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無垢と笑えよサイコパス
地下室の骸-1
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メレンが指定した集合場所は、ポトスの街の中心部にある石橋の上であった。年季を感じさせるアーチ状の石橋の上からは、ポトスの街を横断する人工河川を一望することができる。石造りの護岸には同じく石造りの建物が建ち並び、等間隔に建てられた街灯には橙色の灯りが灯っていた。暮れなずむ空は、すでに夕焼けの残火を残すばかり。間もなくしてポトスの街は夜闇に飲まれ、暗闇に浮かぶ街灯の灯りが幻想的な風景を作り出すのだ。
ゼータは石橋の手すりに腰を預け、メレンの到着を待った。さほど広くはない石橋の上は多くの人でごった返している。「ポトスの街中心部の石橋の上」は待ち合わせの常套句だ。恋人との逢瀬、職場の飲み会、友人との行楽、ポトスの街の中心部で人と待ち合わせる場合には、必ずと言って良いほどこの場所が指定される。かく言うゼータも石橋の上で人を待った経験は幾度となくあった。
間もなくしてごった返す人波の中にメレンの姿が現れた。昼間と同じ黄色のシャツに濃紺のスカート、小さな鼠色のカバンを肩に掛けている。小柄なメレンは人波に揉まれながら右往左往をし、石橋の隅にゼータの姿を見つけると花が咲いたような笑顔になった。
「ゼータさん、早いですね」
駆け寄ってくるメレンは、ゼータよりも遥かに小さい。背丈はゼータの肩にようやく届くかという程度で、腕も脚も小枝のようだ。「守ってあげたくなっちゃう」というビットの言葉にも納得である。
「書店に立ち寄ろうと思って早めに出てきたんです。街中に下りる機会は貴重ですし」
「本好きの名は伊達じゃないですね。良い書物に出会えましたか?」
「古書を一冊買いましたよ。後は近々発売の新書の予約をしてきました」
会話もそこそこに、2人は目的地に向けて歩き出す。メレンの言う「一人では入りにくい雰囲気の店」は職人街の裏通り、集合地点である石橋からは徒歩で10分ほどの場所だ。ポトスの街の名物料理を売りにしており、地元の人々よりは観光客に人気の飲食店である。ゼータは数年前に一度、研究所仲間とその店を訪れた経験がある。料理は美味いが、観光客向けの店であるだけにお値段も張る。大衆居酒屋で浴びるほどの酒を飲んだ方がお得との意見が大半を占め、利用はその1回きりとなったのである。
歩み始めてしばらくの間は、メレンはポトスの街の景色を眺めることに夢中になっていた。ビットとの茶会の最中に聞いた話によると、メレンは15年以上も前に一度ポトスの街を訪れた経験があるらしい。そのときの旅行は父との2人旅で、幼いメレンは観光雑誌を手にした父に手を引かれ歩いた。幼少時の旅行であるために記憶は朧、しかしふとした拍子に知っている風景に行き当たる。それが堪らなく面白いらしい。
風景観察に没頭していたメレンが再び口を開いたのは、歩みが裏通りに差し掛かった頃だ。
「ゼータさんのお住まいはどちらですか?」
「ポトス城の内部ですよ。ポトス城、分かります?」
「分かりますよ。ドラキス王国の王宮があるところですよね。ということは、奥様は王宮関係者ですか?」
「そうですね。王宮で働いています。王宮関係者が住まうことのできる白の街、という場所があって、そこに住居を構えています」
さぁ何でも聞くが良い、とゼータは胸を張る。私生活について、特に結婚相手について尋ねられることは予想の範疇だ。メレンとの食事会に備え一足早く王宮へと戻ったゼータは、架空の結婚相手を生み出すことに尽力したのだ。結婚相手(仮)の名はレイラ、赤茶色の髪と同色の瞳を持つ幻獣族の女性である。王宮の魔法管理部で働いており、口は悪いが仕事は早いと評判だ。レイラとの出会いは5年前、ゼータが仕事で魔法管理部を訪れたことがきっかけであった。その後3年間の交際期間を得て昨年めでたく結婚に至り、ポトス城東部に位置する白の街で新婚生活を送っている。現在に至るまで大きな仲違いなどはなく、順風満帆の生活だ。
詳細に練り込まれたレイラの個人情報を思い浮かべ、ゼータは一人ほくそ笑む。会話に夢中になるメレンが、ゼータの邪悪な笑みに気が付く様子はない。
「白の街はロシャ王国の観光雑誌にも名前が出ていますよ。ポトスの街に似た造りになっているんですよね」
「そうですけれど…観光雑誌に載っているんですか?白の街が?」
「自由に立ち入ることができるし、観光客が少ないから穴場スポットだって。あまり楽しい場所ではないんですか?」
「うーん…。見た目は綺麗ですけれど、飲食店や土産店はないですよ。週に2日商人がやって来て天幕を張りますけれど、日用品の販売がほとんどです。余程の興味がないのであれば、ポトスの街中を散策した方が有意義だと思いますけれどね」
「そうなんですか…ポトス城に赴けばゼータさんの奥様に会えるかも、なんて考えていたんですけれど」
「レイラのいる魔法管理部は人と接する部署ではありませんから。会うのは難しいと思いますよ」
「奥様、レイラさんとおっしゃるんですか?素敵な名前ですね」
ゼータが名前を出したことにより、それから先の会話はもっぱらレイラに関する問答だ。事前に人物像を作り上げていただけにゼータの口調は滑らかだ。嘘はことごとく苦手であるが、事前準備を怠らなければこの通り。ボロを出さぬ見事な問答はレイバックに報告事案であると、ゼータは内心高笑いを続けるのだ。
一通りの問答を終えた頃に、行く先には目的の飲食店が見えてきた。人通りの少ない小路に、ひっそりと佇む小洒落た店だ。小さな看板を掲げた木製の扉をくぐれば、そこは落ち着いた雰囲気の店内である。クリーム色を基調とした内装に、栗色のテーブルと椅子が並んでいる。壁際に置かれた飾り棚には年季の入った酒瓶とグラス。部屋の隅には背の高い植物の鉢が置かれている。席数は多いがテーブルの間隔は広く保たれていて、恋人達の逢瀬にはぴったりの店だ。内緒話にも然りである。
店員に案内された席は、店の出入り口からは最も離れた位置にある2人掛けのテーブル席だ。食事時であるにも関わらず、店内にいる客人はゼータらを除き2組だけ。観光客が主の客層となる店であるあるから、月中の今は閑散期なのだ。以前ゼータがこの店を訪れたときも同様に閑散期であった。しかし客足が少ないからといって料理の味が落ちるわけではない。
2人が席に着くとすぐに、老齢の男性店員が飲み物の注文を聞いた。ゼータは以前訪れたときに飲んだ季節のグラスワインを頼み、メレンもそれに倣う。「料理のご注文は後ほど」そう告げる男性店員は2冊のメニュー表を残し立ち去った。メレンの前に置かれるは金のメニュー表、ゼータの前には銀のメニュー表だ。厨房へと消えて行く男性店員の背を見送り、2人はそれぞれのメニュー表を開く。
「…ゼータさん。メニュー表に値段が書いていないです」
メニュー表を眺めるメレンが、不安に満ちた声を上げた。どういうことだとしばし思案するゼータであるが、ややあって思い当たる節を見つけた。それは以前訪れた時に耳にした、この店独自のルールだ。
「そういえば、この店の店主は遠い異国の出身なんですって。その国ではこうして男女が2人で食事をするときには、男性が女性の分の代金も持つのが普通らしいですよ」
「へぇ…。つまり女性はお金を払わないから、メニュー表に値段が書いていないんですか?」
「そういうことだと思います。気になるならこっちを見ますか?」
ゼータが自身の前に置かれていた銀のメニュー表を差し出すと、メレンは手を伸ばしてそれを受け取った。銀のメニュー表には、料理名の横にしっかりと値段が記載されているのだ。
「…結構高いですね」
「観光客がメインの客層ですからねぇ。この店は」
ぱらぱらと銀のメニュー表を捲っていたメレンであるが、突然何か不味いことに思い至ったかのように声を上げた。
「あの、私自分の分は自分で払いますから!ゼータさんに出してもらおうとか、そんなつもりでお誘いを掛けたわけじゃないですから…」
この店独自のルールについては観光雑誌に書いていなかったと、メレンは必死の形相だ。身振り手振りを交え自らの身の潔白を訴えるメレンの様子が面白くて、ゼータは声を立てて笑う。
「遥々来てもらったんだし、食事代くらい出しますけどね」
「値段が気になって料理の味がわからなくなりそうなので、自分で払います」
メレンの言葉は本心と見えたので、ゼータはそれ以上食い下がることはしなかった。
各々が頼む料理を決めた頃に、先ほどと同じ老齢の男性店員がやってきた。掌上の盆には2人分のワイングラスがのっている。「こちら、季節のグラスワインです」優雅な仕草でワイングラスを下ろした定員は、続いてポケットから小さなメモ紙を取り出す。ご注文をどうぞ、しゃがれ声が告げる。
「店主のお勧めBコースで」
「私はAコースをお願いします」
肉の焼き加減は、サラダにかけるドレッシングの種類は。いくつか質問を繰り返した後に、老齢の定員はメモ紙をポケットへと仕舞う。テーブルの上に置かれた金銀のメニュー表をひょいと持ち上げ、厨房へと戻って行く。定員の背が厨房の内部へ完全に消えたときに、メレンがそろそろと口を開いた。
「メニュー表について、何か言われるかと思ってどきどきしちゃいました」
店員が回収する直前、ゼータとメレンのメニュー表は入れ替わって置かれていた。つまりゼータの前には値段の書かれない金のメニュー表が、メレンの前には値段の書かれた銀のメニュー表が置かれていたのである。
老齢の定員が店のルールに反する2人の行いを咎めなかったのは、メニュー表の入れ替わりが頻繁に起こる出来事だからだ。ポトスの街では性別、人種、年齢問わず自分の食べた料理の代金は自分で支払うことが普通だ。例え親子や恋人の関係であったとしても、互いに仕事を持っているのであれば、どちらかが支払いを負担するということは有り得ない。なぜこの店の店主が、ポトスの街にそぐわないルールを採用しているかは分からない。しかしそもそも破られることが前提のルールなのだから、破ったところで咎められることはない。そのような事をゼータが説明すると、メレンは興味深げに頷いた。
どちらともなく乾杯が交わされた。透き通るワイングラスの中身は、薄桃色のロゼワインだ。酸味の少ない甘口のワインは喉をするりと通り抜けていく。高級志向の店であるだけに、酒と料理の味は確かなのだ。
グラスの中身を一口口に含んだ後、メレンはきりりと居住まいを正した。いよいよ本題か、ゼータは半分ほどに減ったワイングラスをテーブルの上に置く。
「ゼータさん。例のお話、先に済ませてしまっても良いですか?楽しい話ではないんです」
「構いませんよ」
「実はその…クリスさんのことで、いくつか聞きたい事があるんですけれど」
「はい」
想像していた通りの切り出しに、ゼータは素直に頷いた。後に続く問いはクリスの死に関わるものか、それともクリスとの思い出話に関することか。あれこれと想像を巡らせるゼータであるが、続くメレンの言葉はあまりにも意外であった。
「クリスさん、ドラキス王国に来ていないですか?」
「え?」
しばしの沈黙。まるで意味が分からないと、ゼータは首を傾げるばかりだ。
「すみません。どういうことですか?」
「クリスさん、今行方不明なんですよ。もう2か月以上寮に帰っていないし、研究室にも顔を出していないみたいなんです」
「行方不明…ですか」
「私が最後にクリスさんの顔を見たのは、ゼータさん達が視察に訪れていた最中です。何日目だったかな。レイさんとクリスさんが喧嘩をしたことがあって、そのときが最後なんですよ。でもゼータさんは、帰国日の前日までクリスさんと一緒にいたんですよね?」
「そうですね。帰国の前日にクリスと別れています」
「じゃあ私が知る限り、それが最後の目撃情報です。確かではないんですけれどね。クリスさん元々幽霊寮生ですし、研究室も人目に付かない場所にあったでしょう。でも目ぼしい友人関係を当たってみたところによると、ゼータさん達の帰国日以降クリスさんに会った人はいないんです」
ゼータは脳内で情報を整理しながら、メレンの語りに耳を澄ます。「ねぇ、ここのお店は何が美味しいの」「コース料理じゃなくてさ、一品料理を頼んで皆で分けようよ」入り口付近のテーブル席で、入店直後の3人組が楽しげな会話を繰り広げている。
「私がクリスさん行方不明の話を聞いたのは、大分後になってからだったんですけれどね。研究員寮の郵便受けに文が溜まっていて、管理人さんがおかしいと気付いたみたいなんです。その頃にはデュー含む数人の寮生がクリスさんの目撃情報を当たっていて、クリスさんと仲の良い私のところにもやってきたんです。私も頻繁に顔を合わせていたわけではないですから、そのとき初めて気が付いたんですよ。そういえば最近クリスさんを見ていないなって」
視察員の帰国以後クリスの姿を見掛けた者はいない、メレンの集めた証言は正しい。しかし「行方不明」という状況にはいささか疑問が残る。死から2か月半が経った今も遺体が発見されていないのか。いやそんなことは有り得ない。地下研究室の存在は他の研究員にこそ隠されていたが、魔導大学の頭であるセージは所在を把握しているのだ。クリスはセージと頻繁に連絡を取っている様子だったから、連絡が途絶えればセージ自らが地下研究室を訪れることであろう。加えて次回の治験が差し迫っている様子でもあった。クリスは迫る治験に備え茶葉や茶菓子を買いに出ていたはずだから、少なくとも数人の人々が地下治験場を訪れる予定であったのだ。治験の当日までクリス不在に気が付かなかったのだとしても、地下室へと立ち入った者がいるのであれば、そこにある惨状に気が付かぬはずがない。
黙りこくるゼータの様子を伺うようにして、メレンは言葉を続ける。
「行方不明を聞いたとき、私こう思ったんですよ。ひょっとしてクリスさん、ゼータさんを追ってドラキス王国に行っちゃったんじゃないかって。随分熱心に勧誘を掛けていたじゃないですか。やっぱり諦めきれなくて、国を超えてまで勧誘活動を継続しているのかと思ったんですけれど…」
「私は帰国してからクリスとは会っていないですよ。ポトスの街で彼を見掛けたという話も聞きません」
ゼータがそう告げると、メレンは肩を落とした。そうですか、と呟く顔に激しい落胆の色はない。淡い期待であることは初めから分かっていたのであろう。続く言葉を探すようにして、華奢な指先がワイングラスに触れる。薄桃色の液体が小さな唇へと飲み込まれていく様を、ゼータは黙って眺めていた3口分減ったワイングラスをテーブルの端に寄せ、メレンはゼータに身を寄せる。本題はここからと言わんばかりだ。
「ここまでは事実の話。ここから先は私の想像なんですけれど、聞いてくれますか?」
掠れ声に誘われるようにして、ゼータもメレンに身を寄せた。テーブルの上に身をのり出し、額をくっつける様はまるで仲の良い恋人同士だ。ビットがこの場に居合わせればゼータに対する怒号罵倒の嵐である。しかしメレンの口から飛び出す言葉は、甘美な音には程遠い。
「クリスさんは殺されたんです。魔導大学上層部の人間か、王宮関連者に。クリスさんがゼータさんの元を訪れていないのであれば、きっとそうなんです」
ゼータは石橋の手すりに腰を預け、メレンの到着を待った。さほど広くはない石橋の上は多くの人でごった返している。「ポトスの街中心部の石橋の上」は待ち合わせの常套句だ。恋人との逢瀬、職場の飲み会、友人との行楽、ポトスの街の中心部で人と待ち合わせる場合には、必ずと言って良いほどこの場所が指定される。かく言うゼータも石橋の上で人を待った経験は幾度となくあった。
間もなくしてごった返す人波の中にメレンの姿が現れた。昼間と同じ黄色のシャツに濃紺のスカート、小さな鼠色のカバンを肩に掛けている。小柄なメレンは人波に揉まれながら右往左往をし、石橋の隅にゼータの姿を見つけると花が咲いたような笑顔になった。
「ゼータさん、早いですね」
駆け寄ってくるメレンは、ゼータよりも遥かに小さい。背丈はゼータの肩にようやく届くかという程度で、腕も脚も小枝のようだ。「守ってあげたくなっちゃう」というビットの言葉にも納得である。
「書店に立ち寄ろうと思って早めに出てきたんです。街中に下りる機会は貴重ですし」
「本好きの名は伊達じゃないですね。良い書物に出会えましたか?」
「古書を一冊買いましたよ。後は近々発売の新書の予約をしてきました」
会話もそこそこに、2人は目的地に向けて歩き出す。メレンの言う「一人では入りにくい雰囲気の店」は職人街の裏通り、集合地点である石橋からは徒歩で10分ほどの場所だ。ポトスの街の名物料理を売りにしており、地元の人々よりは観光客に人気の飲食店である。ゼータは数年前に一度、研究所仲間とその店を訪れた経験がある。料理は美味いが、観光客向けの店であるだけにお値段も張る。大衆居酒屋で浴びるほどの酒を飲んだ方がお得との意見が大半を占め、利用はその1回きりとなったのである。
歩み始めてしばらくの間は、メレンはポトスの街の景色を眺めることに夢中になっていた。ビットとの茶会の最中に聞いた話によると、メレンは15年以上も前に一度ポトスの街を訪れた経験があるらしい。そのときの旅行は父との2人旅で、幼いメレンは観光雑誌を手にした父に手を引かれ歩いた。幼少時の旅行であるために記憶は朧、しかしふとした拍子に知っている風景に行き当たる。それが堪らなく面白いらしい。
風景観察に没頭していたメレンが再び口を開いたのは、歩みが裏通りに差し掛かった頃だ。
「ゼータさんのお住まいはどちらですか?」
「ポトス城の内部ですよ。ポトス城、分かります?」
「分かりますよ。ドラキス王国の王宮があるところですよね。ということは、奥様は王宮関係者ですか?」
「そうですね。王宮で働いています。王宮関係者が住まうことのできる白の街、という場所があって、そこに住居を構えています」
さぁ何でも聞くが良い、とゼータは胸を張る。私生活について、特に結婚相手について尋ねられることは予想の範疇だ。メレンとの食事会に備え一足早く王宮へと戻ったゼータは、架空の結婚相手を生み出すことに尽力したのだ。結婚相手(仮)の名はレイラ、赤茶色の髪と同色の瞳を持つ幻獣族の女性である。王宮の魔法管理部で働いており、口は悪いが仕事は早いと評判だ。レイラとの出会いは5年前、ゼータが仕事で魔法管理部を訪れたことがきっかけであった。その後3年間の交際期間を得て昨年めでたく結婚に至り、ポトス城東部に位置する白の街で新婚生活を送っている。現在に至るまで大きな仲違いなどはなく、順風満帆の生活だ。
詳細に練り込まれたレイラの個人情報を思い浮かべ、ゼータは一人ほくそ笑む。会話に夢中になるメレンが、ゼータの邪悪な笑みに気が付く様子はない。
「白の街はロシャ王国の観光雑誌にも名前が出ていますよ。ポトスの街に似た造りになっているんですよね」
「そうですけれど…観光雑誌に載っているんですか?白の街が?」
「自由に立ち入ることができるし、観光客が少ないから穴場スポットだって。あまり楽しい場所ではないんですか?」
「うーん…。見た目は綺麗ですけれど、飲食店や土産店はないですよ。週に2日商人がやって来て天幕を張りますけれど、日用品の販売がほとんどです。余程の興味がないのであれば、ポトスの街中を散策した方が有意義だと思いますけれどね」
「そうなんですか…ポトス城に赴けばゼータさんの奥様に会えるかも、なんて考えていたんですけれど」
「レイラのいる魔法管理部は人と接する部署ではありませんから。会うのは難しいと思いますよ」
「奥様、レイラさんとおっしゃるんですか?素敵な名前ですね」
ゼータが名前を出したことにより、それから先の会話はもっぱらレイラに関する問答だ。事前に人物像を作り上げていただけにゼータの口調は滑らかだ。嘘はことごとく苦手であるが、事前準備を怠らなければこの通り。ボロを出さぬ見事な問答はレイバックに報告事案であると、ゼータは内心高笑いを続けるのだ。
一通りの問答を終えた頃に、行く先には目的の飲食店が見えてきた。人通りの少ない小路に、ひっそりと佇む小洒落た店だ。小さな看板を掲げた木製の扉をくぐれば、そこは落ち着いた雰囲気の店内である。クリーム色を基調とした内装に、栗色のテーブルと椅子が並んでいる。壁際に置かれた飾り棚には年季の入った酒瓶とグラス。部屋の隅には背の高い植物の鉢が置かれている。席数は多いがテーブルの間隔は広く保たれていて、恋人達の逢瀬にはぴったりの店だ。内緒話にも然りである。
店員に案内された席は、店の出入り口からは最も離れた位置にある2人掛けのテーブル席だ。食事時であるにも関わらず、店内にいる客人はゼータらを除き2組だけ。観光客が主の客層となる店であるあるから、月中の今は閑散期なのだ。以前ゼータがこの店を訪れたときも同様に閑散期であった。しかし客足が少ないからといって料理の味が落ちるわけではない。
2人が席に着くとすぐに、老齢の男性店員が飲み物の注文を聞いた。ゼータは以前訪れたときに飲んだ季節のグラスワインを頼み、メレンもそれに倣う。「料理のご注文は後ほど」そう告げる男性店員は2冊のメニュー表を残し立ち去った。メレンの前に置かれるは金のメニュー表、ゼータの前には銀のメニュー表だ。厨房へと消えて行く男性店員の背を見送り、2人はそれぞれのメニュー表を開く。
「…ゼータさん。メニュー表に値段が書いていないです」
メニュー表を眺めるメレンが、不安に満ちた声を上げた。どういうことだとしばし思案するゼータであるが、ややあって思い当たる節を見つけた。それは以前訪れた時に耳にした、この店独自のルールだ。
「そういえば、この店の店主は遠い異国の出身なんですって。その国ではこうして男女が2人で食事をするときには、男性が女性の分の代金も持つのが普通らしいですよ」
「へぇ…。つまり女性はお金を払わないから、メニュー表に値段が書いていないんですか?」
「そういうことだと思います。気になるならこっちを見ますか?」
ゼータが自身の前に置かれていた銀のメニュー表を差し出すと、メレンは手を伸ばしてそれを受け取った。銀のメニュー表には、料理名の横にしっかりと値段が記載されているのだ。
「…結構高いですね」
「観光客がメインの客層ですからねぇ。この店は」
ぱらぱらと銀のメニュー表を捲っていたメレンであるが、突然何か不味いことに思い至ったかのように声を上げた。
「あの、私自分の分は自分で払いますから!ゼータさんに出してもらおうとか、そんなつもりでお誘いを掛けたわけじゃないですから…」
この店独自のルールについては観光雑誌に書いていなかったと、メレンは必死の形相だ。身振り手振りを交え自らの身の潔白を訴えるメレンの様子が面白くて、ゼータは声を立てて笑う。
「遥々来てもらったんだし、食事代くらい出しますけどね」
「値段が気になって料理の味がわからなくなりそうなので、自分で払います」
メレンの言葉は本心と見えたので、ゼータはそれ以上食い下がることはしなかった。
各々が頼む料理を決めた頃に、先ほどと同じ老齢の男性店員がやってきた。掌上の盆には2人分のワイングラスがのっている。「こちら、季節のグラスワインです」優雅な仕草でワイングラスを下ろした定員は、続いてポケットから小さなメモ紙を取り出す。ご注文をどうぞ、しゃがれ声が告げる。
「店主のお勧めBコースで」
「私はAコースをお願いします」
肉の焼き加減は、サラダにかけるドレッシングの種類は。いくつか質問を繰り返した後に、老齢の定員はメモ紙をポケットへと仕舞う。テーブルの上に置かれた金銀のメニュー表をひょいと持ち上げ、厨房へと戻って行く。定員の背が厨房の内部へ完全に消えたときに、メレンがそろそろと口を開いた。
「メニュー表について、何か言われるかと思ってどきどきしちゃいました」
店員が回収する直前、ゼータとメレンのメニュー表は入れ替わって置かれていた。つまりゼータの前には値段の書かれない金のメニュー表が、メレンの前には値段の書かれた銀のメニュー表が置かれていたのである。
老齢の定員が店のルールに反する2人の行いを咎めなかったのは、メニュー表の入れ替わりが頻繁に起こる出来事だからだ。ポトスの街では性別、人種、年齢問わず自分の食べた料理の代金は自分で支払うことが普通だ。例え親子や恋人の関係であったとしても、互いに仕事を持っているのであれば、どちらかが支払いを負担するということは有り得ない。なぜこの店の店主が、ポトスの街にそぐわないルールを採用しているかは分からない。しかしそもそも破られることが前提のルールなのだから、破ったところで咎められることはない。そのような事をゼータが説明すると、メレンは興味深げに頷いた。
どちらともなく乾杯が交わされた。透き通るワイングラスの中身は、薄桃色のロゼワインだ。酸味の少ない甘口のワインは喉をするりと通り抜けていく。高級志向の店であるだけに、酒と料理の味は確かなのだ。
グラスの中身を一口口に含んだ後、メレンはきりりと居住まいを正した。いよいよ本題か、ゼータは半分ほどに減ったワイングラスをテーブルの上に置く。
「ゼータさん。例のお話、先に済ませてしまっても良いですか?楽しい話ではないんです」
「構いませんよ」
「実はその…クリスさんのことで、いくつか聞きたい事があるんですけれど」
「はい」
想像していた通りの切り出しに、ゼータは素直に頷いた。後に続く問いはクリスの死に関わるものか、それともクリスとの思い出話に関することか。あれこれと想像を巡らせるゼータであるが、続くメレンの言葉はあまりにも意外であった。
「クリスさん、ドラキス王国に来ていないですか?」
「え?」
しばしの沈黙。まるで意味が分からないと、ゼータは首を傾げるばかりだ。
「すみません。どういうことですか?」
「クリスさん、今行方不明なんですよ。もう2か月以上寮に帰っていないし、研究室にも顔を出していないみたいなんです」
「行方不明…ですか」
「私が最後にクリスさんの顔を見たのは、ゼータさん達が視察に訪れていた最中です。何日目だったかな。レイさんとクリスさんが喧嘩をしたことがあって、そのときが最後なんですよ。でもゼータさんは、帰国日の前日までクリスさんと一緒にいたんですよね?」
「そうですね。帰国の前日にクリスと別れています」
「じゃあ私が知る限り、それが最後の目撃情報です。確かではないんですけれどね。クリスさん元々幽霊寮生ですし、研究室も人目に付かない場所にあったでしょう。でも目ぼしい友人関係を当たってみたところによると、ゼータさん達の帰国日以降クリスさんに会った人はいないんです」
ゼータは脳内で情報を整理しながら、メレンの語りに耳を澄ます。「ねぇ、ここのお店は何が美味しいの」「コース料理じゃなくてさ、一品料理を頼んで皆で分けようよ」入り口付近のテーブル席で、入店直後の3人組が楽しげな会話を繰り広げている。
「私がクリスさん行方不明の話を聞いたのは、大分後になってからだったんですけれどね。研究員寮の郵便受けに文が溜まっていて、管理人さんがおかしいと気付いたみたいなんです。その頃にはデュー含む数人の寮生がクリスさんの目撃情報を当たっていて、クリスさんと仲の良い私のところにもやってきたんです。私も頻繁に顔を合わせていたわけではないですから、そのとき初めて気が付いたんですよ。そういえば最近クリスさんを見ていないなって」
視察員の帰国以後クリスの姿を見掛けた者はいない、メレンの集めた証言は正しい。しかし「行方不明」という状況にはいささか疑問が残る。死から2か月半が経った今も遺体が発見されていないのか。いやそんなことは有り得ない。地下研究室の存在は他の研究員にこそ隠されていたが、魔導大学の頭であるセージは所在を把握しているのだ。クリスはセージと頻繁に連絡を取っている様子だったから、連絡が途絶えればセージ自らが地下研究室を訪れることであろう。加えて次回の治験が差し迫っている様子でもあった。クリスは迫る治験に備え茶葉や茶菓子を買いに出ていたはずだから、少なくとも数人の人々が地下治験場を訪れる予定であったのだ。治験の当日までクリス不在に気が付かなかったのだとしても、地下室へと立ち入った者がいるのであれば、そこにある惨状に気が付かぬはずがない。
黙りこくるゼータの様子を伺うようにして、メレンは言葉を続ける。
「行方不明を聞いたとき、私こう思ったんですよ。ひょっとしてクリスさん、ゼータさんを追ってドラキス王国に行っちゃったんじゃないかって。随分熱心に勧誘を掛けていたじゃないですか。やっぱり諦めきれなくて、国を超えてまで勧誘活動を継続しているのかと思ったんですけれど…」
「私は帰国してからクリスとは会っていないですよ。ポトスの街で彼を見掛けたという話も聞きません」
ゼータがそう告げると、メレンは肩を落とした。そうですか、と呟く顔に激しい落胆の色はない。淡い期待であることは初めから分かっていたのであろう。続く言葉を探すようにして、華奢な指先がワイングラスに触れる。薄桃色の液体が小さな唇へと飲み込まれていく様を、ゼータは黙って眺めていた3口分減ったワイングラスをテーブルの端に寄せ、メレンはゼータに身を寄せる。本題はここからと言わんばかりだ。
「ここまでは事実の話。ここから先は私の想像なんですけれど、聞いてくれますか?」
掠れ声に誘われるようにして、ゼータもメレンに身を寄せた。テーブルの上に身をのり出し、額をくっつける様はまるで仲の良い恋人同士だ。ビットがこの場に居合わせればゼータに対する怒号罵倒の嵐である。しかしメレンの口から飛び出す言葉は、甘美な音には程遠い。
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遠距離恋愛中だった恋人との関係が自然消滅した。どこか心にぽっかりと穴が空いたまま毎日を過ごしていた藍(あい)。大晦日の夜、寂しがり屋の親友と二人で年越しを楽しむことになり、ハメを外して酔いつぶれてしまう。目が覚めたら「ここどこ」状態!!
親友と仲良すぎな主人公と、別れたはずの恋人とのお話。
⚠️趣味で書いておりますので、誤字脱字のご報告や、世界観に対する批判コメントはご遠慮します。そういったコメントにはお返しできませんので宜しくお願いします。
大晦日あたりに出そうと思ったお話です。
【完結】オーロラ魔法士と第3王子
N2O
BL
全16話
※2022.2.18 完結しました。ありがとうございました。
※2023.11.18 文章を整えました。
辺境伯爵家次男のリーシュ・ギデオン(16)が、突然第3王子のラファド・ミファエル(18)の専属魔法士に任命された。
「なんで、僕?」
一人狼第3王子×黒髪美人魔法士
設定はふんわりです。
小説を書くのは初めてなので、何卒ご容赦ください。
嫌な人が出てこない、ふわふわハッピーエンドを書きたくて始めました。
感想聞かせていただけると大変嬉しいです。
表紙絵
⇨ キラクニ 様 X(@kirakunibl)
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今夜のご飯も一緒に食べよう~ある日突然やってきたヒゲの熊男はまさかのスパダリでした~
松本尚生
BL
瞬は失恋して職と住み処を失い、小さなワンルームから弁当屋のバイトに通っている。
ある日瞬が帰ると、「誠~~~!」と背後からヒゲの熊男が襲いかかる。「誠って誰!?」上がりこんだ熊は大量の食材を持っていた。瞬は困り果てながら調理する。瞬が「『誠さん』って恋人?」と尋ねると、彼はふふっと笑って瞬を抱きしめ――。
恋なんてコリゴリの瞬と、正体不明のスパダリ熊男=伸幸のお部屋グルメの顛末。
伸幸の持ちこむ謎の食材と、それらをテキパキとさばいていく瞬のかけ合いもお楽しみください。
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