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荒城の夜半に龍が啼く
空の旅-1
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早朝、ポトス城の南部に位置する兵士の訓練場に1匹のドラゴンが座していた。朝日に煌めく緋色の鱗で全身を覆い、その頭頂から尾の先まで30mはあろうかという巨大なドラゴン。蜥蜴の形状をした頭部には黄金色の眼が瞬き、口元には上下に鋭い牙が立ち並ぶ。しなやかな四足にはそれぞれ人の上腕ほどの大きさもある3本の鍵爪が備えられ、巨大な体躯を空へと舞いあげるための翼は、天に開けば数十の人を容易く覆い隠すほどの大きさがある。
ドラゴンの周りをぐるりと囲うようにして、大勢の人が集まっていた。遮蔽物の無い訓練場にはひやりとした風が通り抜け、上着を羽織る人々は暖を取るように身を寄せ合っている。冷えた指先をさすりながらも、人々は皆目の前に座す緋色のドラゴンの風貌に見入っている。
数多の魔獣が生息するドラキス王国内においても、神獣であるドラゴンの姿を見る機会は稀だ。ドラゴンは遥か遠い地の高い山の上に巣を作り暮らしていると言われており、比較的平坦な土地の多いドラキス王国内に野生のドラゴンが住み着いた事は過去に一度もない。運よくその姿を見ることができたとしても、それは上空に小さな影を望む程度のものだ。人々が指先を温めながらも早朝の訓練場に集まっているのは、ドラゴンを間近で臨むことができる貴重な機会を逃さんとするためである。中にはその風貌を紙面に収めるべく、鮮やかな手つきで画用紙に鉛筆を走らせている者もいる。
芝生に顎を付ける緋色のドラゴンの鼻先には、3人の人物が集っている。ドラキス王国のナンバー2と名高いザト、知識人メリオン、そして間もなく旅路に着くゼータだ。3人はドラゴンの耳にも届くようにと、声を大にして旅路の最終確認を行っている。芝生に伏したドラゴン―国王レイバックは黄金色の眼を瞬かせながら、3人の会話に耳を澄ませている。一見すると恐ろしい風貌でありながらも、ゆらゆらと尾を揺らし地に伏す様子は慣らされた犬のようで愛らしくもある。
「旅路の注意点は事前にお伝えしておりますから、重要事項だけ確認致します。まずは往路の休憩地点について。飛行が順調であれば国内での休憩が2度、越境後の休憩が1度です。バルトリア王国内での休憩地点は以前お伝えした通り、巨大な三日月湖の湖畔に位置するリーニャという街です。バルトリア王国内では、黒の城の城下街に次ぐ繁栄都市です。上空からでも見逃すことはないでしょう」
メリオンはドラゴンの黄金色の瞳を見つめ、それから隣に立つゼータに視線を移した。黒の城までの予定飛行時間は4時間、1時間ごとに3度の休憩を挟む。ドラゴン単体ならば4時間連続での飛行は可能だが、背に乗るゼータの負担を考えての休憩である。未だかつてドラゴンの背に跨り旅をした者はいない。大地を離れた空の旅が、人の身体にとってどれほどの負担であるかは想像が付かないのだ。飛行中の安全を第一に考え、ゼータの装備も厳重だ。年間を通して温暖な気候であるドラキス王国では珍しく、膝丈まである皮の上着に揃いの皮の手袋。それに毛糸の帽子と襟巻を合わせるという徹底ぶりである。ドラゴンの飛行速度は一般の騎獣よりも遥かに速い。加えて地上よりも気温の低い上空を飛ぶのだから、背に乗る者は当然寒さに凍えることとなる。ゼータの身体の負担を最小限に留めるために、メリオンの指導の元ゼータの装備には完全防寒対策が施されたのだ。
「次に飛行中の注意点でございます。バルトリア王国の国土には、現在も当たり前のように飛行獣が生息します。ドラゴンに盾突く愚かな飛行獣などそう多くはいませんが、念のためご注意を。襲来の危険があるとすれば好戦的なグリフィンでしょうか。単騎であれば気に掛ける必要はありませんが、群れに遭遇すると厄介です。目視次第逃げることをお勧めします。また飛行獣との遭遇を避けるため、極端な高空飛行にならぬようご注意を。あまり高く昇りすぎるとゼータ様のお身体に障ります。集落の造形がわかる程度の高さ、というのが飛行の目安でございます」
メリオンは言葉を切り、再度ドラゴンの瞳に視線を合わせた。黄金色の瞳が数度瞬く。了解した。
「確認事項は以上です。では、旅の無事を祈っております」
「王、ゼータ様。どうぞお怪我無くお帰りくださいませ」
メリオンとザトは、思い思いに激励の言葉を述べる。
「ありがとうございます。何とか上手いこと切り抜けてきます」
ゼータは笑い、巨大なドラゴンの背によじ登るべく鞍に手をかけた。その鞍は、手先の器用な小人族長ウェールが一月をかけて作成した特注品。この世界に二つとして同じ物は存在しない。ゼータが無事鞍に跨ったことを確認し、メリオンとザトは小走りにドラゴンから距離を取る。
「皆、王と王妃が発つぞ。十分に離れろ、吹き飛ばされるぞ!」
ザトの声と共に、緋色の翼が開かれた。ばさりばさりと音を立て、巨大な翼が数度はためく。暴風が巻き起こる。たむろしていた者達は転がるようにしてドラゴンから距離を取り、風に巻き上げられた帽子が青空を昇る。まもなくして巨大な体躯はふわりと宙に浮かんだ。芝生を撒き散らすほどの嵐を巻き起こしながら、ドラゴンは徐々に徐々に上空へと昇る。そして一時動きを止め、一気に大空へと舞い上がった。大地を揺るがす咆哮。残された者達は茫然と空を見上げ、ある者は地面に尻もちを付いたまま、遠ざかってゆく緋色の影を見送った。
離陸後、ゼータはただひたすら眼下の景色観察に勤しんだ。通り過ぎて行く景色のほとんどは森林で、時折小さな集落がぽつりと佇む。大小多くの集落を抱えるドラキス王国であるが、集落の多くは国土の北方か、ロシャ王国へと続く西方面に位置している。バルトリア王国に面する南方に位置する集落は多くはない。その理由は、荒国であるバルトリア王国の国土には凶暴な魔獣が数多く生息するため。国境を越えて魔獣が流れてくる頻度が高いためだ。王宮軍への魔獣討伐依頼も、その大半がバルトリア王国方面に位置する集落からの依頼である。以前は専門研究である魔獣の分布調査のため、王国内各地を飛び回っていたゼータであるが、バルトリア方面の集落に足を運んだ経験は無い。研究員であるゼータにとって、今眼下に広がる光景は正に心躍る未開の土地なのだ。深い森林地帯にぽつりと佇む小集落を見つけるたびに、ゼータは遠く離れた地上に目を凝らす。しかしそこに人らしき影を発見しても、豆粒大の人々の種族を見分けることは容易ではない。離陸から一時間の間に6つの集落を発見したゼータであるが、そこに住まう者達が何者であるのか、一度たりとも当たりを付けることは叶わなかった。
離陸から一時間と15分が経過した頃、緋色のドラゴンは地上へと舞い降りた。予定していた地点において、初回の休憩を取るためである。休憩地点の目印は、ドラキス王国南方において比較的住人の数が多いとされる獣人族の集落だ。深い森林地帯を、円形に切り開いた中規模集落。その造形は空の上からでもよくわかる。
ゼータとレイバックが降り立った場所は、集落からは少し離れた草原地帯であった。森林地帯を切り開いて作られた楕円形の広場には、人影はおろか家畜や小動物の姿もない。集落の子供達が遊ぶための広場であるのか、それとも家畜の放牧場か。考えたところで答えは出ない。この休憩地点では集落内部に足を踏み入れることはしない。それはその集落に住まう者達の特性を鑑みての判断だ。その特性とは、獣の血を濃く引く獣人族であるということ。獣人族は平常時の形態が獣に近いほど、身体に流れる獣の血が濃いとされている。肉体の俊敏さ、鋭い嗅覚、飢餓耐性といった獣特有の特性を生まれながらにして備えているのだ。そして彼らは本能が獣であるがゆえに強者を恐れ、時に崇拝する。神獣であるドラゴンの血を引くレイバックなど、彼らにとれば神に等しい存在なのだ。神が集落を訪れたともなれば、集落を巻き込んでのお祭り騒ぎに発展しかねない。道中で時間を浪費する危険性を回避するために、集落立ち寄りは不可との判断が下されたのである。
広場の一角に腰を下ろしたゼータとレイバックは、各々鞄の中から水筒を取り出した。それは今朝方カミラが用意してくれた物だ。揃いの水筒は通称「魔法瓶」と呼ばれ、内部に入れた飲料の保冷・保温が可能という便利な代物である。まだひんやりと冷たい麦茶を、ゼータは喉を鳴らして飲み下す。ゼータの人生で初めてとなる空の旅、手袋と上着で寒さを凌ぐことはできても、顔面に打ち付ける強風ばかりは避けようがない。1時間に渡り冷風に晒されたゼータの頬は老人のようにかさかさ、唇も口内も乾ききっている。冷たい麦茶が乾いた粘膜を潤してゆく。
「乗り心地はどうだった。気になる点があれば今のうちに言ってくれ。先は長い」
そう伝えるレイバックの左手には、ゼータと揃いの魔法瓶。中の麦茶はまだ一口分しか減っていない。如何なる暴風も、ドラゴンの堅い表皮を乾かすことなどできやしないのだ。
「決して快適とは言えませんけれど悪くはなかったですよ。途中で休憩を挟めば、あと3時間なんとか持ち堪えられそうです」
「そうか、それは良かった」
「本当に、試乗の時よりずっと乗り心地が良かったです。ひょっとして飛行の練習をしました?」
ゼータは初めてドラゴンの背に跨ったときのことを思い出す。それは今日から凡そ一月前、小人族長ウェール手製のドラゴン鞍が無事完成に至った直後の出来事だ。鞍の微調整も兼ねて行われた試乗会、ザトとメリオンを含む数名の十二種族長に見守られながら、ゼータはレイバックと共に大空へと舞い上がったのだ。参加者皆が期待に胸高鳴らせた試乗会であったが、その結果は散々であった。離陸から僅か10分足らず、ゼータは満身創痍で地上に降り立つ羽目となったのである。満身創痍の原因は第一に上空の低温、第二に全身に吹き付ける強風、第三にドラゴンの飛行の荒さだ。人生の大半を人の姿で過ごすレイバックは、お世辞にも飛行技術が巧みとは言い難い。急上昇に急降下、急旋回、加えて四六時中止むことのない揺れ。飛行の速度も速く、ゼータは10分の間に何度背から振り落とされそうになったかわからない。疲労困憊で地に足を付けたゼータは、一月後の旅路に激しい不安を覚えたものである。
しかし嬉しい誤算である。今日のレイバックの飛行に当時の荒々しさはなく、一時間の飛行を終えたにも関わらずゼータの体力には余力がある。一体何がドラゴンの飛行を上達させたものか。ゼータの疑問に答える者は、渋い表情を浮かべるレイバックだ。
「練習はした。メリオンに協力してもらったんだ」
「へぇ、メリオンに?レイの方から依頼したんですか」
「いや…メリオンからの呼び出しだ。試乗会のとき、僅か10分程度の飛行でゼータが疲労困憊だったろう。それが気になったらしい。試しに乗せてみろと言われて、30分ほどメリオンを背に乗せ飛んだんだ。地上に降りた後は、まさか飛行の講義である」
「…飛行の講義?どんなことを教わったんですか?」「
「むやみに翼をばたつかせるのは揺れるから止めろ。翼の角度をうまく調整して風に乗れば、最小限の動きでの飛行が可能なはずだ。旋回は極端と思うほど大回りで良い。胴体が斜めになれば、背に乗る者は握力を頼りに鞍にしがみつかねばならない事を忘れるな。等々。まさか飛べぬ相手から飛行技術を教わることになろうとは…」
「そ、そうですか…」
渋顔レイバックを前にゼータは細やかな笑いを零す。
メリオンは騎獣の扱いに長けている。相手が気性の荒い騎獣であっても、珍しい騎獣であっても、臆することなく乗りこなす。それも鞍無しで容易く騎獣を操って見せるのだから驚きだ。巧技の理由を問うてみれば、「バルトリア王国に鞍などという贅沢品は無い」との答えである。レイバックへの的確な教えは、無法地で磨かれた騎乗技術に由来するものだ。
「その後もメリオンを乗せて何度か空を飛んだ。飛行練習のためということもあるが、今日の日に向けて確認すべき事項が山のようにあったんだ。黒の城までの所要時間が4時間と予想できたのも、メリオンが凡その飛行速度を割り出してくれたからだ。越境こそ叶わなかったが、国内休憩地点の確認もした。…ああ、狭い場所での着陸練習もしたな。黒の城での着陸地点がどの程度の広さであるかわからないから」
「へぇ…」
「最初の着陸練習時、目測を誤って強引な着陸をしたらメリオンを背から弾き落としたんだ。大分絞られたぞ。式典の前に王妃の全身の骨を砕くつもりか、とな」
「なるほど。私の全身の骨は、メリオンの犠牲があって無事形を保っているということですね。旅路の準備やバルトリア王国に関する教示も含めれば、メリオンは今回の遠征の功労者です。本当に感謝してもしきれません。ね、レイ」
「んん…まぁ、そうだな」
その時ゼータとレイバックの耳に、人の話し声が届く。声のする方を辿れば、草原の逆端から歩いてくる人と獣の姿があった。数は3人と2頭。偶然この場所を訪れたのか。それとも緋色のドラゴンが集落付近に降り立つところを目撃し、様子を見るためにやってきたのか。いずれにせよ今この場所で、集落に住民と顔を合わせるのは避けたいところだ。
「ゼータ、すぐに発つ。身支度をしろ」
レイバックは魔法瓶の蓋をきつく締め、ゼータの胸元に押し付けた。ゼータが二人分の魔法瓶を手荷物の中へと仕舞う間に、レイバックは巨躯のドラゴンへと姿を変える。人の叫び声と獣の唸り。村人と思しき3人と2頭は、全速力で草原を駆けて来る。しかし彼らがドラゴンの足元へと辿り着くことはない。ゼータが鐙(あぶみ)に足を掛けるが早く、緋色のドラゴンは暴風を巻き起こしながら大空へと舞い上がるのだ。
「3日後にまた立ち寄りますね!」
ゼータの声が彼らに届いたかどうかは定かではない。
ドラゴンの周りをぐるりと囲うようにして、大勢の人が集まっていた。遮蔽物の無い訓練場にはひやりとした風が通り抜け、上着を羽織る人々は暖を取るように身を寄せ合っている。冷えた指先をさすりながらも、人々は皆目の前に座す緋色のドラゴンの風貌に見入っている。
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芝生に顎を付ける緋色のドラゴンの鼻先には、3人の人物が集っている。ドラキス王国のナンバー2と名高いザト、知識人メリオン、そして間もなく旅路に着くゼータだ。3人はドラゴンの耳にも届くようにと、声を大にして旅路の最終確認を行っている。芝生に伏したドラゴン―国王レイバックは黄金色の眼を瞬かせながら、3人の会話に耳を澄ませている。一見すると恐ろしい風貌でありながらも、ゆらゆらと尾を揺らし地に伏す様子は慣らされた犬のようで愛らしくもある。
「旅路の注意点は事前にお伝えしておりますから、重要事項だけ確認致します。まずは往路の休憩地点について。飛行が順調であれば国内での休憩が2度、越境後の休憩が1度です。バルトリア王国内での休憩地点は以前お伝えした通り、巨大な三日月湖の湖畔に位置するリーニャという街です。バルトリア王国内では、黒の城の城下街に次ぐ繁栄都市です。上空からでも見逃すことはないでしょう」
メリオンはドラゴンの黄金色の瞳を見つめ、それから隣に立つゼータに視線を移した。黒の城までの予定飛行時間は4時間、1時間ごとに3度の休憩を挟む。ドラゴン単体ならば4時間連続での飛行は可能だが、背に乗るゼータの負担を考えての休憩である。未だかつてドラゴンの背に跨り旅をした者はいない。大地を離れた空の旅が、人の身体にとってどれほどの負担であるかは想像が付かないのだ。飛行中の安全を第一に考え、ゼータの装備も厳重だ。年間を通して温暖な気候であるドラキス王国では珍しく、膝丈まである皮の上着に揃いの皮の手袋。それに毛糸の帽子と襟巻を合わせるという徹底ぶりである。ドラゴンの飛行速度は一般の騎獣よりも遥かに速い。加えて地上よりも気温の低い上空を飛ぶのだから、背に乗る者は当然寒さに凍えることとなる。ゼータの身体の負担を最小限に留めるために、メリオンの指導の元ゼータの装備には完全防寒対策が施されたのだ。
「次に飛行中の注意点でございます。バルトリア王国の国土には、現在も当たり前のように飛行獣が生息します。ドラゴンに盾突く愚かな飛行獣などそう多くはいませんが、念のためご注意を。襲来の危険があるとすれば好戦的なグリフィンでしょうか。単騎であれば気に掛ける必要はありませんが、群れに遭遇すると厄介です。目視次第逃げることをお勧めします。また飛行獣との遭遇を避けるため、極端な高空飛行にならぬようご注意を。あまり高く昇りすぎるとゼータ様のお身体に障ります。集落の造形がわかる程度の高さ、というのが飛行の目安でございます」
メリオンは言葉を切り、再度ドラゴンの瞳に視線を合わせた。黄金色の瞳が数度瞬く。了解した。
「確認事項は以上です。では、旅の無事を祈っております」
「王、ゼータ様。どうぞお怪我無くお帰りくださいませ」
メリオンとザトは、思い思いに激励の言葉を述べる。
「ありがとうございます。何とか上手いこと切り抜けてきます」
ゼータは笑い、巨大なドラゴンの背によじ登るべく鞍に手をかけた。その鞍は、手先の器用な小人族長ウェールが一月をかけて作成した特注品。この世界に二つとして同じ物は存在しない。ゼータが無事鞍に跨ったことを確認し、メリオンとザトは小走りにドラゴンから距離を取る。
「皆、王と王妃が発つぞ。十分に離れろ、吹き飛ばされるぞ!」
ザトの声と共に、緋色の翼が開かれた。ばさりばさりと音を立て、巨大な翼が数度はためく。暴風が巻き起こる。たむろしていた者達は転がるようにしてドラゴンから距離を取り、風に巻き上げられた帽子が青空を昇る。まもなくして巨大な体躯はふわりと宙に浮かんだ。芝生を撒き散らすほどの嵐を巻き起こしながら、ドラゴンは徐々に徐々に上空へと昇る。そして一時動きを止め、一気に大空へと舞い上がった。大地を揺るがす咆哮。残された者達は茫然と空を見上げ、ある者は地面に尻もちを付いたまま、遠ざかってゆく緋色の影を見送った。
離陸後、ゼータはただひたすら眼下の景色観察に勤しんだ。通り過ぎて行く景色のほとんどは森林で、時折小さな集落がぽつりと佇む。大小多くの集落を抱えるドラキス王国であるが、集落の多くは国土の北方か、ロシャ王国へと続く西方面に位置している。バルトリア王国に面する南方に位置する集落は多くはない。その理由は、荒国であるバルトリア王国の国土には凶暴な魔獣が数多く生息するため。国境を越えて魔獣が流れてくる頻度が高いためだ。王宮軍への魔獣討伐依頼も、その大半がバルトリア王国方面に位置する集落からの依頼である。以前は専門研究である魔獣の分布調査のため、王国内各地を飛び回っていたゼータであるが、バルトリア方面の集落に足を運んだ経験は無い。研究員であるゼータにとって、今眼下に広がる光景は正に心躍る未開の土地なのだ。深い森林地帯にぽつりと佇む小集落を見つけるたびに、ゼータは遠く離れた地上に目を凝らす。しかしそこに人らしき影を発見しても、豆粒大の人々の種族を見分けることは容易ではない。離陸から一時間の間に6つの集落を発見したゼータであるが、そこに住まう者達が何者であるのか、一度たりとも当たりを付けることは叶わなかった。
離陸から一時間と15分が経過した頃、緋色のドラゴンは地上へと舞い降りた。予定していた地点において、初回の休憩を取るためである。休憩地点の目印は、ドラキス王国南方において比較的住人の数が多いとされる獣人族の集落だ。深い森林地帯を、円形に切り開いた中規模集落。その造形は空の上からでもよくわかる。
ゼータとレイバックが降り立った場所は、集落からは少し離れた草原地帯であった。森林地帯を切り開いて作られた楕円形の広場には、人影はおろか家畜や小動物の姿もない。集落の子供達が遊ぶための広場であるのか、それとも家畜の放牧場か。考えたところで答えは出ない。この休憩地点では集落内部に足を踏み入れることはしない。それはその集落に住まう者達の特性を鑑みての判断だ。その特性とは、獣の血を濃く引く獣人族であるということ。獣人族は平常時の形態が獣に近いほど、身体に流れる獣の血が濃いとされている。肉体の俊敏さ、鋭い嗅覚、飢餓耐性といった獣特有の特性を生まれながらにして備えているのだ。そして彼らは本能が獣であるがゆえに強者を恐れ、時に崇拝する。神獣であるドラゴンの血を引くレイバックなど、彼らにとれば神に等しい存在なのだ。神が集落を訪れたともなれば、集落を巻き込んでのお祭り騒ぎに発展しかねない。道中で時間を浪費する危険性を回避するために、集落立ち寄りは不可との判断が下されたのである。
広場の一角に腰を下ろしたゼータとレイバックは、各々鞄の中から水筒を取り出した。それは今朝方カミラが用意してくれた物だ。揃いの水筒は通称「魔法瓶」と呼ばれ、内部に入れた飲料の保冷・保温が可能という便利な代物である。まだひんやりと冷たい麦茶を、ゼータは喉を鳴らして飲み下す。ゼータの人生で初めてとなる空の旅、手袋と上着で寒さを凌ぐことはできても、顔面に打ち付ける強風ばかりは避けようがない。1時間に渡り冷風に晒されたゼータの頬は老人のようにかさかさ、唇も口内も乾ききっている。冷たい麦茶が乾いた粘膜を潤してゆく。
「乗り心地はどうだった。気になる点があれば今のうちに言ってくれ。先は長い」
そう伝えるレイバックの左手には、ゼータと揃いの魔法瓶。中の麦茶はまだ一口分しか減っていない。如何なる暴風も、ドラゴンの堅い表皮を乾かすことなどできやしないのだ。
「決して快適とは言えませんけれど悪くはなかったですよ。途中で休憩を挟めば、あと3時間なんとか持ち堪えられそうです」
「そうか、それは良かった」
「本当に、試乗の時よりずっと乗り心地が良かったです。ひょっとして飛行の練習をしました?」
ゼータは初めてドラゴンの背に跨ったときのことを思い出す。それは今日から凡そ一月前、小人族長ウェール手製のドラゴン鞍が無事完成に至った直後の出来事だ。鞍の微調整も兼ねて行われた試乗会、ザトとメリオンを含む数名の十二種族長に見守られながら、ゼータはレイバックと共に大空へと舞い上がったのだ。参加者皆が期待に胸高鳴らせた試乗会であったが、その結果は散々であった。離陸から僅か10分足らず、ゼータは満身創痍で地上に降り立つ羽目となったのである。満身創痍の原因は第一に上空の低温、第二に全身に吹き付ける強風、第三にドラゴンの飛行の荒さだ。人生の大半を人の姿で過ごすレイバックは、お世辞にも飛行技術が巧みとは言い難い。急上昇に急降下、急旋回、加えて四六時中止むことのない揺れ。飛行の速度も速く、ゼータは10分の間に何度背から振り落とされそうになったかわからない。疲労困憊で地に足を付けたゼータは、一月後の旅路に激しい不安を覚えたものである。
しかし嬉しい誤算である。今日のレイバックの飛行に当時の荒々しさはなく、一時間の飛行を終えたにも関わらずゼータの体力には余力がある。一体何がドラゴンの飛行を上達させたものか。ゼータの疑問に答える者は、渋い表情を浮かべるレイバックだ。
「練習はした。メリオンに協力してもらったんだ」
「へぇ、メリオンに?レイの方から依頼したんですか」
「いや…メリオンからの呼び出しだ。試乗会のとき、僅か10分程度の飛行でゼータが疲労困憊だったろう。それが気になったらしい。試しに乗せてみろと言われて、30分ほどメリオンを背に乗せ飛んだんだ。地上に降りた後は、まさか飛行の講義である」
「…飛行の講義?どんなことを教わったんですか?」「
「むやみに翼をばたつかせるのは揺れるから止めろ。翼の角度をうまく調整して風に乗れば、最小限の動きでの飛行が可能なはずだ。旋回は極端と思うほど大回りで良い。胴体が斜めになれば、背に乗る者は握力を頼りに鞍にしがみつかねばならない事を忘れるな。等々。まさか飛べぬ相手から飛行技術を教わることになろうとは…」
「そ、そうですか…」
渋顔レイバックを前にゼータは細やかな笑いを零す。
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「その後もメリオンを乗せて何度か空を飛んだ。飛行練習のためということもあるが、今日の日に向けて確認すべき事項が山のようにあったんだ。黒の城までの所要時間が4時間と予想できたのも、メリオンが凡その飛行速度を割り出してくれたからだ。越境こそ叶わなかったが、国内休憩地点の確認もした。…ああ、狭い場所での着陸練習もしたな。黒の城での着陸地点がどの程度の広さであるかわからないから」
「へぇ…」
「最初の着陸練習時、目測を誤って強引な着陸をしたらメリオンを背から弾き落としたんだ。大分絞られたぞ。式典の前に王妃の全身の骨を砕くつもりか、とな」
「なるほど。私の全身の骨は、メリオンの犠牲があって無事形を保っているということですね。旅路の準備やバルトリア王国に関する教示も含めれば、メリオンは今回の遠征の功労者です。本当に感謝してもしきれません。ね、レイ」
「んん…まぁ、そうだな」
その時ゼータとレイバックの耳に、人の話し声が届く。声のする方を辿れば、草原の逆端から歩いてくる人と獣の姿があった。数は3人と2頭。偶然この場所を訪れたのか。それとも緋色のドラゴンが集落付近に降り立つところを目撃し、様子を見るためにやってきたのか。いずれにせよ今この場所で、集落に住民と顔を合わせるのは避けたいところだ。
「ゼータ、すぐに発つ。身支度をしろ」
レイバックは魔法瓶の蓋をきつく締め、ゼータの胸元に押し付けた。ゼータが二人分の魔法瓶を手荷物の中へと仕舞う間に、レイバックは巨躯のドラゴンへと姿を変える。人の叫び声と獣の唸り。村人と思しき3人と2頭は、全速力で草原を駆けて来る。しかし彼らがドラゴンの足元へと辿り着くことはない。ゼータが鐙(あぶみ)に足を掛けるが早く、緋色のドラゴンは暴風を巻き起こしながら大空へと舞い上がるのだ。
「3日後にまた立ち寄りますね!」
ゼータの声が彼らに届いたかどうかは定かではない。
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表紙絵
⇨ キラクニ 様 X(@kirakunibl)
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