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無垢と笑えよサイコパス
地下牢
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うっかり見つけてしまった隠し扉を目の前に、ゼータは思いを巡らせていた。
扉の隙間から吹き込む風は冷たく、扉の向こうに地下へと続く階段があることは容易に想像ができた。ゼータは扉の横の壁を拳で叩く。反響音。やはり扉の向こうにはかなりの広さの空間が広がっている。
ゼータは金属の取手に手のひらを掛けた。錆びてざらりとした触感の取手を引けば、意外にも簡単に扉は開く。鍵が掛かっていないのだ。薄く開いた扉の隙間から首を差し入れれば、想像通りそこには地下へと続く階段があった。窓のない空間は暗闇で、冷たい空気と黴臭さが充満している。指先に魔法の火を灯し、暗闇を照らす。しかし小さな灯火では階段の最下を臨むことはできない。
ゼータの脳裏には2つの可能性が浮かぶ。
一つは、クリスがこの隠し階段の存在を知らないという可能性だ。第3研究棟自体がかなり古い建物であり、クリスの言動から「過去にこの建物を使用していた研究員がいた」という事実も伺える。今は立ち退いてしまった研究員が実験場として使った地下室が、埋め立てられることなく残されているという可能性は十分にある。研究所に地下室は付き物だ。現存する魔法研究所に地下室はないが、老朽化により建て替えられる前の研究棟には確かに地下室が存在していたのだ。その地下室はゼータも使用した経験がある。
もう一つはクリスが地下室の使用者であるという可能性だ。極秘研究を行っているとクリスは言った。研究内容の全てを隠すのなら、地下室に器材を押し込め扉を閉ざしてしまうのが最も確実で手っ取り早い。クリスが極秘実験のために研究室を移されたという経緯を鑑みれば、その可能性は非常に高いように思われた。そうだとすればゼータが扉を見つけてしまったことはかなり不味い。魔導大学はロシャ王国の中枢機関であり、行われる研究は国家レベルの機密事項だ。他国の研究員であるゼータが極秘研究の内容を見聞きして良いはずがない。
ゼータは棚に置かれた時計を見やる。クリスが戻るといった正午までは、まだ30分以上の時間がある。階段を下りるだけ。先にある地下室が廃部屋であるか既存の実験場であるかを確認し、すぐに階段を上ってくれば良い。湧き上がる好奇心に負けたゼータは、扉の向こう側へと足を踏み入れた。
***
指先の魔法火で足元を照らしながら、ゼータは石造りの階段を下りる。階段はかなり深い所まで続いている。階段室に立ち入ったときに、ゼータは念のため扉の隙間に分厚い本を挟んできた。内側からは開けられない構造の扉だった場合、地上に戻ることができなくなってしまうためだ。
15段ほど階段を下ったところで小さな踊り場があり、闇はさらに深く続いてゆく。ゼータは冷たい石壁に手を這わしながら、ゆっくりと階段を下っていく。黴臭い風が絶え間なく顔に吹き付ける。
やがて長かった階段は最後の一段に辿り着いた。手を添えていた石壁は途切れ、先には巨大な空間が広がっている。暗闇の中にはぼうっと光るいくつかの灯りがある。やはりここは既存の実験場なのだ。ゼータは暗闇に目を凝らしながら、石段の最後の一段を降りる。刹那。
踏み出した右足に細い糸が当たった。その感触をゼータは知っている。魔獣除けの罠紐だ。集落を囲うようにして紐を張り巡らして、魔獣が紐に掛かれば派手な音が鳴るのだ。威嚇用の武器を飛ばすこともある。ゼータは過去、ユニコーンの面影を追ううちに知らぬ集落へと迷い込み、罠紐を踏んで派手な音を打ち鳴らした経験がある。駆け付けた集落の者に事情を説明しお咎めはなかったが、音だけではなく武器が飛んでくる仕掛けであれば怪我は免れなかった。武器に毒が塗られていれば、下手をすれば命を落としていた可能性だってあるのだ。
なぜこんなところに罠紐が?
それを踏めば何が起こる?
ゼータがその答えに辿り着くよりも早く、石壁の隙間から発射された鋭利な武器がゼータの右太腿を貫いた。
「痛ぁ…」
突然訪れた痛みに、ゼータはよろめいて床に倒れ込んだ。恐る恐る痛みの場所に指先を触れれば、右太腿に長さ15㎝ほどの鉄杭が刺さりこんでいる。引き抜こうと鉄杭の背に手を掛ければ、肉をえぐるような激痛が襲った。ゼータはばらばらと床に散らばった鉄杭の1本を拾い上げた。魔法火を灯し鉄杭を照らせば、先端には鋭利な返し針が付いている。一度刺さり込めば、簡単には引き抜くことができない構造になっているのだ。ゼータが拾い上げた物の他に、床には4本の鉄杭が散らばっている。罠紐を踏めば、合計で6本の鉄杭が発射される仕掛けになっていたのだ。刺さり込んだ物がたった1本で済んで幸運だったのかもしれない。
ゼータは痛みに耐え立ち上がる。右脚に力を込めれば傷口に鋭い痛みが走るが、歩けないほどではない。先に進むべきか地上に戻るべきか。悩むゼータの鼻腔に、慣れた臭いが流れ込む。キメラ棟の飼育室の臭いだ。指先の魔法火をいくらか大きくすれば、暗闇の一部が煌々と照らされた。
「魔獣」
呟きは大きく響いた。今ゼータの目の前には、真っすぐな通路が伸びている。そして通路の左右には錆びた鉄格子がずらりと並んでいるのだ。檻がある。人の背丈を遥かに超える巨大な檻の中に、恐ろしい風貌の魔獣が入れられている。魔法火に反応した魔獣が低い唸り声をあげるが、声は地下室の暗闇に反響しやがて消える。
寝藁の上で身体を丸めたその魔獣は、小型の竜の形態をした魔獣であった。ロシャ王国に向かう道中で使用した、魔獣車を引く魔獣によく似ている。角や爪は短く切られ、全身を覆う鱗は薄汚れている。瞬く金色の眼に生気は薄く、突然の来訪者を威嚇しながらも魔獣が身を起こすことはない。日の光の当たらない不適切な飼育環境、強靭な肉体を持つ魔獣といえどもかなり弱っているのだ。
ゼータは右脚を引きずりながら歩を進めた。小型の竜の他にも、何体かの魔獣が檻に入れられている。いずれも魔獣学部の放牧地で見た魔獣よりも遥かに大型で、大概の者は恐怖に立ち竦む恐ろしい容姿だ。
ぐるぐると唸る魔獣を見下ろしながら、ゼータは気が抜けたように息を吐いた。この地下室は大型の魔獣の飼育場だ。人間は魔獣を慣らすことはできない。例え鎖に繋がれていたとしても、強固な檻に閉じ込められていたとしても、身丈を超える巨大な魔獣など恐怖の対象でしかないだろう。だからこうして魔獣を地下に閉じ込め、入り口を隠し扉にして人目に付かないようにしているのだ。地下であれば魔獣の鳴き声は外に漏れないし、万が一檻が破られたとしても、被害は最小限に止めることができる。ゼータが受けた鉄杭の罠は、魔獣の脱走に備えた最後の砦だ。脚に傷を負えば、凶暴な魔獣とて長い階段を上ることは困難になる。
地上に戻ろう。ゼータは魔獣の檻に背を向けた。鉄杭の仕掛けを作動させてしまったから、地下室に立ち入った事実をクリスに隠すことはできない。忠告を無視して研究室を家探しした愚行を、真摯に謝罪しなければならないだろう。しかしクリスは、ゼータの行いをそう激しくは諫めまい。「勝手に地下室に入ったの?勘弁してよ、もう」と苦言を呈すことはあれどだ。なぜなら魔獣の飼育などドラキス王国では特段珍しいことではない。自身で捕らえた魔獣を騎乗用として保有している者など多くいるし、現にポトス城の敷地内にも魔獣用の厩舎が存在する。ゼータが見た魔獣の檻は、ドラキス王国では至って普通の光景なのだ。
地下室での飼育が魔獣にとって理想的ではないことは確かだが、人間が魔獣を恐れるという点を考慮すれば致し方ない事態だ。餌箱には真新しい餌が入っていて水桶の水も澄んでいる。限られた環境の中で、クリスは懸命に魔獣の飼育に当たっているのだ。ゼータはロシャ王国にとって不利となる光景を目撃したわけではない。ならばクリスが、ゼータの行いを必要以上に責める理由もない。
―はずだ
不意に地下室の奥の方から声が聞こえた。ゼータは足を止める。魔獣の唸り声や鳴き声ではない。人の声のようだ。ひょっとしてクリスの他にも、地下室には研究員が滞在しているのだろうか。地上へ戻るか暗闇へと歩を進めるか。悩んだ末にゼータは先に進むことを選ぶ。
***
通路の先にはやはり檻があった。錆びた鉄格子が天井まで伸び、鉄格子の片隅に設けられた格子戸は頑丈な錠前により閉ざされている。檻の広さは魔獣の檻と大差はないが、内装は見るからに異なっていた。まず目につく物は古びた机と椅子だ。塗装が剥がれ廃物のようになった机と椅子を、ランタン灯りが照らしている。次に目につく物は、檻の奥側に置かれた衝立だ。橙色の灯りに照らされる衝立の奥は、簡易の便所。薄汚れた便器が、衝立の陰に見え隠れする。
そして机と対になる壁際には、これまた古びたパイプベッドが置かれていた。ベッドの上には、薄い毛布に包まれた何かがのっている。何だ。物ではない。物は嗚咽を零さない。ならばあれは人か?なぜクリスの研究室の地下牢に人がいる。
鼓動が逸る。すすり泣く毛布の塊から目を逸らし、ゼータは後退った。鉄格子が背に当たる。振り向けばそこもまた檻だ。ランタンに照らされる檻の中にはやはり必要最低限の生活家具が揃えられており、パイプベッドの上には男が座り込んでいる。魔族の男だ。表皮の一部に鱗を持つ竜族の男。鱗の生えた首筋には見慣れぬ銀の首輪が輝いている。そして男の左脚は――膝から下がない。まるで大きな鉄斧で脚を切断したかのように、綺麗さっぱりと。
魔族を幽閉している。脚を切り落とし、逃げられないようにして。
―万が一研究内容を知られたら、ゼータ研究員はその時を持って失踪扱いだ
クリスの声がゼータの脳裏に響いた。駄目だ、戻らなければ。見てはいけなかった。ゼータは焦り、来た道を引き返すべく鉄格子に指先を掛ける。鉄杭に打たれた脚の傷がずきずきと痛む。
ここが何をするための場所なのかは想像もつかない。しかしクリスが魔獣だけに留まらず、魔族までをも幽閉しているということは確かな事実だ。逃げられないように片脚を切り、粗末な服を着せて、日の光の届かぬ地下室に幽閉している。ロシャ王国に隣接する魔族国家はドラキス王国だけだから、幽閉されている魔族は元はドラキス王国の民である可能性が高い。ドラキス王国の民を幽閉しているという事実を、ドラキス王国の民であるゼータが知る。魔族を幽閉しているという事実を、魔族であるゼータが知る。忠実なロシャ王国の研究員であるクリスが、最悪と言っていいほどの情報漏洩を許すはずがない。
見なかったことにしよう。好奇心に負けて地下室には下りたけれど、魔獣の檻だけを見て地上へと引き返した。クリスにはそう説明すれば良い。何食わぬ顔で謝罪をし、傷の手当てを求め、魔導人形の制作を続けよう。そうすればきっと最悪の事態には至らずに済む。
地上へと戻るため、一歩を踏み出したゼータの視界がぐにゃりと歪んだ。視界が揺れてまともな歩行が叶わない。指先は鉄格子を離れ、力をなくした身体は冷たい石床へと落ちる。毒だ、とゼータは思う。打ち込まれた鉄杭の先に、遅効性の毒が塗られていたのだ。前に進もうにも、その時にはもう指先一つまともに動かせない。
ぎぎぎ、と重たい音が聞こえた。地上の隠し扉が開く音だ。続いてかつ、かつと石段を下りてくる足音。橙色のランタン灯りが、霞み始めた視界を照らす。足音はゼータのすぐそばで止まる。
「どうしてこうなっちゃうかなぁ。僕、本棚は背表紙を眺めるだけにしてって言ったでしょ」
扉の隙間から吹き込む風は冷たく、扉の向こうに地下へと続く階段があることは容易に想像ができた。ゼータは扉の横の壁を拳で叩く。反響音。やはり扉の向こうにはかなりの広さの空間が広がっている。
ゼータは金属の取手に手のひらを掛けた。錆びてざらりとした触感の取手を引けば、意外にも簡単に扉は開く。鍵が掛かっていないのだ。薄く開いた扉の隙間から首を差し入れれば、想像通りそこには地下へと続く階段があった。窓のない空間は暗闇で、冷たい空気と黴臭さが充満している。指先に魔法の火を灯し、暗闇を照らす。しかし小さな灯火では階段の最下を臨むことはできない。
ゼータの脳裏には2つの可能性が浮かぶ。
一つは、クリスがこの隠し階段の存在を知らないという可能性だ。第3研究棟自体がかなり古い建物であり、クリスの言動から「過去にこの建物を使用していた研究員がいた」という事実も伺える。今は立ち退いてしまった研究員が実験場として使った地下室が、埋め立てられることなく残されているという可能性は十分にある。研究所に地下室は付き物だ。現存する魔法研究所に地下室はないが、老朽化により建て替えられる前の研究棟には確かに地下室が存在していたのだ。その地下室はゼータも使用した経験がある。
もう一つはクリスが地下室の使用者であるという可能性だ。極秘研究を行っているとクリスは言った。研究内容の全てを隠すのなら、地下室に器材を押し込め扉を閉ざしてしまうのが最も確実で手っ取り早い。クリスが極秘実験のために研究室を移されたという経緯を鑑みれば、その可能性は非常に高いように思われた。そうだとすればゼータが扉を見つけてしまったことはかなり不味い。魔導大学はロシャ王国の中枢機関であり、行われる研究は国家レベルの機密事項だ。他国の研究員であるゼータが極秘研究の内容を見聞きして良いはずがない。
ゼータは棚に置かれた時計を見やる。クリスが戻るといった正午までは、まだ30分以上の時間がある。階段を下りるだけ。先にある地下室が廃部屋であるか既存の実験場であるかを確認し、すぐに階段を上ってくれば良い。湧き上がる好奇心に負けたゼータは、扉の向こう側へと足を踏み入れた。
***
指先の魔法火で足元を照らしながら、ゼータは石造りの階段を下りる。階段はかなり深い所まで続いている。階段室に立ち入ったときに、ゼータは念のため扉の隙間に分厚い本を挟んできた。内側からは開けられない構造の扉だった場合、地上に戻ることができなくなってしまうためだ。
15段ほど階段を下ったところで小さな踊り場があり、闇はさらに深く続いてゆく。ゼータは冷たい石壁に手を這わしながら、ゆっくりと階段を下っていく。黴臭い風が絶え間なく顔に吹き付ける。
やがて長かった階段は最後の一段に辿り着いた。手を添えていた石壁は途切れ、先には巨大な空間が広がっている。暗闇の中にはぼうっと光るいくつかの灯りがある。やはりここは既存の実験場なのだ。ゼータは暗闇に目を凝らしながら、石段の最後の一段を降りる。刹那。
踏み出した右足に細い糸が当たった。その感触をゼータは知っている。魔獣除けの罠紐だ。集落を囲うようにして紐を張り巡らして、魔獣が紐に掛かれば派手な音が鳴るのだ。威嚇用の武器を飛ばすこともある。ゼータは過去、ユニコーンの面影を追ううちに知らぬ集落へと迷い込み、罠紐を踏んで派手な音を打ち鳴らした経験がある。駆け付けた集落の者に事情を説明しお咎めはなかったが、音だけではなく武器が飛んでくる仕掛けであれば怪我は免れなかった。武器に毒が塗られていれば、下手をすれば命を落としていた可能性だってあるのだ。
なぜこんなところに罠紐が?
それを踏めば何が起こる?
ゼータがその答えに辿り着くよりも早く、石壁の隙間から発射された鋭利な武器がゼータの右太腿を貫いた。
「痛ぁ…」
突然訪れた痛みに、ゼータはよろめいて床に倒れ込んだ。恐る恐る痛みの場所に指先を触れれば、右太腿に長さ15㎝ほどの鉄杭が刺さりこんでいる。引き抜こうと鉄杭の背に手を掛ければ、肉をえぐるような激痛が襲った。ゼータはばらばらと床に散らばった鉄杭の1本を拾い上げた。魔法火を灯し鉄杭を照らせば、先端には鋭利な返し針が付いている。一度刺さり込めば、簡単には引き抜くことができない構造になっているのだ。ゼータが拾い上げた物の他に、床には4本の鉄杭が散らばっている。罠紐を踏めば、合計で6本の鉄杭が発射される仕掛けになっていたのだ。刺さり込んだ物がたった1本で済んで幸運だったのかもしれない。
ゼータは痛みに耐え立ち上がる。右脚に力を込めれば傷口に鋭い痛みが走るが、歩けないほどではない。先に進むべきか地上に戻るべきか。悩むゼータの鼻腔に、慣れた臭いが流れ込む。キメラ棟の飼育室の臭いだ。指先の魔法火をいくらか大きくすれば、暗闇の一部が煌々と照らされた。
「魔獣」
呟きは大きく響いた。今ゼータの目の前には、真っすぐな通路が伸びている。そして通路の左右には錆びた鉄格子がずらりと並んでいるのだ。檻がある。人の背丈を遥かに超える巨大な檻の中に、恐ろしい風貌の魔獣が入れられている。魔法火に反応した魔獣が低い唸り声をあげるが、声は地下室の暗闇に反響しやがて消える。
寝藁の上で身体を丸めたその魔獣は、小型の竜の形態をした魔獣であった。ロシャ王国に向かう道中で使用した、魔獣車を引く魔獣によく似ている。角や爪は短く切られ、全身を覆う鱗は薄汚れている。瞬く金色の眼に生気は薄く、突然の来訪者を威嚇しながらも魔獣が身を起こすことはない。日の光の当たらない不適切な飼育環境、強靭な肉体を持つ魔獣といえどもかなり弱っているのだ。
ゼータは右脚を引きずりながら歩を進めた。小型の竜の他にも、何体かの魔獣が檻に入れられている。いずれも魔獣学部の放牧地で見た魔獣よりも遥かに大型で、大概の者は恐怖に立ち竦む恐ろしい容姿だ。
ぐるぐると唸る魔獣を見下ろしながら、ゼータは気が抜けたように息を吐いた。この地下室は大型の魔獣の飼育場だ。人間は魔獣を慣らすことはできない。例え鎖に繋がれていたとしても、強固な檻に閉じ込められていたとしても、身丈を超える巨大な魔獣など恐怖の対象でしかないだろう。だからこうして魔獣を地下に閉じ込め、入り口を隠し扉にして人目に付かないようにしているのだ。地下であれば魔獣の鳴き声は外に漏れないし、万が一檻が破られたとしても、被害は最小限に止めることができる。ゼータが受けた鉄杭の罠は、魔獣の脱走に備えた最後の砦だ。脚に傷を負えば、凶暴な魔獣とて長い階段を上ることは困難になる。
地上に戻ろう。ゼータは魔獣の檻に背を向けた。鉄杭の仕掛けを作動させてしまったから、地下室に立ち入った事実をクリスに隠すことはできない。忠告を無視して研究室を家探しした愚行を、真摯に謝罪しなければならないだろう。しかしクリスは、ゼータの行いをそう激しくは諫めまい。「勝手に地下室に入ったの?勘弁してよ、もう」と苦言を呈すことはあれどだ。なぜなら魔獣の飼育などドラキス王国では特段珍しいことではない。自身で捕らえた魔獣を騎乗用として保有している者など多くいるし、現にポトス城の敷地内にも魔獣用の厩舎が存在する。ゼータが見た魔獣の檻は、ドラキス王国では至って普通の光景なのだ。
地下室での飼育が魔獣にとって理想的ではないことは確かだが、人間が魔獣を恐れるという点を考慮すれば致し方ない事態だ。餌箱には真新しい餌が入っていて水桶の水も澄んでいる。限られた環境の中で、クリスは懸命に魔獣の飼育に当たっているのだ。ゼータはロシャ王国にとって不利となる光景を目撃したわけではない。ならばクリスが、ゼータの行いを必要以上に責める理由もない。
―はずだ
不意に地下室の奥の方から声が聞こえた。ゼータは足を止める。魔獣の唸り声や鳴き声ではない。人の声のようだ。ひょっとしてクリスの他にも、地下室には研究員が滞在しているのだろうか。地上へ戻るか暗闇へと歩を進めるか。悩んだ末にゼータは先に進むことを選ぶ。
***
通路の先にはやはり檻があった。錆びた鉄格子が天井まで伸び、鉄格子の片隅に設けられた格子戸は頑丈な錠前により閉ざされている。檻の広さは魔獣の檻と大差はないが、内装は見るからに異なっていた。まず目につく物は古びた机と椅子だ。塗装が剥がれ廃物のようになった机と椅子を、ランタン灯りが照らしている。次に目につく物は、檻の奥側に置かれた衝立だ。橙色の灯りに照らされる衝立の奥は、簡易の便所。薄汚れた便器が、衝立の陰に見え隠れする。
そして机と対になる壁際には、これまた古びたパイプベッドが置かれていた。ベッドの上には、薄い毛布に包まれた何かがのっている。何だ。物ではない。物は嗚咽を零さない。ならばあれは人か?なぜクリスの研究室の地下牢に人がいる。
鼓動が逸る。すすり泣く毛布の塊から目を逸らし、ゼータは後退った。鉄格子が背に当たる。振り向けばそこもまた檻だ。ランタンに照らされる檻の中にはやはり必要最低限の生活家具が揃えられており、パイプベッドの上には男が座り込んでいる。魔族の男だ。表皮の一部に鱗を持つ竜族の男。鱗の生えた首筋には見慣れぬ銀の首輪が輝いている。そして男の左脚は――膝から下がない。まるで大きな鉄斧で脚を切断したかのように、綺麗さっぱりと。
魔族を幽閉している。脚を切り落とし、逃げられないようにして。
―万が一研究内容を知られたら、ゼータ研究員はその時を持って失踪扱いだ
クリスの声がゼータの脳裏に響いた。駄目だ、戻らなければ。見てはいけなかった。ゼータは焦り、来た道を引き返すべく鉄格子に指先を掛ける。鉄杭に打たれた脚の傷がずきずきと痛む。
ここが何をするための場所なのかは想像もつかない。しかしクリスが魔獣だけに留まらず、魔族までをも幽閉しているということは確かな事実だ。逃げられないように片脚を切り、粗末な服を着せて、日の光の届かぬ地下室に幽閉している。ロシャ王国に隣接する魔族国家はドラキス王国だけだから、幽閉されている魔族は元はドラキス王国の民である可能性が高い。ドラキス王国の民を幽閉しているという事実を、ドラキス王国の民であるゼータが知る。魔族を幽閉しているという事実を、魔族であるゼータが知る。忠実なロシャ王国の研究員であるクリスが、最悪と言っていいほどの情報漏洩を許すはずがない。
見なかったことにしよう。好奇心に負けて地下室には下りたけれど、魔獣の檻だけを見て地上へと引き返した。クリスにはそう説明すれば良い。何食わぬ顔で謝罪をし、傷の手当てを求め、魔導人形の制作を続けよう。そうすればきっと最悪の事態には至らずに済む。
地上へと戻るため、一歩を踏み出したゼータの視界がぐにゃりと歪んだ。視界が揺れてまともな歩行が叶わない。指先は鉄格子を離れ、力をなくした身体は冷たい石床へと落ちる。毒だ、とゼータは思う。打ち込まれた鉄杭の先に、遅効性の毒が塗られていたのだ。前に進もうにも、その時にはもう指先一つまともに動かせない。
ぎぎぎ、と重たい音が聞こえた。地上の隠し扉が開く音だ。続いてかつ、かつと石段を下りてくる足音。橙色のランタン灯りが、霞み始めた視界を照らす。足音はゼータのすぐそばで止まる。
「どうしてこうなっちゃうかなぁ。僕、本棚は背表紙を眺めるだけにしてって言ったでしょ」
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