33 / 318
緋糸たぐる御伽姫
33.緋糸たぐる御伽姫
しおりを挟む
レイバックとメアリが精霊族祭の会場に入ると、目が眩むような人の多さであった。メアリの身支度に思いの他時間が掛かり、会場への到着が予定よりも遅れてしまったのだ。二人の到着時刻は丁度人の出入りが増える時間帯。祭りの雰囲気だけを楽しみに来た人々は混み合う前にと会場を去り、それを遥かに超える人々が会場内へと立ち入って来る。これから一時間ほどの時が過ぎれば、会場内は満足に踊ることも困難なほどの人混みとなる。
芝生の会場には、大地を揺るがすほど大音量の音楽が響き渡っていた。目が回るほどの人の多さと耳が痛くなるほどの音楽に、圧倒されたメアリは立ち竦む。ドラキス王国の民とは異なり、ロシャ王国の裕福層の間では未だにダンスの文化が定着している。メアリにとってダンスは日常、どのような高貴な客人が相手であっても雰囲気に圧倒されることなどない。
しかし今夜だけは違った。立ち込める熱気、最低限の秩序の中跳ね回る人々、頻繁に曲調を変える音楽。ここは優美なダンスパーティーの会場などではない。人間も魔族も大人も子供も女も男も、皆が掻き鳴らされる音楽に身を任せ、気の赴くままに手を取り合う活気に満ちた祭典だ。
目まぐるしく動く人波を前に、放心状態であったメアリ。そのメアリの目の前に、レイバックの手のひらが差し出される。
「踊れるか?」
「はい……踊れます」
指先に触れる温もりに、メアリは強張っていた表情を緩ませる。レイバックとメアリは手を取り合い、軽やかと回る人波に紛れて行く。
数曲の踊りをこなした頃には、メアリはすっかり調子を取り戻していた。踊る機会は少なくとも、教養としてダンスを嗜んでいるレイバック。そして幼少時より教育の一環として当たり前のようにダンスをこなしていたメアリ。二人が手を取り合うのならば、当然周囲の人々が息を呑むほどの優雅な踊りが披露される。人とぶつかり合うことなど気にも留めない会場の人々が、自然と彼らの周囲での踊りを避けていた。決して壊してはならない、完成された空間がそこにある。
メアリと踊る最中に、レイバックは人波の向こうに金色の頭を見つけた。黒の燕尾服を纏う色男はクリスだ。ならば傍にはルナがいる。レイバックの予想通り、クリスの腕の中にいる女性は緋色のドレスを纏うルナだ。ぎくしゃくとぎこちない動きのルナは、レイバックの見ている中でクリスの胸元へと突っ込んでゆく。「すみません」と、紅を引いた唇が動く。ダンスが不得手で当然だ、とレイバックは思う。人生の大半を男性として過ごしてきたルナが、女性役などまともに踊れるはずもない。クリスの踊りもお世辞にも上手とは言い難く、二人の踊りは傍から見れば酷いものだ。それでも手を取り合うルナとクリスは共に笑顔だ。遠く離れていても、笑い声が届いてきそうなほどの満面の笑み。ダンスになど覚えはなくても、二人は心から一時の逢瀬を楽しんでいる。
メアリとのダンスに不満があるわけではない。しかし何の思惑もなく、何の憂いもなく、彼らのようにただ耳に届く音楽に身を委ねられたらどんなに楽しいだろう。湧き上がる思いを振り払うように、レイバックは目の前の少女に微笑みを向ける。
「見事なダンスだ。ロシャ王国では頻繁にダンスの機会があるのか?」
「はい。他国からの賓客がある際には、必ずと言って良いほどダンスパーティーが催されます。規模はそれほど大きいものではありませんが」
「ロシャ王国と国交のある国は多いのか」
「ドラキス王国を除けば全部で11国です。小さな人間国家ばかりですよ。ロシャ王国の近隣には、ドラキス王国を除いて魔族国家はありませんから」
ロシャ王国を中心として見れば、東方はドラキス王国に国境を面し、南方は広大な海洋だ。そして北方と西方には、人口が数万程度の小国がひしめき合っている。それらの小国はロシャ王国同様魔族の立ち入れぬ人間国家であるため、ドラキス王国との交易はない。年に数人、それらの小国からポトスの街に移住をしてくる人間がいる程度だ。ドラキス王国は人の出入りに寛容な国家であり、国として他国との人の往来状況を管理することはしていない。ゆえにどれほどの人数がそれらの小国からやって来るのか、はたまた小国を目指して国を出ていくのかは、正確な人数はわからない。
「一般の民の間でも、ダンスの文化があるのか」
「古い家柄の子息子女は教養としてダンスを嗜みます。ですがロシャ王国の首都リモラでは、ほとんどの人が家柄と無縁の生活を送っていますから、ダンスを踊れる人はほとんどいませんよ。外交使節団はリモラの街に住まう者から希望者を募りますから、皆ダンスに覚えはないと言っていました」
「クリスもか?」
「…どうでしょう。魔導大学でダンスの催しがあると聞いた試しはありませんが…。クリス様がいらっしゃいましたか?」
「ああ、さっき踊っているのを見掛けた。遠目だから巧拙の判断はつかなかったがな」
「そうですか…」
メアリは首を捻り、付近に見知った顔を探す。しかしレイバックよりも頭一つ分小さなメアリの眼には、周囲を囲う人壁以外の物が映ることはない。レイバックが手を離せば、メアリは哀れ人波に飲み込まれて消えてしまうことだろう。それほどに少女の身体は小さい。
「ダンスに覚えがないということは、他の使節団員は精霊族祭には来ていないのだろうか」
「サーリィ様は配属先部署の官吏の方と行動を共にすると仰っていました。姿は見ておりませんが、会場のどこかにはいると思います。他の方々も連れ立って顔は出すと言っておりました。折角のお祭りですから」
「精霊族祭は決まった相手がおらずとも楽しめる祭りだ。アンガス辺りは、言葉巧みに眉目秀麗の共を見つけているかも知れんぞ」
「そうかもしれません。お年は召していらっしゃいますが、素敵なお方ですから」
レイバックとメアリは顔を合わせて笑う。
そうして雑談交じりにダンスを楽しむうちに、辺りは踊るのが困難なほどの人混みとなった。時刻は20時を回ったところ、精霊族祭の会場に最も多くの人が集まる時間帯だ。ダンスには慣れた二人だが、肘や踵がぶつかるほどの場所に人がいては優雅と踊ることは容易くない。
「少し休憩するか。一時間もすれば帰路に着く者も増える」
レイバックはそう言って、ダンスのために握り込んでいたメアリの手を離した。メアリが一瞬名残惜しそうに眉を下げたことに、レイバックは気が付くことはない。飲物の置かれた丸テーブルを探し、周囲を見渡すレイバックの服の裾を、縋るように掴む指先がある。
「レイバック様。お話ししたいことがございます。静かな所に行きませんか?」
「…ああ、構わない」
レイバックとメアリは人混みを抜け、聖ジルバード教会を模した建物に入った。無機質の廊下を通り抜け、広場に通じる出入口とは別方向にある小さな扉を出る。そこは広々とした園庭であった。自然に似せ疎らに生えた樹木、人口の小川、わざと歪な形に作られた花壇には多種の花が咲き誇っていた。建物の窓から灯りが零れ園庭内には多少の明るさはあるが、それでも向かい合う人の表情を読み取るのが精いっぱいという程度だ。広場から届く音楽と人の声も、会話をするのに支障のない音量だ。
レイバックとメアリは園庭の一角にある、柔らかな芝生の上に並んで腰を下ろした。
涼やかな風が通り抜けて行く。ふと見上げた夜空には数え切れぬ星が瞬くが、月の姿を見ることはできない。ぽっかりと浮かぶ小さな綿雲に隠れてしまっているのだ。あの綿雲がなければさぞかし綺麗な夜空となるだろうが、空模様は人の力ではどうすることもできない。
レイバックは黙ってメアリの言葉を待った。芝生に座り込んだ少女は、レイバック同様長いこと月のない夜空を見上げていた。やがて、小さな唇が開く。
「昔話をしても宜しいでしょうか」
「ああ」
レイバックの肯定を受け、メアリはゆっくりと語り始める。どこか他人行儀で語られるのは、一人の少女の物語だ。
***
少女は小さい頃から病弱であった。月の内の半分を寝台で過ごし、他の子ども達のように草原を駆けて遊ぶなどということはできなかった。父母は寝台の中でも退屈せぬようにと、少女にたくさんの絵本を与えた。国では絵本を含む書物は高価であるが、それでも父母は少女のためにと古今東西の絵本を買い集めた。中には背表紙が取れ、掠れて文字が読めなくなってしまったような古い絵本もあった。
当時少女はまだ四つになったばかりであったが、絵本に囲まれた生活が幸いし文字を読むことに苦労はしなかった。小さな指先で文字をなぞり、拙い口調で台詞を読む。百を優に超える絵本の中で、少女の一番のお気に入りはあり触れた御伽話であった。善の心を持つ青年が悪行を重ねる愚王を打ち、新しい国を興すというただそれだけの話。少し他と違うのは、その青年が鮮やかな緋色の髪を持ち、緋色のドラゴンを従えているということだ。少女はその絵本を毎晩のように枕の上に広げ、絵本の中の風景を想像しながら眠りに就いた。「王子様」と呼んで絵本の中の青年を慕った。それほどに大好きな絵本だったのだ。中でも一番のお気に入りは絵本の終盤、見開きの挿絵であった。剣を持ち緋色の髪をなびかせる青年と、傍らにうずくまる緋色のドラゴン。繊細な線で描かれた挿絵は美しかった。
成長し絵本など読む年ではなくなっても、その絵本はずっと少女の机の本立てに並べられていた。
それは少女が12の年を迎えたときのことであった。少女は家庭教師の老爺から、隣国である大国の歴史について講和を受けていた。老爺は穏やかな口調で話す。「大国の国王殿は治世千年に及ぶ賢王である。かつて国土を治めた暴王を自らの剣で打ち倒し、その地に安寧の国家を築いた。彼の王は燃えるような緋色の髪を持ち、神獣であるドラゴンの血族である。嘘か誠かはわからぬが、人の姿をドラゴンに変えることができるのだという」
少女は気付く。それは大好きだった御伽話。幼心に恋い焦がれた王子様。あれは完全な作り話などではなかった。一日馬を走らせれば辿り着くことのできる、隣国の歴史を元に描かれた絵本であったのだ。そして少女の焦がれた王子様は今もまだその地の頂にいる。手を伸ばせば届く場所に、その人はいる。
少女は父に頼み込んだ。隣国への使節に付き添わせてはもらえぬかと。しかし少女の望みが過保護の父母に受け入れられることはない。幼少期に比べ頻度こそ減るが、少女は年に数度は体調を崩し寝所での生活を余儀なくされていた。馬車での旅路は身体への負担も大きく、慣れぬ食事では内臓も弱る。「お前を隣国に連れて行くことはできない」父は強い口調でそう言った。少女が父に逆らうことはできない。ならばせめて少しでも王子様の近くに在りたいと、剣を持ち始めたのもこの頃だ。
そして想いだけが膨れ上がり、数年の時が経つ。少女は17歳を目前にしていた。父は言う。「お前の18歳の誕生日に、内々であった婚約者との関係を正式に公示する」
結婚はもう十年も前から決められていたことだ。少女は父の仕事を継ぐことができない。女であるという理由で、本来継ぐべき執務を受け継ぐことができないのだ。だから少女は聡明な婿を取り、その人物が義父となる父の公務を引き継がねばならない。少女の結婚は本人の意思で覆るものではない。高潔な血筋を絶やさぬために、少女に託された使命だ。しかし逃れられぬ使命であると理解しながらも、長年内に秘め膨れ上がった想いを隠すことなど最早できなかった。
―お父様。私、好きな人がいるんです。
少女は泣いた。涙ながらに父に訴えた。逃れられぬ使命を理解はしている。婚約者の青年も嫌いではない。しかし十余年想い続けた王子様を諦めることがどうしてもできない。愛など伝えなくても良い。だがどうかその身が純潔である内に、愛しい王子様に一目会わせてはくれまいか。
厳格な支配者でありながらも、父は娘に対しては慈愛に満ち溢れていた。涙ながらに語られる少女の想いを蔑ろにすることなどできやしない。父は手の内にある駒を着々と動かす。万事を整え、少女に伝う。「今日より十日の後、外交使節団の一員として隣国の王宮に向かえ。お前は婚約者のいる身、彼の王に公に結婚を申し込むことはできない。自らの力で御心を射止めてこい。成し遂げれば私の力を持ってお前の婚約話は白紙に戻す。隣国に嫁ぎ、生涯を終えることを許そう」
そうしてメアリは馬車に乗り隣国へと向かう。幼い頃からの王子様に一目会うために。会わぬまま膨れ上がった想いを伝えるために。愛していると伝えるために。
***
「レイバック様、貴方を愛しています」
潤んだ栗色の瞳がレイバックを見つめていた。
「貴方の傍にいたいのです。どうか私を妃として、貴方のお傍に置いてください」
それは一人の少女の真摯な愛の告白であった。レイバックはすぐに答える言葉を持たず、目の前の少女をただただ見下ろす。
良い、と答える事は簡単だ。それで全てが上手くいく。少女の望みは叶い、二つの大国は強固な繋がりを得る。侍女も官吏も兵士も皆が喜ぶ。千年以上不在であった王妃の誕生に国土は湧き、ポトスの街は連日お祭り騒ぎだ。想像すればするほどに愉快な未来。悲しむ者などいない理想の行く先だ。
―しかしもし今「良い」と答えたなら、あの箱はどうなる。
心の奥底に佇む古びた箱。その存在を認識しながらも、頑なに開けることを拒んできた箱だ。錆びて、軋み、埃にまみれそれでも大事に守り抜いてきた。少女の想いに応えたのなら、あの箱は消えてなくなるのか。それとも変わらずそこにあるままなのか。
「メアリ姫、俺は―」
芝生の会場には、大地を揺るがすほど大音量の音楽が響き渡っていた。目が回るほどの人の多さと耳が痛くなるほどの音楽に、圧倒されたメアリは立ち竦む。ドラキス王国の民とは異なり、ロシャ王国の裕福層の間では未だにダンスの文化が定着している。メアリにとってダンスは日常、どのような高貴な客人が相手であっても雰囲気に圧倒されることなどない。
しかし今夜だけは違った。立ち込める熱気、最低限の秩序の中跳ね回る人々、頻繁に曲調を変える音楽。ここは優美なダンスパーティーの会場などではない。人間も魔族も大人も子供も女も男も、皆が掻き鳴らされる音楽に身を任せ、気の赴くままに手を取り合う活気に満ちた祭典だ。
目まぐるしく動く人波を前に、放心状態であったメアリ。そのメアリの目の前に、レイバックの手のひらが差し出される。
「踊れるか?」
「はい……踊れます」
指先に触れる温もりに、メアリは強張っていた表情を緩ませる。レイバックとメアリは手を取り合い、軽やかと回る人波に紛れて行く。
数曲の踊りをこなした頃には、メアリはすっかり調子を取り戻していた。踊る機会は少なくとも、教養としてダンスを嗜んでいるレイバック。そして幼少時より教育の一環として当たり前のようにダンスをこなしていたメアリ。二人が手を取り合うのならば、当然周囲の人々が息を呑むほどの優雅な踊りが披露される。人とぶつかり合うことなど気にも留めない会場の人々が、自然と彼らの周囲での踊りを避けていた。決して壊してはならない、完成された空間がそこにある。
メアリと踊る最中に、レイバックは人波の向こうに金色の頭を見つけた。黒の燕尾服を纏う色男はクリスだ。ならば傍にはルナがいる。レイバックの予想通り、クリスの腕の中にいる女性は緋色のドレスを纏うルナだ。ぎくしゃくとぎこちない動きのルナは、レイバックの見ている中でクリスの胸元へと突っ込んでゆく。「すみません」と、紅を引いた唇が動く。ダンスが不得手で当然だ、とレイバックは思う。人生の大半を男性として過ごしてきたルナが、女性役などまともに踊れるはずもない。クリスの踊りもお世辞にも上手とは言い難く、二人の踊りは傍から見れば酷いものだ。それでも手を取り合うルナとクリスは共に笑顔だ。遠く離れていても、笑い声が届いてきそうなほどの満面の笑み。ダンスになど覚えはなくても、二人は心から一時の逢瀬を楽しんでいる。
メアリとのダンスに不満があるわけではない。しかし何の思惑もなく、何の憂いもなく、彼らのようにただ耳に届く音楽に身を委ねられたらどんなに楽しいだろう。湧き上がる思いを振り払うように、レイバックは目の前の少女に微笑みを向ける。
「見事なダンスだ。ロシャ王国では頻繁にダンスの機会があるのか?」
「はい。他国からの賓客がある際には、必ずと言って良いほどダンスパーティーが催されます。規模はそれほど大きいものではありませんが」
「ロシャ王国と国交のある国は多いのか」
「ドラキス王国を除けば全部で11国です。小さな人間国家ばかりですよ。ロシャ王国の近隣には、ドラキス王国を除いて魔族国家はありませんから」
ロシャ王国を中心として見れば、東方はドラキス王国に国境を面し、南方は広大な海洋だ。そして北方と西方には、人口が数万程度の小国がひしめき合っている。それらの小国はロシャ王国同様魔族の立ち入れぬ人間国家であるため、ドラキス王国との交易はない。年に数人、それらの小国からポトスの街に移住をしてくる人間がいる程度だ。ドラキス王国は人の出入りに寛容な国家であり、国として他国との人の往来状況を管理することはしていない。ゆえにどれほどの人数がそれらの小国からやって来るのか、はたまた小国を目指して国を出ていくのかは、正確な人数はわからない。
「一般の民の間でも、ダンスの文化があるのか」
「古い家柄の子息子女は教養としてダンスを嗜みます。ですがロシャ王国の首都リモラでは、ほとんどの人が家柄と無縁の生活を送っていますから、ダンスを踊れる人はほとんどいませんよ。外交使節団はリモラの街に住まう者から希望者を募りますから、皆ダンスに覚えはないと言っていました」
「クリスもか?」
「…どうでしょう。魔導大学でダンスの催しがあると聞いた試しはありませんが…。クリス様がいらっしゃいましたか?」
「ああ、さっき踊っているのを見掛けた。遠目だから巧拙の判断はつかなかったがな」
「そうですか…」
メアリは首を捻り、付近に見知った顔を探す。しかしレイバックよりも頭一つ分小さなメアリの眼には、周囲を囲う人壁以外の物が映ることはない。レイバックが手を離せば、メアリは哀れ人波に飲み込まれて消えてしまうことだろう。それほどに少女の身体は小さい。
「ダンスに覚えがないということは、他の使節団員は精霊族祭には来ていないのだろうか」
「サーリィ様は配属先部署の官吏の方と行動を共にすると仰っていました。姿は見ておりませんが、会場のどこかにはいると思います。他の方々も連れ立って顔は出すと言っておりました。折角のお祭りですから」
「精霊族祭は決まった相手がおらずとも楽しめる祭りだ。アンガス辺りは、言葉巧みに眉目秀麗の共を見つけているかも知れんぞ」
「そうかもしれません。お年は召していらっしゃいますが、素敵なお方ですから」
レイバックとメアリは顔を合わせて笑う。
そうして雑談交じりにダンスを楽しむうちに、辺りは踊るのが困難なほどの人混みとなった。時刻は20時を回ったところ、精霊族祭の会場に最も多くの人が集まる時間帯だ。ダンスには慣れた二人だが、肘や踵がぶつかるほどの場所に人がいては優雅と踊ることは容易くない。
「少し休憩するか。一時間もすれば帰路に着く者も増える」
レイバックはそう言って、ダンスのために握り込んでいたメアリの手を離した。メアリが一瞬名残惜しそうに眉を下げたことに、レイバックは気が付くことはない。飲物の置かれた丸テーブルを探し、周囲を見渡すレイバックの服の裾を、縋るように掴む指先がある。
「レイバック様。お話ししたいことがございます。静かな所に行きませんか?」
「…ああ、構わない」
レイバックとメアリは人混みを抜け、聖ジルバード教会を模した建物に入った。無機質の廊下を通り抜け、広場に通じる出入口とは別方向にある小さな扉を出る。そこは広々とした園庭であった。自然に似せ疎らに生えた樹木、人口の小川、わざと歪な形に作られた花壇には多種の花が咲き誇っていた。建物の窓から灯りが零れ園庭内には多少の明るさはあるが、それでも向かい合う人の表情を読み取るのが精いっぱいという程度だ。広場から届く音楽と人の声も、会話をするのに支障のない音量だ。
レイバックとメアリは園庭の一角にある、柔らかな芝生の上に並んで腰を下ろした。
涼やかな風が通り抜けて行く。ふと見上げた夜空には数え切れぬ星が瞬くが、月の姿を見ることはできない。ぽっかりと浮かぶ小さな綿雲に隠れてしまっているのだ。あの綿雲がなければさぞかし綺麗な夜空となるだろうが、空模様は人の力ではどうすることもできない。
レイバックは黙ってメアリの言葉を待った。芝生に座り込んだ少女は、レイバック同様長いこと月のない夜空を見上げていた。やがて、小さな唇が開く。
「昔話をしても宜しいでしょうか」
「ああ」
レイバックの肯定を受け、メアリはゆっくりと語り始める。どこか他人行儀で語られるのは、一人の少女の物語だ。
***
少女は小さい頃から病弱であった。月の内の半分を寝台で過ごし、他の子ども達のように草原を駆けて遊ぶなどということはできなかった。父母は寝台の中でも退屈せぬようにと、少女にたくさんの絵本を与えた。国では絵本を含む書物は高価であるが、それでも父母は少女のためにと古今東西の絵本を買い集めた。中には背表紙が取れ、掠れて文字が読めなくなってしまったような古い絵本もあった。
当時少女はまだ四つになったばかりであったが、絵本に囲まれた生活が幸いし文字を読むことに苦労はしなかった。小さな指先で文字をなぞり、拙い口調で台詞を読む。百を優に超える絵本の中で、少女の一番のお気に入りはあり触れた御伽話であった。善の心を持つ青年が悪行を重ねる愚王を打ち、新しい国を興すというただそれだけの話。少し他と違うのは、その青年が鮮やかな緋色の髪を持ち、緋色のドラゴンを従えているということだ。少女はその絵本を毎晩のように枕の上に広げ、絵本の中の風景を想像しながら眠りに就いた。「王子様」と呼んで絵本の中の青年を慕った。それほどに大好きな絵本だったのだ。中でも一番のお気に入りは絵本の終盤、見開きの挿絵であった。剣を持ち緋色の髪をなびかせる青年と、傍らにうずくまる緋色のドラゴン。繊細な線で描かれた挿絵は美しかった。
成長し絵本など読む年ではなくなっても、その絵本はずっと少女の机の本立てに並べられていた。
それは少女が12の年を迎えたときのことであった。少女は家庭教師の老爺から、隣国である大国の歴史について講和を受けていた。老爺は穏やかな口調で話す。「大国の国王殿は治世千年に及ぶ賢王である。かつて国土を治めた暴王を自らの剣で打ち倒し、その地に安寧の国家を築いた。彼の王は燃えるような緋色の髪を持ち、神獣であるドラゴンの血族である。嘘か誠かはわからぬが、人の姿をドラゴンに変えることができるのだという」
少女は気付く。それは大好きだった御伽話。幼心に恋い焦がれた王子様。あれは完全な作り話などではなかった。一日馬を走らせれば辿り着くことのできる、隣国の歴史を元に描かれた絵本であったのだ。そして少女の焦がれた王子様は今もまだその地の頂にいる。手を伸ばせば届く場所に、その人はいる。
少女は父に頼み込んだ。隣国への使節に付き添わせてはもらえぬかと。しかし少女の望みが過保護の父母に受け入れられることはない。幼少期に比べ頻度こそ減るが、少女は年に数度は体調を崩し寝所での生活を余儀なくされていた。馬車での旅路は身体への負担も大きく、慣れぬ食事では内臓も弱る。「お前を隣国に連れて行くことはできない」父は強い口調でそう言った。少女が父に逆らうことはできない。ならばせめて少しでも王子様の近くに在りたいと、剣を持ち始めたのもこの頃だ。
そして想いだけが膨れ上がり、数年の時が経つ。少女は17歳を目前にしていた。父は言う。「お前の18歳の誕生日に、内々であった婚約者との関係を正式に公示する」
結婚はもう十年も前から決められていたことだ。少女は父の仕事を継ぐことができない。女であるという理由で、本来継ぐべき執務を受け継ぐことができないのだ。だから少女は聡明な婿を取り、その人物が義父となる父の公務を引き継がねばならない。少女の結婚は本人の意思で覆るものではない。高潔な血筋を絶やさぬために、少女に託された使命だ。しかし逃れられぬ使命であると理解しながらも、長年内に秘め膨れ上がった想いを隠すことなど最早できなかった。
―お父様。私、好きな人がいるんです。
少女は泣いた。涙ながらに父に訴えた。逃れられぬ使命を理解はしている。婚約者の青年も嫌いではない。しかし十余年想い続けた王子様を諦めることがどうしてもできない。愛など伝えなくても良い。だがどうかその身が純潔である内に、愛しい王子様に一目会わせてはくれまいか。
厳格な支配者でありながらも、父は娘に対しては慈愛に満ち溢れていた。涙ながらに語られる少女の想いを蔑ろにすることなどできやしない。父は手の内にある駒を着々と動かす。万事を整え、少女に伝う。「今日より十日の後、外交使節団の一員として隣国の王宮に向かえ。お前は婚約者のいる身、彼の王に公に結婚を申し込むことはできない。自らの力で御心を射止めてこい。成し遂げれば私の力を持ってお前の婚約話は白紙に戻す。隣国に嫁ぎ、生涯を終えることを許そう」
そうしてメアリは馬車に乗り隣国へと向かう。幼い頃からの王子様に一目会うために。会わぬまま膨れ上がった想いを伝えるために。愛していると伝えるために。
***
「レイバック様、貴方を愛しています」
潤んだ栗色の瞳がレイバックを見つめていた。
「貴方の傍にいたいのです。どうか私を妃として、貴方のお傍に置いてください」
それは一人の少女の真摯な愛の告白であった。レイバックはすぐに答える言葉を持たず、目の前の少女をただただ見下ろす。
良い、と答える事は簡単だ。それで全てが上手くいく。少女の望みは叶い、二つの大国は強固な繋がりを得る。侍女も官吏も兵士も皆が喜ぶ。千年以上不在であった王妃の誕生に国土は湧き、ポトスの街は連日お祭り騒ぎだ。想像すればするほどに愉快な未来。悲しむ者などいない理想の行く先だ。
―しかしもし今「良い」と答えたなら、あの箱はどうなる。
心の奥底に佇む古びた箱。その存在を認識しながらも、頑なに開けることを拒んできた箱だ。錆びて、軋み、埃にまみれそれでも大事に守り抜いてきた。少女の想いに応えたのなら、あの箱は消えてなくなるのか。それとも変わらずそこにあるままなのか。
「メアリ姫、俺は―」
20
お気に入りに追加
252
あなたにおすすめの小説

前世が俺の友人で、いまだに俺のことが好きだって本当ですか
Bee
BL
半年前に別れた元恋人だった男の結婚式で、ユウジはそこではじめて二股をかけられていたことを知る。8年も一緒にいた相手に裏切られていたことを知り、ショックを受けたユウジは式場を飛び出してしまう。
無我夢中で車を走らせて、気がつくとユウジは見知らぬ場所にいることに気がつく。そこはまるで天国のようで、そばには7年前に死んだ友人の黒木が。黒木はユウジのことが好きだったと言い出して――
最初は主人公が別れた男の結婚式に参加しているところから始まります。
死んだ友人との再会と、その友人の生まれ変わりと思われる青年との出会いへと話が続きます。
生まれ変わり(?)21歳大学生×きれいめな48歳おっさんの話です。
※軽い性的表現あり
短編から長編に変更しています
悩める文官のひとりごと
きりか
BL
幼い頃から憧れていた騎士団に入りたくても、小柄でひ弱なリュカ・アルマンは、学校を卒業と同時に、文官として騎士団に入団する。方向音痴なリュカは、マルーン副団長の部屋と間違え、イザーク団長の部屋に入り込む。
そこでは、惚れ薬を口にした団長がいて…。
エチシーンが書けなくて、朝チュンとなりました。
ムーンライト様にも掲載しております。


侯爵令息セドリックの憂鬱な日
めちゅう
BL
第二王子の婚約者候補侯爵令息セドリック・グランツはある日王子の婚約者が決定した事を聞いてしまう。しかし先に王子からお呼びがかかったのはもう一人の候補だった。候補落ちを確信し泣き腫らした次の日は憂鬱な気分で幕を開ける———
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
初投稿で拙い文章ですが楽しんでいただけますと幸いです。

僕はお別れしたつもりでした
まと
BL
遠距離恋愛中だった恋人との関係が自然消滅した。どこか心にぽっかりと穴が空いたまま毎日を過ごしていた藍(あい)。大晦日の夜、寂しがり屋の親友と二人で年越しを楽しむことになり、ハメを外して酔いつぶれてしまう。目が覚めたら「ここどこ」状態!!
親友と仲良すぎな主人公と、別れたはずの恋人とのお話。
⚠️趣味で書いておりますので、誤字脱字のご報告や、世界観に対する批判コメントはご遠慮します。そういったコメントにはお返しできませんので宜しくお願いします。
大晦日あたりに出そうと思ったお話です。

【完結】オーロラ魔法士と第3王子
N2O
BL
全16話
※2022.2.18 完結しました。ありがとうございました。
※2023.11.18 文章を整えました。
辺境伯爵家次男のリーシュ・ギデオン(16)が、突然第3王子のラファド・ミファエル(18)の専属魔法士に任命された。
「なんで、僕?」
一人狼第3王子×黒髪美人魔法士
設定はふんわりです。
小説を書くのは初めてなので、何卒ご容赦ください。
嫌な人が出てこない、ふわふわハッピーエンドを書きたくて始めました。
感想聞かせていただけると大変嬉しいです。
表紙絵
⇨ キラクニ 様 X(@kirakunibl)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる