149 / 318
荒城の夜半に龍が啼く
嗜好の按摩
しおりを挟む
ダンスの練習を終えたゼータとメリオンは、揃ってクリスの私室に上がり込んでいた。靴を脱ぎ、まったりと寛ぐ場所は先週の飲み会でも使用されたい草の小上がり。時計の針は丁度16時を回ったところで、王宮内の侍女官吏、他の十二種族長は公務に勤しんでいる時間だ。しかし今ここにいる3人は皆、今日はもう仕事には戻らないと決めている。壊滅的なダンスセンスの王妃に無事バルトリア王国の国舞を叩きこんだのだ。少々長めに達成感を噛みしめても罰は当たらない、とはメリオンの言葉である。尤もい草の敷物に両足を投げ出し、重役からの解放に呑気に茶を啜る者はメリオンだけで、精魂尽きたゼータは置物のように小上がりの隅に転がるばかり。部屋の主のクリスはと言えば小さなちゃぶ台の上に茶菓子を並べる傍ら、ゼータの口内に一口大の菓子を押し込んだり、足首にのった氷嚢の位置を直したりと大忙しだ。
「魔族は踊り好きですよね」
ゼータの口元に本日3個目となる焼き菓子を近づけながら、クリスが問う。い草の敷物に倒れ伏すゼータは香ばしいバターの香りにひくひくと鼻を動かし、それから首を伸ばして焼き菓子に噛り付く。まるで池の鯉が餌を食むようである。王妃から池の鯉へと降格したゼータの姿を眺め下ろしながら、メリオンは呑気に会話に興じる。
「なぜそう思う」
「精霊族祭に参加して感じたことです。人間のお客様は祭りの雰囲気を楽しんでいる様子でしたけれど、魔族のお客様は踊りその物を楽しんでいるという印象を受けましたから」
「人間は踊ることを好まんか」
「ロシャ王国ではあまり好まれません。ダンスは貴族の嗜みとされていて、一般市民からは嫌煙されるんですよ。精霊族祭のような庶民向けのダンスパーティーも存在しません。貴族の子息子女は教養として幼少時よりダンスを嗜みますけれど、心からダンスが好きという人は滅多にいませんよ。社交の場で必要だから、仕方なく覚えるというだけで」
「何だ、お前は貴族出身か」
「聞いた話です。僕の在籍していた魔導大学には、貴族の子息子女もいましたから」
そうか、と適当な相槌を打ちながら、メリオンは菓子鉢から焼き菓子を一つ摘み上げた。普段は甘い菓子など口にしないメリオンであるが、3時間に渡る激闘を乗り越えれば流石に甘味が欲しくなる。薄桃色の包み紙を剥がせば、中から現れるは洒落た見た目のプチケーキ。口に放り込めばブランデーの香りが鼻へと抜けてゆく。大人の味だ。
「踊りというよりは催しが好きな種族なんだろう。俺の故郷でも年に数度村祭りが開催されていた」
「祭ってどんな事をするんですか?」
「大層なことはせん。森で獲った獣を広場の中心で焼き、皆で食べる。酒は貴重品だったがその時ばかりは満足に飲んだな。酒が回れば愉しみが欲しくなる。しかし貧しい集落にはこれといった遊びもない。だから踊るんだ。何もなくとも人がいれば、歌と踊りに不足はない」
暖かな風の吹き抜ける草原に人々が集まり、酒を片手に談笑している。人の輪の中心にある物は炬(きょ)火(か)だ。太い薪のくべられた橙色の炎がぱちぱちと小気味の良い音を立て、炎を跨ぐようにして吊るされた獣の丸焼きからは香ばしい匂いが漂っている。酒の回った村人の1人がふとした拍子に歌を歌い、つられるように隣の村人も歌いだす。笑い声と共に歌声は広がり、やがて人々は手を取り合って踊りだす。そこに礼儀も作法もない。男も女も老人も子どもも関係ない。ただその一時を心に残すために、集まった者たちが手を繋ぐ。
和やかな光景を想像したクリスは笑い声を零す。
「楽しそうですね」
「俺が若かりし頃はブルタス前国王の治世であった。暴王と名高い男であったが、最低限国は治まっていたんだ。どこの村も年に数度の祭りを行える程度の余裕はあった。しかしブルタス前国王崩御の後、国土は荒れる一方だ。王宮軍が魔獣討伐を行わないから、森には日に日に凶暴な魔獣が増える。村や田畑が荒らされ、慢性的な飢えに人々の心は荒み、集落同士の諍いが頻繁に起こる。生きるために盗賊行為を行う輩も増える。そうして救いの手が差し伸べられないまま、時ばかりが過ぎた」
陰鬱な話に耳を澄ませながら、クリスのちゃぶ台上のティーポットを手に取った。丸みを帯びた白磁器のティーポットは、注ぎ口が天に向かって長く伸びている。その注ぎ口の向かう先はちゃぶ台上のカップではなく、床に寝そべるゼータの口元だ。焼き菓子ばかりでは口が渇くだろうとゼータの口内事情を気遣うクリスは、ティーポットから口へと直接茶を流し込むつもりなのだ。「もう熱くはないと思うけど」呟くクリスの瞳は真剣そのものである。
「フィビアス女王は、バルトリア王国を救う英雄となるでしょうか」
「さぁ…どうだろうな。王座を獲るのだから、稀有な才能を有した者であるとの想像はつく。しかしフィビアス女王は、例えるのならまだ船の舵に指先を触れただけ。巧みな舵取りで国家という大船を希望の海原へと導くのか、それとも嵐の中で沈没させるのか。現段階では想像もつかん」
「…的確な例えですねぇ」
「バルトリア王国の南方には、俗に11の小国地帯と呼ばれる地域がある。先日の講義で触れた内容だ。11の国名を記憶しているか」
「神国ジュリ、獣人族国家オズト、竜族国家リンロン、巨人族国家ゴズ、海獣族国家オーズィラ…すみません。あとは忘れました」
「本日中に配布資料を確認しておくように。11の小国地帯に属する国家は、いずれも居住種族が限定される国家である。基本的には一つの種族の理だけを考えれば良いのだから、統治はさほど難しくはない。対するバルトリア王国は、ドラキス王国と同様の混合国家だ。獣人族、悪魔族といった便宜的な括りを外してしまえば、住まう種族は数百にも及ぶ。王たる素質を備えた者であっても、国家の舵取りは容易ではない。ただでさえ彼の国には、好戦的な悪魔族や吸血族の民が多いんだ。一度民の中に反意の目が芽吹いてしまえば、国家は一気に傾きかねん」
講義を開始したメリオンの視界の端では、ゼータがティーポットの注ぎ口から茶を啜っているところである。い草の敷物にくったりと身を横たえる様は氷上に寝そべるアザラシそのもの。しかし差し出されたティーポットの注ぎ口にちゅうちゅうと吸い付く様は、籠の中のハムスターとも見える。いずれにせよ王妃の品格は皆無だ。人の威厳すら捨てつつあるゼータを冷ややかな眼差しで眺め下ろし、メリオンの講義は続く。
「かつてこの地を治めたアダルフィン旧王、バルトリア王国の建国者であるブルタス前国王も、即位当初は善良な王であったと聞く。しかし数百に及ぶ種族の利害を調整し、望みを聞き入れることは不可能に等しい。国土のあちこちで芽吹く反意の目を摘み取るうちに、彼らは善良な心を失っていったのだ。ブルタス前国王は過度な刑罰で民を戒め、アダルフィン旧王は己と家臣の欲望を満たすために奴隷制を採用するに至った。しかし逆を言えば、彼らは民を恐怖で支配したからこそ、500年もの間国を治めることができたのだ」
「話を聞いていると、レイさんの凄さを改めて実感します。魔族の民を統括するだけでも大変なのに、ドラキス王国の民の3割は人間じゃないですか。それでいて千年以上も安寧に国を治めているんだから、王様としては本当に凄い人なんですよね。普通にしていれば普通の人なんですけれど」
結構抜けているところもあるし、とクリスは小声で付け足す。死に掛けのアザラシが息を吹き返したことに満足したクリスは、今ようやく自身の分の茶に口を付けたところだ。クリスは菓子鉢の中から手のひら大の銀包みを取り上げる。包み紙の中身は乾燥果実をたっぷりと練り込んだバターケーキ。先日買い求めたばかりの、梅屋菓子店の新作だ。もぐもぐと頬膨らませるクリスに対し、講師メリオンの叱咤が飛ぶ。
「神獣の王を前に普通の人などと、呑気な奴だ。レイバック王は、本来であればお前など話すことも叶わぬ高貴な御方。レイさんなどと無礼な呼び方は即座に止め、適切な敬称を以て敬え」
「…レイさん呼びでいいって、レイさんの方から言ってくれたんですよ」
唇を尖らせるクリスの右手には食べかけの焼き菓子。さらに空いた左手は、さも自然な動作でゼータの背中へとのる。温かな指頭が触れるは、慣れぬダンスに凝り固まった僧帽筋だ。突如として始まった至高の按摩に、ゼータの口からは「あああああ…」と低い声が漏れ出す。王妃の唸りを背景音楽に、メリオンは語る。
ドラキス王国が多数の種族を抱えながらも、長く安寧を保ってこられた理由は、王と民との間に絶対的な力量差があるためだ。この世界に2人といない神獣ドラゴンの血を引く王。その有する魔力量や甚だしく、一度暴れ狂えばポトスの街など一瞬で瓦礫の山と化すだろう。だからこそ誰も王に逆らおうとは思わない。反意の声を上げ神の怒りを買うよりも、従順な民として神の庇護下にいる方が余程利口だ。そして王であるレイバックの側は、民の反意を歯牙にも掛けぬ。例え武力を頼りに己の要望を押し通そうとする輩がいても、彼らの命が神獣の力を前に遥かに矮小であることを知っている。ドラキス王国の守り神と名高い王は、慈愛に溢れた眼差しで民の訴えを聞く。そうした絶対的な庇護関係の上に、千年もの安寧が築かれたのだ。
メリオンが説明を終えたとき、クリスは悩ましげに首を捻る。
「聞けば聞くだけ、フィビアス女王の前途は多難ですね。絶対的な武力差なんてそう簡単になし得るものではないですよ。バルトリア王国の民のためにも長く国を治めて欲しいとは思いますけれど。一体どんなお方なんでしょう?」
「容姿や人となりこそ想像は付かんが、種族という面で見ればある程度の絞り込みはできる。魔法に長け、多種族から王と認められる品格を備えた種族となると長命の吸血族か。幻獣族や精霊族という可能性もあるか…」
メリオンは腕を組み、思考に耽る。無言の場にはゼータの唸り声だけが響き、按摩に没頭するクリスはふとした瞬間に口を開く。
「サキュバスは?確か悪魔族に属する種族ですよね」
「サキュバスは王にはなり得ない。他種族から好かれる種族ではないからな」
「そうなんですか?それはなぜ」
「サキュバスは、多種族には使えぬ特異の技を使う。バルトリア王国では、そういった種族は厭われる傾向があるんだ。例えば悪魔族に属するメデューサ、彼らは石化の魔法を使うがゆえに多種族から厭われる。住まう場所によっては日常の買い物にすら難儀すると聞く。個体数の多い種族ではないが噂を聞けば哀れだ」
「サキュバスの使う特異の技とは?性行為を通じて男性から魔力を奪うだけじゃないんですか?」
ゼータの背骨を上から下へと撫でながら、クリスは聞いた。国家の主であるレイバックの身に訪れる100年に一度の繁殖期。その存在は人間族長就任当初、メリオンの口からクリスに語られている。長年秘匿が貫かれていた繁殖期の存在であるが、国土防衛上の観点からも、代々の十二種族長にだけはその存在が明かされることがこの度決定されたのだ。レイバック及び長年の協力者であるザトがそう判断するに至った背景には、言うまでもなくゼータの存在がある。サキュバスであるゼータが神獣の番役を難なくこなして見せた経験から、「繁殖期の存在恐れるに足らず」という判断が下されたのである。人にあるまじき繁殖期の存在は、最早レイバックの弱点にはなり得ない。それならば身内にだけは真実を明かし、後ろめたいことは綺麗さっぱりなくしてしまおうという思惑だ。一連の騒動についてメリオンの口から詳細な説明を受けているのだから、当然クリスはサキュバスの技についても最低限の知識は持っている。しかし魔力を奪うなどという汎用性の低い技が、果たして忌避の対象になり得るものかと、クリスは一人首を傾げるのだ。
「サキュバスの技が何たるか、お前がそれを知る必要はない。一度恐怖の情を覚えてしまえば、既存の関係など薄氷のように崩れ行くぞ」
冷淡と告げられる言葉に、クリスは眉を顰める。
「僕はサキュバスであることを理由に、ゼータを恐れたりはしません。嫌いになることもない」
「お前個人の感情など知ったことではない。俺が心配しているのは、真実を知った民の感情がどうであるかだ。神獣の王に番う者が、隣国バルトリア王国で厭われるサキュバスである。その真実が明るみになれば、王妃の品格を疑う者が現れることは避けられまい。サキュバスを王妃に迎えた王の選択を咎めるつもりはない。しかし不都合な事実をあえて明るみにする理由もない。サキュバスというのはそれだけ危険な種族なんだ」
「…話の肝を隠されたままでは、いまいち納得感がありませんけれど」
「漠然とした認識があれば十分だ。幸いにもそいつは、サキュバスであるという事実を隠して生きてきた。魔力を奪う技すらも知らなかったのだから、多種族が恐れるサキュバス特異の技を会得しているはずもない。情報の秘匿と言えば聞こえは悪いが、王と王妃を悪評から守るためには致し方のない判断だ。真実の一端に触れたのだから、お前も今後の発言には最大限気を遣うことだ」
メリオンの見下ろす先には、規則的な上下を繰り返すゼータの背中がある。クリスの手は按摩を継続中であるが、最早その口から唸り声が漏れ出すことはない。胃袋を満たす茶と菓子に、眠気を誘う至高の按摩。極度の疲労により会話すらままならなかったゼータは、瞬く間に心地よい眠りの世界へと引き込まれたようだ。安らかな寝息に耳済ませながら、クリスは溜息をつく。
「メリオンさんがそう言うのなら、僕は余計なことは言いませんよ。でも真実を隠したままにしておけますか?バルトリア王国との国交が正常化されれば、ポトスの街への移住者は当然増えるでしょう。王宮で働く侍女官吏の中にも、バルトリア王国出身という者は出てきますよ。サキュバスが多種族から厭われる種族であると、皆に知れるのは時間の問題だと思いますけれど」
「気を見計らい説明の機会を設けるさ。王宮在籍者はそいつの人となりを知っている。サキュバスという種族が他国で厭われる存在であるからといって、突然態度を翻すことはないだろう。問題は王への進言だな。王妃のこととなると途端に心の狭いお方だ。市井でサキュバスに関する散々な噂を耳にすれば、民相手に剣を振り翳しかねんぞ。ザトを交え気楽な飲みの席を設けるか…それとも十二種族長内で有志を募り勉強会を開催するか…」
いずれにせよ、進言のときはフィビアス女王の即位式が終わった後。この度の遠征では、王妃の素性を公表せぬようそれとなく伝えておくか。呟くメリオンは再び思考へと陥って行く。
静かになった小上がりで、クリスの手のひらはゼータに対する按摩を継続中。僧帽筋付近から始まった按摩はうつ伏せの背中を下り、今クリスの手のひらはゼータの脚にある。ドレスの下の太腿を丁寧に揉みしだき、果ては両手の親指で大殿筋のあちこちを押す。大殿筋すなわち尻だ。王妃の尻が程良く揉みしだかれた頃に、メリオンはようやく思考から覚める。
「…お前、痴漢行為という言葉を知っているか」
「僕はメリオンさんと違って、ゼータと良好な関係を築いていますからね。按摩行為程度で痴漢呼ばわりされることはありませんよ」
口の減らん野郎だ、メリオンは舌打ち混じりに吐き捨てた。
「魔族は踊り好きですよね」
ゼータの口元に本日3個目となる焼き菓子を近づけながら、クリスが問う。い草の敷物に倒れ伏すゼータは香ばしいバターの香りにひくひくと鼻を動かし、それから首を伸ばして焼き菓子に噛り付く。まるで池の鯉が餌を食むようである。王妃から池の鯉へと降格したゼータの姿を眺め下ろしながら、メリオンは呑気に会話に興じる。
「なぜそう思う」
「精霊族祭に参加して感じたことです。人間のお客様は祭りの雰囲気を楽しんでいる様子でしたけれど、魔族のお客様は踊りその物を楽しんでいるという印象を受けましたから」
「人間は踊ることを好まんか」
「ロシャ王国ではあまり好まれません。ダンスは貴族の嗜みとされていて、一般市民からは嫌煙されるんですよ。精霊族祭のような庶民向けのダンスパーティーも存在しません。貴族の子息子女は教養として幼少時よりダンスを嗜みますけれど、心からダンスが好きという人は滅多にいませんよ。社交の場で必要だから、仕方なく覚えるというだけで」
「何だ、お前は貴族出身か」
「聞いた話です。僕の在籍していた魔導大学には、貴族の子息子女もいましたから」
そうか、と適当な相槌を打ちながら、メリオンは菓子鉢から焼き菓子を一つ摘み上げた。普段は甘い菓子など口にしないメリオンであるが、3時間に渡る激闘を乗り越えれば流石に甘味が欲しくなる。薄桃色の包み紙を剥がせば、中から現れるは洒落た見た目のプチケーキ。口に放り込めばブランデーの香りが鼻へと抜けてゆく。大人の味だ。
「踊りというよりは催しが好きな種族なんだろう。俺の故郷でも年に数度村祭りが開催されていた」
「祭ってどんな事をするんですか?」
「大層なことはせん。森で獲った獣を広場の中心で焼き、皆で食べる。酒は貴重品だったがその時ばかりは満足に飲んだな。酒が回れば愉しみが欲しくなる。しかし貧しい集落にはこれといった遊びもない。だから踊るんだ。何もなくとも人がいれば、歌と踊りに不足はない」
暖かな風の吹き抜ける草原に人々が集まり、酒を片手に談笑している。人の輪の中心にある物は炬(きょ)火(か)だ。太い薪のくべられた橙色の炎がぱちぱちと小気味の良い音を立て、炎を跨ぐようにして吊るされた獣の丸焼きからは香ばしい匂いが漂っている。酒の回った村人の1人がふとした拍子に歌を歌い、つられるように隣の村人も歌いだす。笑い声と共に歌声は広がり、やがて人々は手を取り合って踊りだす。そこに礼儀も作法もない。男も女も老人も子どもも関係ない。ただその一時を心に残すために、集まった者たちが手を繋ぐ。
和やかな光景を想像したクリスは笑い声を零す。
「楽しそうですね」
「俺が若かりし頃はブルタス前国王の治世であった。暴王と名高い男であったが、最低限国は治まっていたんだ。どこの村も年に数度の祭りを行える程度の余裕はあった。しかしブルタス前国王崩御の後、国土は荒れる一方だ。王宮軍が魔獣討伐を行わないから、森には日に日に凶暴な魔獣が増える。村や田畑が荒らされ、慢性的な飢えに人々の心は荒み、集落同士の諍いが頻繁に起こる。生きるために盗賊行為を行う輩も増える。そうして救いの手が差し伸べられないまま、時ばかりが過ぎた」
陰鬱な話に耳を澄ませながら、クリスのちゃぶ台上のティーポットを手に取った。丸みを帯びた白磁器のティーポットは、注ぎ口が天に向かって長く伸びている。その注ぎ口の向かう先はちゃぶ台上のカップではなく、床に寝そべるゼータの口元だ。焼き菓子ばかりでは口が渇くだろうとゼータの口内事情を気遣うクリスは、ティーポットから口へと直接茶を流し込むつもりなのだ。「もう熱くはないと思うけど」呟くクリスの瞳は真剣そのものである。
「フィビアス女王は、バルトリア王国を救う英雄となるでしょうか」
「さぁ…どうだろうな。王座を獲るのだから、稀有な才能を有した者であるとの想像はつく。しかしフィビアス女王は、例えるのならまだ船の舵に指先を触れただけ。巧みな舵取りで国家という大船を希望の海原へと導くのか、それとも嵐の中で沈没させるのか。現段階では想像もつかん」
「…的確な例えですねぇ」
「バルトリア王国の南方には、俗に11の小国地帯と呼ばれる地域がある。先日の講義で触れた内容だ。11の国名を記憶しているか」
「神国ジュリ、獣人族国家オズト、竜族国家リンロン、巨人族国家ゴズ、海獣族国家オーズィラ…すみません。あとは忘れました」
「本日中に配布資料を確認しておくように。11の小国地帯に属する国家は、いずれも居住種族が限定される国家である。基本的には一つの種族の理だけを考えれば良いのだから、統治はさほど難しくはない。対するバルトリア王国は、ドラキス王国と同様の混合国家だ。獣人族、悪魔族といった便宜的な括りを外してしまえば、住まう種族は数百にも及ぶ。王たる素質を備えた者であっても、国家の舵取りは容易ではない。ただでさえ彼の国には、好戦的な悪魔族や吸血族の民が多いんだ。一度民の中に反意の目が芽吹いてしまえば、国家は一気に傾きかねん」
講義を開始したメリオンの視界の端では、ゼータがティーポットの注ぎ口から茶を啜っているところである。い草の敷物にくったりと身を横たえる様は氷上に寝そべるアザラシそのもの。しかし差し出されたティーポットの注ぎ口にちゅうちゅうと吸い付く様は、籠の中のハムスターとも見える。いずれにせよ王妃の品格は皆無だ。人の威厳すら捨てつつあるゼータを冷ややかな眼差しで眺め下ろし、メリオンの講義は続く。
「かつてこの地を治めたアダルフィン旧王、バルトリア王国の建国者であるブルタス前国王も、即位当初は善良な王であったと聞く。しかし数百に及ぶ種族の利害を調整し、望みを聞き入れることは不可能に等しい。国土のあちこちで芽吹く反意の目を摘み取るうちに、彼らは善良な心を失っていったのだ。ブルタス前国王は過度な刑罰で民を戒め、アダルフィン旧王は己と家臣の欲望を満たすために奴隷制を採用するに至った。しかし逆を言えば、彼らは民を恐怖で支配したからこそ、500年もの間国を治めることができたのだ」
「話を聞いていると、レイさんの凄さを改めて実感します。魔族の民を統括するだけでも大変なのに、ドラキス王国の民の3割は人間じゃないですか。それでいて千年以上も安寧に国を治めているんだから、王様としては本当に凄い人なんですよね。普通にしていれば普通の人なんですけれど」
結構抜けているところもあるし、とクリスは小声で付け足す。死に掛けのアザラシが息を吹き返したことに満足したクリスは、今ようやく自身の分の茶に口を付けたところだ。クリスは菓子鉢の中から手のひら大の銀包みを取り上げる。包み紙の中身は乾燥果実をたっぷりと練り込んだバターケーキ。先日買い求めたばかりの、梅屋菓子店の新作だ。もぐもぐと頬膨らませるクリスに対し、講師メリオンの叱咤が飛ぶ。
「神獣の王を前に普通の人などと、呑気な奴だ。レイバック王は、本来であればお前など話すことも叶わぬ高貴な御方。レイさんなどと無礼な呼び方は即座に止め、適切な敬称を以て敬え」
「…レイさん呼びでいいって、レイさんの方から言ってくれたんですよ」
唇を尖らせるクリスの右手には食べかけの焼き菓子。さらに空いた左手は、さも自然な動作でゼータの背中へとのる。温かな指頭が触れるは、慣れぬダンスに凝り固まった僧帽筋だ。突如として始まった至高の按摩に、ゼータの口からは「あああああ…」と低い声が漏れ出す。王妃の唸りを背景音楽に、メリオンは語る。
ドラキス王国が多数の種族を抱えながらも、長く安寧を保ってこられた理由は、王と民との間に絶対的な力量差があるためだ。この世界に2人といない神獣ドラゴンの血を引く王。その有する魔力量や甚だしく、一度暴れ狂えばポトスの街など一瞬で瓦礫の山と化すだろう。だからこそ誰も王に逆らおうとは思わない。反意の声を上げ神の怒りを買うよりも、従順な民として神の庇護下にいる方が余程利口だ。そして王であるレイバックの側は、民の反意を歯牙にも掛けぬ。例え武力を頼りに己の要望を押し通そうとする輩がいても、彼らの命が神獣の力を前に遥かに矮小であることを知っている。ドラキス王国の守り神と名高い王は、慈愛に溢れた眼差しで民の訴えを聞く。そうした絶対的な庇護関係の上に、千年もの安寧が築かれたのだ。
メリオンが説明を終えたとき、クリスは悩ましげに首を捻る。
「聞けば聞くだけ、フィビアス女王の前途は多難ですね。絶対的な武力差なんてそう簡単になし得るものではないですよ。バルトリア王国の民のためにも長く国を治めて欲しいとは思いますけれど。一体どんなお方なんでしょう?」
「容姿や人となりこそ想像は付かんが、種族という面で見ればある程度の絞り込みはできる。魔法に長け、多種族から王と認められる品格を備えた種族となると長命の吸血族か。幻獣族や精霊族という可能性もあるか…」
メリオンは腕を組み、思考に耽る。無言の場にはゼータの唸り声だけが響き、按摩に没頭するクリスはふとした瞬間に口を開く。
「サキュバスは?確か悪魔族に属する種族ですよね」
「サキュバスは王にはなり得ない。他種族から好かれる種族ではないからな」
「そうなんですか?それはなぜ」
「サキュバスは、多種族には使えぬ特異の技を使う。バルトリア王国では、そういった種族は厭われる傾向があるんだ。例えば悪魔族に属するメデューサ、彼らは石化の魔法を使うがゆえに多種族から厭われる。住まう場所によっては日常の買い物にすら難儀すると聞く。個体数の多い種族ではないが噂を聞けば哀れだ」
「サキュバスの使う特異の技とは?性行為を通じて男性から魔力を奪うだけじゃないんですか?」
ゼータの背骨を上から下へと撫でながら、クリスは聞いた。国家の主であるレイバックの身に訪れる100年に一度の繁殖期。その存在は人間族長就任当初、メリオンの口からクリスに語られている。長年秘匿が貫かれていた繁殖期の存在であるが、国土防衛上の観点からも、代々の十二種族長にだけはその存在が明かされることがこの度決定されたのだ。レイバック及び長年の協力者であるザトがそう判断するに至った背景には、言うまでもなくゼータの存在がある。サキュバスであるゼータが神獣の番役を難なくこなして見せた経験から、「繁殖期の存在恐れるに足らず」という判断が下されたのである。人にあるまじき繁殖期の存在は、最早レイバックの弱点にはなり得ない。それならば身内にだけは真実を明かし、後ろめたいことは綺麗さっぱりなくしてしまおうという思惑だ。一連の騒動についてメリオンの口から詳細な説明を受けているのだから、当然クリスはサキュバスの技についても最低限の知識は持っている。しかし魔力を奪うなどという汎用性の低い技が、果たして忌避の対象になり得るものかと、クリスは一人首を傾げるのだ。
「サキュバスの技が何たるか、お前がそれを知る必要はない。一度恐怖の情を覚えてしまえば、既存の関係など薄氷のように崩れ行くぞ」
冷淡と告げられる言葉に、クリスは眉を顰める。
「僕はサキュバスであることを理由に、ゼータを恐れたりはしません。嫌いになることもない」
「お前個人の感情など知ったことではない。俺が心配しているのは、真実を知った民の感情がどうであるかだ。神獣の王に番う者が、隣国バルトリア王国で厭われるサキュバスである。その真実が明るみになれば、王妃の品格を疑う者が現れることは避けられまい。サキュバスを王妃に迎えた王の選択を咎めるつもりはない。しかし不都合な事実をあえて明るみにする理由もない。サキュバスというのはそれだけ危険な種族なんだ」
「…話の肝を隠されたままでは、いまいち納得感がありませんけれど」
「漠然とした認識があれば十分だ。幸いにもそいつは、サキュバスであるという事実を隠して生きてきた。魔力を奪う技すらも知らなかったのだから、多種族が恐れるサキュバス特異の技を会得しているはずもない。情報の秘匿と言えば聞こえは悪いが、王と王妃を悪評から守るためには致し方のない判断だ。真実の一端に触れたのだから、お前も今後の発言には最大限気を遣うことだ」
メリオンの見下ろす先には、規則的な上下を繰り返すゼータの背中がある。クリスの手は按摩を継続中であるが、最早その口から唸り声が漏れ出すことはない。胃袋を満たす茶と菓子に、眠気を誘う至高の按摩。極度の疲労により会話すらままならなかったゼータは、瞬く間に心地よい眠りの世界へと引き込まれたようだ。安らかな寝息に耳済ませながら、クリスは溜息をつく。
「メリオンさんがそう言うのなら、僕は余計なことは言いませんよ。でも真実を隠したままにしておけますか?バルトリア王国との国交が正常化されれば、ポトスの街への移住者は当然増えるでしょう。王宮で働く侍女官吏の中にも、バルトリア王国出身という者は出てきますよ。サキュバスが多種族から厭われる種族であると、皆に知れるのは時間の問題だと思いますけれど」
「気を見計らい説明の機会を設けるさ。王宮在籍者はそいつの人となりを知っている。サキュバスという種族が他国で厭われる存在であるからといって、突然態度を翻すことはないだろう。問題は王への進言だな。王妃のこととなると途端に心の狭いお方だ。市井でサキュバスに関する散々な噂を耳にすれば、民相手に剣を振り翳しかねんぞ。ザトを交え気楽な飲みの席を設けるか…それとも十二種族長内で有志を募り勉強会を開催するか…」
いずれにせよ、進言のときはフィビアス女王の即位式が終わった後。この度の遠征では、王妃の素性を公表せぬようそれとなく伝えておくか。呟くメリオンは再び思考へと陥って行く。
静かになった小上がりで、クリスの手のひらはゼータに対する按摩を継続中。僧帽筋付近から始まった按摩はうつ伏せの背中を下り、今クリスの手のひらはゼータの脚にある。ドレスの下の太腿を丁寧に揉みしだき、果ては両手の親指で大殿筋のあちこちを押す。大殿筋すなわち尻だ。王妃の尻が程良く揉みしだかれた頃に、メリオンはようやく思考から覚める。
「…お前、痴漢行為という言葉を知っているか」
「僕はメリオンさんと違って、ゼータと良好な関係を築いていますからね。按摩行為程度で痴漢呼ばわりされることはありませんよ」
口の減らん野郎だ、メリオンは舌打ち混じりに吐き捨てた。
10
お気に入りに追加
252
あなたにおすすめの小説

前世が俺の友人で、いまだに俺のことが好きだって本当ですか
Bee
BL
半年前に別れた元恋人だった男の結婚式で、ユウジはそこではじめて二股をかけられていたことを知る。8年も一緒にいた相手に裏切られていたことを知り、ショックを受けたユウジは式場を飛び出してしまう。
無我夢中で車を走らせて、気がつくとユウジは見知らぬ場所にいることに気がつく。そこはまるで天国のようで、そばには7年前に死んだ友人の黒木が。黒木はユウジのことが好きだったと言い出して――
最初は主人公が別れた男の結婚式に参加しているところから始まります。
死んだ友人との再会と、その友人の生まれ変わりと思われる青年との出会いへと話が続きます。
生まれ変わり(?)21歳大学生×きれいめな48歳おっさんの話です。
※軽い性的表現あり
短編から長編に変更しています
悩める文官のひとりごと
きりか
BL
幼い頃から憧れていた騎士団に入りたくても、小柄でひ弱なリュカ・アルマンは、学校を卒業と同時に、文官として騎士団に入団する。方向音痴なリュカは、マルーン副団長の部屋と間違え、イザーク団長の部屋に入り込む。
そこでは、惚れ薬を口にした団長がいて…。
エチシーンが書けなくて、朝チュンとなりました。
ムーンライト様にも掲載しております。

僕はお別れしたつもりでした
まと
BL
遠距離恋愛中だった恋人との関係が自然消滅した。どこか心にぽっかりと穴が空いたまま毎日を過ごしていた藍(あい)。大晦日の夜、寂しがり屋の親友と二人で年越しを楽しむことになり、ハメを外して酔いつぶれてしまう。目が覚めたら「ここどこ」状態!!
親友と仲良すぎな主人公と、別れたはずの恋人とのお話。
⚠️趣味で書いておりますので、誤字脱字のご報告や、世界観に対する批判コメントはご遠慮します。そういったコメントにはお返しできませんので宜しくお願いします。
大晦日あたりに出そうと思ったお話です。
【完結】オーロラ魔法士と第3王子
N2O
BL
全16話
※2022.2.18 完結しました。ありがとうございました。
※2023.11.18 文章を整えました。
辺境伯爵家次男のリーシュ・ギデオン(16)が、突然第3王子のラファド・ミファエル(18)の専属魔法士に任命された。
「なんで、僕?」
一人狼第3王子×黒髪美人魔法士
設定はふんわりです。
小説を書くのは初めてなので、何卒ご容赦ください。
嫌な人が出てこない、ふわふわハッピーエンドを書きたくて始めました。
感想聞かせていただけると大変嬉しいです。
表紙絵
⇨ キラクニ 様 X(@kirakunibl)

今夜のご飯も一緒に食べよう~ある日突然やってきたヒゲの熊男はまさかのスパダリでした~
松本尚生
BL
瞬は失恋して職と住み処を失い、小さなワンルームから弁当屋のバイトに通っている。
ある日瞬が帰ると、「誠~~~!」と背後からヒゲの熊男が襲いかかる。「誠って誰!?」上がりこんだ熊は大量の食材を持っていた。瞬は困り果てながら調理する。瞬が「『誠さん』って恋人?」と尋ねると、彼はふふっと笑って瞬を抱きしめ――。
恋なんてコリゴリの瞬と、正体不明のスパダリ熊男=伸幸のお部屋グルメの顛末。
伸幸の持ちこむ謎の食材と、それらをテキパキとさばいていく瞬のかけ合いもお楽しみください。
死に戻り騎士は、今こそ駆け落ち王子を護ります!
時雨
BL
「駆け落ちの供をしてほしい」
すべては真面目な王子エリアスの、この一言から始まった。
王子に”国を捨てても一緒になりたい人がいる”と打ち明けられた、護衛騎士ランベルト。
発表されたばかりの公爵家令嬢との婚約はなんだったのか!?混乱する騎士の気持ちなど関係ない。
国境へ向かう二人を追う影……騎士ランベルトは追手の剣に倒れた。
後悔と共に途切れた騎士の意識は、死亡した時から三年も前の騎士団の寮で目覚める。
――二人に追手を放った犯人は、一体誰だったのか?
容疑者が浮かんでは消える。そもそも犯人が三年先まで何もしてこない保証はない。
怪しいのは、王位を争う第一王子?裏切られた公爵令嬢?…正体不明の駆け落ち相手?
今度こそ王子エリアスを護るため、過去の記憶よりも積極的に王子に関わるランベルト。
急に距離を縮める騎士を、はじめは警戒するエリアス。ランベルトの昔と変わらぬ態度に、徐々にその警戒も解けていって…?
過去にない行動で変わっていく事象。動き出す影。
ランベルトは今度こそエリアスを護りきれるのか!?
負けず嫌いで頑固で堅実、第二王子(年下) × 面倒見の良い、気の長い一途騎士(年上)のお話です。
-------------------------------------------------------------------
主人公は頑な、王子も頑固なので、ゆるい気持ちで見守っていただけると幸いです。

【完】三度目の死に戻りで、アーネスト・ストレリッツは生き残りを図る
112
BL
ダジュール王国の第一王子アーネストは既に二度、処刑されては、その三日前に戻るというのを繰り返している。三度目の今回こそ、処刑を免れたいと、見張りの兵士に声をかけると、その兵士も同じように三度目の人生を歩んでいた。
★本編で出てこない世界観
男同士でも結婚でき、子供を産めます。その為、血統が重視されています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる