫が堂々と据えられているのだ。龍の模様を付けた武器防具を愛用する者は、世界広しと言えどもドラゴンの王を持つドラキス王国の民だけだ。レイバックの晒した龍の目貫は、ドラキス王国の民であることの十分な証明となり得るのだ。なるほどねぇ、店主は興味深げに頷く。
「そりゃ疑いようのない情報源だ。真実と民の認識の間に、齟齬がある理由…か。ちょっと待ってくれよ。情報を整理する」
店主は丸太のような2本の腕を組み、じっと考え込んだ。数人の男女が声高に話す声、女性店員が注文を取る声、新たに店を訪れた2人の客人が「空き卓はあるか」と尋ねる声。がやがやと賑やかな店内で、店主、レイバック、ゼータの3人だけが時を止めたように黙り込む。そうした時がいくらか過ぎ、店主は腕を組んだまま徐に話し出す。
「最大の理由は、新王殿が即位を公言されていないからだろうな。リーニャの北部市長ベアトラ殿の元に黒の城からの文が届いたのは、今からおよそ2か月前のことだ。しかし文の内容は、各集落の首長へ即位式の参列を促すだけのものであった。各首長の判断で、民に向けた国王誕生の公示を行ってよいものか。それとも即位式の後、大々的なお披露目の場が設けられるものなのか。一切言及がされていなかったと聞いている。だからベアトラ殿は、リーニャの南部首長であるシシカ殿他近隣小集落の長と談義を重ね、この件については国王殿の指示を待つことにした。即ち公示についての具体的な時期手順が示されるまで、民に向けた一切の公示は控えるということ。幸いにもベアトラ殿はバルトリア王国北部地域では顔が利くからな。かなりの数の集落で対応の足並みを揃えることができたんだ。リーニャの住人が新王即位を真としない最大の理由がこれだ」
「ははぁ…そういった事情であったか。しかしそうであるのだとしても、民が新王誕生を偽りと扱う現状はいささか不自然ではないか?国土内での魔獣討伐が開始されれば、商人や旅人がその姿を目撃する機会は当然あるだろう。食糧庫の解放、法案の改正、各集落への視察等、民が新時代を感ずる機会は五万とあるはずだ」
「民が新王即位を信じぬ第2の理由がそこにある。俺が初めて新王誕生の事実を聞き及んでから今日に至るまで、俺達の生活は何も変わっちゃあいない。山道を歩けば魔獣に怯え、街を歩けば暴漢に怯え、夜になれば盗賊に怯える日々。いつ壊れるとも知れない生活を必死で守る毎日だ。それでも住む家と食を得るための仕事があるのだから、俺は恵まれた方だ。アンタら、リーニャの街の路地裏を覗いたか」
その光景は爪先についた泥汚れのように、脳味噌にこびり付いて消えることはない。
―襤褸切れを纏い座り込む子供、脚のない老婆、傷口に沸いた蛆虫を一つ一つ摘み上げる男、事切れた乳児の死体を抱く女。そして弔われることのないまま、地に朽ちた数々の死体。
「…ああ。心痛む光景であった」
「そうだろうとも。しかしあの光景がバルトリア王国の真の姿だ。三食を満足に食える者なんざ、ほんの一握りの恵まれた民だけ。この国の大多数の民は壊れかけのあばら屋に住み、草の根を嚙んでは飢えを凌いできたのさ。そして今もそうしている。新王が立つことは確かな事実であろうさ。しかしその王様とやらは、今日に至るまでの間一体何をしていたというんだ?国土に蔓延る魔獣の討伐を行わず、盗賊を取り締まらず、飢えた民に一握りの穀物すら与えない。ならば民はどうやって王の存在を信じれば良い」
店主の語りに耳済ませながら、レイバックは1028年前―国を興した当時の記憶を呼び起こす。暴王アダルフィンを斃したレイバックがまず初めに行ったことは、国家の幹となる法律の整備だ。民を抑圧した過度な刑法と、奴隷制に係る法律は全て削除。重税としか言いようのない税率は最低限まで引き下げた。そうして全ての法律を整えるまでに丸2日、3日目の朝にレイバックはドラゴンの姿で国内各地の集落を回った。集落の中心部に舞い降り、何事かと集まる人々にこう告げたのだ。
―ドラゴンの力を以て国を治める。民は最早、拷問に等しい刑罰と重税に怯える必要はない
王宮に戻ったレイバックが、次いで着手したことは3つ。まず一つ目は国内に蔓延る魔獣の盗伐だ。当時のドラキス王国は、現在のバルトリア王国と同様の状況であった。王宮軍が魔獣の討伐を行わず、凶暴な魔獣が国土を支配する。増えた魔獣は集落を襲う。田畑を荒らし、家屋を壊し、そこに住まう人々を蹂躙する。力のある者は魔獣との戦いに倒れ、残された者達は飢え苦しみ、そして死ぬ。そうしたことが500年と続き、生き残った民ですら激しく疲弊していた。レイバックが目を付けたのは、旧ジルバード王国の城下にたむろしていた荒くれ者達だ。粗暴であっても、荒国の時代を生き抜いた彼らの実力は確かである。彼らを一時的に国家に雇い入れ、衣食住の保証を条件に魔獣の討伐にあたらせたのだ。レイバックの算段は功を奏し、1か月の後には凶暴な魔獣は国土から姿を消した。
2つ目は食糧庫の開放だ。食糧庫とは国家運営の保管庫を指すのではない。国王の名のもとに開放を命じられたのは、各集落の権力者宅に併設する食糧貯蔵庫だ。米、麦、砂糖、塩、乾燥果実、燻製肉、酒。アダルフィン旧王の庇護の元で溜め込まれた食料は、飢えた人々の腹を満たすに十分な量であった。
3つ目は近隣諸国からの作物種子の買い付けだ。例え国内各地の食糧庫が解放されたとしても、所詮は一時凌ぎだ。国家の安定のためには、ドラキス王国内の田畑における食物生産で、全ての民の腹を満たさねばならない。レイバックは数人の配下を伴い、当時ドラキス王国に吸収していなかった中規模集落、さらに後のロシャ王国となる十数の小国を訪れた。アダルフィン旧王とその部下が溜め込んだ財宝を対価として、余剰の種子を買い付けたのだ。幸いにもドラキス王国国土の気候は安定している。撒いた種子が満足に実り、さらに魔獣による獣害が無ければ、国内の自給自足は可能であるのだ。
これらの施策を実現したことにより、ジルバード王宮の国庫はほぼ空となった。各地有力者宅の食糧貯蔵庫もだ。しかしそれは疲弊した国家のあるべき姿だ。誰かが多くを持つことなく、誰かが飢えることもない。皆が最低限の生活を守るためだけの富を持ち、国家の繁栄に合わせそれぞれが少しずつ富を増やしていけば良い。
畑に撒いた種が青々とした苗木になる頃、レイバックは次なる施策を実行に移した。それは一歩間違えれば暴王とも称される施策―首長の選別だ。アダルフィン旧王の庇護の元私腹を肥やした強欲者、己の保身を第一に考え民の生活を顧みなかった無能者、彼らを国王の名の下で首長の座から引きずり下ろした。溜め込んだ家財や宝飾品は全て没収、命令に従わない者は恩情なしの斬首刑。新たな首長には各集落で賢人と評される人物を任命した。
それがドラキス王国建国後最初の2か月、千年を超える歴史の冒頭部だ。レイバックの統治に、幸運と言うべき要素が多かったことは事実である。ドラゴンの姿が視覚的に人々の心を掌握しやすかったこと、国を興した直後に有能者ザトが合流したこと、ゼータの協力により王宮内部の官吏を一掃していたこと。どの要素が欠けていても、革命はあれほど円滑には成し得なかった。しかしたった2か月でそれだけのことができたのだ。レイバックが王座に就き2か月の後、民の内に王の誕生を信じぬ者が果たしていただろうか?いや、いなかった。ドラキス王国の民だけに非ず、国土周辺集落の住人も近隣諸国の民も、皆がアダルフィン旧王の崩御と新王の誕生を事実として認識していた。そうであることを踏まえれば、現在バルトリア王国の民が新王の誕生を真としない現状は甚だ奇妙だ。店主の言葉の通り、民が国王即位を信じるに足るだけの施策が実行されていないとなれば、彼の女王は一体今まで何をしてきた。盛大な即位式を催すよりも先に、すべきことは山のようにあるはずなのに。それは心の片隅に沸いた疑念。澄んだグラスの水に一滴の墨を落としたように、胸の内を薄墨色に染め上げていく。
「失敬、少々席を外すぞ。喧嘩だ」
溜息交じりの店主の言葉に、レイバックは長考から覚めた。がやがやと賑やかな店内を振り返って見れば、確かに店の出入り口付近で諍いがある。一触即発の雰囲気で胸倉を掴み合う者は、同じ年頃の2人の女性だ。武器こそ手にしていないが、握り締められた拳が彼女達の怒りを物語っている。このまま放置すれば良くて殴り合い、怒り任せに魔法が乱発されれば死傷者が出ることは免れまい。
いざとなれば店外への逃走もやむなし。レイバックとゼータが旅行かばんの持ち手に手のひらを掛けたその時である。「ねぇちゃん達、店内での喧嘩は御法度だ」重低音の忠告と共に、諍いの場には剛腕の店主が乱入する。女性の一人が「邪魔をするな」と声を上げ掛けるが、しかし怒り任せの暴言は尻すぼみに消える。己の頭上を遥かに超える店主の双眸を見たからだ。剃刀のように鋭い眼差しに、分厚い胸板。筋肉の盛り上がる2本の腕。「厳つい」を絵に描いたような店主の風貌は、喧嘩の抑止力として十分な力を持ち合わせている。女性2人はぼそぼそと謝罪を述べ、丸テーブルの上に数枚の銀貨を載せては足早に店を出て行く。喧嘩の行く末はわからない、しかしこの場は一件落着だ。レイバックとゼータは目配せの後、旅行かばんを床へと下ろす。
レイバックがそう声を上げたのは、人混みの中を50mも歩んだときであった。米粒の付いた指先が指し示す先は、十字路の一角に位置する石造りの建物だ。建物自体は綺麗な四角柱で、通りに面した部分に木製の扉が取り付けられている。扉の傍らにはブリキ製の郵便受けと、それから建物の2階部分には見えるだけで4つの窓。一見すれば一般の家屋と見紛う質素な建物である。そしてその建物の通り側、道行く人々からよく見える場所に、腰丈ほどの床置き看板が置かれているのだ。看板に描かれるは丸みを帯びた酒瓶と2つのワイングラス、そしてワイングラスの縁に止まる緑の小鳥。レイバックの指先は、可愛らしく描かれたその緑の小鳥を真っ直ぐに指している。
使い古された木製の扉を恐る恐る開けると、質素な外観に違い建物の内部は小洒落た作りだ。石造りの壁には揃いのランタンがずらりと並び、陽灯りの差し込まぬ店内を煌々と照らしている。天井は一般の家屋よりもいくらか高く、床面積以上に店内は広々として見える。その店内に置かれているのは、椅子のない7つの丸テーブル。光沢のある飴色の丸テーブルに並ぶは酒とつまみ。真っ昼間であるにも関わらず店内は程良く賑わっていて、7つあるテーブルのうち5つは酒を嗜む客人で埋まっている。立ち飲み形式の洒落た居酒屋、ゼータとレイバックは店内の様子をそう総括する。
店内の最奥部には、丸テーブルと同じ飴色のカウンターが佇んでいた。カウンターの上にはこれまた小洒落た2つの手提げランタン。給仕前と思われる3つのカクテルグラスが、橙色のランタン灯りを反射している。そこにまた、鮮やかな色合いのカクテルグラスが滑り込む。海洋を思わせる美しい酒を造りたるは、カウンターの内側に立つ剛腕の店主だ。ざっくり切り揃えられた黒い髪、無精髭、剝き出しの前腕は針金を思わせる剛毛で覆われている。シャツの下の胸板は厚く、2本の脚は丸太のよう。まるで「厳つい」を絵にかいたような男だ。
厳つい店主はソーセージのような10本の指で、絵を描くように酒を造る。透明なカクテルグラスに4つの氷を放り入れ、そこにさくらんぼ色の酒をとくとくと注ぐ。銀のマドラーでグラス内を一混ぜし、次いで注ぎ入れるは爽やかな蜜柑色の酒だ。出来上がった酒は混ぜることなく、水面に香り付けの蜜柑を一切れのせる。芸術品を思わせるカクテルの完成だ。店主の背後に並ぶ無数の酒瓶は、さながら絵画を描くための色とりどりの絵の具。見事な手際と感嘆の息を零しながら、レイバックとゼータは飴色のカウンターへと歩み寄る。
「酒を貰えるか。お勧めを2人分」
カウンターの下部に旅行かばんを置き、レイバックは言った。店主の無遠慮な視線が、レイバックの全身を隈なく眺める。緋色の頭髪、揃いの緋眼、日に焼けた頬、着古した麻シャツ、丁寧な縫製の皮の上着、カウンター台に置かれた武骨な手のひら。剣だこのできた左手を数秒眺め下ろした後に、店主の視線は緋色の頭髪へと戻る。珍しい色合いの髪だ、とでも言うようだ。
是とも非とも言わぬまま、厳つい店主はまた酒を作る。どこからともなく取り出した2つのカクテルグラスに、溶け掛けの氷を4つずつ放り入れる。背後の酒棚から色合いの違う2本の酒瓶を下ろし、両手の親指でコルク栓を弾いては、荒々しい動作で2つのカクテルグラスにそれぞれ酒を流し入れる。右手の酒瓶からは空色の酒が、左手の酒瓶からは朱色の酒が流れ出て、グラスの中ですみれ色に混じり合う。消毒液を思わせる濃いアルコールが香る。店主が2つの酒瓶のコルク栓を閉めるとき、カウンター台の左手に位置するくぐり戸から一人の女性が現れた。銀盆を手にしたその女性は店主の脇へと歩み寄ると、すでに完成していた4つのグラスを盆の上に次々とのせる。レイバックとゼータの姿を一瞥し、盆を掲げ何も言わずに去って行く。店員と思しき女性の向かう先は、店の入り口付近に位置する円形のテーブルだ。「お待ちどぉ」と、間延びした声。女性店員の背から視線を外し、レイバックはカウンター向かいの店主に向き直った。丁度2杯の酒が出来上がったところで、菫色の酒がレイバックとゼータの目の前に滑り込む。グラスに口を付けるより先に、レイバックは問う。
「貴方が情報屋か」
「そうだ」
返されるは、厳つい外見に相違なく重低音の腹に響く声だ。
「金次第でどんな情報でも売ってくれる?」
「その通り」
「新王即位の噂が流れているな。噂の真偽を貴方は掴んでいるか」
「もちろん、掴んでいるぜ。リーニャの北部首長であるベアトラ殿から得た確かな情報だ」
「では新王即位に関し、貴方が知り得る情報を売ってくれ。これは前金だ」
レイバックは懐から取り出した金貨を一枚、カウンター台に置いた。店主は小金の金貨をちらと眺め下ろし、それから再度レイバックへと眼差しを向ける。
「具体的には何を知りたい」
「真実と民の認識の間に齟齬がある理由だ。新王即位は事実である。しかしリーニャの住人は、バルトリア王国の頂に王が立つのだという話をまるで信じちゃいないだろう?一体なぜこのようなことが起こっている」
「…参考までに聞きたい。アンタはどこで新王即位の事実を聞き及んだんだ」
「失敬、自己紹介がまだであった。俺達はドラキス王国の王宮に務める者である。新王の即位式に合わせ、黒の城へと贈物を届ける道中だ。ドラキス王国のレイバック国王殿が、即位式に参列する予定でいらっしゃるからな。うちの王宮では、バルトリア王国に新王が立つという話は事実として認識されている」
レイバックは上着の身頃を開き、腰に差した短刀を店主の視線に晒した。刃渡り30㎝程のその短刀は朴の木の柄に収められ、鍔は無く、柄部分には紅と金の柄糸がきっちりと巻かれている。そして柄の中央部には、龍を模した目貫が堂々と据えられているのだ。龍の模様を付けた武器防具を愛用する者は、世界広しと言えどもドラゴンの王を持つドラキス王国の民だけだ。レイバックの晒した龍の目貫は、ドラキス王国の民であることの十分な証明となり得るのだ。なるほどねぇ、店主は興味深げに頷く。
「そりゃ疑いようのない情報源だ。真実と民の認識の間に、齟齬がある理由…か。ちょっと待ってくれよ。情報を整理する」
店主は丸太のような2本の腕を組み、じっと考え込んだ。数人の男女が声高に話す声、女性店員が注文を取る声、新たに店を訪れた2人の客人が「空き卓はあるか」と尋ねる声。がやがやと賑やかな店内で、店主、レイバック、ゼータの3人だけが時を止めたように黙り込む。そうした時がいくらか過ぎ、店主は腕を組んだまま徐に話し出す。
「最大の理由は、新王殿が即位を公言されていないからだろうな。リーニャの北部市長ベアトラ殿の元に黒の城からの文が届いたのは、今からおよそ2か月前のことだ。しかし文の内容は、各集落の首長へ即位式の参列を促すだけのものであった。各首長の判断で、民に向けた国王誕生の公示を行ってよいものか。それとも即位式の後、大々的なお披露目の場が設けられるものなのか。一切言及がされていなかったと聞いている。だからベアトラ殿は、リーニャの南部首長であるシシカ殿他近隣小集落の長と談義を重ね、この件については国王殿の指示を待つことにした。即ち公示についての具体的な時期手順が示されるまで、民に向けた一切の公示は控えるということ。幸いにもベアトラ殿はバルトリア王国北部地域では顔が利くからな。かなりの数の集落で対応の足並みを揃えることができたんだ。リーニャの住人が新王即位を真としない最大の理由がこれだ」
「ははぁ…そういった事情であったか。しかしそうであるのだとしても、民が新王誕生を偽りと扱う現状はいささか不自然ではないか?国土内での魔獣討伐が開始されれば、商人や旅人がその姿を目撃する機会は当然あるだろう。食糧庫の解放、法案の改正、各集落への視察等、民が新時代を感ずる機会は五万とあるはずだ」
「民が新王即位を信じぬ第2の理由がそこにある。俺が初めて新王誕生の事実を聞き及んでから今日に至るまで、俺達の生活は何も変わっちゃあいない。山道を歩けば魔獣に怯え、街を歩けば暴漢に怯え、夜になれば盗賊に怯える日々。いつ壊れるとも知れない生活を必死で守る毎日だ。それでも住む家と食を得るための仕事があるのだから、俺は恵まれた方だ。アンタら、リーニャの街の路地裏を覗いたか」
その光景は爪先についた泥汚れのように、脳味噌にこびり付いて消えることはない。
―襤褸切れを纏い座り込む子供、脚のない老婆、傷口に沸いた蛆虫を一つ一つ摘み上げる男、事切れた乳児の死体を抱く女。そして弔われることのないまま、地に朽ちた数々の死体。
「…ああ。心痛む光景であった」
「そうだろうとも。しかしあの光景がバルトリア王国の真の姿だ。三食を満足に食える者なんざ、ほんの一握りの恵まれた民だけ。この国の大多数の民は壊れかけのあばら屋に住み、草の根を嚙んでは飢えを凌いできたのさ。そして今もそうしている。新王が立つことは確かな事実であろうさ。しかしその王様とやらは、今日に至るまでの間一体何をしていたというんだ?国土に蔓延る魔獣の討伐を行わず、盗賊を取り締まらず、飢えた民に一握りの穀物すら与えない。ならば民はどうやって王の存在を信じれば良い」
店主の語りに耳済ませながら、レイバックは1028年前―国を興した当時の記憶を呼び起こす。暴王アダルフィンを斃したレイバックがまず初めに行ったことは、国家の幹となる法律の整備だ。民を抑圧した過度な刑法と、奴隷制に係る法律は全て削除。重税としか言いようのない税率は最低限まで引き下げた。そうして全ての法律を整えるまでに丸2日、3日目の朝にレイバックはドラゴンの姿で国内各地の集落を回った。集落の中心部に舞い降り、何事かと集まる人々にこう告げたのだ。
―ドラゴンの力を以て国を治める。民は最早、拷問に等しい刑罰と重税に怯える必要はない
王宮に戻ったレイバックが、次いで着手したことは3つ。まず一つ目は国内に蔓延る魔獣の盗伐だ。当時のドラキス王国は、現在のバルトリア王国と同様の状況であった。王宮軍が魔獣の討伐を行わず、凶暴な魔獣が国土を支配する。増えた魔獣は集落を襲う。田畑を荒らし、家屋を壊し、そこに住まう人々を蹂躙する。力のある者は魔獣との戦いに倒れ、残された者達は飢え苦しみ、そして死ぬ。そうしたことが500年と続き、生き残った民ですら激しく疲弊していた。レイバックが目を付けたのは、旧ジルバード王国の城下にたむろしていた荒くれ者達だ。粗暴であっても、荒国の時代を生き抜いた彼らの実力は確かである。彼らを一時的に国家に雇い入れ、衣食住の保証を条件に魔獣の討伐にあたらせたのだ。レイバックの算段は功を奏し、1か月の後には凶暴な魔獣は国土から姿を消した。
2つ目は食糧庫の開放だ。食糧庫とは国家運営の保管庫を指すのではない。国王の名のもとに開放を命じられたのは、各集落の権力者宅に併設する食糧貯蔵庫だ。米、麦、砂糖、塩、乾燥果実、燻製肉、酒。アダルフィン旧王の庇護の元で溜め込まれた食料は、飢えた人々の腹を満たすに十分な量であった。
3つ目は近隣諸国からの作物種子の買い付けだ。例え国内各地の食糧庫が解放されたとしても、所詮は一時凌ぎだ。国家の安定のためには、ドラキス王国内の田畑における食物生産で、全ての民の腹を満たさねばならない。レイバックは数人の配下を伴い、当時ドラキス王国に吸収していなかった中規模集落、さらに後のロシャ王国となる十数の小国を訪れた。アダルフィン旧王とその部下が溜め込んだ財宝を対価として、余剰の種子を買い付けたのだ。幸いにもドラキス王国国土の気候は安定している。撒いた種子が満足に実り、さらに魔獣による獣害が無ければ、国内の自給自足は可能であるのだ。
これらの施策を実現したことにより、ジルバード王宮の国庫はほぼ空となった。各地有力者宅の食糧貯蔵庫もだ。しかしそれは疲弊した国家のあるべき姿だ。誰かが多くを持つことなく、誰かが飢えることもない。皆が最低限の生活を守るためだけの富を持ち、国家の繁栄に合わせそれぞれが少しずつ富を増やしていけば良い。
畑に撒いた種が青々とした苗木になる頃、レイバックは次なる施策を実行に移した。それは一歩間違えれば暴王とも称される施策―首長の選別だ。アダルフィン旧王の庇護の元私腹を肥やした強欲者、己の保身を第一に考え民の生活を顧みなかった無能者、彼らを国王の名の下で首長の座から引きずり下ろした。溜め込んだ家財や宝飾品は全て没収、命令に従わない者は恩情なしの斬首刑。新たな首長には各集落で賢人と評される人物を任命した。
それがドラキス王国建国後最初の2か月、千年を超える歴史の冒頭部だ。レイバックの統治に、幸運と言うべき要素が多かったことは事実である。ドラゴンの姿が視覚的に人々の心を掌握しやすかったこと、国を興した直後に有能者ザトが合流したこと、ゼータの協力により王宮内部の官吏を一掃していたこと。どの要素が欠けていても、革命はあれほど円滑には成し得なかった。しかしたった2か月でそれだけのことができたのだ。レイバックが王座に就き2か月の後、民の内に王の誕生を信じぬ者が果たしていただろうか?いや、いなかった。ドラキス王国の民だけに非ず、国土周辺集落の住人も近隣諸国の民も、皆がアダルフィン旧王の崩御と新王の誕生を事実として認識していた。そうであることを踏まえれば、現在バルトリア王国の民が新王の誕生を真としない現状は甚だ奇妙だ。店主の言葉の通り、民が国王即位を信じるに足るだけの施策が実行されていないとなれば、彼の女王は一体今まで何をしてきた。盛大な即位式を催すよりも先に、すべきことは山のようにあるはずなのに。それは心の片隅に沸いた疑念。澄んだグラスの水に一滴の墨を落としたように、胸の内を薄墨色に染め上げていく。
「失敬、少々席を外すぞ。喧嘩だ」
溜息交じりの店主の言葉に、レイバックは長考から覚めた。がやがやと賑やかな店内を振り返って見れば、確かに店の出入り口付近で諍いがある。一触即発の雰囲気で胸倉を掴み合う者は、同じ年頃の2人の女性だ。武器こそ手にしていないが、握り締められた拳が彼女達の怒りを物語っている。このまま放置すれば良くて殴り合い、怒り任せに魔法が乱発されれば死傷者が出ることは免れまい。
いざとなれば店外への逃走もやむなし。レイバックとゼータが旅行かばんの持ち手に手のひらを掛けたその時である。「ねぇちゃん達、店内での喧嘩は御法度だ」重低音の忠告と共に、諍いの場には剛腕の店主が乱入する。女性の一人が「邪魔をするな」と声を上げ掛けるが、しかし怒り任せの暴言は尻すぼみに消える。己の頭上を遥かに超える店主の双眸を見たからだ。剃刀のように鋭い眼差しに、分厚い胸板。筋肉の盛り上がる2本の腕。「厳つい」を絵に描いたような店主の風貌は、喧嘩の抑止力として十分な力を持ち合わせている。女性2人はぼそぼそと謝罪を述べ、丸テーブルの上に数枚の銀貨を載せては足早に店を出て行く。喧嘩の行く末はわからない、しかしこの場は一件落着だ。レイバックとゼータは目配せの後、旅行かばんを床へと下ろす。
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