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無垢と笑えよサイコパス
地下治験場-2
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食事の給仕を続けるうちに、ゼータは地下牢の内部構造を大方理解した。まず地下牢の形状は東西に長く伸びた長方形、丁度地上に建つ第3研究棟と同様の形状だ。地下牢を東西に貫くように通路が通っており、東側に地上へと続く階段が、そして西側には地下研究室へと続く扉がある。つまり階段を下りて地下研究室に入るだけならば、東西に延びる長い廊下をただ真っ直ぐに歩めばよい。さらに東西の廊下と直角に交わるようにして、南北に伸びる3本の細い通路があった。通路の左右には鉄檻が並んでいる。檻は独房のように狭い物から、大人数が入れる広い物まで様々だ。ざっくりと数えただけでも30を超す数の檻が設けられているから、この地下治験場がかなり大掛かりな施設であることが伺える。食事の配膳を行う魔族の檻が地下牢のあちこちに点在していること、そして呼び名である番号が飛び順になっていることからも、かつてこの地下牢にはかなりの数の被験者が滞在していたのだということが推測された。クリスは1月前の治験を「大掛かりな治験」と称したから、恐らく治験の内容によってその都度被験者が派遣される仕組みなのであろう。
5人の魔族への食事の配膳を終え、2匹の魔獣の檻へと向かう途中のことであった。地下牢の一角に古びた鉄の扉を見つけ、ゼータはクリスの背を叩いた。
「クリス、あの扉はなんですか?」
「ん、ああ。あれは避難口」
「避難口?」
クリスは足を止めた。薄暗闇の向こうに佇む鉄扉は、もう長いことまともに使われた形跡がない。扉全体が錆びて黒ずんでいるし、取っ手には埃が積もっている。
「そう。例えば地下研究室にいる間に地上の建物で火事が起こったり、崩れたりするとさ、出られなくなっちゃうじゃない。そういうときに使うんだ。扉の向こうは入り組んだ地下通路になっていて、魔導大学中の地下研究室を繋いでいるんだよ」
「魔導大学にはいくつもの地下研究室があるんですか?」
「数で言えば結構あるんじゃないかな。古くて使っていない物も多いと思うけど」
鉄扉を一瞥して、クリスは歩みを再開した。ゼータもその背に続く。
「地下通路って言うと少しわくわくするじゃない?ここに来た当初に地下通路の地図を渡されたから、冒険がてら歩いてみたんだよ。そうしたら狭いし埃臭いしネズミの死骸はあるし、薄気味悪くってさ。全然心躍らなかったね」
「へぇ…残念ですね」
話すうちに2人の足は地下牢の東側、地上へと続く階段付近に辿り着いた。そこには地下牢に下りたゼータが最初に目撃した、小型竜の形態をした魔獣の檻がある。人の檻とは違い、魔獣の檻の内部にランタンはなく、廊下は暗闇に包まれている。クリスは魔獣の檻の前方に配膳車を止め、手すり部分にぶら下げていた小さなランタンに灯りを灯した。暖かな橙色の灯りは給仕作業を行うためには十分だが、廊下全体を照らすためにはいささか頼りない。
ゼータはランタンの灯りを頼りに檻の内部を覗き込んだ。大きな檻の内部には床一面に寝藁が敷かれ、小型の竜によく似た魔獣が寝そべっている。身体を覆う緑色の鱗に、薄暗闇に光る金色の眼。口蓋に生えそろう数十の牙は、人の手足など紙切れのごとく噛み千切るだろう。角や爪こそ短く切られているが、いざ襲われたとなれば命の危険を感じずにはいれない恐ろしい風貌だ。
ゼータが魔獣観察に勤しむ間に、クリスは地上へ続く階段の側へと歩みを進めていた。地下牢に下りた当時のゼータは気が付かなかったが、階段横に小さな物置空間が設けられているのだ。物置空間にはブラシや箒といった掃除用具の他に、家畜用飼料の大袋がいくつも置かれていた。クリスは袋の口を開け、巨大なボウルでペレット状の飼料を掬い上げる。掬い上げた飼料は床に置かれていたアルミ製の餌箱に次々と流し込まれた。
ゼータはせっせと作業にあたるクリスの背を眺めながら、檻の傍を離れた。物音を立てぬよう最大限の注意を払い、地上へと続く階段を目指す。今ゼータの首輪に繋がる革紐はクリスの手を離れている。作業の邪魔にならぬようにと、手には握らず腰ベルトに挟み込んでいるのだ。強く結わえているわけではないから、ゼータが強く引けば革紐は腰ベルトから外れるだろう。その足で地上へと続く階段を駆け上がり、隠し扉をこじ開け地上へと出れば晴れて自由の身だ。地上の研究室へと出れば武器になる物はいくらでもあるし、窓を破って外へと出ることも可能である。クリスが強引にゼータを地下室に連れ戻そうとすれば、「助けて」と大声を上げることだってできるのだ。
無事地上に出ることができれば、ゼータは「魔導大学移籍を宣言しなければ解放しない」などという理不尽な交渉に応じずに済む。国家機密である地下治験場の存在を知ってしまったことについては、レイバックを交え穏便に交渉に臨めば良いのだ。魔族の罪人を幽閉していることについても、ロシャ王国では罪人に治験を依頼することが当たり前であるとの説明を丁寧に行えばよい。レイバックは他国の国政に不用意に口を出すような男ではないし、「この件を大事にはしない」と王様の言質が取れればクリスにとっても不足はないはずだ。
つまり今この場でクリスの元から逃げ出すことが、万事解決への第一歩である。右太腿に傷を負った状態では、階段を駆け上がる最中にクリスに追い付かれる可能性も捨てきれない。しかし意表をつけば成功の可能性は十分にある。一瞬のうちに様々な思いを巡らせたゼータは、自身の首から伸びる革紐に両手を掛けた。片脚を階段にかけ、革紐を引っ張るべく両手のひらに力を籠める。
しかし物事とは思い通りにはいかないものだ。ゼータが革紐を引くよりいくらか早く、クリスが餌箱に飼料を流し入れる作業を終えたのだ。空いた右手は当然のごとく、腰ベルトに差し込んだ革紐に掛かる。ゼータが革紐の一方を引いたのと、クリスが革紐のもう一方を右手に絡めたのはほぼ同時であった。綱引き状態となった革紐の両側で、クリスとゼータは見つめ合う―
***
革紐綱引きから10分後、ゼータは地上へと続く階段の脇に座り込んでいた。首には変わらず愛玩動物用の黒革の首輪、そして首輪の金具にはなぜか金色の鈴がぶら下げられている。胡桃大の大きさのその鈴は、ゼータが身動ぎをする度にちりん、と涼やかな音色を鳴らした。
「…クリス、これは酷いです。人としての尊厳が根こそぎ失われました」
項垂れるゼータの首輪から伸びた革紐は、物置空間の端に設けられた水道へと延びていた。太く丈夫な水道管に革紐の一方がしっかりと結わえ付けられている。つまり今のゼータは、商店の店先において主の帰りを待つ子犬そのものの姿というわけである。
「僕だって他国のお客様を愛玩動物扱いなんてしたくないけどさ。交渉途中で逃げられる方が困るんだよね」
薄暗闇に響く鈴音を聞きながら、クリスは掃き掃除に精を出していた。2頭の魔獣への配膳作業は滞りなく終わり、廊下には鈴音に混じり生肉や飼料の咀嚼音が響く。クリスは今竜型の魔獣―リュウの檻の前面に散らばった寝藁の屑を箒で掃き集めているところだ。ちなみに少し離れたところにある熊型の魔獣はクマという愛称だ。元々野生の魔獣である彼らに名など無いのだが、体調管理書に記入する際名が無くては不便だからとクリスが付けた名前らしい。リュウとクマの愛称は、地下治験場を訪れる客人の間にも浸透しているのだという。
リュウが鼻先を餌入れに突っ込む様子を眺めながら、ゼータは深々と溜息をつく。
「魔が差したのは認めます。交渉の行く末が見えなくて不安なんですよ。クリスは魔導大学移籍の条件を譲るつもりはないというし、私は条件を飲むつもりはありません。膠着状態じゃないですか」
「その件については明日まで待ってよ。学生窓口に請求した資料が明日の正午には受け取れることになっているんだ。正式な資料があれば交渉も進めやすいでしょ」
「首都リモラの魔族受入条件と、特別推薦に関する書類ですよね?クリスは私の魔導大学移籍を前提として話を勧めようとしていますけど、そもそも私はロシャ王国に移住する気は無いんですよ」
「なんで?」
「だから結婚相手がいるんですってば。ドラキス王国を離れることはできない人物であると言いましたよね?新婚早々別居が認められるはずもありません」
ゼータの声は暗闇に吸い込まれて消える。掃き掃除に精を出すクリスの背は、暗闇に紛れゼータの視界から消えつつあった。淀んだ空気にのって規則的な箒の音と、穏やかなクリスの声が聞こえてくる。
「そんなこと、本人に相談してみないと分からないじゃない」
「分かるんですよ。同行も別居も絶対無理なんです。ねぇクリス、ここから出してくださいよ。地下治験場の存在を他言するなと言うのなら、絶対に誰にも言いませんから。私は別に魔族贔屓ではありませんし、罪人を被験者にすることについて不味いとは思いません。ここで見た物を悪し様に告げ口するようなことはしませんよ」
「そうだねぇ…」
「それでも信用できないというのなら、レイと3人で話しましょう。私が地下治験場の存在をレイに話しますから、クリスは他言無用との言葉を添えてください。王様の言質が取れれば十分でしょう?クリスはマルコーの尋問現場を間近で見ているから、レイが途轍もなく冷酷で恐ろしい人物と感じるかもしれません。でも例の件を大事にしないようにと秘密裏に処理したのも彼なんですよ。しっかり理由を説明すれば、2国の関係が悪化しないよう最善の判断を下してくれますから」
ゼータの言葉の途中で箒の音が止まった。沈黙。いくらか経った後に、暗闇の向こうからは箒と塵取りを携えたクリスが姿を現す。塵取りの中身はほとんどが寝藁の屑だ。クリスは物置空間へと歩み寄り、そこに置かれた屑籠に塵取りの中身を流し込む。役目を終えた箒と塵取りを掃除用具箱へ仕舞い入れ、ゼータの隣に腰を下ろす。
「ゼータの言う案でも不足は無いんだけどね。僕は上からのお咎めを避けられればそれで良いと思っているし」
「なら…」
「でもゼータはそれで良いの?正直、魔導大学移籍も満更では無いと思っているでしょ」
思わぬ宣言にゼータは息を呑む。そんな事はない、との言葉を返すことができない。
「…何でそう思うんですか?」
「だって僕の誘いを断る時に、自分の気持ちを言わないじゃない。ロシャ王国に魔族は住めないはずだ、試験を突破できるはずが無い、新婚のお相手を放っては置けない。何かしら外部に理由を付けて、自分の気持ちを抑え込んでいるように聞こえるよ」
「それは…」
「魔導大学に一片の魅力も感じない、貴方と一緒に研究なんてしたくない。ゼータの口からはっきりとそう言われたのなら、僕だってすぐに諦めるのにさ」
そんな事を言えるはずも無い、とゼータは俯く。魔導大学の敷地面積並びに在籍する研究員数は周辺諸国の中で最大だ。当然行われる研究の質も高く、在籍する研究員が30人程度の魔法研究所など足元にも及ばない。魔族でありながらロシャ王国への滞在が認められ、魔導大学で研究員として働く。それはゼータにとって何と夢のような話であろう。クリスやデューと共に研究員寮に寝起きし、最先端の設備が揃う研究棟で大好きな研究に打ち込むのだ。休みの日には中央図書館に入り浸り、朝から晩まで趣味の読書に没頭する。近接するリモラ駅の書店を訪れるというのも魅力的だ。メレンの元を訪れ魔獣の生態について語り合い、イースと共に農場を散歩し、他の学生に並んでルーメン教授の講義を受講するのだ。ロシャ王国内各集落の有名酒を買い集め、デューとクリスを誘い部屋飲みを開催するのも良い。それはきっと夢のように楽しい日々だ。
ゼータの目の前には夢のような日々へと続く扉が用意されている。その扉を開くことは簡単だ。「魔導大学に移籍して」クリスの言葉にただ素直に頷けば良い。それで全てが叶う。しかしそれは今や許されない行為だ。溢れる想いを受け止め、未来永劫一人の男の傍にいると誓った。幾千の民の前で誓った愛を無下に扱うことなど出来ようか。
「以前、ゼータと同じく頑なに自分の気持ちを言わない人がいたんだ。僕が魔導大学入学を勧めても、入学試験のための勉強時間が確保できない、父の仕事を継がねばならない、だから入学はできない。口ではそう言う癖にさ、僕の渡した入試要項を後生大事に机の引出しにしまい込むんだ。本当に不要ならその場で捨ててしまえば良いのに」
「…その人は、今どうしているんですか」
「研究員として立派に働いているよ。僕が本人に内緒で特別推薦入試の申し込み手続きをしたんだ。所要と偽って呼び出して面接試験会場に放り込んだ。かなり強引な手だったとは思うけど恨み言を言われたことは無いよ。入学の最終判断は本人に任せたしね」
そう、とゼータは呟く。それ以上の言葉を返すことができない。
「これはゼータにとって最初で最後のチャンスだ。今を逃せば魔導大学入学の機会は二度と訪れない。特別推薦入試の申し込みには在籍者3人の推薦状が必要だと言ったでしょ。今ならイースさんもデューもメレンもルーメンさんも、二つ返事で推薦状を書いてくれるよ。ゼータの熱心さと有能さは魔導人形の一件で十分に伝わっているはずだからさ。でもこれが3年後ともなればそう上手くはいかない。人の記憶なんて時と共に褪せるものだから。ゆっくり考えてとも言いにくい状況だけど、後悔しない選択をするんだね」
クリスの声は終始穏やかであるが、有無を言わせぬ強さがあった。悔しくも退路は断たれた。「魔導大学に一片の魅力も感じない、貴方と一緒に研究なんてしたくない」今更声高にそう述べたところで完全なる後手、クリスを説得することは叶わない。ならばどうすれば良い。何を伝えれば両国の関係を良好に保ちつつ、自らの要望を押し通すことができるのだ。
クリスの手のひらが、ゼータの背を軽く叩く。胡桃大の鈴が涼やかに鳴る。
「明日午前中の講義に顔を出して、帰りに学生窓口に寄って来るよ。大体の資料は明日貰えると思う。戻って来たらまた話をしよう。今度は色よい返事をもらえると良いな」
ゼータは答えを返せずにただ俯いて黙り込む。視察員の帰国日まであと5日。脱出の目途は立たない。
5人の魔族への食事の配膳を終え、2匹の魔獣の檻へと向かう途中のことであった。地下牢の一角に古びた鉄の扉を見つけ、ゼータはクリスの背を叩いた。
「クリス、あの扉はなんですか?」
「ん、ああ。あれは避難口」
「避難口?」
クリスは足を止めた。薄暗闇の向こうに佇む鉄扉は、もう長いことまともに使われた形跡がない。扉全体が錆びて黒ずんでいるし、取っ手には埃が積もっている。
「そう。例えば地下研究室にいる間に地上の建物で火事が起こったり、崩れたりするとさ、出られなくなっちゃうじゃない。そういうときに使うんだ。扉の向こうは入り組んだ地下通路になっていて、魔導大学中の地下研究室を繋いでいるんだよ」
「魔導大学にはいくつもの地下研究室があるんですか?」
「数で言えば結構あるんじゃないかな。古くて使っていない物も多いと思うけど」
鉄扉を一瞥して、クリスは歩みを再開した。ゼータもその背に続く。
「地下通路って言うと少しわくわくするじゃない?ここに来た当初に地下通路の地図を渡されたから、冒険がてら歩いてみたんだよ。そうしたら狭いし埃臭いしネズミの死骸はあるし、薄気味悪くってさ。全然心躍らなかったね」
「へぇ…残念ですね」
話すうちに2人の足は地下牢の東側、地上へと続く階段付近に辿り着いた。そこには地下牢に下りたゼータが最初に目撃した、小型竜の形態をした魔獣の檻がある。人の檻とは違い、魔獣の檻の内部にランタンはなく、廊下は暗闇に包まれている。クリスは魔獣の檻の前方に配膳車を止め、手すり部分にぶら下げていた小さなランタンに灯りを灯した。暖かな橙色の灯りは給仕作業を行うためには十分だが、廊下全体を照らすためにはいささか頼りない。
ゼータはランタンの灯りを頼りに檻の内部を覗き込んだ。大きな檻の内部には床一面に寝藁が敷かれ、小型の竜によく似た魔獣が寝そべっている。身体を覆う緑色の鱗に、薄暗闇に光る金色の眼。口蓋に生えそろう数十の牙は、人の手足など紙切れのごとく噛み千切るだろう。角や爪こそ短く切られているが、いざ襲われたとなれば命の危険を感じずにはいれない恐ろしい風貌だ。
ゼータが魔獣観察に勤しむ間に、クリスは地上へ続く階段の側へと歩みを進めていた。地下牢に下りた当時のゼータは気が付かなかったが、階段横に小さな物置空間が設けられているのだ。物置空間にはブラシや箒といった掃除用具の他に、家畜用飼料の大袋がいくつも置かれていた。クリスは袋の口を開け、巨大なボウルでペレット状の飼料を掬い上げる。掬い上げた飼料は床に置かれていたアルミ製の餌箱に次々と流し込まれた。
ゼータはせっせと作業にあたるクリスの背を眺めながら、檻の傍を離れた。物音を立てぬよう最大限の注意を払い、地上へと続く階段を目指す。今ゼータの首輪に繋がる革紐はクリスの手を離れている。作業の邪魔にならぬようにと、手には握らず腰ベルトに挟み込んでいるのだ。強く結わえているわけではないから、ゼータが強く引けば革紐は腰ベルトから外れるだろう。その足で地上へと続く階段を駆け上がり、隠し扉をこじ開け地上へと出れば晴れて自由の身だ。地上の研究室へと出れば武器になる物はいくらでもあるし、窓を破って外へと出ることも可能である。クリスが強引にゼータを地下室に連れ戻そうとすれば、「助けて」と大声を上げることだってできるのだ。
無事地上に出ることができれば、ゼータは「魔導大学移籍を宣言しなければ解放しない」などという理不尽な交渉に応じずに済む。国家機密である地下治験場の存在を知ってしまったことについては、レイバックを交え穏便に交渉に臨めば良いのだ。魔族の罪人を幽閉していることについても、ロシャ王国では罪人に治験を依頼することが当たり前であるとの説明を丁寧に行えばよい。レイバックは他国の国政に不用意に口を出すような男ではないし、「この件を大事にはしない」と王様の言質が取れればクリスにとっても不足はないはずだ。
つまり今この場でクリスの元から逃げ出すことが、万事解決への第一歩である。右太腿に傷を負った状態では、階段を駆け上がる最中にクリスに追い付かれる可能性も捨てきれない。しかし意表をつけば成功の可能性は十分にある。一瞬のうちに様々な思いを巡らせたゼータは、自身の首から伸びる革紐に両手を掛けた。片脚を階段にかけ、革紐を引っ張るべく両手のひらに力を籠める。
しかし物事とは思い通りにはいかないものだ。ゼータが革紐を引くよりいくらか早く、クリスが餌箱に飼料を流し入れる作業を終えたのだ。空いた右手は当然のごとく、腰ベルトに差し込んだ革紐に掛かる。ゼータが革紐の一方を引いたのと、クリスが革紐のもう一方を右手に絡めたのはほぼ同時であった。綱引き状態となった革紐の両側で、クリスとゼータは見つめ合う―
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革紐綱引きから10分後、ゼータは地上へと続く階段の脇に座り込んでいた。首には変わらず愛玩動物用の黒革の首輪、そして首輪の金具にはなぜか金色の鈴がぶら下げられている。胡桃大の大きさのその鈴は、ゼータが身動ぎをする度にちりん、と涼やかな音色を鳴らした。
「…クリス、これは酷いです。人としての尊厳が根こそぎ失われました」
項垂れるゼータの首輪から伸びた革紐は、物置空間の端に設けられた水道へと延びていた。太く丈夫な水道管に革紐の一方がしっかりと結わえ付けられている。つまり今のゼータは、商店の店先において主の帰りを待つ子犬そのものの姿というわけである。
「僕だって他国のお客様を愛玩動物扱いなんてしたくないけどさ。交渉途中で逃げられる方が困るんだよね」
薄暗闇に響く鈴音を聞きながら、クリスは掃き掃除に精を出していた。2頭の魔獣への配膳作業は滞りなく終わり、廊下には鈴音に混じり生肉や飼料の咀嚼音が響く。クリスは今竜型の魔獣―リュウの檻の前面に散らばった寝藁の屑を箒で掃き集めているところだ。ちなみに少し離れたところにある熊型の魔獣はクマという愛称だ。元々野生の魔獣である彼らに名など無いのだが、体調管理書に記入する際名が無くては不便だからとクリスが付けた名前らしい。リュウとクマの愛称は、地下治験場を訪れる客人の間にも浸透しているのだという。
リュウが鼻先を餌入れに突っ込む様子を眺めながら、ゼータは深々と溜息をつく。
「魔が差したのは認めます。交渉の行く末が見えなくて不安なんですよ。クリスは魔導大学移籍の条件を譲るつもりはないというし、私は条件を飲むつもりはありません。膠着状態じゃないですか」
「その件については明日まで待ってよ。学生窓口に請求した資料が明日の正午には受け取れることになっているんだ。正式な資料があれば交渉も進めやすいでしょ」
「首都リモラの魔族受入条件と、特別推薦に関する書類ですよね?クリスは私の魔導大学移籍を前提として話を勧めようとしていますけど、そもそも私はロシャ王国に移住する気は無いんですよ」
「なんで?」
「だから結婚相手がいるんですってば。ドラキス王国を離れることはできない人物であると言いましたよね?新婚早々別居が認められるはずもありません」
ゼータの声は暗闇に吸い込まれて消える。掃き掃除に精を出すクリスの背は、暗闇に紛れゼータの視界から消えつつあった。淀んだ空気にのって規則的な箒の音と、穏やかなクリスの声が聞こえてくる。
「そんなこと、本人に相談してみないと分からないじゃない」
「分かるんですよ。同行も別居も絶対無理なんです。ねぇクリス、ここから出してくださいよ。地下治験場の存在を他言するなと言うのなら、絶対に誰にも言いませんから。私は別に魔族贔屓ではありませんし、罪人を被験者にすることについて不味いとは思いません。ここで見た物を悪し様に告げ口するようなことはしませんよ」
「そうだねぇ…」
「それでも信用できないというのなら、レイと3人で話しましょう。私が地下治験場の存在をレイに話しますから、クリスは他言無用との言葉を添えてください。王様の言質が取れれば十分でしょう?クリスはマルコーの尋問現場を間近で見ているから、レイが途轍もなく冷酷で恐ろしい人物と感じるかもしれません。でも例の件を大事にしないようにと秘密裏に処理したのも彼なんですよ。しっかり理由を説明すれば、2国の関係が悪化しないよう最善の判断を下してくれますから」
ゼータの言葉の途中で箒の音が止まった。沈黙。いくらか経った後に、暗闇の向こうからは箒と塵取りを携えたクリスが姿を現す。塵取りの中身はほとんどが寝藁の屑だ。クリスは物置空間へと歩み寄り、そこに置かれた屑籠に塵取りの中身を流し込む。役目を終えた箒と塵取りを掃除用具箱へ仕舞い入れ、ゼータの隣に腰を下ろす。
「ゼータの言う案でも不足は無いんだけどね。僕は上からのお咎めを避けられればそれで良いと思っているし」
「なら…」
「でもゼータはそれで良いの?正直、魔導大学移籍も満更では無いと思っているでしょ」
思わぬ宣言にゼータは息を呑む。そんな事はない、との言葉を返すことができない。
「…何でそう思うんですか?」
「だって僕の誘いを断る時に、自分の気持ちを言わないじゃない。ロシャ王国に魔族は住めないはずだ、試験を突破できるはずが無い、新婚のお相手を放っては置けない。何かしら外部に理由を付けて、自分の気持ちを抑え込んでいるように聞こえるよ」
「それは…」
「魔導大学に一片の魅力も感じない、貴方と一緒に研究なんてしたくない。ゼータの口からはっきりとそう言われたのなら、僕だってすぐに諦めるのにさ」
そんな事を言えるはずも無い、とゼータは俯く。魔導大学の敷地面積並びに在籍する研究員数は周辺諸国の中で最大だ。当然行われる研究の質も高く、在籍する研究員が30人程度の魔法研究所など足元にも及ばない。魔族でありながらロシャ王国への滞在が認められ、魔導大学で研究員として働く。それはゼータにとって何と夢のような話であろう。クリスやデューと共に研究員寮に寝起きし、最先端の設備が揃う研究棟で大好きな研究に打ち込むのだ。休みの日には中央図書館に入り浸り、朝から晩まで趣味の読書に没頭する。近接するリモラ駅の書店を訪れるというのも魅力的だ。メレンの元を訪れ魔獣の生態について語り合い、イースと共に農場を散歩し、他の学生に並んでルーメン教授の講義を受講するのだ。ロシャ王国内各集落の有名酒を買い集め、デューとクリスを誘い部屋飲みを開催するのも良い。それはきっと夢のように楽しい日々だ。
ゼータの目の前には夢のような日々へと続く扉が用意されている。その扉を開くことは簡単だ。「魔導大学に移籍して」クリスの言葉にただ素直に頷けば良い。それで全てが叶う。しかしそれは今や許されない行為だ。溢れる想いを受け止め、未来永劫一人の男の傍にいると誓った。幾千の民の前で誓った愛を無下に扱うことなど出来ようか。
「以前、ゼータと同じく頑なに自分の気持ちを言わない人がいたんだ。僕が魔導大学入学を勧めても、入学試験のための勉強時間が確保できない、父の仕事を継がねばならない、だから入学はできない。口ではそう言う癖にさ、僕の渡した入試要項を後生大事に机の引出しにしまい込むんだ。本当に不要ならその場で捨ててしまえば良いのに」
「…その人は、今どうしているんですか」
「研究員として立派に働いているよ。僕が本人に内緒で特別推薦入試の申し込み手続きをしたんだ。所要と偽って呼び出して面接試験会場に放り込んだ。かなり強引な手だったとは思うけど恨み言を言われたことは無いよ。入学の最終判断は本人に任せたしね」
そう、とゼータは呟く。それ以上の言葉を返すことができない。
「これはゼータにとって最初で最後のチャンスだ。今を逃せば魔導大学入学の機会は二度と訪れない。特別推薦入試の申し込みには在籍者3人の推薦状が必要だと言ったでしょ。今ならイースさんもデューもメレンもルーメンさんも、二つ返事で推薦状を書いてくれるよ。ゼータの熱心さと有能さは魔導人形の一件で十分に伝わっているはずだからさ。でもこれが3年後ともなればそう上手くはいかない。人の記憶なんて時と共に褪せるものだから。ゆっくり考えてとも言いにくい状況だけど、後悔しない選択をするんだね」
クリスの声は終始穏やかであるが、有無を言わせぬ強さがあった。悔しくも退路は断たれた。「魔導大学に一片の魅力も感じない、貴方と一緒に研究なんてしたくない」今更声高にそう述べたところで完全なる後手、クリスを説得することは叶わない。ならばどうすれば良い。何を伝えれば両国の関係を良好に保ちつつ、自らの要望を押し通すことができるのだ。
クリスの手のひらが、ゼータの背を軽く叩く。胡桃大の鈴が涼やかに鳴る。
「明日午前中の講義に顔を出して、帰りに学生窓口に寄って来るよ。大体の資料は明日貰えると思う。戻って来たらまた話をしよう。今度は色よい返事をもらえると良いな」
ゼータは答えを返せずにただ俯いて黙り込む。視察員の帰国日まであと5日。脱出の目途は立たない。
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