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無垢と笑えよサイコパス
クリスの研究室
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その日は連日より幾分か冷え込んだ。空には薄灰色の雲が一面に広がり、ひやりと冷たい風が木々の間を吹き抜ける。教養棟の玄関口に立つゼータの肩を、薄く開かれた戸口から舞い込む冷風が撫でた。
約束時刻の9時になると玄関口にはクリスがやって来た。公休日であるために白衣は着ずに、縦縞柄のシャツの上に茶色の上着を羽織っている。分厚い上着を羽織っているにも関わらず、玄関口に飛び込んだクリスの頬は冷風に撫でられ赤く染まっていた。凍えたように身を竦める。
「ゼータ、おはよう」
「おはようございます」
ゼータとクリスは笑顔で挨拶を交わす。仲直りから一夜明け、会話の調子はすっかり元通りだ。にこにこ笑顔のゼータを見てクリスは顔を綻ばせるが、物陰からじっと2人を見つめる視線に気付き思わず肩を揺らす。曇天を映す窓の縁に身体を預け、クリスとゼータを食い入るように見つめる人物はレイバックだ。緋色の瞳は細められ、口はへの字。明らかに不機嫌であることが伺える。挨拶の意を込めて軽く頭を下げるクリスであるが、レイバックがそれに応える様子はない。
「さぁクリス、早速行きましょう。魔導人形が私の来訪を待っています」
置物のように佇むレイバックを気に掛けながらも、クリスはゼータに促され教養棟を後にした。
公休日である今日、メインストリートに人通りは少ない。観光客と思われる数人の団体と、私服姿に身分証をぶら下げた研究員の姿は見受けられるが、昨日までのように白衣をまとう団体の姿はなかった。紺色のワンピースを着た若い女性が、丁寧に結い上げた髪を揺らしリモラ駅方面へと向かって駆けていく。誰かと待ち合わせだろうか、とゼータは思う。身なりに気を遣ううちに遅刻ぎりぎりになってしまったのかもしれない。ならば待ち合わせの相手は恋人だろうか、それとも恋人になる予定の人物だろうか。
工学部棟前に差し掛かったときに、それまで黙り込んでいたクリスが唐突に口を開いた。
「ねぇ、僕レイさんに何かした?思い当たる節がないんだけど」
「クリスのせいじゃないですよ。あれは私に対する憤りです」
「そうなの?夜のうちに喧嘩でもした?」
「喧嘩というか…。レイ、今日はイースと一緒に農場に行くんですって。ドラキス王国の農耕技術はロシャ王国に比べて遥かに遅れていますから、これを機に技術交流の約束を取り付けたいみたいですよ。それでその農場視察に私を同行させたいとイースに頼んでいたみたいなんです。相方と喧嘩中の私が、折角の公休日に客室から出られないのは哀れと思ったんでしょうね」
「ああ。それなのにゼータが突然僕の研究室に行くと言い出すから…」
「そう、気遣いを無下にされて拗ねているんです。だから気にしなくて良いですよ」
「それなら良いけど…」
しかしレイバックがわざわざ玄関口に姿を現したということは、多少なりともクリスに対する憤りが含まれているのではないか。不機嫌を隠そうともしない緋色の瞳を思い出し、クリスは不安を覚えるのだ。「とばっちりを食らうのは御免だから帰ったら仲直りしてよ」口を突いて出かけた言葉をクリスは飲み込む。つい先日ゼータと喧嘩をしたばかりのクリスが、喧嘩に対する文句など言えるはずもない。
吹き抜ける風を避けるように上着の胸元を掻き合わせ、やがて2人は目的地へと辿り着いた。そこは古びた2階建ての建物で、建物の入り口に「第3研究棟」と書かれた木製の札が掛かっている。何度か道を折れたために、ゼータにはそこが魔導大学内のどの場所に位置するのかがわからない。付近には物置と思われる小さな建物がいくつかあるだけで、生い茂る木々の間に人気はない。まるで秘密基地のような場所だ。
クリスは手提げカバンの中から探り当てた鍵で、建物の扉を開けた。薄暗い廊下に灯りをともす。玄関口の真横には2階へと続く階段が備えられていて、廊下には左右にいくつかの扉がついている。クリスは廊下を進み、銀色の鍵でくすんだ鋼板の扉を開ける。
「ようこそ。僕の研究室へ」
ゼータが開け放たれ扉をくぐれば、そこは何とも近親感のある部屋だ。壁一面の本棚に、文具や食器の並べられたガラス棚、最低限の調理器具、ペンや紙が散らばった大きな作業机、応接用のソファ、部屋の隅には毛布を載せたパイプベッド。そして壁際の調理台にはゼータの魔導人形がもたれ掛かっている。生活感漂うクリスの研究室は、魔法研究所のゼータの研究室とよく似ている
「広くて居心地の良い部屋ですねぇ。この研究棟、他に人はいないんですよね?」
「いないよ。この部屋以外は物置になっている。入室当初に一通り覗いてみたんだけど、過去にこの研究棟を使っていた研究員の私物が残っているんだよね。見られて困る物もないとは思うけど、埃まみれだから立ち入ることはお勧めしないよ」
クリスは作業机の上に手提げカバンを置き、近くにある窓を薄く開けた。舞い込んだ冷風が机の上の書物を捲る。
「クリスは長いことこの研究棟を使っているんですか?」
「いや、最近移って来たんだ。ちょっと事情があってね」
「もしかして極秘研究、というやつですか?」
「そうそう。だからくれぐれも机の上の書類には触らないでよ。万が一研究内容を知られたら、ゼータ研究員はそのときをもって失踪扱いだ」
クリスは恐ろしげな声色を作るが、その表情には薄笑いが浮かんでいる。ゼータは「怖い怖い」と笑い、肩を竦める。
「じゃあ、後は好きにやって。僕は僕でやることがあるからさ。道具は調理台横の箱にまとめてある。足りない道具があったら遠慮なく言ってね」
そう言うと、クリスは作業机に向かった。手提げカバンから封書の束を取り出し、はさみで封書の上部を切り、三つ折りの文を取り出しては机の脇に重ねていく。
てきぱきと事務作業をこなすクリスを横目に見ながら、ゼータは魔導人形を部屋の中央へと引き摺ってきた。手頃な大きさの木材と工具、彩色道具が入れられた箱も同様にして部屋の中央に置き、さてどこから作業に取り掛かろうかと腕を組む。魔導人形は一応人の形をなしてはいるものの、その形状は人の身体とは程遠い。凹凸の少ない胴体、角材を繋ぎ合わせただけの手指、目鼻口のない頭部。時間はたっぷりとある。まず人形に表情を与えることにしようかと、ゼータは球体の頭部に手を触れた。
***
時計の針が11時を回った頃だ。ガラス窓を叩く音がして、ゼータは長らく作業を続けていた手を止めた。同時にクリスも書き物をしていた手を止め、薄く開いたガラス窓に歩み寄る。古びて歪んだ窓が大きく開かれれば、窓の外には白衣を着た研究員が立っていた。
「クリスさん、セージ学長がお呼びです」
「ええ、公休日なのに?急ぎの用かな」
「王宮からお客様がいらしています。時間があれば同席するように、との言葉です」
「…ならすぐに行った方が良いか。伝言ありがとう」
「いいえ」
最低限の会話を終えると、研究員はすぐにその場を立ち去った。研究員がゼータの存在に気が付いた様子はない。窓を閉めたクリスは、悩ましげにゼータの顔を見る。
「ごめん、セージ学長に呼ばれちゃった」
「私のことは気にしないで良いですよ。どうぞ行ってきてください」
「本当にごめん。遅くても正午過ぎには戻るよ。学長はお昼ご飯を時間通りに食べたい人だからさ。正午を超えて話が長引くことはないと思う。戻ってきたら僕達も食堂に行こう」
「わかりました」
クリスは机の引出しから書類の束を引っ張り出し、慌ただしくカバンに詰め込んだ。筆箱、メモ紙、名刺、ハンカチ。思いつく限りの物品をカバンに放り入れ、速足で研究室の扉へと向かう。扉を引き開け敷居をまたぎ、そして扉が閉まる前にもう一度部屋の中を覗き込んだ。
「ゼータ、繰り返すけど作業机は漁らないでね。本棚も背表紙を眺めるだけにしておいて」
「…」
「返事」
「…はい」
いささか頼りないゼータの返事を受けて、クリスは今度こそ研究室を出て行った。遠ざかる靴音、しばらくして玄関戸が施錠される小さな音。機密資料の溢れるクリスの研究室に、客人ゼータがただ一人残された。ゼータは主のいなくなった部屋をぐるりと見渡し、壁際に佇む作業机に目を止めた。秘密と言われると見たくなるのは人の性だ。ゼータは座り込んでいた床から尻を浮かしかけるが、いやいやと頭を振って深い深呼吸を繰り返した。自分とて研究職の身、他人の研究内容を漁る真似など決してすまい。ゼータは5度の深呼吸の後に、魔導人形の研磨作業を再開するのであった。
それから30分ほどの時が経ち、一通りの研磨作業を終えたゼータは大きく伸びをした。床に横たえた魔導人形には顔面が彫り込まれ、胴体と手足にも人に近しい肉付きができた。関節部分も丹念に研磨を済ませたから、手足の曲げ伸ばしや指先の動作に支障もないだろう。凝り固まった背中の筋肉をほぐすゼータの足元には、大小様々な大きさの木くずが散らばっている。昼食に向かう前に一度掃除を済ませてしまおうか。そう思い立ったゼータは広い部屋を見渡し、掃除用具を探した。
ふと、どこからか風が吹いてきた、足元の木くずがさらりと動く。細かな木くずは床を這い、研究室の入り口側へと運ばれてゆく。窓が開いたままだったか。ゼータは先ほど研究員が顔を覗かせた窓を見るが、窓は鍵までもがしっかりと閉められてる。窓から吹きこむ風ではない。木くずが扉へと向かうのだから、扉の隙間から吹き込む風でもない。しゃがみ込み、木くずの一欠けらを拾い上げるゼータの鼻腔に、独特の黴臭さが流れ込んでくる。聖ジルバード教会の図書室の臭いによく似ている。木くずをさらう風は、屋外から吹き込んだものではない。
ゼータは床に手を這わせ、風の元を探した。腰を屈めた格好のまま部屋の中をあちこちと歩き回り、壁一面の本棚の前で足を止める。そこだ。本棚と床の隙間から冷たい風が吹き出している。
ゼータは試行錯誤を繰り返した。本棚を押したり引いたり、横にずらそうとしたり。そのうちに、横板の裏側にある小さな突起に指先があたった。突起を押すと金具の動く音がして、重たい本棚の一部が扉のように開く。
「…あ」
ゼータは思わず声を漏らした。ぱっかりと開いた本棚の向こうには扉があった。
どこへ続くともわからない重たい鉄の扉。
約束時刻の9時になると玄関口にはクリスがやって来た。公休日であるために白衣は着ずに、縦縞柄のシャツの上に茶色の上着を羽織っている。分厚い上着を羽織っているにも関わらず、玄関口に飛び込んだクリスの頬は冷風に撫でられ赤く染まっていた。凍えたように身を竦める。
「ゼータ、おはよう」
「おはようございます」
ゼータとクリスは笑顔で挨拶を交わす。仲直りから一夜明け、会話の調子はすっかり元通りだ。にこにこ笑顔のゼータを見てクリスは顔を綻ばせるが、物陰からじっと2人を見つめる視線に気付き思わず肩を揺らす。曇天を映す窓の縁に身体を預け、クリスとゼータを食い入るように見つめる人物はレイバックだ。緋色の瞳は細められ、口はへの字。明らかに不機嫌であることが伺える。挨拶の意を込めて軽く頭を下げるクリスであるが、レイバックがそれに応える様子はない。
「さぁクリス、早速行きましょう。魔導人形が私の来訪を待っています」
置物のように佇むレイバックを気に掛けながらも、クリスはゼータに促され教養棟を後にした。
公休日である今日、メインストリートに人通りは少ない。観光客と思われる数人の団体と、私服姿に身分証をぶら下げた研究員の姿は見受けられるが、昨日までのように白衣をまとう団体の姿はなかった。紺色のワンピースを着た若い女性が、丁寧に結い上げた髪を揺らしリモラ駅方面へと向かって駆けていく。誰かと待ち合わせだろうか、とゼータは思う。身なりに気を遣ううちに遅刻ぎりぎりになってしまったのかもしれない。ならば待ち合わせの相手は恋人だろうか、それとも恋人になる予定の人物だろうか。
工学部棟前に差し掛かったときに、それまで黙り込んでいたクリスが唐突に口を開いた。
「ねぇ、僕レイさんに何かした?思い当たる節がないんだけど」
「クリスのせいじゃないですよ。あれは私に対する憤りです」
「そうなの?夜のうちに喧嘩でもした?」
「喧嘩というか…。レイ、今日はイースと一緒に農場に行くんですって。ドラキス王国の農耕技術はロシャ王国に比べて遥かに遅れていますから、これを機に技術交流の約束を取り付けたいみたいですよ。それでその農場視察に私を同行させたいとイースに頼んでいたみたいなんです。相方と喧嘩中の私が、折角の公休日に客室から出られないのは哀れと思ったんでしょうね」
「ああ。それなのにゼータが突然僕の研究室に行くと言い出すから…」
「そう、気遣いを無下にされて拗ねているんです。だから気にしなくて良いですよ」
「それなら良いけど…」
しかしレイバックがわざわざ玄関口に姿を現したということは、多少なりともクリスに対する憤りが含まれているのではないか。不機嫌を隠そうともしない緋色の瞳を思い出し、クリスは不安を覚えるのだ。「とばっちりを食らうのは御免だから帰ったら仲直りしてよ」口を突いて出かけた言葉をクリスは飲み込む。つい先日ゼータと喧嘩をしたばかりのクリスが、喧嘩に対する文句など言えるはずもない。
吹き抜ける風を避けるように上着の胸元を掻き合わせ、やがて2人は目的地へと辿り着いた。そこは古びた2階建ての建物で、建物の入り口に「第3研究棟」と書かれた木製の札が掛かっている。何度か道を折れたために、ゼータにはそこが魔導大学内のどの場所に位置するのかがわからない。付近には物置と思われる小さな建物がいくつかあるだけで、生い茂る木々の間に人気はない。まるで秘密基地のような場所だ。
クリスは手提げカバンの中から探り当てた鍵で、建物の扉を開けた。薄暗い廊下に灯りをともす。玄関口の真横には2階へと続く階段が備えられていて、廊下には左右にいくつかの扉がついている。クリスは廊下を進み、銀色の鍵でくすんだ鋼板の扉を開ける。
「ようこそ。僕の研究室へ」
ゼータが開け放たれ扉をくぐれば、そこは何とも近親感のある部屋だ。壁一面の本棚に、文具や食器の並べられたガラス棚、最低限の調理器具、ペンや紙が散らばった大きな作業机、応接用のソファ、部屋の隅には毛布を載せたパイプベッド。そして壁際の調理台にはゼータの魔導人形がもたれ掛かっている。生活感漂うクリスの研究室は、魔法研究所のゼータの研究室とよく似ている
「広くて居心地の良い部屋ですねぇ。この研究棟、他に人はいないんですよね?」
「いないよ。この部屋以外は物置になっている。入室当初に一通り覗いてみたんだけど、過去にこの研究棟を使っていた研究員の私物が残っているんだよね。見られて困る物もないとは思うけど、埃まみれだから立ち入ることはお勧めしないよ」
クリスは作業机の上に手提げカバンを置き、近くにある窓を薄く開けた。舞い込んだ冷風が机の上の書物を捲る。
「クリスは長いことこの研究棟を使っているんですか?」
「いや、最近移って来たんだ。ちょっと事情があってね」
「もしかして極秘研究、というやつですか?」
「そうそう。だからくれぐれも机の上の書類には触らないでよ。万が一研究内容を知られたら、ゼータ研究員はそのときをもって失踪扱いだ」
クリスは恐ろしげな声色を作るが、その表情には薄笑いが浮かんでいる。ゼータは「怖い怖い」と笑い、肩を竦める。
「じゃあ、後は好きにやって。僕は僕でやることがあるからさ。道具は調理台横の箱にまとめてある。足りない道具があったら遠慮なく言ってね」
そう言うと、クリスは作業机に向かった。手提げカバンから封書の束を取り出し、はさみで封書の上部を切り、三つ折りの文を取り出しては机の脇に重ねていく。
てきぱきと事務作業をこなすクリスを横目に見ながら、ゼータは魔導人形を部屋の中央へと引き摺ってきた。手頃な大きさの木材と工具、彩色道具が入れられた箱も同様にして部屋の中央に置き、さてどこから作業に取り掛かろうかと腕を組む。魔導人形は一応人の形をなしてはいるものの、その形状は人の身体とは程遠い。凹凸の少ない胴体、角材を繋ぎ合わせただけの手指、目鼻口のない頭部。時間はたっぷりとある。まず人形に表情を与えることにしようかと、ゼータは球体の頭部に手を触れた。
***
時計の針が11時を回った頃だ。ガラス窓を叩く音がして、ゼータは長らく作業を続けていた手を止めた。同時にクリスも書き物をしていた手を止め、薄く開いたガラス窓に歩み寄る。古びて歪んだ窓が大きく開かれれば、窓の外には白衣を着た研究員が立っていた。
「クリスさん、セージ学長がお呼びです」
「ええ、公休日なのに?急ぎの用かな」
「王宮からお客様がいらしています。時間があれば同席するように、との言葉です」
「…ならすぐに行った方が良いか。伝言ありがとう」
「いいえ」
最低限の会話を終えると、研究員はすぐにその場を立ち去った。研究員がゼータの存在に気が付いた様子はない。窓を閉めたクリスは、悩ましげにゼータの顔を見る。
「ごめん、セージ学長に呼ばれちゃった」
「私のことは気にしないで良いですよ。どうぞ行ってきてください」
「本当にごめん。遅くても正午過ぎには戻るよ。学長はお昼ご飯を時間通りに食べたい人だからさ。正午を超えて話が長引くことはないと思う。戻ってきたら僕達も食堂に行こう」
「わかりました」
クリスは机の引出しから書類の束を引っ張り出し、慌ただしくカバンに詰め込んだ。筆箱、メモ紙、名刺、ハンカチ。思いつく限りの物品をカバンに放り入れ、速足で研究室の扉へと向かう。扉を引き開け敷居をまたぎ、そして扉が閉まる前にもう一度部屋の中を覗き込んだ。
「ゼータ、繰り返すけど作業机は漁らないでね。本棚も背表紙を眺めるだけにしておいて」
「…」
「返事」
「…はい」
いささか頼りないゼータの返事を受けて、クリスは今度こそ研究室を出て行った。遠ざかる靴音、しばらくして玄関戸が施錠される小さな音。機密資料の溢れるクリスの研究室に、客人ゼータがただ一人残された。ゼータは主のいなくなった部屋をぐるりと見渡し、壁際に佇む作業机に目を止めた。秘密と言われると見たくなるのは人の性だ。ゼータは座り込んでいた床から尻を浮かしかけるが、いやいやと頭を振って深い深呼吸を繰り返した。自分とて研究職の身、他人の研究内容を漁る真似など決してすまい。ゼータは5度の深呼吸の後に、魔導人形の研磨作業を再開するのであった。
それから30分ほどの時が経ち、一通りの研磨作業を終えたゼータは大きく伸びをした。床に横たえた魔導人形には顔面が彫り込まれ、胴体と手足にも人に近しい肉付きができた。関節部分も丹念に研磨を済ませたから、手足の曲げ伸ばしや指先の動作に支障もないだろう。凝り固まった背中の筋肉をほぐすゼータの足元には、大小様々な大きさの木くずが散らばっている。昼食に向かう前に一度掃除を済ませてしまおうか。そう思い立ったゼータは広い部屋を見渡し、掃除用具を探した。
ふと、どこからか風が吹いてきた、足元の木くずがさらりと動く。細かな木くずは床を這い、研究室の入り口側へと運ばれてゆく。窓が開いたままだったか。ゼータは先ほど研究員が顔を覗かせた窓を見るが、窓は鍵までもがしっかりと閉められてる。窓から吹きこむ風ではない。木くずが扉へと向かうのだから、扉の隙間から吹き込む風でもない。しゃがみ込み、木くずの一欠けらを拾い上げるゼータの鼻腔に、独特の黴臭さが流れ込んでくる。聖ジルバード教会の図書室の臭いによく似ている。木くずをさらう風は、屋外から吹き込んだものではない。
ゼータは床に手を這わせ、風の元を探した。腰を屈めた格好のまま部屋の中をあちこちと歩き回り、壁一面の本棚の前で足を止める。そこだ。本棚と床の隙間から冷たい風が吹き出している。
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「…あ」
ゼータは思わず声を漏らした。ぱっかりと開いた本棚の向こうには扉があった。
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