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緋糸たぐる御伽姫
2.望まぬ縁談
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その国の名を「ドラキス王国」という。
広大な国土に豊かな山林、緩やかな流れの河川。一年を通して気候は温暖で、農地に実る作物も多種に及ぶ。国土が平穏であることは然ることながら、ドラキス王国には「平和」を象徴するもう一つの理由がある。それはその国が、人間と魔族が共存する世界でも珍しい人魔混合国家であるということだ。人間と魔族が同じ国土内に暮らす、という意味で捉えれば、人魔混合国家は他にも例がある。しかし人間と魔族が分け隔てなく、平等に暮らす国家という意味合いになれば、現在過去含めドラキス王国の他に例はない。全ての民が差別なく、平穏に暮らすことのできる国家。建国より今年で1026年を迎えるドラキス王国は、近隣諸国のうちで「奇跡の国」とも呼ばれているのである。
ドラキス王国の頂に立つ王を、名をレイバックという。燃え盛る炎を思わせる緋色の髪、同じ色合いの緋色の眼を有したその人物は、齢1200を超える魔族の青年だ。即ち国王レイバックは、ドラキス王国の建国者であり初代国王、そして現国王でもある。彼はその身に宿す神獣の面影により、数多の民より畏敬の念を集めている。彼の宿す神獣とは、膨大な魔力を有するドラゴンだ。国王レイバックはドラゴンの色濃く引き、いざ有事の際は巨大な緋色のドラゴンへと姿を変える。大空の元に翼を広げる緋色のドラゴン。ドラキス王国はドラゴンの王が治める世界でただ一つの国家として、隣国へとその名を轟かせている。
***
今ゼータと青年が滞在するカフェテリアは、ドラキス王国の中心都市であるポトスの街の一角にひっそりと佇む。一部の洒落た民の間で、密かな人気を誇る場所だ。燦々と照り付ける日差しの元で、青年はやはり悩ましげな表情で報告を続ける。
「隣国のアポロ王を知っているか?ほんの数日前、アポロ王から個人的な文が届いてな。一人娘であるメアリ姫を俺の元に嫁がせたいというんだ」
「へぇ…隣国ってロシャ王国のことですよね?縁談話が舞い込むほど、密接な付き合いがありましたっけ」
書物に視線を落としたまま、ゼータは問う。ロシャ王国とは、ドラキス王国の西方に位置する大国の名だ。国土の規模を見ればドラキス王国と同程度、住まう民の数にさほどの差はないと言われている。ただ一つ2国の間で大きく異なるは、ロシャ王国は人間国家であるという点だ。アポロと呼ばれた国王も、メアリと呼ばれた姫も、住まう民も皆人間。魔族は国土への立ち入りすら厳しく制限される、純人間国家なのである。
「隣接する国家なのだから、当然最低限の国交はある。農畜産物の交易と多少の民の移住。ポトスの街を訪れるロシャ王国の観光客も多いだろう。だが密接な付き合いと言われると悩ましいな。なんせロシャ王国は魔族立ち入り禁止のお国柄だ。観光客の受入れだって一方的なものに留まっているし、俺はロシャ王国の王宮を訪れた経験はない。アポロ王とは年に数度、個人的な文をやり取りする仲ではあるが、国家として仲が良いかと聞かれるとなぁ…」
「それなら結婚話はアポロ王の打算でしょうね。両国の絆を深めるために、娘を他国に嫁がせるというのは定石じゃないですか。魔族にはあまり馴染みのない方法ですけれど、人間国家の王族の間では有り触れた話だと以前書物で読みました」
「打算か…しかしメアリ姫は、アポロ王の一人娘であるはずだ。メアリ姫が俺の元へとやって来てしまえば、世継ぎ不在の大惨事だぞ」
「それなら、メアリ姫がレイに惚れている?」
「それはない。俺はメアリ姫とは、一度たりとも顔を合わせた経験がない」
青年がそう言い切ったときに、丁度エルフの店員が菓子の盛り合わせを運んできた。平皿に載せられた数種類のクッキーと、一口大のプチケーキ。ついでに空になった青年のグラスになみなみとコーヒーを注ぎ、エルフの店員は店内へと戻って行く。渦巻き模様のクッキーを口内へと放り入れ、ゼータは書物のページを捲る。今のところ目の前の青年の話に、書物に勝るだけの興味はない。
「アポロ王の思惑など、この場でいくら話したところで机上の空論ですよ。肝心なのは、レイにその縁談話を受けるつもりはあるのかということ」
「ない。この俺が結婚だと?冗談だろう。公務すら放り出して、勝手気ままに街に下りているような奴だぞ。一年と経たずに愛想をつかされるに決まっているんだ。破局の文句はこうだ。貴方のような自由奔放人と結婚生活は送れません、さよなら」
「…そんなに自らを卑下する必要もないとは思いますけれど。すべき仕事はきちんとこなしているんでしょう」
「んー…まぁな」
青年は呟き、市松模様のクッキーを指先につまみ上げた。鼠のようにぽりぽりとクッキーの端をかじる。
ゼータは書物の上に手のひらを置き、まだ満杯に近いコーヒーグラスを手に取った。水滴に覆われたグラスの縁に唇を付け、黒褐色の液体を喉へと流し込む。給仕されてから長いこと放置していたために、グラス内の氷は溶け、コーヒーはすっかり薄くなってしまっている。1/3ほどを飲み干したグラスをテーブルに置き、今日ここに来て初めて、目の前に座る青年の姿を真正面から見据えた。ゼータが「レイ」と呼ぶ青年だ。天を向いて跳ね回る緋色の髪に、同じ色合いの瞳。質素な麻素材のシャツを身に纏ったレイと呼ばれる青年は、本名を「レイバック」という。そう、彼こそがドラキス王国の主であり、ドラゴンの血筋である国王レイバックだ。外見は若々しくとも、生きた年月は1200年を優に超える。たくましい肢体には魔力が漲り、一度ドラゴンに姿を変えればいかなる猛者も子ネズミ同然。ドラキス王国に暮らす者の中で、「神獣の王レイバック」の名を知らぬ者は一人として存在しない。
しかし幸と言うべきか不幸と言うべきか、民の多くは国王レイバックの顔を知らない。ドラゴンの血筋、燃えるような緋髪緋眼。文字列の情報は知り得ていても、一般の民が国王の御姿を拝見する機会など稀にしか存在しない。だからこそレイバックは毎週末公務を放り出し、こうしてゼータとの雑談を楽しむために街へと下りてくるのである。
ゼータとレイバックが揃ってカフェを訪れるのは、もう5年も前から続く習慣だ。しかし未だかつてカフェの店員にも、カフェを訪れる客人にも、「貴方はもしやレイバック国王殿」などと声を掛けられた経験はない。無重力に跳ね回る緋髪に、使い古された麻のシャツ。泥汚れの付いた革靴を履く青年がまさか一国の主であるなどと、声高に叫んだところで信じてはもらえないだろう。すっかり馴染みとなったカフェの店員も、毎週末に訪れる2人の客人をさほど意識はしていないはずだ。大方「ポトスの街に住まう男2人が、気ままな雑談を楽しんでいる」とでも思われているのだろう。気ままな雑談に違いはないのだから、勘違いは一向に構わない。
ゼータは書物に視線を落とし、次に読むべき行を探す。ここに至るまでのレイバックの報告を総括すれば「ドラキス王国の国王に、隣国の姫君との縁談話が舞い込んだ」ということだ。それが望まぬ事態となれば、レイバックの苦悩は理解できる。しかしまだ、ゼータにとっては書物を読み進めることが最優先事項。ようやく見つけた未読の行項ににんまりとしながら、社交辞令に口を開く。
「それで、レイは何をそんなに悩んでいるんですか?望まぬ縁談を持ち掛けられたのなら、アポロ王にお断りの文を送れば良いだけの話でしょう」
「それがそう簡単な話でもないんだ。当件に関しては迅速かつ厳粛な対応が必要とされる。呑気に文を認めていたのでは、俺はあれよあれよという間にメアリ姫と結婚することになってしまうんだ」
「…何で?めでたいはずの縁談話が、なぜそのような切迫した状況に陥っているんですか」
ゼータはレイバックの瞳を覗き込む。ようやく、目の前になされる会話に書物に勝るだけの興味が湧いてきた。
「まず一つ。メアリ姫との顔合わせの場が既に用意されている。ドラキス王国の王宮では、年に一度ロシャ王国からの外交使節団を受け入れているのは知っているな」
「それは、知っています」
「外交使節団」という名称はゼータも耳にした経験がある。それはドラキス王国とロシャ王国の国家間交流の一環だ。毎年年の初め頃に、ロシャ王国からやって来る数人の客人をドラキス王国の王宮に滞在させ、知識や技術の交流を行っているのである。やって来る客人の職業はといえば、商人から職人、王宮の官吏まで多岐に渡る。例年通りの日程であればそろそろ外交使節団受入れの時期かと、ゼータは遥か遠くにあるロシャ王国の地を思う。
「外交使節団は、今日から5日後にドラキス王国の王宮に到着する。あろうことかアポロ王は、その外交使節団の一員にメアリ姫を任命したんだ。国外視察と銘打ってな。外交使節団に人員に関しては、ロシャ王国側に選抜を一任している。誰がやってこようと俺に文句を言う筋合いはないが、こんなに強引な顔合わせがあるか?縁談話の文が届いた4日後に、追ってメアリ姫を外交使節団に任命した旨の文が届いたんだ。うだうだと迷って断りの文を送らずにいた俺も確かに悪いが…不味い、非常に不味いぞ。このまま何も手を打たずにいたら、俺は見る間に妻帯者だ」
レイバックは唸り、両手のひらで頭髪を掻き回した。元から整えられてはいなかった緋色の髪が、更に無造作に跳ね回っていく。
「ちょっとよく分からないんですけれど、何をそんなに焦っているんですか?顔合わせと言ったって、縁談話を進めるにあたりとりあえずメアリ姫と話をしてみてくれ、くらいのものでしょう。国賓としてしっかりとメアリ姫をおもてなしした後に、アポロ王にはお断りの文をしたためれば良いじゃないですか」
「ここで状況が切迫している理由の2つ目だ。王宮の重鎮らがこの縁談にやたらと乗り気である」
「へぇ、意外ですね。乗り気の理由は?」
「アポロ王が提示してきた成婚の報酬だ。俺とメアリ姫が無事結婚に至れば、魔導具の共同開発を検討すると言ってきている」
「魔導具!?」
ゼータは叫び、唐突に席を立った。丸テーブルの端に太腿があたり、天板上のコーヒーグラスが危うげに揺れる。平皿の上にクッキー山は崩れ、うちの一つが皿の端から零れ落ちる。周囲のテラス席に座る客人が、一体何事だとゼータの様子を伺っていた。しかし当のゼータはといえば、人の視線など気に掛ける余裕はない。
「魔導具って、魔導具ってあの魔導具ですか。魔力を持たぬ人間が魔法のような力を扱えるようにと、ロシャ王国の中枢部で密かに開発されているという謎の道具。その開発方法も動作方法も全て最大級の国家機密で、ロシャ王国内から持ち出す事は固く禁じられているとも聞きます。私の勤める魔法研究所にもロシャ王国からやって来た者がいるんですよ。興味本位で魔導具について尋ねた事があるんですけれどね、ほとんど何も知らなかったんです。ロシャ王国内に住んでいても、魔導具に触れる機会など滅多にないというんですよ。それだけの重大事項、国家機密。それを結婚の報酬に?アポロ王も奮発しましたねぇ」
「おいゼータ、やかましいから少し黙ってくれ。あと座れ」
怒涛の勢いで捲し立てるゼータは、レイバックの要請を受けて元いた椅子に腰を下ろした。しかし饒舌となった舌が止まることはない。
「魔道具を持ち出してくるとなると、アポロ王の本気が伺えます。本気でメアリ姫をレイの元に嫁がせたいのでしょうか。一人娘を送り出すにしては、あまり利がないような気もしますけど。…ちょっと待ってくださいよ。魔導具の共同開発と言いました?輸出じゃなくて?つまりドラキス王国内の研究機関で魔導具を扱えるようになるという意味ですか?それ即ち魔法研究所の研究員である私が魔導具に触れる機会が生まれるという事。こんな夢みたいな話あります?」
「ゼータ、あのな」
「レイ、受けましょう。メアリ姫の結婚話を。大丈夫、人間の一生は短いんです。彼女の寿命分くらい添い遂げても構わないでしょう。損はありませんよ」
「やかましい、この魔法オタク」
そう、ゼータは魔法オタクなのだ。それも1200年を超す長い人生の大半を、魔法の研究に費やす言わばマッドサイエンティストである。彼は今国家直属の研究機関である魔法研究所に籍を置き、昼夜大好きな魔法の研究に明け暮れている。専門としている研究は魔獣の分布調査。「珍しい魔法を使う魔獣に出会ってしまって、森で追い駆け回していたら1か月が経っていたんですよ」などと宣って、泥まみれで茶会の場に姿を見せた経験は1度や2度ではない。
「重ねるが、俺はこの縁談話を受け入れるつもりは更々ない。何を言っても無駄だぞ。たかだか人間の寿命分と言えども面倒極まりない」
「そうは言っても周りは皆乗り気なんでしょう?どうせ断れないのなら、無駄にごねるより2つ返事で申し出を受けた方が、メアリ姫とも良好な関係を築けますよ」
「あのな。俺は結婚の後押しをされるためにゼータにこの話をしたわけではない。縁談話を体よく断るために知恵を貸してほしいんだ」
「そうは言われましても、私はぜひこの縁談を受けてほしいですよ。魔導具のために」
あっけらかんと言い放つゼータに、レイバックはがっくりと肩を落とした。途端に伸ばされた2つの手のひらが、テーブルの上のゼータの両拳を握り込む。懇願するようにゼータの手を包む者は、心底困り果てた様子のレイバックである。形の良い眉は、情けなくも眉尻が下がっている。
「頼むって…友達だろ?アポロ王とメアリ姫の機嫌を損ねず上手く申し出を断ることができたら、魔導具については何とか話を通してみるから。共同開発は無理にしても、何とかその…こっそり触るくらいはさせてもらえないかと」
「そう言うことならまぁ…友達ですし」
情けなく縋り付く手のひらを振りほどき、ゼータはようやく読みかけの書物を閉じる。「魔」と名の付く物には目のないゼータであるが、長年の友人が困り果てていれば多少知恵を貸すくらいの情はあるのだ。
「レイが結婚に乗り気ではない、という理由では駄目なんですよね?」
「駄目だな。王族同士の結婚となる以上、まず優先されるべきは国益だ。魔導具の共同開発を報酬とされている以上、メアリ姫との結婚による利益は計り知れない。俺が闇雲に嫌々と言ったところで、ただの駄々と思われて終いだ」
確かにそうやもしれぬ。一介の研究員でしかないゼータは、当然アポロにもメアリにも謁見の経験などない。しかし隣国であるロシャ王国の王族となれば、日常生活のうちにいくらかの噂を耳にする機会はある。噂の言葉をそのまま借りるのならば、メアリは容姿端麗頭脳明晰。教養の一環として剣技を嗜んでおり、華奢な白腕が細身の剣を振る様はまさに妖精ごとき美しさ。容姿と才能に恵まれながらも気取ったところはなく、民の声掛けにも気軽に応じるような心根の優しい人物なのだという。
対してメアリの父であるアポロは、厳格かつ敏腕の御仁。愛娘を溺愛しているとの噂も耳にするが、それ以上にロシャ王国の民のことを思っている。ドラキス王国とロシャ王国の友好関係構築のためとなれば、愛娘を隣国に嫁がせることくらい容易くやってのけるだろう。秘蔵の魔導具を成婚の報酬として提示すること、それ即ちレイバックとメアリの結婚には、魔導具に勝るだけの利があるという意味に他ならないのだ。
そして結婚に前向きだというドラキス王国の重鎮らだ。敏腕のアポロに、妃の品格を備えたメアリ。そこに成婚報酬である秘蔵の魔導具。レイバックが現在独り身であり、恋人すらいないという現状を鑑みれば、受けるが当然の申し出なのだ。数多の利益を前にレイバックが「俺は結婚など御免、独身生活を謳歌する」などと述べたところで、駄々っ子の駄々と捉えられて終いである。レイバックの知らぬところで縁談は着々と進み、はたと気付けばドラキス王国は王妃誕生のお祭り騒ぎだ。
想像を働かせれば、長年の友人が多少気の毒にはなる。友のために一肌脱ぐかと、ゼータは頭脳をフル稼働させるのだ。
「婚姻に関する法が整っていないから、正式に妃として迎え入れる事ができないというのは?一国の姫が嫁いでくるというのに、口先だけの結婚ではまずいでしょう」
「それは相手方も承知の上だろう。魔族が結婚という形態を取らぬのは知れた話だ。それでも最近市井では、魔族の間でも結婚式を挙げる者がいると聞く。人間の真似をしてな」
「そういえば魔法研究所でもいましたねぇ。魔族同士で結婚式を挙げた人。華やかだし、面白い催しではありますよね」
魔族は結婚という形態を取らない。好き合って共に暮らす者がいても、法に縛られた関係になることを望まないのだ。それは元来魔族が奔放な性格であるがゆえ、そして彼らが幾千年という時を生きるがゆえである。人間のように数十年の時であれば、一人の者を想う事はできる。しかし千年二千年という時を、一人の者と想い合って過ごすことなどできやしない。だからドラキス王国に婚姻に関する法は定められておらず、結婚は当人の意思のみによるものとされている。それでも人口の一割を占める人間の影響を受け、見様見真似で結婚式を挙げる魔族がいるのもまた事実だ。
「あと…一応王宮には王妃の間があるんだ。俺が魔族という事実に違いはないが、民には結婚という体裁を取る者がおり、王宮には王妃のための部屋がある。法が整っていないという理由で結婚の申し出を断るのは難しいだろう」
「王妃の間って、今は何に使われているんですか?」
「物置だ。一部侍女の間ではゴミ溜めと呼ばれている」
「気の毒な部屋ですねえ…」
婚姻法が無いという理由も駄目。どうしたものかと、ゼータは市松模様のクッキーを口に放り込む。制度面からの謝絶が無理なのであれば、やはり情に訴えるしか方法はない。
「レイに恋人がいる事にするのは?恋人じゃ弱いですか…。生涯添い遂げると約束した女性がいる、と訴えるのはどうでしょう。愛する者がいるからメアリ姫とは結婚できないと言えば、納得してもらえませんか?」
「愛する者か…」
「婚姻法がないんだから、妃として迎えていなかった事実は不自然ではないです。密かに愛を育んでいた事にするんですよ。時たま街で逢瀬を重ねて」
「案としては悪くないが、架空の人物では皆の説得は難しいぞ。うちの重鎮らを説得するならば、実際にその人物と引き合わせねば説得力は皆無だ」
「それもそうですね。街で適当に声を掛ければ?一日限りの恋人役を請け負ってくれと」
ゼータの提案に、レイバックはううむ、と声を上げる。
「一国の姫君との縁談を断るのだから、作り話とは言え相手は選ばねばならんぞ。教養が無くては困るし、立ち振る舞いにも一定の気品は必要だろう。かつ俺の事を知っていて貰わねばならん。付き合いが浅いと気づかれれば企みは失敗だ」
「…入念な打ち合わせが必要ですね」
「悪い事に外交使節団の到着は5日後に迫っている。今から恋人役を見繕って、重鎮らに引き合わせるための所作を教え、果ては仲睦まじさを演出する架空の思い出話を創り上げるだと?到底間に合わんぞ」
「ならこの案は不採用です。他の手を考えましょう」
架空の恋人案も駄目。場は沈黙となり、互いが互いに何か良い案がないかと物思いに耽る。熟考の時間が数分にも及んだときだ。唐突に、レイバックが声を上げる。
「サキュバス」
「はい?」
ゼータは胡乱気な声を上げる。一方のレイバックはといえば、希望に満ち溢れた眼差しでゼータを見つめている。
「そうだ。ゼータはサキュバスだろう。すっかり忘れていた」
「まぁ…そうですね」
「見た目の性別を自由に変えられる」
「…その通りです」
テーブルの上に身を乗り出してくるレイバックに、ゼータは嫌な予感がするとばかりに身を竦めた。
サキュバスはドラキス王国内では希少な種族だ。その生態については不明な点も多く、分厚い書物を捲っても大した情報には行き当らない。一般に出回る情報と言えば「希少、性別を変えられる」程度のものだ。しかし今回の件に至ってはその情報で事足りる。幼少時より男性の姿で日常生活を送るゼータは、女性の姿への変身を面白半分に他者に披露した経験はない。しかしゼータが「性別を変える特技を持つ」ということは、紛れもない事実なのだ。
「決まりだ。この手で行こう」
「待ってください。どの手?」
ぱんと手を叩くレイバックの前で、ゼータは焦りの表情である。
「察しの通りだ。ゼータに俺の恋人を演じてもらう。話し方は丁寧だし、国家帰属の研究員なのだから最低限の礼節はあるだろう。オタクの名に相応しく教養もある。何より俺の事を良く知っている。実際にこうして週に1度逢瀬を重ねているのだから、無闇に嘘を重ねる必要もない」
「逢瀬って…。待ってください。私、偽り事は苦手ですよ。絶対どこかでボロを出しますって」
「大丈夫だ。取り繕う必要はない。気安い関係だと思われた方が都合は良いんだ。今日のように軽口を叩いてもらっても構わない。よし、決まれば善は急げだ。近日中に王宮に来られるか?外交使節団の到着前に、重鎮らへの顔合わせを済ませてしまおう」
とんとん拍子に話を進めようとするレイバック。押し付けられる面倒な役回りに、焦ったゼータは両手で強くテーブルを叩く。周囲に座る客人が、またちらとゼータの様子を伺い見る。
「待って…待ってください。私に利がありません」
「利?」
「円満の縁談話に湧いて出た邪魔者ですよ?完全に悪役じゃないですか。恨みを買う事もあるかもしれないし、正直御免被りたいです。それでも頼みたいというのなら、私にも利を与えてください」
思いの他大きく声が響いた事に焦り、ゼータはテラス席のあちこちを申し訳なさそうに見やった。「利か」呟くレイバックを睨みながら、ゼータは掴み上げた菓子を次から次へと口に入れる。面倒な依頼を出すのならそれ相応の報酬を提示しろ。要望は至極当然のはずだ。
真面目な表情のレイバックが低い声で語りだしたのは、ゼータが菓子皿の半分を空にした頃であった。
「街の南部にある研究所が数か月前に取り壊しになった。そこに充てる予定であった研究開発費が浮いている。ゼータのいる魔法研究所に回そうじゃないか」
ゼータは菓子を運ぶ指先の動きを止める。口内に溜まった菓子を咀嚼する。与えられる利はそれだけか、無言で問う。
「あとは…そうだな。以前キメラの育成に知のある人材が欲しいと言っていたな。王宮の官吏から数名融通しよう」
ゼータの瞳が大きく見開かれる。王宮からの調査依頼をこなす魔法研究所は、慢性的な業務過多。中でも多数の生物を飼育するキメラ棟の人手不足は深刻だ。ゼータ自身の研究はキメラ棟には縁遠いが、キメラ棟在籍の研究員は連日残業続きとの話も聞く。キメラに知のある助っ人が派遣されれば、彼らの業務は相当楽になるはずだ。
しかし、まだだ。まだ足りない。レイバックの提示する利は、魔法研究所に係る物ばかり。ゼータ個人の利益にはなり得ない。まぁそう焦りなさるなと、レイバックの口元は薄く笑う。
「さらにもう一つ。成婚報酬である魔導具の共同開発に向けて、外交使節団は魔導具の現物をいくつか持参するらしい。俺の恋人役として王宮に滞在していれば、お披露目にゼータが同席できるよう口利きをしてやろう」
「引き受けましょう」
ゼータは見事に陥落した。どちらともなく差し出された手のひらが、テーブルの真ん中で固い握手を交わす。ゼータの手のひらを握り込むレイバックは、一国の王にはあるまじき人の悪い笑みを浮かべている。
時計の針は既に15時を回っている。人々が一服を取りたくなるこの時間、自然とカフェには人の姿が増える。いつもならば茶会は当にお開きの時間だが、今日はまだまだ詰めねばならぬ議論が残っている。重鎮らとの顔合わせ日程、架空の馴れ初め話、女性体のゼータが名乗る偽名。2人は額を突き合わせ、真剣な表情で議論を重ねる。レイバックは望まぬ結婚を回避するために、ゼータは鼻先にぶら下げられた3つの報酬を受け取るため。入念な打ち合わせが必要とされる事案だ。
白熱する議論の最中に、ゼータはぽつりと呟いた。
「今更ですけど職権乱用甚だしいですね」
「国家の危機だ。致し方ない」
広大な国土に豊かな山林、緩やかな流れの河川。一年を通して気候は温暖で、農地に実る作物も多種に及ぶ。国土が平穏であることは然ることながら、ドラキス王国には「平和」を象徴するもう一つの理由がある。それはその国が、人間と魔族が共存する世界でも珍しい人魔混合国家であるということだ。人間と魔族が同じ国土内に暮らす、という意味で捉えれば、人魔混合国家は他にも例がある。しかし人間と魔族が分け隔てなく、平等に暮らす国家という意味合いになれば、現在過去含めドラキス王国の他に例はない。全ての民が差別なく、平穏に暮らすことのできる国家。建国より今年で1026年を迎えるドラキス王国は、近隣諸国のうちで「奇跡の国」とも呼ばれているのである。
ドラキス王国の頂に立つ王を、名をレイバックという。燃え盛る炎を思わせる緋色の髪、同じ色合いの緋色の眼を有したその人物は、齢1200を超える魔族の青年だ。即ち国王レイバックは、ドラキス王国の建国者であり初代国王、そして現国王でもある。彼はその身に宿す神獣の面影により、数多の民より畏敬の念を集めている。彼の宿す神獣とは、膨大な魔力を有するドラゴンだ。国王レイバックはドラゴンの色濃く引き、いざ有事の際は巨大な緋色のドラゴンへと姿を変える。大空の元に翼を広げる緋色のドラゴン。ドラキス王国はドラゴンの王が治める世界でただ一つの国家として、隣国へとその名を轟かせている。
***
今ゼータと青年が滞在するカフェテリアは、ドラキス王国の中心都市であるポトスの街の一角にひっそりと佇む。一部の洒落た民の間で、密かな人気を誇る場所だ。燦々と照り付ける日差しの元で、青年はやはり悩ましげな表情で報告を続ける。
「隣国のアポロ王を知っているか?ほんの数日前、アポロ王から個人的な文が届いてな。一人娘であるメアリ姫を俺の元に嫁がせたいというんだ」
「へぇ…隣国ってロシャ王国のことですよね?縁談話が舞い込むほど、密接な付き合いがありましたっけ」
書物に視線を落としたまま、ゼータは問う。ロシャ王国とは、ドラキス王国の西方に位置する大国の名だ。国土の規模を見ればドラキス王国と同程度、住まう民の数にさほどの差はないと言われている。ただ一つ2国の間で大きく異なるは、ロシャ王国は人間国家であるという点だ。アポロと呼ばれた国王も、メアリと呼ばれた姫も、住まう民も皆人間。魔族は国土への立ち入りすら厳しく制限される、純人間国家なのである。
「隣接する国家なのだから、当然最低限の国交はある。農畜産物の交易と多少の民の移住。ポトスの街を訪れるロシャ王国の観光客も多いだろう。だが密接な付き合いと言われると悩ましいな。なんせロシャ王国は魔族立ち入り禁止のお国柄だ。観光客の受入れだって一方的なものに留まっているし、俺はロシャ王国の王宮を訪れた経験はない。アポロ王とは年に数度、個人的な文をやり取りする仲ではあるが、国家として仲が良いかと聞かれるとなぁ…」
「それなら結婚話はアポロ王の打算でしょうね。両国の絆を深めるために、娘を他国に嫁がせるというのは定石じゃないですか。魔族にはあまり馴染みのない方法ですけれど、人間国家の王族の間では有り触れた話だと以前書物で読みました」
「打算か…しかしメアリ姫は、アポロ王の一人娘であるはずだ。メアリ姫が俺の元へとやって来てしまえば、世継ぎ不在の大惨事だぞ」
「それなら、メアリ姫がレイに惚れている?」
「それはない。俺はメアリ姫とは、一度たりとも顔を合わせた経験がない」
青年がそう言い切ったときに、丁度エルフの店員が菓子の盛り合わせを運んできた。平皿に載せられた数種類のクッキーと、一口大のプチケーキ。ついでに空になった青年のグラスになみなみとコーヒーを注ぎ、エルフの店員は店内へと戻って行く。渦巻き模様のクッキーを口内へと放り入れ、ゼータは書物のページを捲る。今のところ目の前の青年の話に、書物に勝るだけの興味はない。
「アポロ王の思惑など、この場でいくら話したところで机上の空論ですよ。肝心なのは、レイにその縁談話を受けるつもりはあるのかということ」
「ない。この俺が結婚だと?冗談だろう。公務すら放り出して、勝手気ままに街に下りているような奴だぞ。一年と経たずに愛想をつかされるに決まっているんだ。破局の文句はこうだ。貴方のような自由奔放人と結婚生活は送れません、さよなら」
「…そんなに自らを卑下する必要もないとは思いますけれど。すべき仕事はきちんとこなしているんでしょう」
「んー…まぁな」
青年は呟き、市松模様のクッキーを指先につまみ上げた。鼠のようにぽりぽりとクッキーの端をかじる。
ゼータは書物の上に手のひらを置き、まだ満杯に近いコーヒーグラスを手に取った。水滴に覆われたグラスの縁に唇を付け、黒褐色の液体を喉へと流し込む。給仕されてから長いこと放置していたために、グラス内の氷は溶け、コーヒーはすっかり薄くなってしまっている。1/3ほどを飲み干したグラスをテーブルに置き、今日ここに来て初めて、目の前に座る青年の姿を真正面から見据えた。ゼータが「レイ」と呼ぶ青年だ。天を向いて跳ね回る緋色の髪に、同じ色合いの瞳。質素な麻素材のシャツを身に纏ったレイと呼ばれる青年は、本名を「レイバック」という。そう、彼こそがドラキス王国の主であり、ドラゴンの血筋である国王レイバックだ。外見は若々しくとも、生きた年月は1200年を優に超える。たくましい肢体には魔力が漲り、一度ドラゴンに姿を変えればいかなる猛者も子ネズミ同然。ドラキス王国に暮らす者の中で、「神獣の王レイバック」の名を知らぬ者は一人として存在しない。
しかし幸と言うべきか不幸と言うべきか、民の多くは国王レイバックの顔を知らない。ドラゴンの血筋、燃えるような緋髪緋眼。文字列の情報は知り得ていても、一般の民が国王の御姿を拝見する機会など稀にしか存在しない。だからこそレイバックは毎週末公務を放り出し、こうしてゼータとの雑談を楽しむために街へと下りてくるのである。
ゼータとレイバックが揃ってカフェを訪れるのは、もう5年も前から続く習慣だ。しかし未だかつてカフェの店員にも、カフェを訪れる客人にも、「貴方はもしやレイバック国王殿」などと声を掛けられた経験はない。無重力に跳ね回る緋髪に、使い古された麻のシャツ。泥汚れの付いた革靴を履く青年がまさか一国の主であるなどと、声高に叫んだところで信じてはもらえないだろう。すっかり馴染みとなったカフェの店員も、毎週末に訪れる2人の客人をさほど意識はしていないはずだ。大方「ポトスの街に住まう男2人が、気ままな雑談を楽しんでいる」とでも思われているのだろう。気ままな雑談に違いはないのだから、勘違いは一向に構わない。
ゼータは書物に視線を落とし、次に読むべき行を探す。ここに至るまでのレイバックの報告を総括すれば「ドラキス王国の国王に、隣国の姫君との縁談話が舞い込んだ」ということだ。それが望まぬ事態となれば、レイバックの苦悩は理解できる。しかしまだ、ゼータにとっては書物を読み進めることが最優先事項。ようやく見つけた未読の行項ににんまりとしながら、社交辞令に口を開く。
「それで、レイは何をそんなに悩んでいるんですか?望まぬ縁談を持ち掛けられたのなら、アポロ王にお断りの文を送れば良いだけの話でしょう」
「それがそう簡単な話でもないんだ。当件に関しては迅速かつ厳粛な対応が必要とされる。呑気に文を認めていたのでは、俺はあれよあれよという間にメアリ姫と結婚することになってしまうんだ」
「…何で?めでたいはずの縁談話が、なぜそのような切迫した状況に陥っているんですか」
ゼータはレイバックの瞳を覗き込む。ようやく、目の前になされる会話に書物に勝るだけの興味が湧いてきた。
「まず一つ。メアリ姫との顔合わせの場が既に用意されている。ドラキス王国の王宮では、年に一度ロシャ王国からの外交使節団を受け入れているのは知っているな」
「それは、知っています」
「外交使節団」という名称はゼータも耳にした経験がある。それはドラキス王国とロシャ王国の国家間交流の一環だ。毎年年の初め頃に、ロシャ王国からやって来る数人の客人をドラキス王国の王宮に滞在させ、知識や技術の交流を行っているのである。やって来る客人の職業はといえば、商人から職人、王宮の官吏まで多岐に渡る。例年通りの日程であればそろそろ外交使節団受入れの時期かと、ゼータは遥か遠くにあるロシャ王国の地を思う。
「外交使節団は、今日から5日後にドラキス王国の王宮に到着する。あろうことかアポロ王は、その外交使節団の一員にメアリ姫を任命したんだ。国外視察と銘打ってな。外交使節団に人員に関しては、ロシャ王国側に選抜を一任している。誰がやってこようと俺に文句を言う筋合いはないが、こんなに強引な顔合わせがあるか?縁談話の文が届いた4日後に、追ってメアリ姫を外交使節団に任命した旨の文が届いたんだ。うだうだと迷って断りの文を送らずにいた俺も確かに悪いが…不味い、非常に不味いぞ。このまま何も手を打たずにいたら、俺は見る間に妻帯者だ」
レイバックは唸り、両手のひらで頭髪を掻き回した。元から整えられてはいなかった緋色の髪が、更に無造作に跳ね回っていく。
「ちょっとよく分からないんですけれど、何をそんなに焦っているんですか?顔合わせと言ったって、縁談話を進めるにあたりとりあえずメアリ姫と話をしてみてくれ、くらいのものでしょう。国賓としてしっかりとメアリ姫をおもてなしした後に、アポロ王にはお断りの文をしたためれば良いじゃないですか」
「ここで状況が切迫している理由の2つ目だ。王宮の重鎮らがこの縁談にやたらと乗り気である」
「へぇ、意外ですね。乗り気の理由は?」
「アポロ王が提示してきた成婚の報酬だ。俺とメアリ姫が無事結婚に至れば、魔導具の共同開発を検討すると言ってきている」
「魔導具!?」
ゼータは叫び、唐突に席を立った。丸テーブルの端に太腿があたり、天板上のコーヒーグラスが危うげに揺れる。平皿の上にクッキー山は崩れ、うちの一つが皿の端から零れ落ちる。周囲のテラス席に座る客人が、一体何事だとゼータの様子を伺っていた。しかし当のゼータはといえば、人の視線など気に掛ける余裕はない。
「魔導具って、魔導具ってあの魔導具ですか。魔力を持たぬ人間が魔法のような力を扱えるようにと、ロシャ王国の中枢部で密かに開発されているという謎の道具。その開発方法も動作方法も全て最大級の国家機密で、ロシャ王国内から持ち出す事は固く禁じられているとも聞きます。私の勤める魔法研究所にもロシャ王国からやって来た者がいるんですよ。興味本位で魔導具について尋ねた事があるんですけれどね、ほとんど何も知らなかったんです。ロシャ王国内に住んでいても、魔導具に触れる機会など滅多にないというんですよ。それだけの重大事項、国家機密。それを結婚の報酬に?アポロ王も奮発しましたねぇ」
「おいゼータ、やかましいから少し黙ってくれ。あと座れ」
怒涛の勢いで捲し立てるゼータは、レイバックの要請を受けて元いた椅子に腰を下ろした。しかし饒舌となった舌が止まることはない。
「魔道具を持ち出してくるとなると、アポロ王の本気が伺えます。本気でメアリ姫をレイの元に嫁がせたいのでしょうか。一人娘を送り出すにしては、あまり利がないような気もしますけど。…ちょっと待ってくださいよ。魔導具の共同開発と言いました?輸出じゃなくて?つまりドラキス王国内の研究機関で魔導具を扱えるようになるという意味ですか?それ即ち魔法研究所の研究員である私が魔導具に触れる機会が生まれるという事。こんな夢みたいな話あります?」
「ゼータ、あのな」
「レイ、受けましょう。メアリ姫の結婚話を。大丈夫、人間の一生は短いんです。彼女の寿命分くらい添い遂げても構わないでしょう。損はありませんよ」
「やかましい、この魔法オタク」
そう、ゼータは魔法オタクなのだ。それも1200年を超す長い人生の大半を、魔法の研究に費やす言わばマッドサイエンティストである。彼は今国家直属の研究機関である魔法研究所に籍を置き、昼夜大好きな魔法の研究に明け暮れている。専門としている研究は魔獣の分布調査。「珍しい魔法を使う魔獣に出会ってしまって、森で追い駆け回していたら1か月が経っていたんですよ」などと宣って、泥まみれで茶会の場に姿を見せた経験は1度や2度ではない。
「重ねるが、俺はこの縁談話を受け入れるつもりは更々ない。何を言っても無駄だぞ。たかだか人間の寿命分と言えども面倒極まりない」
「そうは言っても周りは皆乗り気なんでしょう?どうせ断れないのなら、無駄にごねるより2つ返事で申し出を受けた方が、メアリ姫とも良好な関係を築けますよ」
「あのな。俺は結婚の後押しをされるためにゼータにこの話をしたわけではない。縁談話を体よく断るために知恵を貸してほしいんだ」
「そうは言われましても、私はぜひこの縁談を受けてほしいですよ。魔導具のために」
あっけらかんと言い放つゼータに、レイバックはがっくりと肩を落とした。途端に伸ばされた2つの手のひらが、テーブルの上のゼータの両拳を握り込む。懇願するようにゼータの手を包む者は、心底困り果てた様子のレイバックである。形の良い眉は、情けなくも眉尻が下がっている。
「頼むって…友達だろ?アポロ王とメアリ姫の機嫌を損ねず上手く申し出を断ることができたら、魔導具については何とか話を通してみるから。共同開発は無理にしても、何とかその…こっそり触るくらいはさせてもらえないかと」
「そう言うことならまぁ…友達ですし」
情けなく縋り付く手のひらを振りほどき、ゼータはようやく読みかけの書物を閉じる。「魔」と名の付く物には目のないゼータであるが、長年の友人が困り果てていれば多少知恵を貸すくらいの情はあるのだ。
「レイが結婚に乗り気ではない、という理由では駄目なんですよね?」
「駄目だな。王族同士の結婚となる以上、まず優先されるべきは国益だ。魔導具の共同開発を報酬とされている以上、メアリ姫との結婚による利益は計り知れない。俺が闇雲に嫌々と言ったところで、ただの駄々と思われて終いだ」
確かにそうやもしれぬ。一介の研究員でしかないゼータは、当然アポロにもメアリにも謁見の経験などない。しかし隣国であるロシャ王国の王族となれば、日常生活のうちにいくらかの噂を耳にする機会はある。噂の言葉をそのまま借りるのならば、メアリは容姿端麗頭脳明晰。教養の一環として剣技を嗜んでおり、華奢な白腕が細身の剣を振る様はまさに妖精ごとき美しさ。容姿と才能に恵まれながらも気取ったところはなく、民の声掛けにも気軽に応じるような心根の優しい人物なのだという。
対してメアリの父であるアポロは、厳格かつ敏腕の御仁。愛娘を溺愛しているとの噂も耳にするが、それ以上にロシャ王国の民のことを思っている。ドラキス王国とロシャ王国の友好関係構築のためとなれば、愛娘を隣国に嫁がせることくらい容易くやってのけるだろう。秘蔵の魔導具を成婚の報酬として提示すること、それ即ちレイバックとメアリの結婚には、魔導具に勝るだけの利があるという意味に他ならないのだ。
そして結婚に前向きだというドラキス王国の重鎮らだ。敏腕のアポロに、妃の品格を備えたメアリ。そこに成婚報酬である秘蔵の魔導具。レイバックが現在独り身であり、恋人すらいないという現状を鑑みれば、受けるが当然の申し出なのだ。数多の利益を前にレイバックが「俺は結婚など御免、独身生活を謳歌する」などと述べたところで、駄々っ子の駄々と捉えられて終いである。レイバックの知らぬところで縁談は着々と進み、はたと気付けばドラキス王国は王妃誕生のお祭り騒ぎだ。
想像を働かせれば、長年の友人が多少気の毒にはなる。友のために一肌脱ぐかと、ゼータは頭脳をフル稼働させるのだ。
「婚姻に関する法が整っていないから、正式に妃として迎え入れる事ができないというのは?一国の姫が嫁いでくるというのに、口先だけの結婚ではまずいでしょう」
「それは相手方も承知の上だろう。魔族が結婚という形態を取らぬのは知れた話だ。それでも最近市井では、魔族の間でも結婚式を挙げる者がいると聞く。人間の真似をしてな」
「そういえば魔法研究所でもいましたねぇ。魔族同士で結婚式を挙げた人。華やかだし、面白い催しではありますよね」
魔族は結婚という形態を取らない。好き合って共に暮らす者がいても、法に縛られた関係になることを望まないのだ。それは元来魔族が奔放な性格であるがゆえ、そして彼らが幾千年という時を生きるがゆえである。人間のように数十年の時であれば、一人の者を想う事はできる。しかし千年二千年という時を、一人の者と想い合って過ごすことなどできやしない。だからドラキス王国に婚姻に関する法は定められておらず、結婚は当人の意思のみによるものとされている。それでも人口の一割を占める人間の影響を受け、見様見真似で結婚式を挙げる魔族がいるのもまた事実だ。
「あと…一応王宮には王妃の間があるんだ。俺が魔族という事実に違いはないが、民には結婚という体裁を取る者がおり、王宮には王妃のための部屋がある。法が整っていないという理由で結婚の申し出を断るのは難しいだろう」
「王妃の間って、今は何に使われているんですか?」
「物置だ。一部侍女の間ではゴミ溜めと呼ばれている」
「気の毒な部屋ですねえ…」
婚姻法が無いという理由も駄目。どうしたものかと、ゼータは市松模様のクッキーを口に放り込む。制度面からの謝絶が無理なのであれば、やはり情に訴えるしか方法はない。
「レイに恋人がいる事にするのは?恋人じゃ弱いですか…。生涯添い遂げると約束した女性がいる、と訴えるのはどうでしょう。愛する者がいるからメアリ姫とは結婚できないと言えば、納得してもらえませんか?」
「愛する者か…」
「婚姻法がないんだから、妃として迎えていなかった事実は不自然ではないです。密かに愛を育んでいた事にするんですよ。時たま街で逢瀬を重ねて」
「案としては悪くないが、架空の人物では皆の説得は難しいぞ。うちの重鎮らを説得するならば、実際にその人物と引き合わせねば説得力は皆無だ」
「それもそうですね。街で適当に声を掛ければ?一日限りの恋人役を請け負ってくれと」
ゼータの提案に、レイバックはううむ、と声を上げる。
「一国の姫君との縁談を断るのだから、作り話とは言え相手は選ばねばならんぞ。教養が無くては困るし、立ち振る舞いにも一定の気品は必要だろう。かつ俺の事を知っていて貰わねばならん。付き合いが浅いと気づかれれば企みは失敗だ」
「…入念な打ち合わせが必要ですね」
「悪い事に外交使節団の到着は5日後に迫っている。今から恋人役を見繕って、重鎮らに引き合わせるための所作を教え、果ては仲睦まじさを演出する架空の思い出話を創り上げるだと?到底間に合わんぞ」
「ならこの案は不採用です。他の手を考えましょう」
架空の恋人案も駄目。場は沈黙となり、互いが互いに何か良い案がないかと物思いに耽る。熟考の時間が数分にも及んだときだ。唐突に、レイバックが声を上げる。
「サキュバス」
「はい?」
ゼータは胡乱気な声を上げる。一方のレイバックはといえば、希望に満ち溢れた眼差しでゼータを見つめている。
「そうだ。ゼータはサキュバスだろう。すっかり忘れていた」
「まぁ…そうですね」
「見た目の性別を自由に変えられる」
「…その通りです」
テーブルの上に身を乗り出してくるレイバックに、ゼータは嫌な予感がするとばかりに身を竦めた。
サキュバスはドラキス王国内では希少な種族だ。その生態については不明な点も多く、分厚い書物を捲っても大した情報には行き当らない。一般に出回る情報と言えば「希少、性別を変えられる」程度のものだ。しかし今回の件に至ってはその情報で事足りる。幼少時より男性の姿で日常生活を送るゼータは、女性の姿への変身を面白半分に他者に披露した経験はない。しかしゼータが「性別を変える特技を持つ」ということは、紛れもない事実なのだ。
「決まりだ。この手で行こう」
「待ってください。どの手?」
ぱんと手を叩くレイバックの前で、ゼータは焦りの表情である。
「察しの通りだ。ゼータに俺の恋人を演じてもらう。話し方は丁寧だし、国家帰属の研究員なのだから最低限の礼節はあるだろう。オタクの名に相応しく教養もある。何より俺の事を良く知っている。実際にこうして週に1度逢瀬を重ねているのだから、無闇に嘘を重ねる必要もない」
「逢瀬って…。待ってください。私、偽り事は苦手ですよ。絶対どこかでボロを出しますって」
「大丈夫だ。取り繕う必要はない。気安い関係だと思われた方が都合は良いんだ。今日のように軽口を叩いてもらっても構わない。よし、決まれば善は急げだ。近日中に王宮に来られるか?外交使節団の到着前に、重鎮らへの顔合わせを済ませてしまおう」
とんとん拍子に話を進めようとするレイバック。押し付けられる面倒な役回りに、焦ったゼータは両手で強くテーブルを叩く。周囲に座る客人が、またちらとゼータの様子を伺い見る。
「待って…待ってください。私に利がありません」
「利?」
「円満の縁談話に湧いて出た邪魔者ですよ?完全に悪役じゃないですか。恨みを買う事もあるかもしれないし、正直御免被りたいです。それでも頼みたいというのなら、私にも利を与えてください」
思いの他大きく声が響いた事に焦り、ゼータはテラス席のあちこちを申し訳なさそうに見やった。「利か」呟くレイバックを睨みながら、ゼータは掴み上げた菓子を次から次へと口に入れる。面倒な依頼を出すのならそれ相応の報酬を提示しろ。要望は至極当然のはずだ。
真面目な表情のレイバックが低い声で語りだしたのは、ゼータが菓子皿の半分を空にした頃であった。
「街の南部にある研究所が数か月前に取り壊しになった。そこに充てる予定であった研究開発費が浮いている。ゼータのいる魔法研究所に回そうじゃないか」
ゼータは菓子を運ぶ指先の動きを止める。口内に溜まった菓子を咀嚼する。与えられる利はそれだけか、無言で問う。
「あとは…そうだな。以前キメラの育成に知のある人材が欲しいと言っていたな。王宮の官吏から数名融通しよう」
ゼータの瞳が大きく見開かれる。王宮からの調査依頼をこなす魔法研究所は、慢性的な業務過多。中でも多数の生物を飼育するキメラ棟の人手不足は深刻だ。ゼータ自身の研究はキメラ棟には縁遠いが、キメラ棟在籍の研究員は連日残業続きとの話も聞く。キメラに知のある助っ人が派遣されれば、彼らの業務は相当楽になるはずだ。
しかし、まだだ。まだ足りない。レイバックの提示する利は、魔法研究所に係る物ばかり。ゼータ個人の利益にはなり得ない。まぁそう焦りなさるなと、レイバックの口元は薄く笑う。
「さらにもう一つ。成婚報酬である魔導具の共同開発に向けて、外交使節団は魔導具の現物をいくつか持参するらしい。俺の恋人役として王宮に滞在していれば、お披露目にゼータが同席できるよう口利きをしてやろう」
「引き受けましょう」
ゼータは見事に陥落した。どちらともなく差し出された手のひらが、テーブルの真ん中で固い握手を交わす。ゼータの手のひらを握り込むレイバックは、一国の王にはあるまじき人の悪い笑みを浮かべている。
時計の針は既に15時を回っている。人々が一服を取りたくなるこの時間、自然とカフェには人の姿が増える。いつもならば茶会は当にお開きの時間だが、今日はまだまだ詰めねばならぬ議論が残っている。重鎮らとの顔合わせ日程、架空の馴れ初め話、女性体のゼータが名乗る偽名。2人は額を突き合わせ、真剣な表情で議論を重ねる。レイバックは望まぬ結婚を回避するために、ゼータは鼻先にぶら下げられた3つの報酬を受け取るため。入念な打ち合わせが必要とされる事案だ。
白熱する議論の最中に、ゼータはぽつりと呟いた。
「今更ですけど職権乱用甚だしいですね」
「国家の危機だ。致し方ない」
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