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十字架、銀弾、濡羽のはおり
2度目の精霊族祭-2
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精霊族祭の当日に、ミーアは魔法研究所の仲間と連れ立って祭りの会場に向かった。精霊族祭の会場は毎年決まって、ポトスの街から少し外れた場所にある広大な広場だ。広場の周りは背丈程度の石壁で囲われていて、広場の西側には聖ジルバード教会を模した建物が建っている。建物の中にはお手洗いや休憩室の他、祭事場や厨房などが備えられており、結婚式の会場としても人気の場所だ。
薄暗闇に包まれた精霊族祭の会場はすでに多くの人で賑わっていた。金、銀、緑、青、紅。会場となる広場を埋め尽くす色とりどりのドレスは、闇夜に咲く花畑とでも形容しようか。それとも塀の中に詰め込まれたたくさんの宝石か。会場にいる人々の顔は開宴への期待で満ち溢れ、そこにいるだけで心が逸る。
広場の出入り口付近に、見知った顔が立っていた。ミーアの前を歩いていたビットが、あれと声を上げる。
「クリスさんだ」
魔法研究所御一行総勢11名分の瞳が、一斉にクリスの方へと向く。確かにそこにはクリスが立っていた。白いラフなTシャツに、足首丈の鼠色のズボン。およそダンスに来たとは思えない軽装であるが、王子と見紛う麗しの顔面は健在だ。通りすがる人々はもれなくクリスの顔面へと視線を送り、「王子の待つ姫君はどのようなお方かしら」と周囲を見回すのだ。
クリスさん、とビットが声を上げる。
「こんばんは。待ち合わせですか?」
「あれ。皆さん、偶然ですね。そうそう、待ち合わせだよ」
「誰と?」
まさか僕の知らないところで恋人でもできたんですか。ビットがそう声を上げるよりも早く、ミーアはふふふと低い笑い声を上げた。華麗な一回転を披露しながら、クリスの横へと躍り出る。
「クリスさんのお相手は私ですよ」
「ええ、ミーア!?ちょっとちょっとアイザさんは?」
「私の意見を聞かない男のことは知りません。今夜はクリス王子と踊り明かすんです」
ミーアは自慢げに胸を張る。隣に立つクリスは苦笑いだ。
「では私は王子と一晩限りの逢瀬を楽しみます。皆様ご機嫌よう!」
「皆さん、また会場内で」
気持ちばかりの挨拶を残し、ミーアとクリスは連れ立って会場の門扉をくぐる。「王子、後で私とも踊ってくださいね」「王子、誘いに行きますから!」投げ掛けられる仲間達の声に、笑い声を零しながら。
精霊際の会場となる広場には熱気が立ち込めていた。広場の門扉が開かれてまださほどの時間は経っていないはずなのに、短く刈り込まれた芝生の上には大勢の人々がたむろしている。宙に浮かぶランタン灯りが人々の笑顔を照らし出し、会場端に並べられたテーブルの上には色とりどりの酒と料理がずらりと並ぶ。開宴は間近。聖ジルバード教会を模した建物の前面では、簡易的に設置されたステージの上で演奏体が楽器の音合わせをしているところである。ミーアはクリスの傍らに張り付きながら、芝生の広場にアイザの姿を探す。しかし残念ながら、溢れるほどの人混みの中に目的の人を見つけることはできない。
2人が広場の一角で脚を止めた直後、辺りには大地を震わす爆音が響きわたった。空に浮かぶランタンが揺れ、人々は肩を震わせる。音程も音量も関係なしにかき鳴らされた楽器の音は、精霊族祭の開始の合図だ。高らかに慣らされる音はすぐに止み、続いて身を弾ませるような軽快な音楽が奏でられる。人々は音楽に合わせて軽やかに踊りだす。
「さぁクリス王子、踊りましょう!」
「良いけどさぁ…その王子って呼ぶの、止めてもらえる?」
熱気満つる、精霊族祭の開幕だ。
***
クリスとミーアが人混みを抜け出したのは、30分ほどダンスを楽しんだ後のことだ。広場の端に身を寄せて、大皿に並べられて軽食を口に放り込む。テーブルの中央には数十に及ぶグラスが並べられて、半分ほどのグラスにはすでに中身が注がれている。グラスの中身は全て酒。酒以外の飲み物が欲しければ、空のグラスを手に給仕係に給仕を依頼する必要があるのだ。ミーアは中身の注がれたグラスの一つを手に取り、薄緑色の液体を口の中へと流し込む。弾ける炭酸が乾いた身に染み入る。今夜は気温が高いから、少しのダンスでも全身から汗が噴き出てくる。例年よりも酒の消費量が多いだろうと、ミーアはしゅわしゅわと爽やかな炭酸を口内で転がしながら考える。
「見て、ゼータだ」
「え?」
クリスの声に、ミーアは人混みを見やった。クリスの指さす先をしばらく眺めるが、ミーアの目には目的の人物を見つけることはできない。隣でクリスが笑う。
「ゼータ、今は女性の姿だよ。緋色のドレスを着ている」
そう言われて、ミーアはようやく人波の中にその人物を見つけた。そこにいる者はゼータであるが、ミーアのよく知るゼータの姿に非ず。長い黒髪は後頭部で結い上げて、身にまとうは大胆に肩を露出した緋色のドレスだ。顔にはしっかりと化粧が施され、ドレスと同じ紅を引いた唇が夜闇に映える。擦り切れた白衣をまとう普段の姿からは想像がつかぬ変貌ぶりだ。王妃であるゼータがそこにいるということは、ゼータの腰を抱く男性が彼の有名な国王レイバックか。
ミーアとクリスは、しばらくその場で王と王妃のダンスを眺めていた。結論、酷いものである。レイバックのダンスは至極真面なのだ。人混みを除けるようにしてステップを踏み、王妃であるゼータを華麗とリードする。しかしそのゼータのダンスが酷い。ダンスのリードをされているというよりは、踊るレイバックにただ引き摺られているといった表現が適切なのだ。レイバックが右に動けば左に動き、回転するたびに脚を縺れさせ、仕舞いにはレイバックの胸板に顔面を衝突させている。あれが我が国の王妃のダンスかと、ミーアとクリスは顔を見合わせ苦笑いを零す。
間もなくして広場に響く音楽が止んだ。舞台を見やれば、演奏隊は水分補給の真っ最中。額や手のひらの汗を拭う隊員の姿も見えるから、音楽の再開までには少し時間が掛かりそうだ。せっせと軽食を口に運ぶミーアの耳元に、クリスが顔を寄せる。
「ミーア、ゼータに声を掛けてきてもいい?」
「いいですよ」
ゼータとクリスが魔法研究所内で親友と呼ぶに相応しい関係を築いていることを、ミーアはよく知っている。さらにクリスが王宮の官吏へと召し上げられたのも、ゼータの推薦あってのことなのだ。見知った顔に出会えば声を掛けたくなるのは普通だと、ミーアはクリスの背に張り付いて人混みを目指す。
「レイさん、ゼータ。こんばんは」
クリスの呼び掛けに、ゼータとレイバックは同時に振り向いた。よろよろと倒れ込みそうなゼータの腰に手を添えたまま、レイバックは破顔する。
「クリス、来ていたのか」
「精霊族祭は思い出深いお祭りですからね。開宴から参加させていただいています」
「そうか。俺達は少し前に着いたばかりだ。馬車留まりが混みあう前にと早めに身支度をしたのに、直前になってやはり行きたくないと妃がごねるものだから」
「ゼータがごねたんですか?なぜ?」
「ダンスが下手だからだ。ドラキス王国の王妃はダンスがお下手などと、民に知られるのは嫌なんだとさ。だから最低限の練習はしておけと言ったのに」
唇を尖らせるレイバックの横では、ゼータがうんざりと肩を落としている。少し前に会場に着いたばかりだというのに、すでに数時間踊り続けた後のような様子だ。不貞腐れた表情が、陽気な会場の雰囲気に何とも不釣り合いである。
「それで、クリス。そちらの可憐な女性は?ぜひ紹介してくれ」
レイバックの視線がミーアへと向いた。物珍し気な視線に晒されて、ミーアは全身を強張らせる。クリスにとっては日頃顔を合わせる慣れた人物でも、一庶民のミーアにとってレイバックは雲の上の人。まともに顔を合わせた機会といえば、結婚式に招待されたときただ一度きりであるし、面と向かって声を掛けられたのは初めての経験だ。上手く言葉を返せずにいるミーアに、助け舟を出す人物はゼータだ。
「誰かと思えばミーアじゃないですか。婚約者の彼は?」
「喧嘩中なんです。クリスさんには憂さ晴らしに付き合ってもらっています」
「ふーん…早く仲直りできると良いですね。レイ、ミーアは魔法研究所の研究員ですよ。私達の結婚式にも参列してくれています」
ゼータがそう説明すれば、レイバックはつまらんとばかりに肩を落とした。
「…何だ。好い人ではないのか」
「違いますよ。あぶれ者同士が手を組んだだけです。ミーアの恋人が会場にやって来たら、僕はとっとと退散する予定ですから」
「ああ、それで軽装なのか」
「そうです。あまり気合を入れて来るとミーアの恋人に悪いかなと思って。この度の精霊族祭では、僕は所詮脇役ですからね」
クリスがそう笑った途端、辺りには軽やかな音楽が流れ出す。音のする方を見やれば、舞台上の演奏隊が休憩を終え演奏を再開していた。広場内の人々は雑談を止め、手と手を取り合い踊り出す。休憩は終わり。踊りの輪に戻ろうとするレイバックとゼータを、クリスが呼び止める。
「レイさん、ゼータをダンスに誘っても良いですか?」
「ん、構わんぞ」
レイバックの許しを得たクリスは、ミーアに向けて目配せをした。ちょっと行ってくるね。引き留める理由も思いつかずに、ミーアは黙って首を縦に振る。しかしにこにこと嬉しそうなクリスとは対照的に、誘いを受けたゼータは盛大に顔を顰めている。クリスと踊ることが嫌というよりは、踊ること自体が嫌で仕方ないという様子だ。
「本当に踊ります?私、ど下手ですよ」
「下手なのは知っているよ。前回の精霊族祭で一緒に踊ったじゃない」
「…そういえばそうですね。嘘、あれ前回の精霊族祭ですか?何だか遥か昔の出来事のような気が…」
「前回の精霊族祭は年の初めだったからね。年月で言えば、もう1年と9か月前になるよ」
「道理で記憶が朧です。1年9か月の間に、お互い出世しましたねぇ」
「本当にね。そういえば僕、あの時さ―」
話す声は喧騒に紛れ、直に聞こえなくなった。手を取り合ったゼータとクリスは、ミーアとレイバックからは少し離れた場所でダンスを開始する。ど下手を取り繕う必要がないとわかったためか、あれだけダンスを渋っていたゼータの顔には笑顔が見え隠れする。夜空に映える金の髪に、一点の穢れもない純白のシャツ。そして純白に抱き込まれる緋色のドレスに、夜闇に溶ける黒の髪。対照的な容姿の2人が手を取り合う様は、まるで御伽話の一場面のようだ。ゼータのダンスがもう少しまともであったなら、さぞかし人の目を集めたであろうに。他人心地で2人のダンスに見入るミーアの目の前に、大きな手のひらが差し出される。
「ミーアと言ったな。踊るか?」
ミーアは弾かれたように顔を上げた。手のひらの主はもちろん、ドラキス王国の頂に立つ緋髪の王。思わぬ誘いに、ミーアは短い悲鳴を上げる。
「私のような庶民に、王様のダンスのお相手は務まりません」
「今の俺は祭りを楽しみに来た一庶民だ。身分の違いを気に掛ける必要はない。気後れするなら無理にとは言わんが、他に声を掛けられると少々面倒だぞ」
レイバックがそう言って辺りを見回すものだから、ミーアもつられて自身の周囲に視線を送った。精霊族祭の会場を訪れるのは、決まった共を持つ者ばかりではない。共を連れず単身会場を訪れ、ナンパ行為を働く客人は男女問わず多く存在するのだ。現にクリスに同行を断られたリィモンは、この会場のどこかで一人ナンパ行為に勤しんでいるはずである。開宴後2時間程度は、そうしたナンパ行為が流行る時間帯なのだ。レイバックとミーアの周囲にも、ナンパ者と思しき人が数名見え隠れしていた。人混みに紛れ、レイバックとミーアが手を取り合うか否かと様子を伺っているのである。
ミーアは改めて、目の前に立つレイバックの姿をまじまじと見上げた。力強い緋色の瞳に通った鼻筋。日に焼けた頬の周りでは、癖の強い緋髪が天地無用に跳ね回っている。半袖シャツから伸びる腕は逞しく、王というよりは精悍な軍人を思わせる。クリスとは違った意味で、レイバックもまた男前。ミーアがダンスの誘いを断れば、彼の元には軟派な女性が殺到することであろう。そしてミーアも、凡人なりに今夜は目いっぱい着飾っている。髪結いと化粧は玄人に依頼したし、ドレスと靴は1か月前に新調したばかりの流行り物。絶世の美女とまではいかずとも、最低限人の視線を集める程度の仕上がりにはなっているはずなのだ。ここでレイバックの手を取らずにいれば、ミーアの元にも一人二人の軟派者が現れてもおかしくはない。軟派者は総じて言葉が巧みであるから、一度声を掛けられればやり過ごすのは面倒だ。ミーアは両手のひらで自身の頬を叩く。
気合を入れろ、ミーア。一晩で2人もの色男に腰を抱かれる機会など、2度と訪れはしない。
薄暗闇に包まれた精霊族祭の会場はすでに多くの人で賑わっていた。金、銀、緑、青、紅。会場となる広場を埋め尽くす色とりどりのドレスは、闇夜に咲く花畑とでも形容しようか。それとも塀の中に詰め込まれたたくさんの宝石か。会場にいる人々の顔は開宴への期待で満ち溢れ、そこにいるだけで心が逸る。
広場の出入り口付近に、見知った顔が立っていた。ミーアの前を歩いていたビットが、あれと声を上げる。
「クリスさんだ」
魔法研究所御一行総勢11名分の瞳が、一斉にクリスの方へと向く。確かにそこにはクリスが立っていた。白いラフなTシャツに、足首丈の鼠色のズボン。およそダンスに来たとは思えない軽装であるが、王子と見紛う麗しの顔面は健在だ。通りすがる人々はもれなくクリスの顔面へと視線を送り、「王子の待つ姫君はどのようなお方かしら」と周囲を見回すのだ。
クリスさん、とビットが声を上げる。
「こんばんは。待ち合わせですか?」
「あれ。皆さん、偶然ですね。そうそう、待ち合わせだよ」
「誰と?」
まさか僕の知らないところで恋人でもできたんですか。ビットがそう声を上げるよりも早く、ミーアはふふふと低い笑い声を上げた。華麗な一回転を披露しながら、クリスの横へと躍り出る。
「クリスさんのお相手は私ですよ」
「ええ、ミーア!?ちょっとちょっとアイザさんは?」
「私の意見を聞かない男のことは知りません。今夜はクリス王子と踊り明かすんです」
ミーアは自慢げに胸を張る。隣に立つクリスは苦笑いだ。
「では私は王子と一晩限りの逢瀬を楽しみます。皆様ご機嫌よう!」
「皆さん、また会場内で」
気持ちばかりの挨拶を残し、ミーアとクリスは連れ立って会場の門扉をくぐる。「王子、後で私とも踊ってくださいね」「王子、誘いに行きますから!」投げ掛けられる仲間達の声に、笑い声を零しながら。
精霊際の会場となる広場には熱気が立ち込めていた。広場の門扉が開かれてまださほどの時間は経っていないはずなのに、短く刈り込まれた芝生の上には大勢の人々がたむろしている。宙に浮かぶランタン灯りが人々の笑顔を照らし出し、会場端に並べられたテーブルの上には色とりどりの酒と料理がずらりと並ぶ。開宴は間近。聖ジルバード教会を模した建物の前面では、簡易的に設置されたステージの上で演奏体が楽器の音合わせをしているところである。ミーアはクリスの傍らに張り付きながら、芝生の広場にアイザの姿を探す。しかし残念ながら、溢れるほどの人混みの中に目的の人を見つけることはできない。
2人が広場の一角で脚を止めた直後、辺りには大地を震わす爆音が響きわたった。空に浮かぶランタンが揺れ、人々は肩を震わせる。音程も音量も関係なしにかき鳴らされた楽器の音は、精霊族祭の開始の合図だ。高らかに慣らされる音はすぐに止み、続いて身を弾ませるような軽快な音楽が奏でられる。人々は音楽に合わせて軽やかに踊りだす。
「さぁクリス王子、踊りましょう!」
「良いけどさぁ…その王子って呼ぶの、止めてもらえる?」
熱気満つる、精霊族祭の開幕だ。
***
クリスとミーアが人混みを抜け出したのは、30分ほどダンスを楽しんだ後のことだ。広場の端に身を寄せて、大皿に並べられて軽食を口に放り込む。テーブルの中央には数十に及ぶグラスが並べられて、半分ほどのグラスにはすでに中身が注がれている。グラスの中身は全て酒。酒以外の飲み物が欲しければ、空のグラスを手に給仕係に給仕を依頼する必要があるのだ。ミーアは中身の注がれたグラスの一つを手に取り、薄緑色の液体を口の中へと流し込む。弾ける炭酸が乾いた身に染み入る。今夜は気温が高いから、少しのダンスでも全身から汗が噴き出てくる。例年よりも酒の消費量が多いだろうと、ミーアはしゅわしゅわと爽やかな炭酸を口内で転がしながら考える。
「見て、ゼータだ」
「え?」
クリスの声に、ミーアは人混みを見やった。クリスの指さす先をしばらく眺めるが、ミーアの目には目的の人物を見つけることはできない。隣でクリスが笑う。
「ゼータ、今は女性の姿だよ。緋色のドレスを着ている」
そう言われて、ミーアはようやく人波の中にその人物を見つけた。そこにいる者はゼータであるが、ミーアのよく知るゼータの姿に非ず。長い黒髪は後頭部で結い上げて、身にまとうは大胆に肩を露出した緋色のドレスだ。顔にはしっかりと化粧が施され、ドレスと同じ紅を引いた唇が夜闇に映える。擦り切れた白衣をまとう普段の姿からは想像がつかぬ変貌ぶりだ。王妃であるゼータがそこにいるということは、ゼータの腰を抱く男性が彼の有名な国王レイバックか。
ミーアとクリスは、しばらくその場で王と王妃のダンスを眺めていた。結論、酷いものである。レイバックのダンスは至極真面なのだ。人混みを除けるようにしてステップを踏み、王妃であるゼータを華麗とリードする。しかしそのゼータのダンスが酷い。ダンスのリードをされているというよりは、踊るレイバックにただ引き摺られているといった表現が適切なのだ。レイバックが右に動けば左に動き、回転するたびに脚を縺れさせ、仕舞いにはレイバックの胸板に顔面を衝突させている。あれが我が国の王妃のダンスかと、ミーアとクリスは顔を見合わせ苦笑いを零す。
間もなくして広場に響く音楽が止んだ。舞台を見やれば、演奏隊は水分補給の真っ最中。額や手のひらの汗を拭う隊員の姿も見えるから、音楽の再開までには少し時間が掛かりそうだ。せっせと軽食を口に運ぶミーアの耳元に、クリスが顔を寄せる。
「ミーア、ゼータに声を掛けてきてもいい?」
「いいですよ」
ゼータとクリスが魔法研究所内で親友と呼ぶに相応しい関係を築いていることを、ミーアはよく知っている。さらにクリスが王宮の官吏へと召し上げられたのも、ゼータの推薦あってのことなのだ。見知った顔に出会えば声を掛けたくなるのは普通だと、ミーアはクリスの背に張り付いて人混みを目指す。
「レイさん、ゼータ。こんばんは」
クリスの呼び掛けに、ゼータとレイバックは同時に振り向いた。よろよろと倒れ込みそうなゼータの腰に手を添えたまま、レイバックは破顔する。
「クリス、来ていたのか」
「精霊族祭は思い出深いお祭りですからね。開宴から参加させていただいています」
「そうか。俺達は少し前に着いたばかりだ。馬車留まりが混みあう前にと早めに身支度をしたのに、直前になってやはり行きたくないと妃がごねるものだから」
「ゼータがごねたんですか?なぜ?」
「ダンスが下手だからだ。ドラキス王国の王妃はダンスがお下手などと、民に知られるのは嫌なんだとさ。だから最低限の練習はしておけと言ったのに」
唇を尖らせるレイバックの横では、ゼータがうんざりと肩を落としている。少し前に会場に着いたばかりだというのに、すでに数時間踊り続けた後のような様子だ。不貞腐れた表情が、陽気な会場の雰囲気に何とも不釣り合いである。
「それで、クリス。そちらの可憐な女性は?ぜひ紹介してくれ」
レイバックの視線がミーアへと向いた。物珍し気な視線に晒されて、ミーアは全身を強張らせる。クリスにとっては日頃顔を合わせる慣れた人物でも、一庶民のミーアにとってレイバックは雲の上の人。まともに顔を合わせた機会といえば、結婚式に招待されたときただ一度きりであるし、面と向かって声を掛けられたのは初めての経験だ。上手く言葉を返せずにいるミーアに、助け舟を出す人物はゼータだ。
「誰かと思えばミーアじゃないですか。婚約者の彼は?」
「喧嘩中なんです。クリスさんには憂さ晴らしに付き合ってもらっています」
「ふーん…早く仲直りできると良いですね。レイ、ミーアは魔法研究所の研究員ですよ。私達の結婚式にも参列してくれています」
ゼータがそう説明すれば、レイバックはつまらんとばかりに肩を落とした。
「…何だ。好い人ではないのか」
「違いますよ。あぶれ者同士が手を組んだだけです。ミーアの恋人が会場にやって来たら、僕はとっとと退散する予定ですから」
「ああ、それで軽装なのか」
「そうです。あまり気合を入れて来るとミーアの恋人に悪いかなと思って。この度の精霊族祭では、僕は所詮脇役ですからね」
クリスがそう笑った途端、辺りには軽やかな音楽が流れ出す。音のする方を見やれば、舞台上の演奏隊が休憩を終え演奏を再開していた。広場内の人々は雑談を止め、手と手を取り合い踊り出す。休憩は終わり。踊りの輪に戻ろうとするレイバックとゼータを、クリスが呼び止める。
「レイさん、ゼータをダンスに誘っても良いですか?」
「ん、構わんぞ」
レイバックの許しを得たクリスは、ミーアに向けて目配せをした。ちょっと行ってくるね。引き留める理由も思いつかずに、ミーアは黙って首を縦に振る。しかしにこにこと嬉しそうなクリスとは対照的に、誘いを受けたゼータは盛大に顔を顰めている。クリスと踊ることが嫌というよりは、踊ること自体が嫌で仕方ないという様子だ。
「本当に踊ります?私、ど下手ですよ」
「下手なのは知っているよ。前回の精霊族祭で一緒に踊ったじゃない」
「…そういえばそうですね。嘘、あれ前回の精霊族祭ですか?何だか遥か昔の出来事のような気が…」
「前回の精霊族祭は年の初めだったからね。年月で言えば、もう1年と9か月前になるよ」
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「本当にね。そういえば僕、あの時さ―」
話す声は喧騒に紛れ、直に聞こえなくなった。手を取り合ったゼータとクリスは、ミーアとレイバックからは少し離れた場所でダンスを開始する。ど下手を取り繕う必要がないとわかったためか、あれだけダンスを渋っていたゼータの顔には笑顔が見え隠れする。夜空に映える金の髪に、一点の穢れもない純白のシャツ。そして純白に抱き込まれる緋色のドレスに、夜闇に溶ける黒の髪。対照的な容姿の2人が手を取り合う様は、まるで御伽話の一場面のようだ。ゼータのダンスがもう少しまともであったなら、さぞかし人の目を集めたであろうに。他人心地で2人のダンスに見入るミーアの目の前に、大きな手のひらが差し出される。
「ミーアと言ったな。踊るか?」
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「私のような庶民に、王様のダンスのお相手は務まりません」
「今の俺は祭りを楽しみに来た一庶民だ。身分の違いを気に掛ける必要はない。気後れするなら無理にとは言わんが、他に声を掛けられると少々面倒だぞ」
レイバックがそう言って辺りを見回すものだから、ミーアもつられて自身の周囲に視線を送った。精霊族祭の会場を訪れるのは、決まった共を持つ者ばかりではない。共を連れず単身会場を訪れ、ナンパ行為を働く客人は男女問わず多く存在するのだ。現にクリスに同行を断られたリィモンは、この会場のどこかで一人ナンパ行為に勤しんでいるはずである。開宴後2時間程度は、そうしたナンパ行為が流行る時間帯なのだ。レイバックとミーアの周囲にも、ナンパ者と思しき人が数名見え隠れしていた。人混みに紛れ、レイバックとミーアが手を取り合うか否かと様子を伺っているのである。
ミーアは改めて、目の前に立つレイバックの姿をまじまじと見上げた。力強い緋色の瞳に通った鼻筋。日に焼けた頬の周りでは、癖の強い緋髪が天地無用に跳ね回っている。半袖シャツから伸びる腕は逞しく、王というよりは精悍な軍人を思わせる。クリスとは違った意味で、レイバックもまた男前。ミーアがダンスの誘いを断れば、彼の元には軟派な女性が殺到することであろう。そしてミーアも、凡人なりに今夜は目いっぱい着飾っている。髪結いと化粧は玄人に依頼したし、ドレスと靴は1か月前に新調したばかりの流行り物。絶世の美女とまではいかずとも、最低限人の視線を集める程度の仕上がりにはなっているはずなのだ。ここでレイバックの手を取らずにいれば、ミーアの元にも一人二人の軟派者が現れてもおかしくはない。軟派者は総じて言葉が巧みであるから、一度声を掛けられればやり過ごすのは面倒だ。ミーアは両手のひらで自身の頬を叩く。
気合を入れろ、ミーア。一晩で2人もの色男に腰を抱かれる機会など、2度と訪れはしない。
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