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十字架、銀弾、濡羽のはおり
100年に一度の-1
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※短編詰め合わせ、本章以降ときどき性描写有り(生々しいのはありません)
***
雨の日の夜だ。酒瓶を抱きかかえたゼータはとある人物の私室へと向かっていた。紅絨毯の敷かれた長い廊下の先、王宮5階の最奥に国家のナンバー2と名高いザトの私室がある。
ゼータは王妃として王宮に入ってからというもの、ザトとは幾度となく杯を交わしている。白髪に強面、一見すると取っ付きにくい印象を受けるザトであるが、本性は気さくなご老人。王宮一長命であるとされるだけに博識で、なおかつ無類の酒好きだ。ゼータとは何かと気が合うのである。今ゼータがザトの私室へと向かっているのも、「夕食が済み次第私室へ来るように」との呼び出しを受けたためだ。呼び出しの理由は伝えられなかったが、夕食後という時間帯を鑑みればいつもの飲み会に違いない。そう判断したゼータは持ち前の酒瓶を懐に抱え、いそいそとザトの私室を目指すのである。
よく使い込まれたけやきの扉を開くと、すっかり見慣れたザトの私室には思いもよらぬ先客がいた。部屋の中心にあるソファに座り、むっつりと押し黙る人物はレイバックだ。長方形の茶飲み机を挟み、対面に置かれたソファには同じく気難しい表情を浮かべたザトがいる。2人の目の前にはそれぞれ湯呑が置かれているから、レイバックが長くこの場所に滞在していることは間違いがない。しかしただの茶会、というには雰囲気が重々しい。ゼータは酒瓶を抱く腕に力を込める。
「あの…ザト。来ましたけど」
「ん、座れ」
ザト、と呼び掛けたはずなのに、答えた者はレイバックであった。軽い調子を装ってはいるが、声色からは得も言われぬ物々しさが漂っている。指示の通りレイバックの隣に腰を下ろしながら、ゼータは激しい不安に駆られるのだ。何かレイバックの怒りを買う行いをしてしまっただろうか。この場にザトを交えているということは、もしや頻繁な飲み会を咎められるのだろうか。しかしゼータとザトが飲み友達であることはとっくの昔に周知の上。ドラキス王国建国の協力者でもあるザトはレイバックからの信用も厚く、ザトと2人きりでの飲み会を咎められた経験は一度もない。
飲み会関係の不祥事でないとすれば、生活面に何か問題があったのだろうか。よもや再三の忠告にも関わらず、懲りずに魔獣の糞掃除をしていることがレイバックの耳に入ったか。ザトとの連名で最終忠告を受ければ、流石のゼータも気軽に厩舎に近付くことはできなくなる。王宮滞在中の楽しみが減っては困ると、ゼータの心中は不安でいっぱいだ。
「要件は何でしょう。てっきり飲み会のお誘いだと思って、酒瓶を持ってきてしまったんですけれど…」
そう言うと、ゼータはテーブルの上に未開封の酒瓶を置いた。澄んだ青色の酒瓶をしばし眺めた後に、相変わらず重苦しい表情のレイバックは口を開く。
「話があるのは俺だ。ザトはまぁ…付き添いと言ったところか」
「付き添い?2人きりじゃ話せないような内容ですか?」
「付き添いの理由は直にわかる。本題に入る前に、ドラゴンの繁殖行動について知っていることを教えてくれ」
まるで意図のわからぬ質問だ。ゼータは首を傾げながらも、膨大な知識の中から「ドラゴン」と見出しの付いた項目を引っ張り出す。
「ドラゴンは人と同じく雌雄異体の生物です。外見上目立った性的特徴はなく、人の目に雌雄の区別は付きません。しかし一説によると、ドラゴンは生殖器から発せられる微かな匂いにより、同種の性別を判断していると言われています」
話す最中にちらと様子を伺えば、レイバックとザトは黙ってゼータの語りに耳を澄ませていた。制止の言葉がないのを良いことに、ゼータの語りは段々と滑らかになる。
「ドラゴンの繁殖方法については、そのほとんどが謎であるとされています。その理由としては、そもそもドラキス王国近辺で目撃されるドラゴンの個体数が極端に少ないこと。繁殖方法を探ろうにも、観察すべき個体が間近にいないんです。旧来より多くの研究者が涙を飲んでいる案件でもあります。唯一明らかになっている事実と言えば、ドラゴンの雄には繁殖期があるということ。数十年もしくは数百年単位で訪れる繁殖期に合わせ、番を作り交尾にあたるとされています。しかし具体的な交尾活動の様子や、産卵、子育てに関する事柄は一切合切が謎に包まれています。あくまで推測の域を出ませんが、この世界のどこかにはドラゴンのコロニーがあり、子を宿した雌のドラゴンはコロニーでの出産・子育て期間を経るのではないかとも言われています」
「…何だ。よく知っているんだな」
「ドラゴンの生態は、かねてよりドラキス王国の人々の興味の対象ですからねぇ。国家の主がドラゴンの血を引くんだから、当然と言えば当然です。ドラゴンの生態について新情報が明らかになれば、どんなに些細な事項でも各情報誌で特集が組まれます。一番最近だと…もう20年も前でしょうか。ドラゴンが卵生動物であることはトカゲ似の風体から想像されていたことでありますが、卵の色が母体となるドラゴンの身体の色に由来する事が明らかになったんです。情報提供者はドラキス王国内東部研究所の…すみません、私としたことが研究者の名前を忘れてしまいました。数百年単位でドラゴンの研究に尽力されている御仁であり、実は私も一度だけ顔をお見掛けしたことがあるんですよ。名前…ああ、名前が思い出せません。ドラゴン研究第一人者の名前を度忘れするだなんて、恥ずべき失態です。明朝までには調べておきます」
「ゼータ、あのな」
「彼の有名著書にドラゴン異放記という物がありますが、ご存じですか?未読であれば後日お貸ししましょう。もう800年も前に発刊された書物なんですが。増刷回数は千を軽く超えております。書物好きであれば、必ずと言って良いほど所有している一冊ですね。実は私、ドラゴン異放記はもう内容を暗記する程に読み込んでおりましてねぇ。つい数か月前ついに表紙が破けてしまい、替えの一冊を購入したところなんです。でも古い方の書物も、表紙を修繕し本棚に入れてあるんです。何百回と呼んだ書物ですから、捨てるに捨てられなくて。あ、古い書物と言えば、先日…」
「ゼータ、一旦口を閉じてくれ。書物語りを聞きたかったわけではない」
レイバックの制止を受けて、ゼータはようやく口を閉じる。「まだ語りたいのに」と言わんばかりに、上下の唇がもごもごと動く。すっかりゼータの独壇場となっていた場の雰囲気は、続くレイバックの言葉により無事本筋へと戻される。
「ドラゴンについては博識なようなので、前置きは省かせてもらう。単刀直入に言うぞ。実は俺にも繁殖期がある」
「え、そうなんですか」
思いがけない告白に、ゼータは黒の瞳を数度瞬かせた。レイバックとの付き合いは早千余年。千年の時を経て明かされる衝撃の事実だ。
「繁殖期の周期は丁度100年。そして前回の繁殖期が丁度100年前。つまり今の俺は、繁殖期を数日後に控えた状態というわけだ」
「へぇ…興味深い話ですね。繁殖期が近い、というのは感覚的にわかるものなんですか?」
「明確な兆候はない。多少の気だるさがあるのと、繁殖期に備え食欲が増すんだ。最近間食が多いとカミラに言われてな。もしやと思って手帳を見返したら案の定だ。前回の繁殖期の時期は、手帳が変わるたびに書き写すようにしているから」
「へぇぇぇ…繁殖期って具体的にはどんな感じになるんですか?」
ドラゴンの生態関する記述書は、愛書として日夜手元に置いているゼータであるが、当然ながら繁殖期に関する記述は皆無。研究職の血が騒ぎうきうきと質問を続けるゼータに、答えを返す者はザトだ。
「繁殖期の期間は3日間。その間、王は人の心を失くします。獣になる、と言い換えても良い。外見上は人でありながらも、行動は発情した獣と同等です。番を離さず、体力の続く限り交尾に明け暮れる。食事は摂らず、満足な睡眠も取りません。疲れれば申し訳程度に身体を休め、起きればまた繁殖活動を再開します。獣、というのが相応しいのでございますよ。繫殖期中の王は」
そう語るザトの瞳は真剣そのものだ。語られる言葉は冗談や誇張などではない。浮かれ調子で口にすべき質問ではなかったと、ゼータは今更ながら表情を引き締める。
「ザトは、まるで実際に見てきたように言うんですね」
「見ておりましたから。私は王の右腕となってから、9度の繁殖期を共に乗り越えて参りました。人にあるまじき繫殖期の存在が王の不利益とならぬよう、心血を注いできたのです。番となる女性を宛がい、人目に付かぬ交尾の場を用意し、王と番の両名に命の危険が及ばぬよう細心の注意を払って参りました。私以外の十二種族長は繁殖期の存在を知りません。ゼータ様も本件に関しては、くれぐれも他言なさいませんよう」
重厚な声音でそう告げられて、ゼータは生唾を飲み込んだ。これが、ザトがこの場に同席する理由だ。レイバックには繫殖期中の記憶がない。だからこそドラゴンの繁殖期の過激さを伝えるための語り部として、ザトがこの場に召喚されたのだ。一つの疑問が解決し、そしてまた新たな疑問が次から次へと沸き上がる。
「番には、いつも同じ女性を?」
「いいえ、その時々で異なる女性を宛がっております。王がお選びになったわけではなく、ドラゴンの繁殖行動の激しさに耐えうる女性を私が見繕ったまで。ただし直近3度の繁殖期につきましては、同じ女性に番の依頼を出しております。重ねて言いますが、番の選任につきましては私の判断です。王は番となる女性の名も、素性もご存じありません」
「番を選ぶ具体的な基準は?」
「遺伝子的にドラゴンと近しいかどうか、それだけでございます。3度番の依頼を出した女性は、竜族と幻獣族の混血種です。竜族は一説によればドラゴンの亜種であるとされていますし、幻獣の血が混じっていれば獣の交尾には一定の耐性がある。無事繁殖期を乗り越えた暁には、望みの物を何でも与えるとの契約で、3日限りの番役を引き受けていただいております」
話す間にも、ザトは真正面に座るゼータの様子を頻繁に伺っていた。時折言葉を区切り、慎重に表現を選んでいるようにも感じられる。彼は今、レイバックの過去の女性関係を告白しているに等しい。番の女性との間に愛はなくとも、数度に渡る肉体関係があったことに違いはないのだ。
ザトが言葉は、レイバックが引き継いだ。
「俺は繁殖期以外で、その女性と顔を合わせたことはない。番の依頼に関してはザトに一任しているから、本当に名前も知らないんだ。あちら方も報酬があるから番役を引き受けているだけで、俺に対する情など一切持ち合わせてはいないはずだ」
「そんな重ね重ね言われなくても、過ぎた出来事に嫉妬したりはしませんよ…」
「過ぎた出来事ではない。今回の繁殖期についても、同じ女性に番の依頼を出すつもりでいる」
一瞬、場の空気が凍り付く。
「…は?」
「ゼータを呼び出した理由はそれだ。不貞行為の宣告など愚劣の極みだが、今回ばかりは致し方ない。繁殖期にあたる3日間だけだ。この腕に他の女性を抱くことを許して欲しい」
レイバックの声は苦渋に満ちている。当たり前だ。数日後に控えた今回の繁殖期は、妃のいなかった前回の繁殖期とは訳が違う。永遠の愛を誓った者が傍におりながら、別の相手との行為に望まねばならない。例えレイバック本人には行為中の記憶がないのだとしても、少なくともザトとゼータは行為のいかんを記憶に留めることになるのだ。番の女性も然りである。受け入れてくれとは言わぬ、だがドラゴンの生態上止む負えぬ出来事として飲み込んでくれ。レイバックの切願に対し、ゼータの答えは明快だ。
「嫌です」
凛として告げられる答えに、今度はレイバックが目を瞬かせる番である。
「ゼータ、あのな」
「いやいやいや…。そこは3日間よろしく頼む、でしょう。何で私がいるのに、わざわざ他の女性に番の依頼を出すんですか?」
ゼータの主張は最もだ。咄嗟に言い返すことができず、レイバックは唇を噛む。黙り込むレイバックに代わり、今度はザトがゼータの説得に当たる。
「番の女性には命の危険が伴います。繁殖期中の王は心を失くす、と先ほど申し上げたでしょう。繁殖期中の活動はあくまで繁殖のため、番の身体を思いやる満足な愛撫などありませんよ。行為の激しさも然る事ながら、行為中の王は番の女性を傷つけます。噛み傷、引っ掻き傷なら可愛いもので、下手に抵抗などすれば腕の骨を折られることもあります。逃げ出すことなど当然不可能ですし、傷の手当てをしようにも、行為の最中は他の者が傍に寄ることも許されません」
「傷は治ります。それに一度引き受けたならば行為の最中に逃げ出すような真似はしませんよ。今まで何人もの女性が番役をこなしてきたんでしょう。皆にできて私にできないはずはありません」
自信たっぷりにそう告げるゼータの指先を、不意に伸びてきた手のひらが握り込む。温かさに誘われ顔を上げれば、吐息が掛かるほどの位置にレイバックの顔がある。情けなく眉を下げた、一国の王にあるまじき表情だ。
「辛い思いをさせたくないんだ。わかるだろ?まだ番の選定に慣れていなかった頃、番役の女性を酷く傷つけた事があった。繁殖期を終え意識が戻ると、目の前には血塗れの女性が横たわっている。幸い命に障りはなかったが、あの時の恐怖は今でも忘れない。ようやく手に入れた大切な妃を、この手で傷つけるやもしれぬ。想像すれば発狂しそうだ」
「それが私を番にしない理由?」
「そうだ」
「なら、残念。やはり番の御役目は私が引き受ける他にないようです」
ゼータはもう一方の手で、着ていたシャツのすそを捲り上げた。肉の薄い腹が露わになる。レイバックとザトの目の前に晒された物は、真新しい青痣だ。ゼータの腹部に残されたいくつもの殴打痕。触れれば激しく痛みそうなその傷は、他の誰でもないレイバックとの喧嘩痕だ。ほんの数日前のこと。「最近出兵要請がなくて鬱憤が溜まっている」と零すレイバックの誘いで、深夜の訓練場で心行くまで殴り合った。実はそうすることは珍しくはない。レイバックとゼータは王と妃の関係であり、長年の茶飲み友達であり、そして喧嘩友達であるのだ。殴打痕だけにあらず、切り傷も刺創ももう飽きるほどに付けられている。
「今更多少の怪我で文句など言いません。不貞行為を気に病む必要はありませんし、番に支払う報酬を用意する手間もありません。さらに行為中に命の危険を感じる出来事があれば、レイをぶっ飛ばして逃げ出すことを約束しましょう。どうですか?私を番にすることに、何か不都合があるでしょうか」
全くもって的を射た主張だ。レイバックとザトの心労の原因は、一つが妃以外の女性と性行為に臨まねばならぬこと。そしてもう一つは、繁殖期のレイバックが番の女性を傷つけてしまうことだ。例え相応の対価を支払っていたのだとしても、人の身体を傷つけることが心安らかであるはずもない。
だがゼータを番として選定すれば、2人は全ての心労から解放される。ただ一言「よろしく頼む」と言えば、不貞行為も傷害行為も気に病むことなく、3日間の繁殖期に臨むことができる。レイバックはザトとしばし顔を見合わせ、それから深々と頭を下げた。
「3日間、よろしく頼む」
***
雨の日の夜だ。酒瓶を抱きかかえたゼータはとある人物の私室へと向かっていた。紅絨毯の敷かれた長い廊下の先、王宮5階の最奥に国家のナンバー2と名高いザトの私室がある。
ゼータは王妃として王宮に入ってからというもの、ザトとは幾度となく杯を交わしている。白髪に強面、一見すると取っ付きにくい印象を受けるザトであるが、本性は気さくなご老人。王宮一長命であるとされるだけに博識で、なおかつ無類の酒好きだ。ゼータとは何かと気が合うのである。今ゼータがザトの私室へと向かっているのも、「夕食が済み次第私室へ来るように」との呼び出しを受けたためだ。呼び出しの理由は伝えられなかったが、夕食後という時間帯を鑑みればいつもの飲み会に違いない。そう判断したゼータは持ち前の酒瓶を懐に抱え、いそいそとザトの私室を目指すのである。
よく使い込まれたけやきの扉を開くと、すっかり見慣れたザトの私室には思いもよらぬ先客がいた。部屋の中心にあるソファに座り、むっつりと押し黙る人物はレイバックだ。長方形の茶飲み机を挟み、対面に置かれたソファには同じく気難しい表情を浮かべたザトがいる。2人の目の前にはそれぞれ湯呑が置かれているから、レイバックが長くこの場所に滞在していることは間違いがない。しかしただの茶会、というには雰囲気が重々しい。ゼータは酒瓶を抱く腕に力を込める。
「あの…ザト。来ましたけど」
「ん、座れ」
ザト、と呼び掛けたはずなのに、答えた者はレイバックであった。軽い調子を装ってはいるが、声色からは得も言われぬ物々しさが漂っている。指示の通りレイバックの隣に腰を下ろしながら、ゼータは激しい不安に駆られるのだ。何かレイバックの怒りを買う行いをしてしまっただろうか。この場にザトを交えているということは、もしや頻繁な飲み会を咎められるのだろうか。しかしゼータとザトが飲み友達であることはとっくの昔に周知の上。ドラキス王国建国の協力者でもあるザトはレイバックからの信用も厚く、ザトと2人きりでの飲み会を咎められた経験は一度もない。
飲み会関係の不祥事でないとすれば、生活面に何か問題があったのだろうか。よもや再三の忠告にも関わらず、懲りずに魔獣の糞掃除をしていることがレイバックの耳に入ったか。ザトとの連名で最終忠告を受ければ、流石のゼータも気軽に厩舎に近付くことはできなくなる。王宮滞在中の楽しみが減っては困ると、ゼータの心中は不安でいっぱいだ。
「要件は何でしょう。てっきり飲み会のお誘いだと思って、酒瓶を持ってきてしまったんですけれど…」
そう言うと、ゼータはテーブルの上に未開封の酒瓶を置いた。澄んだ青色の酒瓶をしばし眺めた後に、相変わらず重苦しい表情のレイバックは口を開く。
「話があるのは俺だ。ザトはまぁ…付き添いと言ったところか」
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「付き添いの理由は直にわかる。本題に入る前に、ドラゴンの繁殖行動について知っていることを教えてくれ」
まるで意図のわからぬ質問だ。ゼータは首を傾げながらも、膨大な知識の中から「ドラゴン」と見出しの付いた項目を引っ張り出す。
「ドラゴンは人と同じく雌雄異体の生物です。外見上目立った性的特徴はなく、人の目に雌雄の区別は付きません。しかし一説によると、ドラゴンは生殖器から発せられる微かな匂いにより、同種の性別を判断していると言われています」
話す最中にちらと様子を伺えば、レイバックとザトは黙ってゼータの語りに耳を澄ませていた。制止の言葉がないのを良いことに、ゼータの語りは段々と滑らかになる。
「ドラゴンの繁殖方法については、そのほとんどが謎であるとされています。その理由としては、そもそもドラキス王国近辺で目撃されるドラゴンの個体数が極端に少ないこと。繁殖方法を探ろうにも、観察すべき個体が間近にいないんです。旧来より多くの研究者が涙を飲んでいる案件でもあります。唯一明らかになっている事実と言えば、ドラゴンの雄には繁殖期があるということ。数十年もしくは数百年単位で訪れる繁殖期に合わせ、番を作り交尾にあたるとされています。しかし具体的な交尾活動の様子や、産卵、子育てに関する事柄は一切合切が謎に包まれています。あくまで推測の域を出ませんが、この世界のどこかにはドラゴンのコロニーがあり、子を宿した雌のドラゴンはコロニーでの出産・子育て期間を経るのではないかとも言われています」
「…何だ。よく知っているんだな」
「ドラゴンの生態は、かねてよりドラキス王国の人々の興味の対象ですからねぇ。国家の主がドラゴンの血を引くんだから、当然と言えば当然です。ドラゴンの生態について新情報が明らかになれば、どんなに些細な事項でも各情報誌で特集が組まれます。一番最近だと…もう20年も前でしょうか。ドラゴンが卵生動物であることはトカゲ似の風体から想像されていたことでありますが、卵の色が母体となるドラゴンの身体の色に由来する事が明らかになったんです。情報提供者はドラキス王国内東部研究所の…すみません、私としたことが研究者の名前を忘れてしまいました。数百年単位でドラゴンの研究に尽力されている御仁であり、実は私も一度だけ顔をお見掛けしたことがあるんですよ。名前…ああ、名前が思い出せません。ドラゴン研究第一人者の名前を度忘れするだなんて、恥ずべき失態です。明朝までには調べておきます」
「ゼータ、あのな」
「彼の有名著書にドラゴン異放記という物がありますが、ご存じですか?未読であれば後日お貸ししましょう。もう800年も前に発刊された書物なんですが。増刷回数は千を軽く超えております。書物好きであれば、必ずと言って良いほど所有している一冊ですね。実は私、ドラゴン異放記はもう内容を暗記する程に読み込んでおりましてねぇ。つい数か月前ついに表紙が破けてしまい、替えの一冊を購入したところなんです。でも古い方の書物も、表紙を修繕し本棚に入れてあるんです。何百回と呼んだ書物ですから、捨てるに捨てられなくて。あ、古い書物と言えば、先日…」
「ゼータ、一旦口を閉じてくれ。書物語りを聞きたかったわけではない」
レイバックの制止を受けて、ゼータはようやく口を閉じる。「まだ語りたいのに」と言わんばかりに、上下の唇がもごもごと動く。すっかりゼータの独壇場となっていた場の雰囲気は、続くレイバックの言葉により無事本筋へと戻される。
「ドラゴンについては博識なようなので、前置きは省かせてもらう。単刀直入に言うぞ。実は俺にも繁殖期がある」
「え、そうなんですか」
思いがけない告白に、ゼータは黒の瞳を数度瞬かせた。レイバックとの付き合いは早千余年。千年の時を経て明かされる衝撃の事実だ。
「繁殖期の周期は丁度100年。そして前回の繁殖期が丁度100年前。つまり今の俺は、繁殖期を数日後に控えた状態というわけだ」
「へぇ…興味深い話ですね。繁殖期が近い、というのは感覚的にわかるものなんですか?」
「明確な兆候はない。多少の気だるさがあるのと、繁殖期に備え食欲が増すんだ。最近間食が多いとカミラに言われてな。もしやと思って手帳を見返したら案の定だ。前回の繁殖期の時期は、手帳が変わるたびに書き写すようにしているから」
「へぇぇぇ…繁殖期って具体的にはどんな感じになるんですか?」
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「繁殖期の期間は3日間。その間、王は人の心を失くします。獣になる、と言い換えても良い。外見上は人でありながらも、行動は発情した獣と同等です。番を離さず、体力の続く限り交尾に明け暮れる。食事は摂らず、満足な睡眠も取りません。疲れれば申し訳程度に身体を休め、起きればまた繁殖活動を再開します。獣、というのが相応しいのでございますよ。繫殖期中の王は」
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ザトが言葉は、レイバックが引き継いだ。
「俺は繁殖期以外で、その女性と顔を合わせたことはない。番の依頼に関してはザトに一任しているから、本当に名前も知らないんだ。あちら方も報酬があるから番役を引き受けているだけで、俺に対する情など一切持ち合わせてはいないはずだ」
「そんな重ね重ね言われなくても、過ぎた出来事に嫉妬したりはしませんよ…」
「過ぎた出来事ではない。今回の繁殖期についても、同じ女性に番の依頼を出すつもりでいる」
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「…は?」
「ゼータを呼び出した理由はそれだ。不貞行為の宣告など愚劣の極みだが、今回ばかりは致し方ない。繁殖期にあたる3日間だけだ。この腕に他の女性を抱くことを許して欲しい」
レイバックの声は苦渋に満ちている。当たり前だ。数日後に控えた今回の繁殖期は、妃のいなかった前回の繁殖期とは訳が違う。永遠の愛を誓った者が傍におりながら、別の相手との行為に望まねばならない。例えレイバック本人には行為中の記憶がないのだとしても、少なくともザトとゼータは行為のいかんを記憶に留めることになるのだ。番の女性も然りである。受け入れてくれとは言わぬ、だがドラゴンの生態上止む負えぬ出来事として飲み込んでくれ。レイバックの切願に対し、ゼータの答えは明快だ。
「嫌です」
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「傷は治ります。それに一度引き受けたならば行為の最中に逃げ出すような真似はしませんよ。今まで何人もの女性が番役をこなしてきたんでしょう。皆にできて私にできないはずはありません」
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「それが私を番にしない理由?」
「そうだ」
「なら、残念。やはり番の御役目は私が引き受ける他にないようです」
ゼータはもう一方の手で、着ていたシャツのすそを捲り上げた。肉の薄い腹が露わになる。レイバックとザトの目の前に晒された物は、真新しい青痣だ。ゼータの腹部に残されたいくつもの殴打痕。触れれば激しく痛みそうなその傷は、他の誰でもないレイバックとの喧嘩痕だ。ほんの数日前のこと。「最近出兵要請がなくて鬱憤が溜まっている」と零すレイバックの誘いで、深夜の訓練場で心行くまで殴り合った。実はそうすることは珍しくはない。レイバックとゼータは王と妃の関係であり、長年の茶飲み友達であり、そして喧嘩友達であるのだ。殴打痕だけにあらず、切り傷も刺創ももう飽きるほどに付けられている。
「今更多少の怪我で文句など言いません。不貞行為を気に病む必要はありませんし、番に支払う報酬を用意する手間もありません。さらに行為中に命の危険を感じる出来事があれば、レイをぶっ飛ばして逃げ出すことを約束しましょう。どうですか?私を番にすることに、何か不都合があるでしょうか」
全くもって的を射た主張だ。レイバックとザトの心労の原因は、一つが妃以外の女性と性行為に臨まねばならぬこと。そしてもう一つは、繁殖期のレイバックが番の女性を傷つけてしまうことだ。例え相応の対価を支払っていたのだとしても、人の身体を傷つけることが心安らかであるはずもない。
だがゼータを番として選定すれば、2人は全ての心労から解放される。ただ一言「よろしく頼む」と言えば、不貞行為も傷害行為も気に病むことなく、3日間の繁殖期に臨むことができる。レイバックはザトとしばし顔を見合わせ、それから深々と頭を下げた。
「3日間、よろしく頼む」
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エチシーンが書けなくて、朝チュンとなりました。
ムーンライト様にも掲載しております。
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僕はお別れしたつもりでした
まと
BL
遠距離恋愛中だった恋人との関係が自然消滅した。どこか心にぽっかりと穴が空いたまま毎日を過ごしていた藍(あい)。大晦日の夜、寂しがり屋の親友と二人で年越しを楽しむことになり、ハメを外して酔いつぶれてしまう。目が覚めたら「ここどこ」状態!!
親友と仲良すぎな主人公と、別れたはずの恋人とのお話。
⚠️趣味で書いておりますので、誤字脱字のご報告や、世界観に対する批判コメントはご遠慮します。そういったコメントにはお返しできませんので宜しくお願いします。
大晦日あたりに出そうと思ったお話です。
【完結】オーロラ魔法士と第3王子
N2O
BL
全16話
※2022.2.18 完結しました。ありがとうございました。
※2023.11.18 文章を整えました。
辺境伯爵家次男のリーシュ・ギデオン(16)が、突然第3王子のラファド・ミファエル(18)の専属魔法士に任命された。
「なんで、僕?」
一人狼第3王子×黒髪美人魔法士
設定はふんわりです。
小説を書くのは初めてなので、何卒ご容赦ください。
嫌な人が出てこない、ふわふわハッピーエンドを書きたくて始めました。
感想聞かせていただけると大変嬉しいです。
表紙絵
⇨ キラクニ 様 X(@kirakunibl)
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今夜のご飯も一緒に食べよう~ある日突然やってきたヒゲの熊男はまさかのスパダリでした~
松本尚生
BL
瞬は失恋して職と住み処を失い、小さなワンルームから弁当屋のバイトに通っている。
ある日瞬が帰ると、「誠~~~!」と背後からヒゲの熊男が襲いかかる。「誠って誰!?」上がりこんだ熊は大量の食材を持っていた。瞬は困り果てながら調理する。瞬が「『誠さん』って恋人?」と尋ねると、彼はふふっと笑って瞬を抱きしめ――。
恋なんてコリゴリの瞬と、正体不明のスパダリ熊男=伸幸のお部屋グルメの顛末。
伸幸の持ちこむ謎の食材と、それらをテキパキとさばいていく瞬のかけ合いもお楽しみください。
死に戻り騎士は、今こそ駆け落ち王子を護ります!
時雨
BL
「駆け落ちの供をしてほしい」
すべては真面目な王子エリアスの、この一言から始まった。
王子に”国を捨てても一緒になりたい人がいる”と打ち明けられた、護衛騎士ランベルト。
発表されたばかりの公爵家令嬢との婚約はなんだったのか!?混乱する騎士の気持ちなど関係ない。
国境へ向かう二人を追う影……騎士ランベルトは追手の剣に倒れた。
後悔と共に途切れた騎士の意識は、死亡した時から三年も前の騎士団の寮で目覚める。
――二人に追手を放った犯人は、一体誰だったのか?
容疑者が浮かんでは消える。そもそも犯人が三年先まで何もしてこない保証はない。
怪しいのは、王位を争う第一王子?裏切られた公爵令嬢?…正体不明の駆け落ち相手?
今度こそ王子エリアスを護るため、過去の記憶よりも積極的に王子に関わるランベルト。
急に距離を縮める騎士を、はじめは警戒するエリアス。ランベルトの昔と変わらぬ態度に、徐々にその警戒も解けていって…?
過去にない行動で変わっていく事象。動き出す影。
ランベルトは今度こそエリアスを護りきれるのか!?
負けず嫌いで頑固で堅実、第二王子(年下) × 面倒見の良い、気の長い一途騎士(年上)のお話です。
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主人公は頑な、王子も頑固なので、ゆるい気持ちで見守っていただけると幸いです。
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【完】三度目の死に戻りで、アーネスト・ストレリッツは生き残りを図る
112
BL
ダジュール王国の第一王子アーネストは既に二度、処刑されては、その三日前に戻るというのを繰り返している。三度目の今回こそ、処刑を免れたいと、見張りの兵士に声をかけると、その兵士も同じように三度目の人生を歩んでいた。
★本編で出てこない世界観
男同士でも結婚でき、子供を産めます。その為、血統が重視されています。
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