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無垢と笑えよサイコパス
来訪者
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ビットは届けられたばかりの小包を手に上機嫌であった。両手に抱えるほどの大きさの小包はずしりと重さがあり、薄水色の包装紙の真ん中には伝票が張り付けられている。小包の発送元と、送り先を書き示した伝票だ。送り先は「魔法研究所ビット様」、そして発送元は「魔導大学魔獣学部魔獣科学科魔獣育種学専攻メレン」
逸る手で薄水色の包み紙を剥がし、ビットは紙でできた箱の蓋を開けた。箱の中には丁寧に梱包された4本の瓶が入っている。瓶の中身は全て同じ、毒々しい薔薇色の液体だ。2合瓶ほどの大きさの小さな瓶に、内容物を示すためのラベルは貼られていない。一見すれば怪しげな毒薬か、と疑いを招きかねないその液体は、皆に褒め称えられて然るべきビットの功績だ。
観光旅行と称してメレンが魔法研究所を訪れたのはもう1か月も前のこと。あの日、ゼータを交えたささやかな茶会を終えたビットとメレンは、改めてキメラ棟へと立ち入った。キメラ棟は3つの実験室と5つの飼育室、さらには運動場、飼料保管室、水浴び場などと備えた2階建ての建物だ。日々出入りする研究員はビットを含む4人に限り、生活棟と研究棟に比べて床面積は広くない。それでも定常的な生物の飼育数は魔獣とキメラ合わせて30頭にも及び、命を取り扱う実験室であることを考慮すれば、魔法研究所で最も多忙な研究室であると称しても誇張ではない。
まず初めに、ビットはメレンを飼育室へと案内した。「第1飼育室」と木札の下げられたその飼育室では、比較的小型のキメラが飼育されている。研究棟内のビットの研究室に比べて遥かに広い部屋の中には、壁一面に置かれた木製のラックの上に20個もの檻が並べられているのだ。空檻もあるが、檻の多くを占める生物は魔法研究所の主力キメラである手乗りうさぎのウーちゃんと、柴リスのリーちゃんだ。ロシャ王国の人々に多大な人気を誇る2種のキメラを前にして、ビットは「このキメラの開発には自分も功績と言っても過言ではない」とやや誇張気味の自慢話を披露したのだ。リーちゃんの檻を覗き込むメレンに「この2種のキメラは魔獣学部でも有名です。研究員の一人が自宅で個人的に飼育していて、時々研究室に連れてきてくれるんですよ。可愛いですよねぇ。魔獣学部の研究室でも飼育できれば良いんですけれど」と言われてしまえば、ビットはさらに有頂天だ。
そして全部で5つある飼育室を巡る間に、会話はキメラの飼育形態へと及ぶ。会話のきっかけは、檻の中に寝そべる犬型キメラを指さしたメレンがこう問うたためだ。
「この子達は頻繁に檻から出してもらえるんですか?」
「散歩はさせてあげているよ。毎日とはいかないけれど、週に2回は外に連れ出しているかな」
「結構、少ないですね」
「そうだねぇ。小型のキメラは屋内の運動場で遊ばせてあげられるけれど、中型以上のキメラはそうもいかないんだよね。足が速いし力も強いから、壁にぶつかったら怪我しちゃう。散歩は大仕事だよ。キメラは見た目以上に力が強いから、気を抜くとこっちが引き摺られる羽目になる。第5飼育室にいる大型キメラを散歩させるときには、4人の研究員が総出で綱を持つんだ」
ビットの説明を頷きながら聞いていたメレンは、ややあってこう提案した。
「魔獣学部で作っている魔獣除けの薬を、融通してもらえないか交渉してみましょうか?」
魔獣除けの薬、それは魔導大学内の魔獣の放牧地で使用されていた薬のことだ。魔獣の嫌う匂いを発するため、地面に撒けば魔獣の放牧が可能になるという夢のような代物である。異例の提案にビットは狂喜乱舞する。放牧地を拓きキメラの放し飼いが可能になれば、神経すり減らすお散歩業務から永遠に解放される。草食キメラは好き勝手に草を食べてくれるし、餌となる獲物を敷地内に放せば肉食キメラのストレス発散にも繋がるだろう。屋外での飼育が可能になれば、水浴びも毛刈りも楽なものだ。
メレンの提案は夢のような話であるが、ビットは一抹の不安を覚えるのだ。魔獣除けの薬は魔導具の共同開発品目に含まれていない。魔導大学訪問時「薬を少し分けて貰えないだろうか」との願いを口にしたビットに対し「国外持出が認められていないから難しいでしょう」との答えを返した者は他ならぬメレンだ。薬を貰えることはありがたいが、メレンに法を犯させるわけにはいかぬ。そう訴えるビットに、メレンは笑顔でこう返した。
「確かに、正規薬品の国外持出は禁じられています。でも魔獣飼育室では、多少品質の落ちる失敗作を保管しているんですよ。薬の希釈量を調節すれば効能は変わりませんし、失敗作ですから代金を頂くこともありません。魔獣学部には魔獣好き、キメラ好きが揃っていますから、ウーちゃんとリーちゃんのために寄付するのだと言って反対する人はいないと思いますよ。個人旅行の折に魔法研究所のキメラ棟を見学させてほしい、くらいの要望は上がるかもしれませんけれど」
願ったり叶ったりの提案である。国家機密を取り扱う魔導大学とは異なり、魔法研究所に見られて困るものなど何もない。そもそも魔法研究所は国家直属の機関であり、収入も国からの補助金で賄われるのだから、主要キメラとなるウーちゃんとリーちゃんの合成方法でさえも秘密というわけではないのだ。魔導大学からの個人視察を受け入れるくらいのことで、神経すり減らすお散歩業務から解放されるのならば易いものである。ビットは天に舞い上がる心地で、メレンの提案を受け入れた。
その後数度の文のやり取りを得て、魔獣除けの薬品の譲渡契約は無事締結された。そして今日メレン来国より2週間の時を経て、待ち望んでいた小包が届いたという次第である。薬品の譲受についてはすでに魔法研究所内に広く告知がされており、キメラ棟の北側に放牧地を拓くということで決議がなされている。安全柵の設置や厩舎の建築については国家の承認が必要になるが、樹木の伐採や雑草の刈入れはすでに始まっている。小型建造物の建築に関しては決裁にさほどの時間がかからないはずだから、ビット含む4人の研究員がお散歩業務から解放されるのも最早時間の問題である。
小瓶を手ににんまりと笑うビットの耳に、とんとんと扉を叩く音が届いた。どうぞ、と言うよりも早く扉は開く。立っていたのは見知った女性研究員だ。
「ビット、玄関に来客よ」
「はぁい。すぐ行きます」
手にした小瓶を箱へと戻し、ビットは研究室を出る。雑用途中であったという様子の女性研究員の背を追い越し、廊下を駆ける。一団飛ばしで階段を駆け下りる最中に、ふと考える。最近何かと来客が多い。1か月前はメレン、2週間前はレイバック、そして今日。はたして今日はどんな嬉しい顔に出会えるのかと、ビットは心を弾ませるのだ。
***
ゼータは王妃の間で読書の真っ最中だ。ときは昼下がり、6階建ての王宮の最上階に位置する王妃の間には、暖かな日射しがたっぷりと射し込んでいる。薄く開いた窓からはそよ風が吹き込んで、うっかりベッドに寝転がろうものなら一瞬で夢の世界へと誘われることだろう。ゼータがこうして日の明るいうちから読書に勤しむことは、実は珍しい。ゼータの読書時間はもっぱら夜間、寝支度を済ませた後にソファに座り、何の憂いもなく読書に没頭することが恒例である。仕事が休みになる公休日には朝から晩まで読書に耽ることも間々あるが、今日は平日。王宮の官吏侍女も、魔法研究所の研究員らも、皆仕事に打ち込んでいる時間だ。
レイバック相手に激情をぶちまけてから2週間のときが経つ。この2週間のうちにゼータがしていたことといえば、もっぱらが読書だ。ソファの真横にお気に入りの書物を積み上げて、何となしに目を通す。手に取る書物はいずれも過去に目を通したことのある物ばかり、新しい書物には手を付けていない。気が向けばポトスの街のタキのカフェを訪れ、職人街の工房を巡り、目に留まった品を一つ二つ購入して王宮へと帰る。王宮内の侍女官吏相手に雑談を楽しむこともあれば、魔法研究所でキメラと戯れたりもする。ある者が見れば、以前の生活と一体何が違うのか、と眉を顰めることであろう。ただゼータのことをよく知る者が見れば、その生活は以前とは全く異なるものである気が付く。目的がなく、ただやりたい事をやっているだけ。この2週間はゼータにとっての、いわゆる充電期間とういうやつだ。
心に正常な働きを取り戻すための、充電期間。
書物を捲る手を止め、カミラが淹れてくれた紅茶を一口口に含んだときに、突然王妃の間の扉が開いた。扉を開けた者は見知らぬ官吏だ。ゼータと目線を合わせた直後の酷く気まずそうな様子は、ノックを忘れたことに気が付いたからに違いない。
「ゼータ様、突然申し訳ありません。正門の衛兵から急ぎの伝言で…。えっと、来客です。灰色の髪の青年でビットという方ですが、ご存じですか?」
向けられる声はやはりゼータの知らない声だ。王妃の間への入室が不慣れであることを踏まえても、彼は日頃ゼータが関わる部署の官吏ではない。恐らくは偶然王宮の玄関口付近にいた官吏が、取り急ぎ衛兵からの言伝を任された、というところであろう。私室にいる王と王妃、十二種族長への伝言は通常であれば侍女の仕事だが、一日のうちで最も日射しの多いこの時間は侍女も多忙なのだ。ゼータの専属侍女であるカミラは、今日は王妃の間の布類を全て天日干しにするのだと意気込んでいた。つまり今ゼータのいる王妃の間は、寝具やカーテン、クッションに至るまで全ての布が取り払われた状態なのである。色合いをなくした部屋は何とも殺風景だ。
ゼータは本を閉じ、突然の来訪者に言葉を返す。
「ビットは魔法研究所の研究員です。彼が王宮に?」
「正門前にいらしています。すぐお向かいください」
「…客間には通していないんでしょうか」
「そのようです。すみません、詳しいことは聞いておりません」
「いえ、構いませんよ。すぐに向かいます」
ゼータはソファから立ち上がり、椅子に背に掛けてあった上着を羽織る。今日は一日を自室で過ごす予定だったから、ゼータの衣服は部屋着のままだ。通常来客の対応をするならば、それなりの服装に着替えるところ。しかしビットが相手ならば、気の抜けた服装でも許されるだろう。
手櫛で髪を整えるゼータは、ふと疑問を抱く。なぜビットがわざわざ王宮を訪れるのだ。充電期間中の今以前より頻度は落としているものの、ゼータは週に2度は魔法研究所に足を運んでいる。直近で言えば一昨日の午後は魔法研究所に滞在したし、突発的な予定が入らなければ明日は一日滞在予定である。遥々王宮までやって来るということは、余程急ぎの用事を抱えているのだろうか。室内履きから革靴へと履き替えるゼータに向けて、思い出したように言葉が向けられる。
「そういえばビットという青年の他に、もう1人いらしているそうですよ。名は名乗らなかったようですが、金の髪の男性が」
「は?」
転がるようにして1階へと続く階段を下りたゼータは、王宮の玄関口でレイバックと鉢合わせた。特に急いだ風もないレイバックは、猪のごとき勢いで玄関口を飛び出すゼータを前に不可解な面持ちだ。速度を上げて、息切らすゼータの横に並ぶ。
「ゼータ、そんなに急いでどこへ行く。外出か?」
「正門前に来客だと聞いたので」
「ん?俺もだ。ビットが来ているからと言って呼ばれたんだ」
ゼータはぜぇぜぇと情けないほどに息を切らしながら、隣を走るレイバックを見上げた。
「私もです。あの、他に何か聞きました?」
「いや特に何も。伝達に不慣れな官吏だったから、詳しいことは何も聞いていない」
「私もなんですけれど…でもビットの他にもう1人いるらしくて、彼がその、金、金…」
「菌?」
慣れない疾駆に走りながらの会話。息も絶え絶えのゼータの言葉は、レイバックには正しく伝わらない。しかしレイバックにとってはゼータの訴えの中身よりも、肺が破裂するのではないかというほどの呼吸音の方が気になるらしい。非運動要員のゼータをこれ以上喋らせるのは気の毒と感じたのか、レイバックはそれきり口を閉ざした。
話すことを止めた2人は広大な広場を走り抜け、扉のない中門をくぐり抜けた。中門を抜ければすぐに正門だ。正門の内側には衛兵が一人立っており、突然の襲撃者に恐れ慄いた表情を浮かべている。至急、至急門を開けてくれ。内の衛兵が叫び、閉ざされた門は内外2名の衛兵の手により開かれた。
最後の力を振り絞って正門から飛び出したゼータは、門を出た直後に足を縺れさせ哀れにも地面に転がった。地面に頬を擦り付け、痛みに呻くゼータの傍に、レイバックがしゃがみ込む。なぜビットに会うのにそこまで必死なのだ。緋色の瞳はまるで訳がわからないとばかりに、地に付すゼータを見下ろしていた。
「レイさん、ゼータさん、こんにちは」
聞きなれた声だ。声のした方を見れば、正門の正面にある木の根元にビットが座り込んでいる。正門前には待ち合わせをするための椅子や日よけの類は置かれていない。今日は陽射しが強いから、極力日光の当たらない場所を選んでレイバックとゼータの到着を待っていたのだろう。
ビットの後ろで、一人の人物が立ち上がる。木の幹に隠れるようにして座り込んでいたのだ。その人物は見慣れない衣服を着ていた。膝下丈の涼しげなズボンに、ざっくりと縫われた麻のマントのような物を羽織っている。染色の施されていない麻の布地には大きなフードが付いていて、正体のわからぬその人物の頭部を覆い隠していた。
ビットは木の根元に座り込んだまま、ゼータは地に這いつくばったまま、レイバックはゼータの真横にしゃがみ込んだまま、そして2人の衛兵は門扉に手を掛けたまま、皆無言で事の成り行きを見守っていた。レイバックとゼータの正面へと歩み出たその人物は、躊躇いがちな動作で自らの頭部を覆うフードを取り去った。髪が、顔が、表情が、陽灯りの元に晒される。
「な、なんで?」
ゼータが間の抜けた声が、沈黙の場に響き渡った。
ビットとともに王宮を訪れたのは、あの日地下室で別れを告げたはずのクリスであった。
逸る手で薄水色の包み紙を剥がし、ビットは紙でできた箱の蓋を開けた。箱の中には丁寧に梱包された4本の瓶が入っている。瓶の中身は全て同じ、毒々しい薔薇色の液体だ。2合瓶ほどの大きさの小さな瓶に、内容物を示すためのラベルは貼られていない。一見すれば怪しげな毒薬か、と疑いを招きかねないその液体は、皆に褒め称えられて然るべきビットの功績だ。
観光旅行と称してメレンが魔法研究所を訪れたのはもう1か月も前のこと。あの日、ゼータを交えたささやかな茶会を終えたビットとメレンは、改めてキメラ棟へと立ち入った。キメラ棟は3つの実験室と5つの飼育室、さらには運動場、飼料保管室、水浴び場などと備えた2階建ての建物だ。日々出入りする研究員はビットを含む4人に限り、生活棟と研究棟に比べて床面積は広くない。それでも定常的な生物の飼育数は魔獣とキメラ合わせて30頭にも及び、命を取り扱う実験室であることを考慮すれば、魔法研究所で最も多忙な研究室であると称しても誇張ではない。
まず初めに、ビットはメレンを飼育室へと案内した。「第1飼育室」と木札の下げられたその飼育室では、比較的小型のキメラが飼育されている。研究棟内のビットの研究室に比べて遥かに広い部屋の中には、壁一面に置かれた木製のラックの上に20個もの檻が並べられているのだ。空檻もあるが、檻の多くを占める生物は魔法研究所の主力キメラである手乗りうさぎのウーちゃんと、柴リスのリーちゃんだ。ロシャ王国の人々に多大な人気を誇る2種のキメラを前にして、ビットは「このキメラの開発には自分も功績と言っても過言ではない」とやや誇張気味の自慢話を披露したのだ。リーちゃんの檻を覗き込むメレンに「この2種のキメラは魔獣学部でも有名です。研究員の一人が自宅で個人的に飼育していて、時々研究室に連れてきてくれるんですよ。可愛いですよねぇ。魔獣学部の研究室でも飼育できれば良いんですけれど」と言われてしまえば、ビットはさらに有頂天だ。
そして全部で5つある飼育室を巡る間に、会話はキメラの飼育形態へと及ぶ。会話のきっかけは、檻の中に寝そべる犬型キメラを指さしたメレンがこう問うたためだ。
「この子達は頻繁に檻から出してもらえるんですか?」
「散歩はさせてあげているよ。毎日とはいかないけれど、週に2回は外に連れ出しているかな」
「結構、少ないですね」
「そうだねぇ。小型のキメラは屋内の運動場で遊ばせてあげられるけれど、中型以上のキメラはそうもいかないんだよね。足が速いし力も強いから、壁にぶつかったら怪我しちゃう。散歩は大仕事だよ。キメラは見た目以上に力が強いから、気を抜くとこっちが引き摺られる羽目になる。第5飼育室にいる大型キメラを散歩させるときには、4人の研究員が総出で綱を持つんだ」
ビットの説明を頷きながら聞いていたメレンは、ややあってこう提案した。
「魔獣学部で作っている魔獣除けの薬を、融通してもらえないか交渉してみましょうか?」
魔獣除けの薬、それは魔導大学内の魔獣の放牧地で使用されていた薬のことだ。魔獣の嫌う匂いを発するため、地面に撒けば魔獣の放牧が可能になるという夢のような代物である。異例の提案にビットは狂喜乱舞する。放牧地を拓きキメラの放し飼いが可能になれば、神経すり減らすお散歩業務から永遠に解放される。草食キメラは好き勝手に草を食べてくれるし、餌となる獲物を敷地内に放せば肉食キメラのストレス発散にも繋がるだろう。屋外での飼育が可能になれば、水浴びも毛刈りも楽なものだ。
メレンの提案は夢のような話であるが、ビットは一抹の不安を覚えるのだ。魔獣除けの薬は魔導具の共同開発品目に含まれていない。魔導大学訪問時「薬を少し分けて貰えないだろうか」との願いを口にしたビットに対し「国外持出が認められていないから難しいでしょう」との答えを返した者は他ならぬメレンだ。薬を貰えることはありがたいが、メレンに法を犯させるわけにはいかぬ。そう訴えるビットに、メレンは笑顔でこう返した。
「確かに、正規薬品の国外持出は禁じられています。でも魔獣飼育室では、多少品質の落ちる失敗作を保管しているんですよ。薬の希釈量を調節すれば効能は変わりませんし、失敗作ですから代金を頂くこともありません。魔獣学部には魔獣好き、キメラ好きが揃っていますから、ウーちゃんとリーちゃんのために寄付するのだと言って反対する人はいないと思いますよ。個人旅行の折に魔法研究所のキメラ棟を見学させてほしい、くらいの要望は上がるかもしれませんけれど」
願ったり叶ったりの提案である。国家機密を取り扱う魔導大学とは異なり、魔法研究所に見られて困るものなど何もない。そもそも魔法研究所は国家直属の機関であり、収入も国からの補助金で賄われるのだから、主要キメラとなるウーちゃんとリーちゃんの合成方法でさえも秘密というわけではないのだ。魔導大学からの個人視察を受け入れるくらいのことで、神経すり減らすお散歩業務から解放されるのならば易いものである。ビットは天に舞い上がる心地で、メレンの提案を受け入れた。
その後数度の文のやり取りを得て、魔獣除けの薬品の譲渡契約は無事締結された。そして今日メレン来国より2週間の時を経て、待ち望んでいた小包が届いたという次第である。薬品の譲受についてはすでに魔法研究所内に広く告知がされており、キメラ棟の北側に放牧地を拓くということで決議がなされている。安全柵の設置や厩舎の建築については国家の承認が必要になるが、樹木の伐採や雑草の刈入れはすでに始まっている。小型建造物の建築に関しては決裁にさほどの時間がかからないはずだから、ビット含む4人の研究員がお散歩業務から解放されるのも最早時間の問題である。
小瓶を手ににんまりと笑うビットの耳に、とんとんと扉を叩く音が届いた。どうぞ、と言うよりも早く扉は開く。立っていたのは見知った女性研究員だ。
「ビット、玄関に来客よ」
「はぁい。すぐ行きます」
手にした小瓶を箱へと戻し、ビットは研究室を出る。雑用途中であったという様子の女性研究員の背を追い越し、廊下を駆ける。一団飛ばしで階段を駆け下りる最中に、ふと考える。最近何かと来客が多い。1か月前はメレン、2週間前はレイバック、そして今日。はたして今日はどんな嬉しい顔に出会えるのかと、ビットは心を弾ませるのだ。
***
ゼータは王妃の間で読書の真っ最中だ。ときは昼下がり、6階建ての王宮の最上階に位置する王妃の間には、暖かな日射しがたっぷりと射し込んでいる。薄く開いた窓からはそよ風が吹き込んで、うっかりベッドに寝転がろうものなら一瞬で夢の世界へと誘われることだろう。ゼータがこうして日の明るいうちから読書に勤しむことは、実は珍しい。ゼータの読書時間はもっぱら夜間、寝支度を済ませた後にソファに座り、何の憂いもなく読書に没頭することが恒例である。仕事が休みになる公休日には朝から晩まで読書に耽ることも間々あるが、今日は平日。王宮の官吏侍女も、魔法研究所の研究員らも、皆仕事に打ち込んでいる時間だ。
レイバック相手に激情をぶちまけてから2週間のときが経つ。この2週間のうちにゼータがしていたことといえば、もっぱらが読書だ。ソファの真横にお気に入りの書物を積み上げて、何となしに目を通す。手に取る書物はいずれも過去に目を通したことのある物ばかり、新しい書物には手を付けていない。気が向けばポトスの街のタキのカフェを訪れ、職人街の工房を巡り、目に留まった品を一つ二つ購入して王宮へと帰る。王宮内の侍女官吏相手に雑談を楽しむこともあれば、魔法研究所でキメラと戯れたりもする。ある者が見れば、以前の生活と一体何が違うのか、と眉を顰めることであろう。ただゼータのことをよく知る者が見れば、その生活は以前とは全く異なるものである気が付く。目的がなく、ただやりたい事をやっているだけ。この2週間はゼータにとっての、いわゆる充電期間とういうやつだ。
心に正常な働きを取り戻すための、充電期間。
書物を捲る手を止め、カミラが淹れてくれた紅茶を一口口に含んだときに、突然王妃の間の扉が開いた。扉を開けた者は見知らぬ官吏だ。ゼータと目線を合わせた直後の酷く気まずそうな様子は、ノックを忘れたことに気が付いたからに違いない。
「ゼータ様、突然申し訳ありません。正門の衛兵から急ぎの伝言で…。えっと、来客です。灰色の髪の青年でビットという方ですが、ご存じですか?」
向けられる声はやはりゼータの知らない声だ。王妃の間への入室が不慣れであることを踏まえても、彼は日頃ゼータが関わる部署の官吏ではない。恐らくは偶然王宮の玄関口付近にいた官吏が、取り急ぎ衛兵からの言伝を任された、というところであろう。私室にいる王と王妃、十二種族長への伝言は通常であれば侍女の仕事だが、一日のうちで最も日射しの多いこの時間は侍女も多忙なのだ。ゼータの専属侍女であるカミラは、今日は王妃の間の布類を全て天日干しにするのだと意気込んでいた。つまり今ゼータのいる王妃の間は、寝具やカーテン、クッションに至るまで全ての布が取り払われた状態なのである。色合いをなくした部屋は何とも殺風景だ。
ゼータは本を閉じ、突然の来訪者に言葉を返す。
「ビットは魔法研究所の研究員です。彼が王宮に?」
「正門前にいらしています。すぐお向かいください」
「…客間には通していないんでしょうか」
「そのようです。すみません、詳しいことは聞いておりません」
「いえ、構いませんよ。すぐに向かいます」
ゼータはソファから立ち上がり、椅子に背に掛けてあった上着を羽織る。今日は一日を自室で過ごす予定だったから、ゼータの衣服は部屋着のままだ。通常来客の対応をするならば、それなりの服装に着替えるところ。しかしビットが相手ならば、気の抜けた服装でも許されるだろう。
手櫛で髪を整えるゼータは、ふと疑問を抱く。なぜビットがわざわざ王宮を訪れるのだ。充電期間中の今以前より頻度は落としているものの、ゼータは週に2度は魔法研究所に足を運んでいる。直近で言えば一昨日の午後は魔法研究所に滞在したし、突発的な予定が入らなければ明日は一日滞在予定である。遥々王宮までやって来るということは、余程急ぎの用事を抱えているのだろうか。室内履きから革靴へと履き替えるゼータに向けて、思い出したように言葉が向けられる。
「そういえばビットという青年の他に、もう1人いらしているそうですよ。名は名乗らなかったようですが、金の髪の男性が」
「は?」
転がるようにして1階へと続く階段を下りたゼータは、王宮の玄関口でレイバックと鉢合わせた。特に急いだ風もないレイバックは、猪のごとき勢いで玄関口を飛び出すゼータを前に不可解な面持ちだ。速度を上げて、息切らすゼータの横に並ぶ。
「ゼータ、そんなに急いでどこへ行く。外出か?」
「正門前に来客だと聞いたので」
「ん?俺もだ。ビットが来ているからと言って呼ばれたんだ」
ゼータはぜぇぜぇと情けないほどに息を切らしながら、隣を走るレイバックを見上げた。
「私もです。あの、他に何か聞きました?」
「いや特に何も。伝達に不慣れな官吏だったから、詳しいことは何も聞いていない」
「私もなんですけれど…でもビットの他にもう1人いるらしくて、彼がその、金、金…」
「菌?」
慣れない疾駆に走りながらの会話。息も絶え絶えのゼータの言葉は、レイバックには正しく伝わらない。しかしレイバックにとってはゼータの訴えの中身よりも、肺が破裂するのではないかというほどの呼吸音の方が気になるらしい。非運動要員のゼータをこれ以上喋らせるのは気の毒と感じたのか、レイバックはそれきり口を閉ざした。
話すことを止めた2人は広大な広場を走り抜け、扉のない中門をくぐり抜けた。中門を抜ければすぐに正門だ。正門の内側には衛兵が一人立っており、突然の襲撃者に恐れ慄いた表情を浮かべている。至急、至急門を開けてくれ。内の衛兵が叫び、閉ざされた門は内外2名の衛兵の手により開かれた。
最後の力を振り絞って正門から飛び出したゼータは、門を出た直後に足を縺れさせ哀れにも地面に転がった。地面に頬を擦り付け、痛みに呻くゼータの傍に、レイバックがしゃがみ込む。なぜビットに会うのにそこまで必死なのだ。緋色の瞳はまるで訳がわからないとばかりに、地に付すゼータを見下ろしていた。
「レイさん、ゼータさん、こんにちは」
聞きなれた声だ。声のした方を見れば、正門の正面にある木の根元にビットが座り込んでいる。正門前には待ち合わせをするための椅子や日よけの類は置かれていない。今日は陽射しが強いから、極力日光の当たらない場所を選んでレイバックとゼータの到着を待っていたのだろう。
ビットの後ろで、一人の人物が立ち上がる。木の幹に隠れるようにして座り込んでいたのだ。その人物は見慣れない衣服を着ていた。膝下丈の涼しげなズボンに、ざっくりと縫われた麻のマントのような物を羽織っている。染色の施されていない麻の布地には大きなフードが付いていて、正体のわからぬその人物の頭部を覆い隠していた。
ビットは木の根元に座り込んだまま、ゼータは地に這いつくばったまま、レイバックはゼータの真横にしゃがみ込んだまま、そして2人の衛兵は門扉に手を掛けたまま、皆無言で事の成り行きを見守っていた。レイバックとゼータの正面へと歩み出たその人物は、躊躇いがちな動作で自らの頭部を覆うフードを取り去った。髪が、顔が、表情が、陽灯りの元に晒される。
「な、なんで?」
ゼータが間の抜けた声が、沈黙の場に響き渡った。
ビットとともに王宮を訪れたのは、あの日地下室で別れを告げたはずのクリスであった。
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※2023.11.18 文章を整えました。
辺境伯爵家次男のリーシュ・ギデオン(16)が、突然第3王子のラファド・ミファエル(18)の専属魔法士に任命された。
「なんで、僕?」
一人狼第3王子×黒髪美人魔法士
設定はふんわりです。
小説を書くのは初めてなので、何卒ご容赦ください。
嫌な人が出てこない、ふわふわハッピーエンドを書きたくて始めました。
感想聞かせていただけると大変嬉しいです。
表紙絵
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