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荒城の夜半に龍が啼く
祖国を憂いた男
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男は祖国を憂いていた。
男は国の中心から離れた小さな領土を治めていた。土地を興し、建物を建て、決まりを作った。治める土地を守るため外柵を築き、人々を守るための守り手を育て、そして自らも力を蓄えた。随分と長いこと、気の遠くなるように長い月日をそうして過ごした。
男は、領土からは遠く離れた地の生まれである。盗賊に故郷を襲われ、仲間を失い、放浪した。襲い来る魔獣を切り捨て、何も持たぬ男から命さえも奪おうとする暴漢を倒し、辿り着いた地に自身の領土を築いた。幸いにも男には領土を治めるだけの知と才と、力があった。しかし必死に築いたささやかな安息の地でさえも、日々魔獣と盗賊に狙われる。領土を守り手である男が満足に眠れる日は多くはない。滅ぼされた故郷と、治める領土の未来を思い、男は思う。なぜこの国はこうなのだ。
男の治める領土の内は、比較的平穏を保っていた。しかし一歩領土の外に出ればそこは混沌の地。荒れ果てた荒野に道という道はなく、辛うじて人の通れる獣路には魔獣が闊歩する。かつて集落として栄えた場所にも今やまともな建物などなく、僅かな人々が飢餓に耐えながら細々と暮らしているだけ。なぜ男の住まう国土がそれほど荒れ果てているのかと問えば、民の誰しもがその答えを知っている。
この国の頂には、もう千年もの間王がいない。
なぜこの国には王がいない。毎夜のように男は思う。国家の父となる初代国王が崩御して以降、国の王座は延々空座のまま。王がいなくては、国は正しくあることができない。国土は荒れ、魔獣ばかりが増え、民の暮らしは苦しくなるばかり。なぜ誰も民を救わない。なぜ誰も王になろうとしない。いや、本当はすでに新王は立っているのか。新王が立ち、それでも尚国土は荒れ果てたままなのか?いくら考えても答えは出ない。男が治める領土は、高い山々に囲まれた断絶の土地。遠く離れた国家の中心部の事情など、月に問うしか知る手立てはないのだ。
ある時、男は決意する。祖国を蝕む謎を探りに行く。領土の守りと運営を人に任せ、一人国土の中心地を目指す。2つ山を越えたとき、偶然に出会った旅人に問うた。
「今この国の頂に、王はいるか」
片腕亡くした旅人は答える。
「いない。前王が崩御し千余年、この国の頂に王はいない」
「では王を志す者はいるか」
「数知れずいた。何人もの若人が、祖国を救うため国政の場へと足を踏み入れた。しかし誰も王座には座れない。王を志す者は皆、暗晦の城に飲み込まれて露と消える。この国の王座は呪われているのだ」
旅人と別れ10日後、男は国土の中心部である街へと辿り着いた。男の治める領土とは比べ物にならないほど、賑やかで活気に溢れた街だ。しかし荒廃は確実に、その喧噪たる街をも蝕みつつある。賑やかな表通りを1本脇へと逸れれば、そこは生死入り乱れる無法地帯。骨と皮ばかりになり死を待つ人々が冷たい路面に蹲り、息絶えたばかりの赤子の腸を痩せた野良犬が食っている。瓦礫を積み上げただけの家に暮らす骸骨のような人々、蛆沸く肉片、家屋の壁にこびりついた血飛沫、耳を澄ませば聞こえる怒号。人よりも獣に近い人々が暮らす街の中心には、荘厳と佇む古びた城がある。巨大な鉄門を頑なと閉ざすその場所こそが、真に国土の中心地。かつての国王が国政の場とした古城だ。
古びた城を臨みながら、男は街で情報収集を行う。古城は国政の場として機能しているのか、城に出入りする者はいるのか、城内部の人々はどのような生活を送っているのか。数日間の聞き込みを経てわかったことは、やはり古城は国政の場としての機能を全く果たしていないということ。壊れた道や建物の整備されることはなく、川の治水は行われず、新たな法案が配布されることもない。街の周囲に凶暴な魔獣が出没してもそれを討伐する王宮軍はおらず、時折街に入り込む盗賊を裁く者もいない。街の商店や工場は古くからの慣習として毎年一定額の税金を納めてはいるが、治めた税金が民の暮らしに反映されることはない。
さらにもう一つ。聞き込みを続けるうちにわかったことは、城の内部の事情は何もわからないということ。数日に一度商人の馬車が出入りするから、内部に人が住んでいることは間違いがない。しかし商人も門の内側に積み荷を降ろし、植え込みに隠された銭袋を持ち帰るだけで、城の者と顔を合わせる機会は滅多にないのだと言う。数年又は数十年に一度、王を志す若人が武器を手に城へと入る。しかし彼らが王座に座ることはない。我こそが王となるのだと瞳輝かせる若人達は、誰一人として城から出て来ることはない。城の内部が如何ようであるのか、真実を知る者は誰一人としていない。
「あの城は人を食う。人と銭と食物を食うために、ただあの場所に建っている。あの城は巨大な化け物なのだ」
城の正門付近で商いを行う老爺は、独り言のようにそう呟いた。
男は城の内部の様子を探るべく、画策する。衣類のすそを裂き、手持ちの刀で己の身体にいくつもの傷をつける。頬を泥で汚し、髪を乱し、最後に武器という武器は全て捨てて、夜のうちにひっそりと城の外壁を越える。そうして人気のない城の裏戸口付近に身を横たえて、朝を待つ。
薄汚れたなりで地面に倒れ伏す男をまず先に発見した者は、仕事着をまとう老齢の侍女であった。箒片手に裏戸口を開けた侍女は、そこに倒れる男を見て小さな悲鳴を上げた。そして井戸から汲み上げたばかりに冷たい水を男に与え、事情を問う。男は切々と語る。
「住んでいた集落を盗賊に襲われ、命辛々逃げ伸びました。そうして流離ううちに城の城下へと辿り着きましたが、知らぬ土地で一人暮らすことは容易ではありません。街の暴徒に有り金を奪われ、命だけは守らんと逃げ惑ううちに城壁を超えてしまったのです。無礼な行いをどうかお許しください。そしてどうか城の住人がお許しになるのであれば、私をここに置いてください。掃除夫でも下足番でも構いません。剣も魔法も満足に使えぬ私にとって、この街は生きるに辛いのです」
涙ながらに語られる身の上話を聞き、老齢の侍女は裏戸口に一人の官吏を呼び寄せた。どうかこの哀れな若者に住まいと仕事を。侍女の頼みを、男性官吏はすぐに聞き入れた。感謝の言葉と共に地面に額を擦り付け、男は人知れず笑う。全ては男の計算の内であった。己の若い肉体と整った面立ちが他の多くの者にとって魅力的であることを、男は身を以て知っていたのだ。
得体の知れぬと噂された古城の内部は、不気味なほどに平穏であった。暮らす者は全部で30人ほど、その多くが侍女と官吏だ。国土の荒廃などいざ知らず。彼らは皆何に怯えるでもなく、何に導かれるでもなく、ただ人形のように決められた毎日を繰り返す。侍女は古城内部の清掃を行い、皆の食事を作り、時には壊れかけた古城の修繕を行う。官吏は書物から古びた書物を運び出し、それを模写し、時には算盤を弾き、一見すれば滞りなく公務をこなしているようにも見える。しかし奇妙なことは、それらの作業の全てが古城の内部で完結しているということ。城の門扉はやはり固く閉ざされ、内部の者が外へ出ることはない。城の官吏が行うは民のための国政ではなく、ただ退屈を紛らわせるための手遊びに他ならない。
なぜこのような奇妙なことが起こっている?その答えはすぐにはわからない。
数か月の時を、男は城の掃除夫という立場で過ごした。窓を磨き床を磨き、侍女の手では届かぬ高天井の埃を払う。庭木の手入れや外壁の修理まで様々な要務を請け負いながら、男は城の内部の情報を集める。穢れを知らぬ純朴な若者を装い、時には愚鈍の振りをして、侍女や官吏から雑談交じりに情報を得る。やがて明らかになったものは、城に巣くう魔物の正体だ。それは城に存する7人の権力者。かつて国家の父の手足となり働いた古参者。「七指」と彼らは呼ばれていた。
王亡き今古城を支配する七指は、かつての城の面影を頑なに守り抜く。彼らは城の時が進むことを許さない。官吏が橋を造りたいという要望書を上げれば、それに値する法が整わぬとの理由で突き返す。城下を荒らす暴徒を裁きたいと言えば、有事以外の兵の徴収は認められぬと返す。ただひたすらにそれを繰り返す。官吏は要望が通らぬことを知りながらも書類を作り、七指は法が整わぬとの理由でその書類を突き返す。そうしたことが千年以上も続いている。古城に住まう官吏も侍女も、そうすることに慣れてしまったのだ。国政の真似事に付き合っていれば、荒れた国土において少なくとも寝食は保証される。
愚者共め。朽ち果てた廊下の一角で、男は呟く。七指こそが国家の膿。荒れ果てた国土を、死にゆく民を顧みぬ。君臨すれど統治を行わぬ、裁かれるべき咎人共。
「俺が王になる」
男は誓う。誰にもできないのなら、俺がやる。国を腐らす愚者共を殲滅し、荒れ果てた国土を創り直すのだ。
男は闇夜に暗躍した。まず討ち取った者は、男と最も面識の薄い老年の愚者。夜のうちに私室に入り込み、魔法で首を落とした。死体は窓から城外へと投げ捨てて、何食わぬ顔で朝を待つ。明朝城は騒然とするものの、男に嫌疑が掛かることはない。なぜなら男は己の全てを偽っていたから。剣も魔法も満足に使えぬひ弱な青年。人を疑うことを知らぬ純朴な若人。国政になどまるで興味がなく、諍いのない日々を送ることに満足する楽天家。それが男の演じていた仮の姿だ。
次に討ち取ったのは、男が時折雑談を交わしていた年若の愚者。夜のうちに私室に入り込み、寝ている最中に首を絶った。今度は死体を投げ捨てることはせず、放置した。
3人目は女性の愚者。白昼書庫に入り込んだところを狙い、後ろから首を落とした。
3人の愚者を討ち取ってもなお、男に嫌疑は掛からない。あと4人。日に日に大きくなる混乱の中で、男は熱い息を吐く。全ての愚者を討ち取れば、古城は正しく時を刻み始める。暴徒に襲われ絶え果てた、故郷の無念は晴らされるのだ。
男はまた1人、愚者を討った。夜分廊下を歩く壮年の愚者を、真正面から襲い首を落とした。愚者の瞳は一瞬男を捉え、そしてすぐに光を亡くした。あと3人。呟きながら、男は何食わぬ顔で私室へと帰る。部屋の扉を開けたとき、そこには愚者の一人がいた。輝くような白髪の、年若の愚者。
「見事な擬態であった。しかし愚かな策略はここで終いだ」
翡翠色の目を細め、白髪の愚者は言う。なぜ気付かれた。戸惑う男の背後に人影が立つ。男が討ち取ることができなかった、残る2名の愚者だ。刹那閃光が迸り、男の全身に衝撃が走る。魔法による一斉攻撃。男は抵抗を試みるが、強大な魔力を持つ3人の愚者を相手にしたのでは勝ち目などない。殺意に満ちた攻撃を幾重にも受け、襤褸切れのような有様になり、男は割れた窓から城外へと落下した。
固い地面に全身を打ち付けながらも男は生きていた。追手が掛かれば殺される。男はがむしゃらに城壁を越え、静寂に包まれる街を抜け、そして人気のない森の中へと逃げ延びた。そこで出くわした魔獣を捕らえ、背に跨り、森を駆けた。ともかく古城から離れねば。男は必至の思いで魔獣の背にしがみ付いた。
一晩中魔獣に跨り森を駆け、朝日が昇り始めた頃ついに男は力尽きた。視界が霞み、手足は震え、辛うじてしがみ付いていた魔獣の背から転がり落ちる。魔獣は嘶き、男を喰わんと襲い掛かる。死ぬ。男は死を覚悟する。
しかし、男は死ななかった。魔獣の爪と牙を受け止めた物は男の肉体ではなく、研ぎ澄まされた剣であった。嘶く魔獣を討ち取るは、どこからともなく表れた5人の兵士。彼らは皆揃いの鎧をまとっている。鎧の左胸に刻み込まれるは、龍を象る緋色の紋様。その紋様の意味は男も知っている。800年余りも安寧を保つ、隣国の象徴。魔獣の背に揺られるうちに、男は隣国との国境を越えていたのだ。
兵士の頭に立つ者は、白髪の老人であった。騎獣の手綱引くその老人は、男に問う。
「お前は正義か、悪か」
男は血を吐き、答える。
「俺は悪だ。だが祖国を救いたかった」
男は国の中心から離れた小さな領土を治めていた。土地を興し、建物を建て、決まりを作った。治める土地を守るため外柵を築き、人々を守るための守り手を育て、そして自らも力を蓄えた。随分と長いこと、気の遠くなるように長い月日をそうして過ごした。
男は、領土からは遠く離れた地の生まれである。盗賊に故郷を襲われ、仲間を失い、放浪した。襲い来る魔獣を切り捨て、何も持たぬ男から命さえも奪おうとする暴漢を倒し、辿り着いた地に自身の領土を築いた。幸いにも男には領土を治めるだけの知と才と、力があった。しかし必死に築いたささやかな安息の地でさえも、日々魔獣と盗賊に狙われる。領土を守り手である男が満足に眠れる日は多くはない。滅ぼされた故郷と、治める領土の未来を思い、男は思う。なぜこの国はこうなのだ。
男の治める領土の内は、比較的平穏を保っていた。しかし一歩領土の外に出ればそこは混沌の地。荒れ果てた荒野に道という道はなく、辛うじて人の通れる獣路には魔獣が闊歩する。かつて集落として栄えた場所にも今やまともな建物などなく、僅かな人々が飢餓に耐えながら細々と暮らしているだけ。なぜ男の住まう国土がそれほど荒れ果てているのかと問えば、民の誰しもがその答えを知っている。
この国の頂には、もう千年もの間王がいない。
なぜこの国には王がいない。毎夜のように男は思う。国家の父となる初代国王が崩御して以降、国の王座は延々空座のまま。王がいなくては、国は正しくあることができない。国土は荒れ、魔獣ばかりが増え、民の暮らしは苦しくなるばかり。なぜ誰も民を救わない。なぜ誰も王になろうとしない。いや、本当はすでに新王は立っているのか。新王が立ち、それでも尚国土は荒れ果てたままなのか?いくら考えても答えは出ない。男が治める領土は、高い山々に囲まれた断絶の土地。遠く離れた国家の中心部の事情など、月に問うしか知る手立てはないのだ。
ある時、男は決意する。祖国を蝕む謎を探りに行く。領土の守りと運営を人に任せ、一人国土の中心地を目指す。2つ山を越えたとき、偶然に出会った旅人に問うた。
「今この国の頂に、王はいるか」
片腕亡くした旅人は答える。
「いない。前王が崩御し千余年、この国の頂に王はいない」
「では王を志す者はいるか」
「数知れずいた。何人もの若人が、祖国を救うため国政の場へと足を踏み入れた。しかし誰も王座には座れない。王を志す者は皆、暗晦の城に飲み込まれて露と消える。この国の王座は呪われているのだ」
旅人と別れ10日後、男は国土の中心部である街へと辿り着いた。男の治める領土とは比べ物にならないほど、賑やかで活気に溢れた街だ。しかし荒廃は確実に、その喧噪たる街をも蝕みつつある。賑やかな表通りを1本脇へと逸れれば、そこは生死入り乱れる無法地帯。骨と皮ばかりになり死を待つ人々が冷たい路面に蹲り、息絶えたばかりの赤子の腸を痩せた野良犬が食っている。瓦礫を積み上げただけの家に暮らす骸骨のような人々、蛆沸く肉片、家屋の壁にこびりついた血飛沫、耳を澄ませば聞こえる怒号。人よりも獣に近い人々が暮らす街の中心には、荘厳と佇む古びた城がある。巨大な鉄門を頑なと閉ざすその場所こそが、真に国土の中心地。かつての国王が国政の場とした古城だ。
古びた城を臨みながら、男は街で情報収集を行う。古城は国政の場として機能しているのか、城に出入りする者はいるのか、城内部の人々はどのような生活を送っているのか。数日間の聞き込みを経てわかったことは、やはり古城は国政の場としての機能を全く果たしていないということ。壊れた道や建物の整備されることはなく、川の治水は行われず、新たな法案が配布されることもない。街の周囲に凶暴な魔獣が出没してもそれを討伐する王宮軍はおらず、時折街に入り込む盗賊を裁く者もいない。街の商店や工場は古くからの慣習として毎年一定額の税金を納めてはいるが、治めた税金が民の暮らしに反映されることはない。
さらにもう一つ。聞き込みを続けるうちにわかったことは、城の内部の事情は何もわからないということ。数日に一度商人の馬車が出入りするから、内部に人が住んでいることは間違いがない。しかし商人も門の内側に積み荷を降ろし、植え込みに隠された銭袋を持ち帰るだけで、城の者と顔を合わせる機会は滅多にないのだと言う。数年又は数十年に一度、王を志す若人が武器を手に城へと入る。しかし彼らが王座に座ることはない。我こそが王となるのだと瞳輝かせる若人達は、誰一人として城から出て来ることはない。城の内部が如何ようであるのか、真実を知る者は誰一人としていない。
「あの城は人を食う。人と銭と食物を食うために、ただあの場所に建っている。あの城は巨大な化け物なのだ」
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男は城の内部の様子を探るべく、画策する。衣類のすそを裂き、手持ちの刀で己の身体にいくつもの傷をつける。頬を泥で汚し、髪を乱し、最後に武器という武器は全て捨てて、夜のうちにひっそりと城の外壁を越える。そうして人気のない城の裏戸口付近に身を横たえて、朝を待つ。
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「住んでいた集落を盗賊に襲われ、命辛々逃げ伸びました。そうして流離ううちに城の城下へと辿り着きましたが、知らぬ土地で一人暮らすことは容易ではありません。街の暴徒に有り金を奪われ、命だけは守らんと逃げ惑ううちに城壁を超えてしまったのです。無礼な行いをどうかお許しください。そしてどうか城の住人がお許しになるのであれば、私をここに置いてください。掃除夫でも下足番でも構いません。剣も魔法も満足に使えぬ私にとって、この街は生きるに辛いのです」
涙ながらに語られる身の上話を聞き、老齢の侍女は裏戸口に一人の官吏を呼び寄せた。どうかこの哀れな若者に住まいと仕事を。侍女の頼みを、男性官吏はすぐに聞き入れた。感謝の言葉と共に地面に額を擦り付け、男は人知れず笑う。全ては男の計算の内であった。己の若い肉体と整った面立ちが他の多くの者にとって魅力的であることを、男は身を以て知っていたのだ。
得体の知れぬと噂された古城の内部は、不気味なほどに平穏であった。暮らす者は全部で30人ほど、その多くが侍女と官吏だ。国土の荒廃などいざ知らず。彼らは皆何に怯えるでもなく、何に導かれるでもなく、ただ人形のように決められた毎日を繰り返す。侍女は古城内部の清掃を行い、皆の食事を作り、時には壊れかけた古城の修繕を行う。官吏は書物から古びた書物を運び出し、それを模写し、時には算盤を弾き、一見すれば滞りなく公務をこなしているようにも見える。しかし奇妙なことは、それらの作業の全てが古城の内部で完結しているということ。城の門扉はやはり固く閉ざされ、内部の者が外へ出ることはない。城の官吏が行うは民のための国政ではなく、ただ退屈を紛らわせるための手遊びに他ならない。
なぜこのような奇妙なことが起こっている?その答えはすぐにはわからない。
数か月の時を、男は城の掃除夫という立場で過ごした。窓を磨き床を磨き、侍女の手では届かぬ高天井の埃を払う。庭木の手入れや外壁の修理まで様々な要務を請け負いながら、男は城の内部の情報を集める。穢れを知らぬ純朴な若者を装い、時には愚鈍の振りをして、侍女や官吏から雑談交じりに情報を得る。やがて明らかになったものは、城に巣くう魔物の正体だ。それは城に存する7人の権力者。かつて国家の父の手足となり働いた古参者。「七指」と彼らは呼ばれていた。
王亡き今古城を支配する七指は、かつての城の面影を頑なに守り抜く。彼らは城の時が進むことを許さない。官吏が橋を造りたいという要望書を上げれば、それに値する法が整わぬとの理由で突き返す。城下を荒らす暴徒を裁きたいと言えば、有事以外の兵の徴収は認められぬと返す。ただひたすらにそれを繰り返す。官吏は要望が通らぬことを知りながらも書類を作り、七指は法が整わぬとの理由でその書類を突き返す。そうしたことが千年以上も続いている。古城に住まう官吏も侍女も、そうすることに慣れてしまったのだ。国政の真似事に付き合っていれば、荒れた国土において少なくとも寝食は保証される。
愚者共め。朽ち果てた廊下の一角で、男は呟く。七指こそが国家の膿。荒れ果てた国土を、死にゆく民を顧みぬ。君臨すれど統治を行わぬ、裁かれるべき咎人共。
「俺が王になる」
男は誓う。誰にもできないのなら、俺がやる。国を腐らす愚者共を殲滅し、荒れ果てた国土を創り直すのだ。
男は闇夜に暗躍した。まず討ち取った者は、男と最も面識の薄い老年の愚者。夜のうちに私室に入り込み、魔法で首を落とした。死体は窓から城外へと投げ捨てて、何食わぬ顔で朝を待つ。明朝城は騒然とするものの、男に嫌疑が掛かることはない。なぜなら男は己の全てを偽っていたから。剣も魔法も満足に使えぬひ弱な青年。人を疑うことを知らぬ純朴な若人。国政になどまるで興味がなく、諍いのない日々を送ることに満足する楽天家。それが男の演じていた仮の姿だ。
次に討ち取ったのは、男が時折雑談を交わしていた年若の愚者。夜のうちに私室に入り込み、寝ている最中に首を絶った。今度は死体を投げ捨てることはせず、放置した。
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「見事な擬態であった。しかし愚かな策略はここで終いだ」
翡翠色の目を細め、白髪の愚者は言う。なぜ気付かれた。戸惑う男の背後に人影が立つ。男が討ち取ることができなかった、残る2名の愚者だ。刹那閃光が迸り、男の全身に衝撃が走る。魔法による一斉攻撃。男は抵抗を試みるが、強大な魔力を持つ3人の愚者を相手にしたのでは勝ち目などない。殺意に満ちた攻撃を幾重にも受け、襤褸切れのような有様になり、男は割れた窓から城外へと落下した。
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兵士の頭に立つ者は、白髪の老人であった。騎獣の手綱引くその老人は、男に問う。
「お前は正義か、悪か」
男は血を吐き、答える。
「俺は悪だ。だが祖国を救いたかった」
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