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無垢と笑えよサイコパス
衝突
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レイバックの苛立ちは最高潮であった。
千数百年に及ぶ人生の中で、過去これほどまでに苛々を募らせる事件があっただろうか。民の税により私腹を肥やす愚鈍な首長の惨めたらしい言い訳を耳にしたときも、四苦八苦を重ね育て上げた薬草畑を魔虫の大群に荒らされたときも、自らの不注意で大切にしてきた愛刀を折ったときも、湧き上がる怒りはあれどそれは自らの意志で制御が可能な程度のものであった。しかし今身の内に湧き上がる怒りは、溶岩のように他の思考を飲み込んで焼き尽くす。過去に類を見ない激憤と焦燥だ。
レイバックの激情にはもちろん相応の理由がある。その理由はといえば、教養棟から姿を消して早4日目となるゼータのことだ。クリスの研究室に行くと告げたきり戻らない愛しい妃。脚の怪我はどの程度のものなのか、傷が化膿し痛みと熱にうなされてはいないだろうか。食事はきちんととっているのだろうか、暖かい布団で寝ているだろうか。
あれこれと考えるうちに、思考は暗がりへと落ちて行く。解放を餌に無理難題を押し付けられてはいないだろうか。もしかしたら国家機密を盗み見た罪を理由に、監禁状態にされているのではないか。手足を縛られ冷たい床に転がされている可能性は。今こうしている間にも、ゼータは必死にレイバックの名を呼んでいるのでは―
ばきっ、と小枝をへし折るような音がした。鋭い痛みを感じ視線を落とせば、左手のひらに砕けたペンの欠片が突き刺さっている。想像を働かせるうちに手のひらに力がこもり、握り占めていたペンの胴軸をへし折ったのだ。真っ二つに折れたペンの破片が、柔らかな皮膚に食い込んでいる。深い傷ではないが数日物を握るには痛みを伴いそうだ。
「レイさん、大丈夫ですか?」
隣に座るビットがレイバックの手のひらを覗き込んだ。丁度レイバックは刺さり込んだペンの破片を引き抜いたところで、爪先ほどの大きさの傷口からは鮮血が溢れ出す。
「結構深いですよ。医務室に行きますか?」
「いや、良い。血はじき止まる」
ひそひそ声の会話を聞き取ったのか、教壇に立つルーメンの視線が2人に向いた。そう、今はルーメン講師による講義の真っ最中。魔導大学滞在10日目となる本日の講義の題材は「魔導具の共同開発によりもたらされる利益と、懸念される問題点」欠席者ゼータと教鞭者ルーメンを除く8人の研究員が、質素な机に資料を開き、滑らかな語りに耳を澄ませていたところだ。
気にしないでくれ。レイバックの無言の訴えを受けたルーメンは、立て板に水の語りを再開する。
レイバックが懐から取り出したハンカチで手のひらを押さえたので、ビットは遠慮がちに講義へと戻った。溢れ出る鮮血をハンカチで押し止めながら、レイバックは講義室を眺め見た。今レイバックが座る席は、講義室の出入り口からは最も遠い窓際の一席だ。隣にはビットがいて、目の前にはイースの背中がある。メレン、デュー、フランシスカ、カシワギと順に背中を追い、レイバックの視線は目的の人物へと辿り着く。出入り口に最も近い席にクリスが座っている。机の上に頬杖をついて、配布資料の一部に熱心にペンを走らせている。
あの野郎、レイバックはハンカチを握りしめる。怒りの矛先は他の誰でもない、事の当事者であるクリスだ。ゼータを研究室に誘い込んだこと、不注意により怪我を負わせたことはこの際咎めまい。しかしその後の対応が悪すぎる。「解放にあたり交渉が必要、多少の条件を飲んでもらう必要がある」そう言いはするが、肝心の条件は頑なに明かさない。交渉の進捗状況も不明のまま。そしてゼータを滞在させている研究室の場所すらレイバックには教えない。
レイバックにとってみれば、大切な妃を奪い取られたも同然の状況なのだ。
「正午には少し早いですが、午前中の講義はここまでに致しましょう」
ルーメンの声に、講義室の中にはいくつかの溜息と机にペンを置く音が響いた。
「午前の内容を踏まえ、午後は皆で討論会を行います。魔導具の共同開発によりもたらされる恩恵と損害、昼食の間に皆想像を働かせてくだされ。では13時にまた、この場所で」
ルーメンが言葉を終えると同時に、レイバックの視界の端でちらりと動く影があった。クリスだ。講義終了の宣告を聞き、さっさと荷物をまとめ講義室を出て行こうとする。待て、と呟きレイバックは勢いよく席を立った。机の上の書類も折れたペンもそのままにして、扉の向こうに消えゆくクリスの背を追う。
昨日もこうであったのだ。午前中の講義終了と同時に姿を消したクリスは、それきり午後の講義には戻らなかった。その行動が何を意味するのか、正確にはわからない。しかしそれまで講義開始の10分前には教養棟に現れていたクリスが、突然講義開始ぎりぎりへと登校時間をずらし、そして講義終了と同時に颯爽と姿を消す。その不可思議な行動はまるで「お前に話すことは何もない」と伝えるようなのだ。クリスは意図的にレイバックとの対話を避けている。その予想が真実ならば、今日こそクリスを逃すわけにはいかなかった。閉じられたばかりの扉を開け放ち、叫ぶ。
「おい、クリス!」
レイバックの怒号に、クリスは廊下の中腹で歩みを止めた。緩慢な動作で振り返るクリスの顔には穏やかな笑みが浮かぶ。
「何でしょう?」
小首を傾げる動作に苛立ちを覚え、レイバックは引き戸の扉を勢いよく閉めた。扉の上部にはめ込まれたガラスが揺れて、賑やかな音を立てる。講義室にいる研究員が怯えたように身体を強張らせるが、レイバックにとって他人に向けられる恐怖など慣れたものだ。
「何でしょうだと?白々しい態度をとるなよ。ゼータはどうした」
「僕の研究室にいますよ。風邪気味で寝込んでいるって、朝皆の前で言いましたよね」
話す声は静寂の廊下に大きく響く。ルーメンの采配により講義終了が正午よりも早く、廊下に人気がないことが幸いであった。目立つ金髪と緋髪の男が、声を荒げ言い争っていれば、人目を集めることは避けられまい。
「そんな戯言を俺が信じると思うのか。交渉とやらが上手くいっていないんだろう」
恫喝。レイバックが歩み寄れば、クリスは1歩2歩と後ろに下がる。そのまま逃げ出すのであれば襟首をひっ捕まえてやろうと目論んでいたレイバックであるが、予想に反してクリスはその場を立ち去らなかった。視線が絡まり目には見えない火花を上げる。クリスはしばらくの間レイバックの無言の圧力を受け流していたが、そのうちにこのままでは埒が明かぬと悟ったようだ。諦めにも似た吐息。
「…その通りです。交渉が膠着状態なんですよ。早く解放してあげたいのは山々なんですけれど、ゼータとレイさんの関係を考えればそう簡単にもいかないんですよ」
「…俺とゼータの関係とは?」
やや遠慮がちの質問に、クリスは首を傾げた。
「気心の知れた唯一無二の親友でしょう。レイさんがそう言ったんですよ。興味本位で国家機密を盗み見てしまった王様の親友を、そう簡単に解放できるはずないじゃありませんか」
「口止めや誓約書では足りないということか?ゼータが見たものは魔獣の飼育場だろう」
「足りませんね。詳しくは話せませんけれど、ゼータが見たものは魔獣だけではないんですよ。知り得た情報を、何かのはずみにレイさんに漏らさないという保証はありません。見聞きした情報を綺麗さっぱりなかったことにできるほど、ゼータは器用ではないでしょう」
クリスの口調は滑らかだ。今は身分を隠しているとはいえ、一国の王に敵対することをものともしない。清々しいまでの態度に疎ましさを感じるとともに、レイバックの脳裏に蘇る言葉がある。
―ゼータさんが研究室にいるのを良いことに、熱心に入学を勧めているんじゃないかなって
それはメレンの言葉だ。メレンは学生棟に立ち入るクリスの姿を目撃し、クリスがゼータを魔導大学に入学させるつもりなのかもしれないと想像を働かせた。そんな馬鹿げた話があるだろうか、そう評価したメレンの想像が、レイバックの脳内で途端に鮮やかな色を帯びる。
「お前、ゼータを囲い込むつもりなのか」
「囲い込む?どういうことですか?」
「かなり強引な手口でメレンを魔導大学に入学させたと聞いている。同じようなやり方で、ゼータを魔導大学に移籍させるつもりではないだろうな。俺への情報漏洩を心配するのなら、俺とゼータを引き離すのが最善の手段だろう」
会話を重ねる二人の距離は、今や手を伸ばせば届くほどにまで近づいていた。からからと小さな音を聞き、レイバックは背後に視線を送る。先ほど力任せに閉めた講義室の扉が開いていた。半分開いた扉の内側からは、見知った3人の人物が顔を覗かせている。串団子のように縦に連なる3つの顔は、上からビット、イース、メレンだ。不安げな面持ちで、廊下で対峙するレイバックとクリスを見つめている。
会話の内容が聞こえては不味いと、レイバックはさらに1歩クリスとの距離を詰めた。声量を下げ、しかし威嚇の色は失わないように、言う。
「善意で提案しよう。お前が俺への、延いてはドラキス王国への情報漏洩を不安視しているのなら、俺を交渉の席に招待しろ。事の発端はゼータの迂闊な好奇心だろう。こちら側に過失がある以上、提示された大概の条件は飲むと約束する。ただしお前が条件を提示する相手はゼータではない、俺だ。知り得た事実を他言するな、国家間の大事にするなというのなら応じてやる。ここまでの言質が取れて何か不足があるか?」
「不足は…ないですね。でも…」
クリスの瞳が小刻みに左右に揺れる。返す言葉を探している。しかしそれは説得の言葉を探している、というよりはクリス自身が自らの思考をまとめられずにいるという様子だ。
何ら不足がないはずの提案に、なぜ快く応じることができないのか。レイバックの苛立ちは収まるところを知らず、不意に伸びた左手が無防備なクリスの胸元を掴み上げる。
「俺とゼータを引き合わせないのは、後ろめたいことがあるからか?まさか条件を飲めと脅しを掛けているわけではあるまいな。脚の怪我意外に、掠り傷一つでも負わせればたたではおかんぞ」
レイバックは左手に力を込めてシャツの胸元を締め上げる。レイバックの方が短身であるのだがら、いくら力を込めたところでクリスの足先が宙に浮くことはない。しかし剣を振るために鍛え上げられた二の腕は、一研究員のそれより遥かに強靭であるし、緋色の瞳の中にぎらつく光は獣の獰猛さそのものだ。クリスは呻き、怯えたように首を左右に振る。
「脅すだなんて、そんな物騒なことはしていませんよ。僕はしがない研究員です。王様相手に交渉だなんて荷が重すぎるんですよ。少し考える時間をください」
「ここに至るまでどれだけ待ったと思っている。そうして誤魔化し続けて、帰国の日が来たれば時間切れとばかりに要望を押し通すつもりだろう。凡夫が、姑息な手を使うなよ」
手の内でボタンの引き千切れる感触がある。飴色のボタンがシャツの胸元から外れて落ちて、クリスの足先に転がった。レイバックはシャツを掴む手にさらに力を籠める。このまままごまごと言い訳を続けるようであれば、どのように料理してやろうか。レイバックが空いたもう一方の手を握りしめた、その時であった。
「ちょちょ、ちょっと待って!レイさん、少し落ち着いてください」
悲鳴に近い声色。吐息がかかるほどの位置にあったレイバックとクリスの間に、強引に身体をねじ込ませた者はビットだ。暴漢の形相となったレイバックに恐れ慄きながらも、精一杯に胸を張る。
「ここで暴力沙汰は不味いですってば。他の講義室ではまだ授業の真っ最中ですよ。穏便じゃない話なら、せめて講義室の中でしてください。いや、講義室の中なら暴力を振るって良いわけでは決してありませんけれど…」
ビットが必死で訴える隙に、クリスはするりとレイバックの手から抜け出した。床に落ちた飴色のボタンを拾い上げ、何事もなかったかのようにその場を立ち去ろうとする。
「おいクリス、逃げる気か!?」
「人を卑怯者みたいに言わないでくださいよ。中央食堂にお弁当を頼んでいるんです。正午を超えると混み合うから早めに受け取りに行きたいんですよ」
「弁当だと?」
「そう、お昼ご飯。ゼータと一緒に食べるんです。今日は揚げ物を頼んでいるから、冷めないうちに持って行ってあげたいんですよ」
安全圏へと逃げ出したクリスは飄々と話すが、レイバックは夜叉のごとき形相だ。いきり立つ夜叉を必死で押し止める者は、胴回りにしがみついたビット。「レイさん、お願いですから落ち着いて」顔を真っ赤にしてレイバックの凶行を抑え込んでいる。動くに動けぬレイバックを前に、クリスはにっこりと笑う。
「レイさん。別に僕、ゼータのことを脅してなんていませんよ。だってほら、ゼータは魔法が使えるじゃないですか。その気になればいつだって僕の元から立ち去れるんです。僕が交渉にあたり少しでも強引な手段を使おうものなら、指先一つで弾き飛ばされて終わりでしょう。彼は望んで僕との交渉の席に座っている、そのことを忘れないでください」
じゃあ、また。胸の前で小さく手を振って、クリスはその場を立ち去った。クリスの捨て台詞に、返す言葉は見つからない。レイバックは憤怒に顔を歪めたまま立ち竦んだ。
千数百年に及ぶ人生の中で、過去これほどまでに苛々を募らせる事件があっただろうか。民の税により私腹を肥やす愚鈍な首長の惨めたらしい言い訳を耳にしたときも、四苦八苦を重ね育て上げた薬草畑を魔虫の大群に荒らされたときも、自らの不注意で大切にしてきた愛刀を折ったときも、湧き上がる怒りはあれどそれは自らの意志で制御が可能な程度のものであった。しかし今身の内に湧き上がる怒りは、溶岩のように他の思考を飲み込んで焼き尽くす。過去に類を見ない激憤と焦燥だ。
レイバックの激情にはもちろん相応の理由がある。その理由はといえば、教養棟から姿を消して早4日目となるゼータのことだ。クリスの研究室に行くと告げたきり戻らない愛しい妃。脚の怪我はどの程度のものなのか、傷が化膿し痛みと熱にうなされてはいないだろうか。食事はきちんととっているのだろうか、暖かい布団で寝ているだろうか。
あれこれと考えるうちに、思考は暗がりへと落ちて行く。解放を餌に無理難題を押し付けられてはいないだろうか。もしかしたら国家機密を盗み見た罪を理由に、監禁状態にされているのではないか。手足を縛られ冷たい床に転がされている可能性は。今こうしている間にも、ゼータは必死にレイバックの名を呼んでいるのでは―
ばきっ、と小枝をへし折るような音がした。鋭い痛みを感じ視線を落とせば、左手のひらに砕けたペンの欠片が突き刺さっている。想像を働かせるうちに手のひらに力がこもり、握り占めていたペンの胴軸をへし折ったのだ。真っ二つに折れたペンの破片が、柔らかな皮膚に食い込んでいる。深い傷ではないが数日物を握るには痛みを伴いそうだ。
「レイさん、大丈夫ですか?」
隣に座るビットがレイバックの手のひらを覗き込んだ。丁度レイバックは刺さり込んだペンの破片を引き抜いたところで、爪先ほどの大きさの傷口からは鮮血が溢れ出す。
「結構深いですよ。医務室に行きますか?」
「いや、良い。血はじき止まる」
ひそひそ声の会話を聞き取ったのか、教壇に立つルーメンの視線が2人に向いた。そう、今はルーメン講師による講義の真っ最中。魔導大学滞在10日目となる本日の講義の題材は「魔導具の共同開発によりもたらされる利益と、懸念される問題点」欠席者ゼータと教鞭者ルーメンを除く8人の研究員が、質素な机に資料を開き、滑らかな語りに耳を澄ませていたところだ。
気にしないでくれ。レイバックの無言の訴えを受けたルーメンは、立て板に水の語りを再開する。
レイバックが懐から取り出したハンカチで手のひらを押さえたので、ビットは遠慮がちに講義へと戻った。溢れ出る鮮血をハンカチで押し止めながら、レイバックは講義室を眺め見た。今レイバックが座る席は、講義室の出入り口からは最も遠い窓際の一席だ。隣にはビットがいて、目の前にはイースの背中がある。メレン、デュー、フランシスカ、カシワギと順に背中を追い、レイバックの視線は目的の人物へと辿り着く。出入り口に最も近い席にクリスが座っている。机の上に頬杖をついて、配布資料の一部に熱心にペンを走らせている。
あの野郎、レイバックはハンカチを握りしめる。怒りの矛先は他の誰でもない、事の当事者であるクリスだ。ゼータを研究室に誘い込んだこと、不注意により怪我を負わせたことはこの際咎めまい。しかしその後の対応が悪すぎる。「解放にあたり交渉が必要、多少の条件を飲んでもらう必要がある」そう言いはするが、肝心の条件は頑なに明かさない。交渉の進捗状況も不明のまま。そしてゼータを滞在させている研究室の場所すらレイバックには教えない。
レイバックにとってみれば、大切な妃を奪い取られたも同然の状況なのだ。
「正午には少し早いですが、午前中の講義はここまでに致しましょう」
ルーメンの声に、講義室の中にはいくつかの溜息と机にペンを置く音が響いた。
「午前の内容を踏まえ、午後は皆で討論会を行います。魔導具の共同開発によりもたらされる恩恵と損害、昼食の間に皆想像を働かせてくだされ。では13時にまた、この場所で」
ルーメンが言葉を終えると同時に、レイバックの視界の端でちらりと動く影があった。クリスだ。講義終了の宣告を聞き、さっさと荷物をまとめ講義室を出て行こうとする。待て、と呟きレイバックは勢いよく席を立った。机の上の書類も折れたペンもそのままにして、扉の向こうに消えゆくクリスの背を追う。
昨日もこうであったのだ。午前中の講義終了と同時に姿を消したクリスは、それきり午後の講義には戻らなかった。その行動が何を意味するのか、正確にはわからない。しかしそれまで講義開始の10分前には教養棟に現れていたクリスが、突然講義開始ぎりぎりへと登校時間をずらし、そして講義終了と同時に颯爽と姿を消す。その不可思議な行動はまるで「お前に話すことは何もない」と伝えるようなのだ。クリスは意図的にレイバックとの対話を避けている。その予想が真実ならば、今日こそクリスを逃すわけにはいかなかった。閉じられたばかりの扉を開け放ち、叫ぶ。
「おい、クリス!」
レイバックの怒号に、クリスは廊下の中腹で歩みを止めた。緩慢な動作で振り返るクリスの顔には穏やかな笑みが浮かぶ。
「何でしょう?」
小首を傾げる動作に苛立ちを覚え、レイバックは引き戸の扉を勢いよく閉めた。扉の上部にはめ込まれたガラスが揺れて、賑やかな音を立てる。講義室にいる研究員が怯えたように身体を強張らせるが、レイバックにとって他人に向けられる恐怖など慣れたものだ。
「何でしょうだと?白々しい態度をとるなよ。ゼータはどうした」
「僕の研究室にいますよ。風邪気味で寝込んでいるって、朝皆の前で言いましたよね」
話す声は静寂の廊下に大きく響く。ルーメンの采配により講義終了が正午よりも早く、廊下に人気がないことが幸いであった。目立つ金髪と緋髪の男が、声を荒げ言い争っていれば、人目を集めることは避けられまい。
「そんな戯言を俺が信じると思うのか。交渉とやらが上手くいっていないんだろう」
恫喝。レイバックが歩み寄れば、クリスは1歩2歩と後ろに下がる。そのまま逃げ出すのであれば襟首をひっ捕まえてやろうと目論んでいたレイバックであるが、予想に反してクリスはその場を立ち去らなかった。視線が絡まり目には見えない火花を上げる。クリスはしばらくの間レイバックの無言の圧力を受け流していたが、そのうちにこのままでは埒が明かぬと悟ったようだ。諦めにも似た吐息。
「…その通りです。交渉が膠着状態なんですよ。早く解放してあげたいのは山々なんですけれど、ゼータとレイさんの関係を考えればそう簡単にもいかないんですよ」
「…俺とゼータの関係とは?」
やや遠慮がちの質問に、クリスは首を傾げた。
「気心の知れた唯一無二の親友でしょう。レイさんがそう言ったんですよ。興味本位で国家機密を盗み見てしまった王様の親友を、そう簡単に解放できるはずないじゃありませんか」
「口止めや誓約書では足りないということか?ゼータが見たものは魔獣の飼育場だろう」
「足りませんね。詳しくは話せませんけれど、ゼータが見たものは魔獣だけではないんですよ。知り得た情報を、何かのはずみにレイさんに漏らさないという保証はありません。見聞きした情報を綺麗さっぱりなかったことにできるほど、ゼータは器用ではないでしょう」
クリスの口調は滑らかだ。今は身分を隠しているとはいえ、一国の王に敵対することをものともしない。清々しいまでの態度に疎ましさを感じるとともに、レイバックの脳裏に蘇る言葉がある。
―ゼータさんが研究室にいるのを良いことに、熱心に入学を勧めているんじゃないかなって
それはメレンの言葉だ。メレンは学生棟に立ち入るクリスの姿を目撃し、クリスがゼータを魔導大学に入学させるつもりなのかもしれないと想像を働かせた。そんな馬鹿げた話があるだろうか、そう評価したメレンの想像が、レイバックの脳内で途端に鮮やかな色を帯びる。
「お前、ゼータを囲い込むつもりなのか」
「囲い込む?どういうことですか?」
「かなり強引な手口でメレンを魔導大学に入学させたと聞いている。同じようなやり方で、ゼータを魔導大学に移籍させるつもりではないだろうな。俺への情報漏洩を心配するのなら、俺とゼータを引き離すのが最善の手段だろう」
会話を重ねる二人の距離は、今や手を伸ばせば届くほどにまで近づいていた。からからと小さな音を聞き、レイバックは背後に視線を送る。先ほど力任せに閉めた講義室の扉が開いていた。半分開いた扉の内側からは、見知った3人の人物が顔を覗かせている。串団子のように縦に連なる3つの顔は、上からビット、イース、メレンだ。不安げな面持ちで、廊下で対峙するレイバックとクリスを見つめている。
会話の内容が聞こえては不味いと、レイバックはさらに1歩クリスとの距離を詰めた。声量を下げ、しかし威嚇の色は失わないように、言う。
「善意で提案しよう。お前が俺への、延いてはドラキス王国への情報漏洩を不安視しているのなら、俺を交渉の席に招待しろ。事の発端はゼータの迂闊な好奇心だろう。こちら側に過失がある以上、提示された大概の条件は飲むと約束する。ただしお前が条件を提示する相手はゼータではない、俺だ。知り得た事実を他言するな、国家間の大事にするなというのなら応じてやる。ここまでの言質が取れて何か不足があるか?」
「不足は…ないですね。でも…」
クリスの瞳が小刻みに左右に揺れる。返す言葉を探している。しかしそれは説得の言葉を探している、というよりはクリス自身が自らの思考をまとめられずにいるという様子だ。
何ら不足がないはずの提案に、なぜ快く応じることができないのか。レイバックの苛立ちは収まるところを知らず、不意に伸びた左手が無防備なクリスの胸元を掴み上げる。
「俺とゼータを引き合わせないのは、後ろめたいことがあるからか?まさか条件を飲めと脅しを掛けているわけではあるまいな。脚の怪我意外に、掠り傷一つでも負わせればたたではおかんぞ」
レイバックは左手に力を込めてシャツの胸元を締め上げる。レイバックの方が短身であるのだがら、いくら力を込めたところでクリスの足先が宙に浮くことはない。しかし剣を振るために鍛え上げられた二の腕は、一研究員のそれより遥かに強靭であるし、緋色の瞳の中にぎらつく光は獣の獰猛さそのものだ。クリスは呻き、怯えたように首を左右に振る。
「脅すだなんて、そんな物騒なことはしていませんよ。僕はしがない研究員です。王様相手に交渉だなんて荷が重すぎるんですよ。少し考える時間をください」
「ここに至るまでどれだけ待ったと思っている。そうして誤魔化し続けて、帰国の日が来たれば時間切れとばかりに要望を押し通すつもりだろう。凡夫が、姑息な手を使うなよ」
手の内でボタンの引き千切れる感触がある。飴色のボタンがシャツの胸元から外れて落ちて、クリスの足先に転がった。レイバックはシャツを掴む手にさらに力を籠める。このまままごまごと言い訳を続けるようであれば、どのように料理してやろうか。レイバックが空いたもう一方の手を握りしめた、その時であった。
「ちょちょ、ちょっと待って!レイさん、少し落ち着いてください」
悲鳴に近い声色。吐息がかかるほどの位置にあったレイバックとクリスの間に、強引に身体をねじ込ませた者はビットだ。暴漢の形相となったレイバックに恐れ慄きながらも、精一杯に胸を張る。
「ここで暴力沙汰は不味いですってば。他の講義室ではまだ授業の真っ最中ですよ。穏便じゃない話なら、せめて講義室の中でしてください。いや、講義室の中なら暴力を振るって良いわけでは決してありませんけれど…」
ビットが必死で訴える隙に、クリスはするりとレイバックの手から抜け出した。床に落ちた飴色のボタンを拾い上げ、何事もなかったかのようにその場を立ち去ろうとする。
「おいクリス、逃げる気か!?」
「人を卑怯者みたいに言わないでくださいよ。中央食堂にお弁当を頼んでいるんです。正午を超えると混み合うから早めに受け取りに行きたいんですよ」
「弁当だと?」
「そう、お昼ご飯。ゼータと一緒に食べるんです。今日は揚げ物を頼んでいるから、冷めないうちに持って行ってあげたいんですよ」
安全圏へと逃げ出したクリスは飄々と話すが、レイバックは夜叉のごとき形相だ。いきり立つ夜叉を必死で押し止める者は、胴回りにしがみついたビット。「レイさん、お願いですから落ち着いて」顔を真っ赤にしてレイバックの凶行を抑え込んでいる。動くに動けぬレイバックを前に、クリスはにっこりと笑う。
「レイさん。別に僕、ゼータのことを脅してなんていませんよ。だってほら、ゼータは魔法が使えるじゃないですか。その気になればいつだって僕の元から立ち去れるんです。僕が交渉にあたり少しでも強引な手段を使おうものなら、指先一つで弾き飛ばされて終わりでしょう。彼は望んで僕との交渉の席に座っている、そのことを忘れないでください」
じゃあ、また。胸の前で小さく手を振って、クリスはその場を立ち去った。クリスの捨て台詞に、返す言葉は見つからない。レイバックは憤怒に顔を歪めたまま立ち竦んだ。
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