【BL】齢1200の龍王と精を吸わないオタ淫魔

三崎こはく

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無垢と笑えよサイコパス

後日談:夢の続き

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第2章『朧』の続き

***

 ゼータは人気のない廊下を歩いていた。殺風景な廊下だ。天井には等間隔に並んだ白色灯、左右の壁には白木の扉が立ち並ぶ。絨毯には薄灰色の絨毯が敷かれ、窓はない。ここはどこであったか、と考える。魔法研究所の研究棟ではない。生活棟の廊下とも違う。知っているようで知らない廊下だ。
 階段室があった。廊下と同じ殺風景な階段室だ。背丈を超える場所に小窓が付いているだけで、花瓶一つ置かれていない。小窓から差し込む陽光が絨毯敷きの床に陽だまりを作っていて、その場所だけがほわりと暖かい。日射しが射し込むということは、今は夜ではないのだ。
 階段室には上り階段と下り階段があった。どちらに行こうかと悩み、下り階段を選ぶ。選択に深い意味はない。ただそうするのが正しいことのように思えただけ。階段を下り始めて間もなく、階段室には自分のものとは違う足音が響いた。誰かが階段を上って来る。歩みを止めて、足音に耳を澄ます。階段の中腹地点にある曲がり角から現れた者は、ゼータのよく知る人物であった。滑らかな金の髪が揺れる。

「あれ、ゼータ。久し振り」
「クリス。お久し振りです」
「無事帰り着いていたんだね。道中これといった問題もなく?」
「大きな事件事故には見舞われませんでしたよ。一つ挙げるとすれば、昨日の大雨でしょうか。帰路で冠水があって回り道を余儀なくされたんです。山道だから馬車の進みも遅くって、研究員寮に帰り着いたときには午前0時を超えていたんですよ」
「ああ、そうなんだ。昨日はこっちも雨が降っていたから、到着が遅れるかなとは思っていたんだよ。良かったね、野宿にならなくて」
「私は地面さえあればどこでも寝られるんですけどね。でも魔導大学のお偉い様方を乗せているんだから、野宿の選択肢はなかったんじゃないですか」
「それもそうだねぇ。あ、それ、寮生へのお土産?」

 クリスの人差し指が、ゼータの胸元を指さした。誘われるように視線を落とせば、両腕の中には大きな平箱がある。ポトスの街の土産店でよく見る菓子の箱だ。値段の割に内容量が多いから、大人数向けのポトス土産としては定番の品である。

「そう、皆へのお土産です。流石に寮生全員の分を買うことはできなかったから、談話室に置いておこうかと思って」
「それで良いと思うよ。ご自由にお取りください、と書いておけば欲しい人が勝手に持っていくから」

 ゼータは平箱を小脇に抱え、肘に掛けた紙袋の中身を漁った。取り出した物は小さな布包みだ。品の良いレースのハンカチに、緋色のリボンが結わえられている。重さのないその布包みを、ゼータはクリスに向かって差し出した。

「これはクリスに。すみません、手作り感満載で。まともに土産を買う時間がなかったんです。寮生の分の土産は何とか確保したんですけれど」
「僕に?うわぁ、ありがとう」

 布包みを受け取るクリスは心底嬉しそうだ。長い指先が緋色のリボンを解く。間もなくして、レースのハンカチの中から現れた物は袋に入れられた紅茶葉だ。黒褐色の茶葉に、クリスは鼻先を近づける。

「良い匂いだね。ポトスの街の特産品?」
「王宮御用達の茶葉なんです。レイバック国王殿と面会をしたときに給仕されて、美味しいと言ったら土産に持たせてくれたんですよ。値段は恐ろしくて聞いていません。クリスの部屋に置いておいてもらえれば、皆で飲めるでしょう」
「そうだね。今夜デューと3人で飲もうか」

 クリスは茶葉の袋を、再びレースのハンカチに包み込んだ。

「ところでゼータ、この後の予定は?」
「土産を談話室に置いた後は特にないですよ。今日一日有休をとっていますから、のんびり荷物の片付けでもしようかと思っています」
「そう。それなら少し僕の部屋に寄って行かない?旅の話も聞きたいしさ」

 クリスの提案に、ゼータは即座に頷いた。数年ぶりの帰国を終えて、語りたいことは山ほどある。聞いたいと言ってくれる者がいるのなら、その者を相手に語らぬ手はないのだ。ゼータはクリスの背に続き、殺風景な下り階段を下りる。
 1階の談話室に土産の菓子箱を置き、今度は上階へと続く階段をひたすらに上った。目指すべきは研究員寮の最上階に位置するクリスの私室だ。そこはクリスだけではなく、ゼータとデューにとっても寛ぎの場所で、「暇を持て余せばクリスの私室に集合」は暗黙の了解である。談笑のうちに眠りに落ち、3人仲良く朝を迎えた回数は最早両手の指でも足りない。頻繁に寝落ちする来客者2人のために、ベッドの傍らには2つの枕と2枚の毛布が余分に備えられているほどだ。

 私室に立ち入るとすぐに、クリスは調理台へと向かった。ゼータは定位置である新緑色の座布団へと腰を下ろす。研究員寮の1階には大人数で使用できる調理室があり、手の込んだ料理を作るのであれば調理室を使うのが常だ。しかしそれとは別に、各々の寮部屋には最低限の調理設備が備えられている。語らいのための茶を給仕し、簡単な酒のつまみを作るに不自由はない。使い古されたやかんに水を注ぎ入れながら、クリスは口を開く。

「結婚式はどうだった?」
「何というか…凄かったです。知り合いの結婚式には何度か参列した経験がありますけれど、庶民のそれとは格が違いますよ。参列人数も然ることながら、飾り付けも豪華だし、料理とお酒も美味しいんです。個人として参列するのなら、浴びるほどお酒を飲んだんですけれどねぇ。魔導大学重鎮の手前、常識の範囲内に留めました」
「懸命だね」
「賓客の間と言ったかな。王宮一大きな部屋なんですけれどね。いきなり暗くなるんですよ。そうしたら扉が開いて、新郎新婦が腕を組んで入場するんです。千年来の親友の晴れ姿に、感極まって開幕直後から号泣してしまいました。あまりの涙に手持ちのハンカチが役立たずになってしまい、セージ学長からちり紙を頂く始末です」

 感情豊かに語られるゼータの思い出話に、クリスは終始笑いっぱなしだ。

「メアリ姫がまた美しい御方なんですよねぇ。一度顔をお見掛けした事はありますけれど、着飾っていると全然印象が違うんです。泉から湧いて出たようと言うのか、天から降って下りたようと言うのか。可憐な方でいらっしゃいました。ああ、クリスも顔は知っていますよね」
「そうだね。ドラキス王国訪問時に顔は合わせている。でも近間でまじまじとお姿を拝見したわけじゃないから、顔はうろ覚えだよ」
「そうですか…。本当に綺麗な方なんです。王宮の侍女官吏にも綺麗どころが揃っていますけれど、王族の品格とでも言うのでしょうか。あんな美しいお妃様と蜜月を過ごせるだなんて、レイバック国王殿が羨ましい限りです」

 そのとき、調理台上のやかんがしゅうしゅうと音を立て始めた。クリスはやかんをひょいと持ち上げ、先に用意していた茶器に沸き上がったばかりの湯を注ぐ。隙間風とともに鼻腔に流れ込んでくる香りは、土産として渡した王宮御用達の茶葉の物ではない。デューと3人で飲もう、という当初の約束は忠実に守られるようだ。

「レイバック国王殿とは、十分に話ができた?」
「2人きりで話はしていないですよ。魔導大学の代表として顔合わせに参加しただけです。それだってセージ学長とレイバック国王殿の対話が主ですから、私はもっぱら茶飲み係ですね。あとは沈黙が落ちたときの話題提供係。途中お手洗いに退席したときに、便所でレイバック国王殿と鉢合わせましてね。用を足しながら大分文句を言われましたよ。2人きりで話ができると思っていたのにって。文句を言いたくて便所まで私を追って来たんでしょうねぇ」
「そう、それは残念だったね」

 およそ1か月半前、ゼータの元に1通の文が届いた。手紙の差出元はドラキス王国の王宮。一見すれば一介の官吏から差し出されたとも思われるその文は、実はドラキス王国の国王であるレイバックからの文であったのだ。文の内容は雑談と見せかけた結婚式の招待状。ロシャ王国の特別滞在者であるゼータ宛の文には検閲がかかるから、騒動を避けるための配慮であると思われた。
 文を受け取ったゼータは、すぐさまクリスを呼び出し事の次第を説明した。結婚式に参列したいのだと願い出るゼータに対し、クリスは苦渋の表情を返す。2人の所属する魔導大学はロシャ王国の直属機関であり、行われる研究は国家レベルの機密事項。情報漏洩のリスクを鑑みれば、レイバック国王の友人であるゼータが個人で結婚式に参列することは難しいように思われた。

 そこでクリスが考えた案は、ゼータを魔導大学の代表として結婚式に参列させることだ。幸いレイバックの結婚式には、学長セージを含む魔導大学の重鎮らが招待されていた。その魔導大学御一行様の中に、ゼータを紛れ込ませてしまうという方法である。重鎮らの側からすれば、レイバックとの橋渡し役になるゼータの存在は有難い。ゼータの存在を餌に、多忙な国王を相手に会談を申し込むこともできるのだ。クリスの目論見は大成功。セージはゼータを魔導大学代表の一員として迎え入れ、ゼータは無事結婚式会場へと乗り込むことができたのだ。
 不幸なことと言えば、国家の代表としてドラキス王国を訪れる以上、レイバックとの間で気楽な面会は成し得なかったということだ。旧知の友人との雑談機会を奪われたレイバックは不満たらたらであったが、現在のゼータの立ち位置を考えれば致し方のない処遇だ。

「今回ばかりは仕方ないです。結婚式の参列が第一目標でしたから。積もる話は次回の帰国の際にしますよ。帰国の折に、個人的にレイバック国王殿と会う分には問題ないでしょう?」
「友人として会う分には問題ないと思うよ。ゼータは、魔導大学に移籍して以降今回が初の帰国でしょう。今年は審査の年ではないから、一度ゆっくり帰国したら良いんじゃない」
「そうですね。研究日程を調整してみます」

 ゼータの目の前に、マグカップ入りの紅茶が差し出された。飴色の水面が湯気を立てている。茶の給仕に簡単な礼を述べ、湯気立つ水面に息を吹きかけるゼータの前に、クリスが腰を下ろす。右手にはゼータと色違いのマグカップ。どこか歪な形のそのマグカップは、デューと3人でロシャ王国内の地方集落を訪れた折に購入した物だ。クリスは藍色、ゼータは深緑色、デューは橙色。色違いの3つのマグカップは、各々の私室ではなくクリスの私室にまとめて置かれている。「暇を持て余せばクリスの私室に集合」を合言葉として生活するゼータとデューは、自室で茶を飲むことなどしないのだ。
 程良く抽出された紅茶を一口飲み干したゼータは、マグカップをテーブルにのせ、おもむろに頭を下げる。

「クリス、ありがとうございました。本当に感謝しています」
「別に僕、大層なことはしていないよ。セージ学長との交渉だってゼータが自分でしたんじゃない」
「今回の助言ばかりではなく、私を魔導大学に誘ってくれたことも含めてです」
「なぁに、改まって」

 突然の謝辞に、クリスは耳がくすぐったいとばかりに身を竦めた。

「レイバック国王殿とはドラキス王国建国前からの友人なんです。頻繁に顔を合わせていたわけではないですけれど、それでもお互い常に気に掛けるような存在ではあったんですよ。それがこの度、レイバック国王殿がめでたくご結婚されたでしょう。嬉しいのはもちろんなんですけれど、同じくらい寂しさもあるんですよ。彼の一番は私ではなくなってしまったんだなって。もし私が今もドラキス王国にいたら、結構辛かったと思うんですよ。耳に入れまいとしても民の噂は聞こえてきますし、レイバック国王殿と会ったにしてもお妃様の話題ばかりに決まっているんです。子どもでもできたら尚更ですよ。だから、今この状況で彼と距離を置けたことは正解だったと思うんです。レイバック国王殿は王宮でお妃様と蜜月関係、私は魔導大学で研究漬けの毎日です。お互い不用意に干渉することもなく、最高の生活じゃないですか」

 ゼータがクリスの誘いにより魔導大学へと移籍したのは、今からもう2年も前のことだ。当時クリスはロシャ王国外交使節団の一員としてドラキス王国を訪れており、ゼータは彼の口から語られる魔導具の話を聞くために、魔法研究所の代表として王宮を訪問した。レイバックの妃候補として外交使節団に紛れ込んでいたメアリの姿を拝見したのも、この時のことである。極度の「魔」オタクであるゼータはその場所でクリスと意気投合し、外交使節団の滞在中に雑談を目的として何度か王宮に足を運んだのだ。そして外交使節団の帰国日が迫る頃に、クリスはゼータにこう提案をした。「もしよろしければ、魔導大学に移籍しませんか?僕と一緒に魔導具の研究をしましょう」特別推薦入試の存在を聞いたのもその時で、ゼータは二つ返事でクリスの提案を飲んだ。つまり外交使節団の一件は、レイバックとメアリの出会いの物語であるとともに、クリスとゼータの出会いの物語でもあるのだ。旧知の友人は行く道を違え、別々の国で各々の生活を送ることとなった。

「だから本当に、クリスには感謝してもしきれないんです。特別滞在者という不安定な立場ですけれど、クリスが身元保証人でいてくれる限りはロシャ王国にいられるんでしょう?魔族と人間では寿命が違いますから、いつか終わりの来る生活です。でも私は今、本当に毎日が楽しいんですよ。全部クリスのお陰です。ありがとうございました」

 そう言って、ゼータは再度深々と頭を下げた。言いたいことは正しく伝わっただろうか。頭を下げたまま上目遣いにクリスを見やれば、決意の表情がそこにある。

「…あのさ。僕ゼータに話があるんだけど」
「あ、はい。どうぞ。すみません、私ばかり喋っていましたね」
「今じゃなくてね。大切な話だから、場所と日を改めたいんだ。今週末の公休日、何か予定はある?」
「今のところはないですよ。デューに外出の誘いを受けるだろうとは予想していますけれど」
「じゃあ申し訳ないけどデューの誘いは断って。2人で夕食を食べに行こう」
「良いですけど…場所の当てはあるんですか?」
「リモラ駅の×××って店、知っている?」

 ×××。ゼータにも覚えのある名前だ。ロシャ王国一人の集まる場所であるリモラ駅。服飾店、飲食店、書店、雑貨店。思いつく限りの店が立ち並ぶリモラ駅は、それぞれ特徴のある5つの建物が集まって形を成しているのだ。その5つの建物の中でも、一番高層である建物がリモラタワーだ。下層階は商業区域、高層階は宿泊施設として使用されるリモラタワーは、最上階が展望台となっている。展望台からは首都リモラの風景を一望することができ、緑溢れる魔導大学の敷地と並び首都リモラの一大観光地となっている。その展望台の一角に、×××と名の付く飲食店が存在するのだ。

「…×××。リモラタワーの最上階にある高級店ですよね。一度の食事で寮生の一月分の食費が吹き飛ぶと噂の…」
「そうそう、そのお店。お金のことは心配しないで。全部僕が出すから。ゼータは手ぶらで来てくれれば良いよ。あ、でも服装には少し気を使って来て。燕尾服とは言わないけれど、襟付きのシャツにジャケットは必要かな」
「はぁ…。わかりました。お供しましょう」

 日と場所を改めるほどの大切な話。話の内容に想像を巡らせるも、思い当たる節はない。しかし目の前のクリスは穏やかな表情であるから、きっとゼータにとって悪い話ではないのだ。公休日までは残り4日、美味い食事もクリスの話も楽しみに待つことにしようと、ゼータは深緑色のマグカップに口を付ける。

 その瞬間に、どこからともなく流れ込んできた薄霧が辺りを包み込んだ。一瞬のことであった。揃いのマグカップも、ベッドの脇に積まれた2組の寝具も、デューが持ち込んだ流行雑誌も薄霧に飲まれて消え、気が付けばゼータは温かな布団の中にいた。

***

「んん…」

 呻き声のした方を見れば、すぐ傍にはビットが寝ていた。瞬時に目が覚める。ここはどこであったかと記憶を辿る。そしてすぐに思い至る。ここは魔法研究所生活棟にあるクリスの私室だ。昨晩この場所で、クリスの歓迎会が催されたのだ。参加人数はビットとクリスとゼータのみ。ささやかながら楽しい歓迎会であった。どうやらクリスの提案したゲームを楽しむうちに、皆仲良く眠りに落ちてしまったようだ。

「ゼータ、おはよう。体調は大丈夫?」

 爽やかな朝の挨拶はクリスのものだ。一足早く眠りから覚めたクリスは、今は私室の片隅にある調理台で洗い物に勤しんでいる。ちゃぶ台の上の空き瓶やちり紙の類も全て片付けられているから、部屋の主は随分と早起きをしたようだ。

「おはようございます。幸い酒は残っていませんよ。クリスこそ、体調は大丈夫ですか?」
「僕、後半は全然飲んでいないからね。罰ゲームの飲酒は大方ビットかゼータだったでしょう」
「…それもそうですね」

 クリスの提案した十数種類に及ぶ飲み会ゲーム。敗者はもっぱらゼータかビットであった。かといってクリスの一人勝ちというわけではなく、知識系のゲームはゼータの勝率が高かったし、瞬発力に物を言わせるゲームは獣人族ビットの独擅場であった。ゲームに慣れたクリスは、常に2位という無難な順位を維持し続けていたのである。頻繁に勝者が入れ替わるからこそゲームは異様な盛り上がりを見せ、罰ゲームとして消費された酒瓶は10本を超える。そのほとんどがゼータかビットの腹に収まっているのだから、酒豪の種族とは言え酔い潰れても不思議はない。

 ゼータは食器のぶつかり合う音に耳を澄ませながら、横に眠るビットの寝顔を眺め下ろした。浴びるほどの酒を飲んだ昨晩の記憶は朧だが、どうやらゼータとビットは揃って家主のベッドを占領してしまったようだ。クリスを床で寝かせてしまったことも心苦しいが、ビットと一つ布団で寝てしまったことに激しい後悔の念を覚える。伴侶以外の人物と寝所をともにするなど、不貞を疑われても致し方のない愚かな行為だ。次回の飲み会からは決して人様のベッドには上らぬことにしようと、ゼータは密かに心に留めるのである。

「洗い物が終わったら朝ご飯を用意するから、少し待っていてね。簡単なものだけど良いよね。この間ポトスの街に下りたときに、美味しいかぼちゃスープを見つけちゃってさ…」
「クリス。大切な話って何でした?」

 特に深く考えることなく、そう尋ねていた。がちゃん、と食器同士が激しくぶつかる音。音のした方を見れば、驚愕の表情を浮かべたクリスがゼータを見つめている。

「大切な話?それ、僕が言ったの?」

 クリスの手にひらには、食器用のスポンジが握られたままだ。泡に塗れた手のひらが不自然な格好で固まっているから、恐らくは洗浄途中の食器を取り落としたのだ。なぜそんなに驚くのだ、とゼータは不思議に思う。「話があるんだけど」そう伝えてきたのはクリスであるはずなのに。
 そこまで考えて、ゼータはしまった、とばかりに声を上げた。

「すみません。夢の話でした」

 ゼータがそう言うや否や、クリスは膝から崩れ落ちる。手に付いた洗剤泡が床へと落ちるが、当のクリスはそれどころではないようだ。

「…びっくりしたぁ。ちょっと止めてよね。酒の勢いに任せて変なことを口走ったのかと思ったじゃん!」
「すみません…凄くリアルな夢で…」

 そう、リアルな夢であったのだ。座り込んだ座布団の感触も、鼻腔に流れ込んできた紅茶の香りも、穏やかに笑うクリスの声も、本当にそこにあったかのように鮮明に思い出すことができる。だから間違えた。「僕ゼータに話があるんだけど」そう言われたのが、真実であるかのような錯覚を起こしたのだ。
 心臓に悪い、そう文句を垂れ流しながらクリスは食器洗いに復帰した。小刻みに揺れる背を眺めながら、ゼータははてと思う。先のクリスの挙動は不自然であった。「大切な話」に心当たりがないのなら、あれほど激烈な反応を返さずとも良かったはずだ。クリスの反応はまるで、ゼータが口にした「大切な話」に心当たりがあるかのような―

 ゼータはまとわり付く思考を振り払うように頭を振った。考えることに意味などない。あれはただの夢であったのだ。ゼータは魔導大学に移籍などしていないし、レイバックとメアリは結婚していない。あんパンをかじりながら研究に精を出すこともなく、デューを交え徹夜で飲み明かすことなどなく、休みの度に3人揃ってリモラ駅へと繰り出すこともない。全ては夢だ。

 許容量を超えた酒が見せた一時の夢。
 どこかで一つ違えば辿り着いていた、未来。
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