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昔むかしのそのまた昔
しおりを挟む──桂花の花が揺れている。
秋の庭院。春や夏のような鮮やかさを失う代わりに、どことなく高貴な風情を感じさせる。さわさわと鳴る果樹からは仄かに甘い香りが漂っていた。
「──さま、姫神さま、」
幼さの残る声に呼び掛けられ、振り返る。
視線の先にいたのはまだ十にも満たない子ども。柔和な面立ちの少年はしかし、不満げに見上げてくる。
「姫神さまはつくづく現に興味がないのですね。いつもぼうっとなさって、どこか遠くを見てらっしゃる」
「そんなことありませんよ」
「あるから言っているのです」
卓子を挟んだ向かい、手習いをしていたはずの少年はすっかりその手を止めてしまっていた。
責められている。とはいえ、反論も怒りも湧かない。むしろ少年の膨らんだ頬が可愛らしくて、笑みが溢れた。
人の子の、なんと愛おしいこと。「なぜ笑うのですか」そう口を尖らす少年に、「ごめんなさいね」と頭を撫でる。
「お庭があんまりにもきれいだったものだから、つい」
許してね、と窺い見れば、少年は渋面のまま小さく顎を引く。
「仕方ありませんね」大人びた物言いは背伸びしたがる子ども特有のそれ。そういえば以前『早く大人になりたい』とぼやいていた。
『早く大人になって、そしたら──』そしたらどうするの?続く言葉は少年が呑み込んでしまったからわからない。でも大人になってどうするというのだろう?時が経つということは、それだけ死に近づくということだ。
その時にはもうこの柔らかな膚も温もりも残されていないのだろう。
「もしや故郷を想っていたのですか?姫神さまは海を渡った先の、遠い異郷の地からこちらにいらしたのですよね」
「ええ。是非に、と乞われたから──」
「……やはりふるさとは恋しいですか」
少年は口を真一文字にして訊ねてくる。答えを恐れるかのように、それでもなお目を逸らすことはなく。
問いかける少年の真摯な眼差しにつられ、姫神と呼ばれた女も表情を改める。
「どう、なんでしょう……」
首を傾けると、はらりと金糸が胸元に落ちる。
この国の人が持たぬ色合い。海を隔てた先、大陸の出身であることを示すもの。
一見すると異形の者──と捉えられることも多いそれを、しかしこの少年は初対面の時から好意的に見てくれた。『春の日差しのようだ』そう言って、神の身なれど人間のように慕ってくれた。
だから、
「寂しくはないのです。懐かしくは思いますけれど、でも、今の私には貴方がいますから──」
だから、大丈夫。
そう言って、笑みかける。そうすれば少年もホッとしたように表情を緩めるから、孤独な神の心も癒された。
「貴女にお寂しい思いはさせません。ずっと側に、お側にいますから……」
「……ありがとうございます、薫の君」
抱き締めると、少年の手も背中に回る。
「姫神さまからは佳い香りがします。龍脳のような、清らかな匂い……」
少年は腕の中で「すきです」とかそけき声で呟いた。
「すきです、……この匂い」
小さな手が背中を強く抱く気配がして、「ありがとう」と応える。
風には冷たいものが混じるようになったけれど、寂寞感はなかった。代わりにあるのは心地のいい穏やかな時間で、そしてそれは途方もなく愛おしいものだった。
……永遠を、願ってしまうほどに。
それはとある秋の日のこと。京のすぐ近く、比売神の祀られた寺院でのこと。少年と出逢って一年目のことだった。
雪がちらついている。どうやら夜の間に降り出したらしい。
朝露に煙る庭院を眺め、『通りで寒いわけだ』と衣を掻き抱く。
と、その手に重なる温もりがひとつ。
「姫神サマの朝は随分と早いんだな」
背後から抱き竦め、軽口を叩くひと。様々な巡り合わせから夫となった人間は、しかし遠慮がない。
首筋に、頬に、順番に口づけられ、擽ったさに身を捩る。こういうのは、未だに慣れないのだ。
「旦那さま……、起こしてしまいましたか?」
「ああ……、でもあんたが雪に拐かされる前に目が覚めてよかったよ」
「ふふ、おかしなことを仰るのですね。私、そんなに頼りなく見えますか?」
これでも神としてそれなりの時間を過ごしてきた。住み慣れない異国の地ということもあって以前よりは力も弱まっているが、それでも触れれば溶ける雪ほど儚い存在ではない。むしろ人間の方がよほど脆弱ではなかろうか。
夫の物言いがおかしくて、くすくすと笑う。
けれど彼は笑わない。「ああ」と頷いて、いっそう強く抱き締めてくる。痛々しいまでの必死さが窺える、その様子。
「旦那さま?」
「……オレは、怖いよ。あんたがふらっと消えていなくなってしまいそうで」
いつもどこか遠くを見ているから、と。
そう呟かれ、かつて似たようなことを言った少年の顔を思い出した。
「薫の君にも言われました。やはり縁戚関係にあると感じ取るものも似通ってくるのでしょうか」
数年前親しくしていた少年と今の夫には血の繋がりがある上、二人して陰陽道に身を置いている。だから常人には説明のつかない【勘】のようなものが働いたのだろうか?
尤もそれは筋違い、無用な心配である。が、気遣われるというのは存外悪くない。神の身であれば味わうことのなかったそれは面映ゆく、冬の朝に凍えきった心臓に火が灯された。
「あの方は今もお元気でしょうか」
「ああ、そういえば薫とは知り合いだったか」
「ええ、彼の元服前に少し。ご静養にいらした際、よくしていただきました」
けれどもう長いこと会っていない。夜盗に襲われた折り、偶然近くを通りかかった貴族の若君に救われ、その恩を返すべく嫁いできて以来──一度も。だから彼のことは少年の日のまま、幼い面影しか思い出せるものはない。
しかしあの日の少年も立派な大人になっていることだろう。夫とは同い歳のはずだから、もしかすると子どもまで生まれているかも。きっとあの頃の少年に似て利発な子に違いない──
「……なんだか妬けるな」
昔を懐かしんでいると、戯れに耳を噛まれた。「昔の男の話など、寝屋で話すもんじゃない」そう言って。
冗談混じりに妬心をぶつけられ、思わず笑った。
「貴方さまがそのようなことを気になさるとは」
「嫉妬くらいするさ。それが薫みたいな完璧な貴人が相手ときたらな。勝ち目がないだろ」
「珍しいこともあるのですね。そんな気弱なことを仰るなんて。貴方さまも十分、素敵な方なのに」
「あんたの趣味を疑うわけじゃないが……」
「あら、私の言葉だけでは不満ですか?もっと多くの姫君からの賛辞がほしいと?」
「……まさか」
身分ある男性なら正室以外に通う相手がいても不思議じゃない。むしろそれが当たり前で、「あんただけでいい」なんて言ってくれる彼は世間も認める変わり者だった。
そしてそんな彼だからこそ愛おしいとも思った。
──叶うなら、この日常を永遠に。
「体が冷たくなってきたな……。そろそろ中に戻ろう、お腹の子にも悪い」
膨らんだ腹を撫でる夫の、その眼差しの優しさに幸福を感じた。
それはとある冬の日のこと。 京に建てられた邸でのこと。九条の家に嫁いで二年目のことだった。
打ち寄せる波の音が聞こえてくる。
目を開けると、辺りはすっかり宵の頃。息のつまるような闇が広がっていた。
「……目が覚めた?」
そう訊ねるひと。自分を横抱きにして顔を覗き込んでくる、その柔和な笑みには見覚えがある。
「薫の君……?」
「あぁ、よかった、覚えていてくれたんだね」
くしゃりと相好を崩す、輝くばかりの顏。そうすると幼さがよみがえって、記憶の中の少年の面差しと重なった。
──あぁ、でも、どうして。どうして貴方がここにいるの。
「覚えていてくれたのに、なのにどうして君は彼を選んだんだろう。どうして君は俺との約束を守ってはくれなかったんだろう」
謡うように呟いて。微笑みながら頬を撫でて。愛おしげに目を細めて。──なのに底冷えする空虚な眼差しで、男はかつて姫神と慕った女を見つめる。
「……側にいると、約束したのに」
その言葉に、女は己の罪深さを知る。あの日の心清らかな少年の、その思いを踏みにじった愚かさを。重ねた罪の重さを。理解し、自覚し、唇を震わせる。
ごめんなさいと言えたらよかった。あの日のように赦しを乞えたら、どんなに楽だったろう。けれどそのいずれも今の彼は求めていない。そう悟ってしまったから、何も言えなかった。
「『彼の沢の堤に、蒲と荷とあり……』」男が口ずさむのは大陸より伝わりし詩。美しいあの人を想っては胸を痛めるが、しかし想いを遂げる術はない。寝ても覚めても、ただ泣き暮れるだけである──そんな古の恋の詩を諳じて、男は玲瓏たる瞳を歪める。
「我が麗しき葉中の華、灼々たる紅芙蓉……。俺にとって、君は春の佳人だった」
けれど違った。「君の心は白日、……俺だけを照らしてはくれなかった」太陽のように移り気で、とらえどころがない。だからこの手からもすり抜けてしまったのだ。
男はそう言って、わらう。
──頬を、輪郭を、顎を。伝う指先が、痛いほどに冷たい。
「俺が君の北辰星になりたかった」
絞り出された声は血の味、懊悩の色。惑い、苦しみ──果てにこの海へと辿り着いたのだ。
夜より深く色濃い、底無しの海へと。おちていくのだ、と理解し、女は男の頬に手を伸ばした。
触れた膚は柔らかく、昔と同じ温もりが感じられた。
「姫神さま……?」
懐かしき日々、当時と同じように声を揺らす男を見上げ、姫神だった女は微笑む。
「『慎んで我が蓮をゆすることなかれ』と言いますものね」想いを踏みにじってはならない、なんて今さら遅すぎるけれど。夫を想うそれとは違うけれど。
「どこへなりとお供いたします。たとえ、浪の下の都であろうとも」
──でも、あの日の少年を愛していたのもまた事実だったから。
何も与えてやれなかった。何も遺してやれなかった。想いに報いることができなかった。
だからせめて、私のこの命ひとつくらいは。
囁きに、男は「あぁ、」と深い溜め息をこぼした。それは喜びであり悲しみであり、泣き出す寸前の迷い子の表情であった。
「君がそんなに優しいから……過ぎるほどに優しいから、だから俺は君を、」
男は喉を震わせ、女を掻き抱いた。縋るように強く、強く。
──そしてすべては、夜の海へと溶けていった。
それは遠い昔のこと。今ではもう覚えている者はひとりしかいない、とある日のこと。春の訪れも近い、夜の海でのことだった。
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